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第一章 ミュージカル界へ
第九話 ピッチと音程
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私は階段で一階に上がり、玄関へと向かった。長い廊下を歩いていると、美しいベルカント唱法の歌声が聞こえてきた。
ミミの歌である。
素晴らしい声だと立ち止まり耳を済ます。
だがすぐに、それが自分の声であることに気がついた。
えっ、どういうこと?
疲労で幻聴が起こったのだろうか。
声のする方へ歩いていくと、個人練習室の集まっているエリアに出た。
その中の「L」と書かれた部屋から歌声は発している。
小窓から中を覗いた。
水原琴美がピアノの前の椅子に座り、うつむいて身体を小刻みに揺すっている。
私は荒々しくドアを開けた。
「何してるの」
声が怒気を帯びた。琴美は慌てて立ち上がり、右手を後ろに隠す。
「出しなさい」
「え」
「隠したものを出しなさい」
近づいて彼女の右手の中のものを奪った。
携帯用の小型録音機だった。
再生ボタンを押すと、私の歌声が流れ出す。読み合わせ稽古の時に歌ったものだ。
「盗聴してたの?」
「盗聴だなんてそんな……。百合亜さんの歌を聴いて勉強したいと思って、こっそり録音させていただいただけです」
「勉強って……あなたもミミを狙ってるの?」
琴美はあわてた様子でかぶりを振った。
「違います。ミミなんて私にできるわけありませんよ。そうじゃなくて、純粋に歌がうまくなりたいんです。私、演技とダンスは自信あるんですけど、歌は専門外で……。三年ほど声楽の先生について習ったことはあるんですけど、なかなかうまくならなくて。だから今回、百合亜さんから本物の歌を学びたいと思って、付き人に志願したんです」
その真摯な物言いに、私の怒りはすぐに鎮まっていった。録音機を彼女に返す。
「ま、許してあげるわ。でも盗み録りして他人の歌を聴いたって、歌はうまくなんかならないわよ」
「ええ、分かっています」
私は背を向けて立ち去ろうとした。
「あの……」
琴美がおずおずと声をかけてきた。
「良かったら、歌を聴いていただけませんか」
「え?」
疲れていたし、正直すぐにでも帰りたかった。家までは一時間以上かかる。
だが彼女の乞うような眼差しに、
「五分だけよ」
気付くとそう口にしていた。演技を教えてもらった御礼という気持ちもあった。なにより彼女は自ら付き人を志願してくれたのだ。私にとって劇団内で唯一の味方といえる。
琴美は嬉しそうに破顔して、カラオケの音源をセットした。
歌はミミの最初のソロである「私はミミ」だった。暗闇の中でロドルフォに自己紹介するシーンで歌われる。
――私は貧しいお針子です。けれど穏やかで幸せな毎日を送っています。楽しみはユリやバラを育てること。心ときめく魔法を秘めたものも好き。たとえば愛の言葉を伝えてくれるもの、夢や幻想の世界を語ってくれるもの。春のそよ風を運んでくれるもの。それはつまり……詩という名で呼ばれているものです。
想像していたよりは美しい歌声だった。三年間声楽の先生に付いていたというのはまんざら嘘ではなさそうだ。
しかし、評価としてはそれ以上でも以下でもない。プロの水準にはほど遠い。
「どうでした?」
琴美は赤らんだ顔で問いかけてきた。「ピッチは合っていたでしょうか?」
私は答えようとして、ふと気になって問い返した。
「ピッチって、どういう意味で言ってるの?」
「え?」
琴美は怪訝な顔で私を見ながら、
「音程……のことですけど」
「違う」
ぴしゃりと言った。
「ピッチと音程は別のものよ」
「はあ」
彼女はぽかんと口を開けている。
「今のあなたの歌は、音程は合っているけどピッチが間違ってる」
