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第一章 浪士組
第十話 家茂の苦悩
しおりを挟む「横浜の様子はいかがでございます?」
将軍後見職・一橋慶喜は、上洛した九歳年下の将軍家茂に対し、謙った物腰で話しかけた。
この二人は、十四代将軍の座を巡って激しく争った間柄である。
家茂を推す大老・井伊直弼に対し、水戸藩や薩摩藩は一橋慶喜を推薦。その時は井伊側(家茂側)が勝利し、反対派の弾圧(安政の大獄)が行われたが、井伊が桜田門外の変で殺害されると立場は逆転。今度は薩摩の島津久光が江戸へ乗り込み、一橋慶喜を将軍後見職につける幕政改革を行った。
かように互いの後援者は争いに明け暮れたわけだが、慶喜と家茂は決して仲が悪いわけではない。親戚筋ということもあり、互いに協力しこの難局を切り抜けようと考えている。
だがどちらかといえば、年上の慶喜に主導権が移りつつあるのは事実である。
「どうもこうもない。エゲレスは本気です。犯人引渡しと賠償を拒絶すれば、間違いなく戦となるでしょう」
家茂は慶喜に対し、タメ口と丁寧語が入り混じった話し方をする。昨年突如後見役として江戸城に乗り込んできた年上の親戚に対し、どう対応すればいいか決めかねている様子だ。
慶喜は腕組みをし、首を左に振って「どう思う」と同席している二人の老中に問いかけた。
「エゲレスと戦えば、我が国は破滅です」
そう言ったのは板倉勝静である。
「天朝の前で攘夷の約束などとんでもありません」
「なんとか十日間返事を引き延ばし、うやむやにして立ち去るよりほかございませぬ」
もうひとりの老中・小笠原長行も同意見だった。
「しかし、さような方便が通用しますかどうか……」
この会議にはもう一人、京都守護職の会津藩主・松平容保が出席している。
京の治安が悪化し、奉行所や京都所司代だけでは手に負えなくなったため、新たな治安組織として設けられた要職だ。
就任に際しては、家臣団から「薪を背負うて火に飛び込む如し」と辞退を促す声が続出した。下手をすれば藩が傾きかねない危険な仕事なのだから当然だ。それでも容保は「義」のため、決死の覚悟で引き受けた。
京の事情をよく知る容保が言う。
「長州とそれに与する公卿たちは、もしも幕府が攘夷を実行しないならば、天朝を促して反幕……いえ倒幕にまで向かいかねぬ勢いなのでございます。都の状況は江戸の比ではありませぬ。小手先の誤魔化しが通用するとはとても思えませぬ」
ふたりの老中と一橋慶喜は、ううむ、と唸り声を発した。
「では、どうせよと申すのじゃ」
十八歳の将軍は、苛立ったように叫んだ。
「エゲレスとの講和を拒否すれば戦が起こり国は滅ぶ。かといって講和を結べば幕府は朝敵となってしまう。進むも地獄、退くも地獄じゃ」
究極の二律背反を前に、家茂は今にも泣き出しそうな顔になった。
「かように馬鹿げたことがこの世にあろうか」
混乱し、うろたえる家茂を見て、板倉勝静がおずおずと膝を進める。
「実は……」
いかにも言いにくそうに言葉を発した。
「もう一つ、大変に厄介な事態が生じておりまして」
「何じゃ」
「大樹公の警護役として京に上った浪士組の者どもが、勝手に朝廷に上書を提出し、攘夷の勅命を受けてしまったのです」
「なんだと」
家茂は思わず腰を浮かせた。
「彼らは十日のちに東帰し、横浜にて攘夷戦を開始する手筈」
「馬鹿な」
若き将軍は大きく叫んで立ち上がると、血の気の失せた蒼い顔で言葉を継ぐ。
「なんとかせい。なんとかするのじゃ。攘夷など実行したら、本当に国が滅ぶぞ!」
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