【コミカライズ】歌姫の罪と罰

琉莉派

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第一章 ミュージカル界へ

第四話 劇団明星

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 劇団明星げきだんみょうじょうから連絡があったのはその三日後のこと。
 最終選考の二名に残ったという通知だった。

 今後一ヶ月に及ぶ稽古を経て合格者を正式決定するという。落選した者はアンダースタディーとして、主役が病気や怪我で急遽出られなくなった時のための代役としてスタンバイする。稽古とアンダースタディーの期間は、別途ギャラが支払われるという。

 無論、私はアンダースタディーに甘んじる気などさらさらない。
 何としても役をゲットし、再び名声をこの手に掴むのだ。


 通知から一週間後、劇団明星の稽古場へ向かった。この日から本格稽古が始まるのだ。オーディションは品川の専用劇場で行われたため、横浜市港北区にある稽古場を訪れるのはこれが初めてだった。

 市営地下鉄・港北駅から徒歩十分ほどの距離に稽古場はあった。駅前の商店街を抜け、瀟洒な住宅街を左右に見ながら大通りを進むと、右手の小高い丘の上にそれは現れる。
 私は外観をひと目見た途端、度肝を抜かれた。「稽古場」などという代物ではない。巨大なオフィスビルだ。五千坪を超える広大な敷地に、三階建ての鉄筋コンクリートの建物が周囲の住宅群を威圧するように鎮座していた。

 オペラ界では考えられない規模の稽古場である。
 その威容に圧倒されつつエントランスへ入り、受付で名前を告げた。受付嬢がどこかへ電話をかけ、しばらくすると二十代前半とおぼしき若い女の子が現れた。

「徳大寺百合亜さんですね。お待ちしておりました。私、劇団員の水原琴美みずはらことみと申します。これから一ヶ月間、付き人を務めさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします」

 そう言って、丁寧にぺこりと頭を下げた。

「付き人?」
「はい。身の回りのお世話をさせていただきます。分からないことは何でも私に訊いてください。百合亜さんが……」と言いかけて、「あ、百合亜さんてお呼びしてもいいですか」
「ええ、構わないわ」
「百合亜さんが安心して稽古に専念できるよう心配りをするのが私の役目です」

 いきなりのカルチャーショックだった。

「そう。よろしくお願いするわね」

 私は薄く微笑んで、水原琴美をまじまじと見た。身長は165センチくらい。私より少しだけ高い。華奢だがスタイルが抜群に良く、顔立ちも整っている。美人というよりは可憐なタイプで、くりっとした瞳と鼻筋の通った高い鼻梁が印象的だ。メイクをしたらきっと舞台映えすることだろう。 

「百合亜さんの靴箱はこちらです」

 見ると、琴美が向かって右側の下から二番目の靴箱を指差している。すでに私の名札が入っている。

「今日の稽古は二時からですから、それまで館内をご案内しますね」

 時計を見ると、まだ十二時半である。稽古初日ということもあり、余裕をもって早めに家を出た。

「ごめんなさい、食事中じゃなかった?」
「いえ、違います」琴美は笑ってかぶりを振る。「どうぞ、こちらです」

 持参した室内靴に履きかえ、琴美に促されて館内へ入る。
 すると、いきなり太い直線廊下が目の前に出現した。百メートルは優にあろうかという長い長い廊下だ。

「まずは稽古場をご案内します」

 廊下の両サイドが全て稽古場になっているという。
 外観と同じく、館内も衝撃の連続だった。

 大劇場の舞台が二つはすっぽり収まりそうな巨大稽古場が一つ。大劇場の舞台が再現された大稽古場が四つ。中劇場の練習に用いる稽古場が五つ。小稽古場が三つ。さらに数十人が一度に使える巨大トレーニングルームも完備されている。

 それだけではない。
 個人練習用のピアノと音響機材が設置された個室が三十室以上も存在するのだ。
 
 二階には食堂があり、安価でヘルシー、なおかつ栄養豊富な料理が劇団員たちに提供されている。三階はオフィスになっていて、制作部はもちろん経理、広報、営業など二百名近くが働いている。地下には衣装部や大道具部の部屋もある。琴美によると社員はこれだけではなく、都心にもオフィスがあり、全国十二の専用劇場で働いている者も加えると五百名を優に超えるとのこと。俳優七百名と合わせて、総勢千二百名という大所帯だ。しかも全員が芝居だけで生活しているという。

 信じられない思いだった。

 オペラの世界では、舞台だけで食べられるのはほんの一握りに過ぎない。台詞のないアンサンブルまでがアルバイトもせず生活できるという事実が、にわかには信じられなかった。

 圧倒され、放心状態で周囲を見回していると、

「じゃあ、東館へ行ってみましょうか」 

 琴美が軽やかな声で言った。

「え?」
「東館です。あそこに見えるでしょう。こちらが本館で、向こうが東館になっています」

 琴美が指差す方向に目をやると、三メートル道路を挟んだ向かい側に同じようなオフィスビルが建っている。

「嘘でしょ」

 思わず言った。
 本館に比べ規模は小ぶりだが、それでも稽古場として巨大であることは間違いない。

「こちらからそのまま行けます」

 東館へは地下通路を通じて繋がっている。道路の下にトンネルが通っているのだ。
 東館にも、巨大稽古場が一つ、中稽古場が三つ、それに十五の個室練習場が用意されていた。
 
 どう安く見積もっても、本館と東館の敷地と建物を合わせて百億円はくだらないだろう。
 たとえミュージカルの本場アメリカでもこれだけの規模の劇団はおそらく存在すまい。

 これはもはや劇団ではない。
 企業だ。それも超優良の一流企業である。

「一つ、訊いてもいいかしら」
「何ですか」
「ミュージカルって、そんなに儲かるものなの?」
「さあ、それは……」

 琴美は苦笑して首をかしげ、経営に関することは私には分かりかねます、と答えた。

「でも、毎日お客様が大勢来てくださることは確かです。月曜日を除く毎日、全国十二の専用劇場で公演を行っていますが、お客様は途切れることなくいらして下さいます」
「なぜお客がそんなに来るのかしら」

 私は不思議に思って率直に訊ねた。オペラに比べ音楽的に劣るミュージカルに、なぜ人々はそこまで熱狂するのだろう。

「え?」

 琴美は不意をつかれたように顎を引き、きょとんとした顔でこちらを見返した。

「つまり……客は何を求めてミュージカルに来るんだと思う?」
「決まってますよ」

 琴美は胸を張った。

「それはですね。ずばり――愛と感動です」
「愛と……?」
「感動!」

 今度はこちらがきょとんとする番だった。
 それを察したのか琴美は、

「安っぽいって思います?」

 と問いかけてきた。

「陳腐だなって思います?」
「いえ……」

 何と答えていいか分からなかった。

「でも、そうなんです。ミュージカルは愛と感動なんです。それを求めてお客様は高いチケットを買ってくださる。何ヶ月も前から予約して、遠くからわざわざいらしてくださる。私たちはそれに対し、全身全霊で応えなくちゃならないんです」

 まだ少女の面影を残す琴美は、赤らんだ顔で背筋を伸ばし、きっぱりと言い切った。

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