「どういう……」琴美はそこで一瞬、言葉を区切った。「意味でしょうか?」
「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド」
私はその場で歌ってみせた。「これが音程」
「はい」
当たり前だという顔をしている。
「それに対してピッチは、周波数のことを言うの」
「周波数?」
「たとえば」
実例を示すために、「ソ・ファ・ミ・レ・ド」と歌ってみせた。
「どう? 音程が下がっていくわけだから、当然、階段を降りるように音が低くなっていくわよね」
「はい」
当たり前だという顔をしている。
「じゃあ、これはどうかしら」
私はもう一度歌ってみせる。
「ソ・ファ・ミ・レ・ド」
フレーズも音程も、先程とまったく同じである。
「あ!」
琴美は驚いたように目を見開いた。
「上がってます。今度は階段をのぼるように、音が上へ上へと上がっていく」
「でしょう」
「音程を変えたんですか?」
「いいえ。音程はさっきとまったく同じ」
「でも……」
「ピッチを変えたの。周波数を徐々に上げることで、音が上がっているような錯覚を与えたのよ」
「でも……」
信じられないという顔をしている。
「もっと分かりやすくするわね」
私はそう言うと、「ソ・ソ・ソ・ソ・ソ・ソ・ソ」とソの音程だけを七回繰り返した。
「嘘……」
琴美は両手で口元を押さえた。
「どう?」
「全部違います。音が七色に変化して、なのに全てがソの音程の中に納まっている」
「そういうこと」
「明るいソ。軽やかなソ。弾むようなソ、暗いソ、重々しいソ……」
私は頷いた。
「さっきのあなたの歌は音程こそ合っているけど、ピッチが低いから暗い印象になってしまう。確かに静かな曲調だし、ゆったりと重々しいところのある歌よ。でもミミの心の中は熱く燃えているの。そうでしょう? 彼女は詩が好きだといっている。そしてロドルフォは詩人。これはただの自己紹介じゃない。押し殺した中に溢れ出てくる恋情を、ピッチを高くすることで表現するの」
琴美は紅潮した顔で頷き、口を開いた。
「もう一度、歌ってみてもいいですか?」
ミミの歌である。
素晴らしい声だと立ち止まり耳を済ます。
だがすぐに、それが自分の声であることに気がついた。
えっ、どういうこと?
疲労で幻聴が起こったのだろうか。
声のする方へ歩いていくと、個人練習室の集まっているエリアに出た。
その中の「L」と書かれた部屋から歌声は発している。
小窓から中を覗いた。
水原琴美がピアノの前の椅子に座り、うつむいて身体を小刻みに揺すっている。
私は荒々しくドアを開けた。
「何してるの」
声が怒気を帯びた。琴美は慌てて立ち上がり、右手を後ろに隠す。
「出しなさい」
「え」
「隠したものを出しなさい」
近づいて彼女の右手の中のものを奪った。
携帯用の小型録音機だった。
再生ボタンを押すと、私の歌声が流れ出す。読み合わせ稽古の時に歌ったものだ。
「盗聴してたの?」
「盗聴だなんてそんな……。百合亜さんの歌を聴いて勉強したいと思って、こっそり録音させていただいただけです」
「勉強って……あなたもミミを狙ってるの?」
琴美はあわてた様子でかぶりを振った。
「違います。ミミなんて私にできるわけありませんよ。そうじゃなくて、純粋に歌がうまくなりたいんです。私、演技とダンスは自信あるんですけど、歌は専門外で……。三年ほど声楽の先生について習ったことはあるんですけど、なかなかうまくならなくて。だから今回、百合亜さんから本物の歌を学びたいと思って、付き人に志願したんです」
その真摯な物言いに、私の怒りはすぐに鎮まっていった。録音機を彼女に返す。
「ま、許してあげるわ。でも盗み録りして他人の歌を聴いたって、歌はうまくなんかならないわよ」
「ええ、分かっています」
私は背を向けて立ち去ろうとした。
「あの……」
琴美がおずおずと声をかけてきた。
「良かったら、歌を聴いていただけませんか」
「え?」
疲れていたし、正直すぐにでも帰りたかった。家までは一時間以上かかる。
だが彼女の乞うような眼差しに、
「五分だけよ」
気付くとそう口にしていた。演技を教えてもらった御礼という気持ちもあった。なにより彼女は自ら付き人を志願してくれたのだ。私にとって劇団内で唯一の味方といえる。
琴美は嬉しそうに破顔して、カラオケの音源をセットした。
歌はミミの最初のソロである「私はミミ」だった。暗闇の中でロドルフォに自己紹介するシーンで歌われる。
――私は貧しいお針子です。けれど穏やかで幸せな毎日を送っています。楽しみはユリやバラを育てること。心ときめく魔法を秘めたものも好き。たとえば愛の言葉を伝えてくれるもの、夢や幻想の世界を語ってくれるもの。春のそよ風を運んでくれるもの。それはつまり……詩という名で呼ばれているものです。
想像していたよりは美しい歌声だった。三年間声楽の先生に付いていたというのはまんざら嘘ではなさそうだ。
しかし、評価としてはそれ以上でも以下でもない。プロの水準にはほど遠い。
「どうでした?」
琴美は赤らんだ顔で問いかけてきた。「ピッチは合っていたでしょうか?」
私は答えようとして、ふと気になって問い返した。
「ピッチって、どういう意味で言ってるの?」
「え?」
琴美は怪訝な顔で私を見ながら、
「音程……のことですけど」
「違う」
ぴしゃりと言った。
「ピッチと音程は別のものよ」
「はあ」
彼女はぽかんと口を開けている。
「今のあなたの歌は、音程は合っているけどピッチが間違ってる」
「どういう……」琴美はそこで一瞬、言葉を区切った。「意味でしょうか?」
「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド」
私はその場で歌ってみせた。「これが音程」
「はい」
当たり前だという顔をしている。
「それに対してピッチは、周波数のことを言うの」
「周波数?」
「たとえば」
実例を示すために、「ソ・ファ・ミ・レ・ド」と歌ってみせた。
「どう? 音程が下がっていくわけだから、当然、階段を降りるように音が低くなっていくわよね」
「はい」
当たり前だという顔をしている。
「じゃあ、これはどうかしら」
私はもう一度歌ってみせる。
「ソ・ファ・ミ・レ・ド」
フレーズも音程も、先程とまったく同じである。
「あ!」
琴美は驚いたように目を見開いた。
「上がってます。今度は階段をのぼるように、音が上へ上へと上がっていく」
「でしょう」
「音程を変えたんですか?」
「いいえ。音程はさっきとまったく同じ」
「でも……」
「ピッチを変えたの。周波数を徐々に上げることで、音が上がっているような錯覚を与えたのよ」
「でも……」
信じられないという顔をしている。
「もっと分かりやすくするわね」
私はそう言うと、「ソ・ソ・ソ・ソ・ソ・ソ・ソ」とソの音程だけを七回繰り返した。
「嘘……」
琴美は両手で口元を押さえた。
「どう?」
「全部違います。音が七色に変化して、なのに全てがソの音程の中に納まっている」
「そういうこと」
「明るいソ。軽やかなソ。弾むようなソ、暗いソ、重々しいソ……」
私は頷いた。
「さっきのあなたの歌は音程こそ合っているけど、ピッチが低いから暗い印象になってしまう。確かに静かな曲調だし、ゆったりと重々しいところのある歌よ。でもミミの心の中は熱く燃えているの。そうでしょう? 彼女は詩が好きだといっている。そしてロドルフォは詩人。これはただの自己紹介じゃない。押し殺した中に溢れ出てくる恋情を、ピッチを高くすることで表現するの」
琴美は紅潮した顔で頷き、口を開いた。
「もう一度、歌ってみてもいいですか?」
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