王女キャスリーンの初恋

弥生紗和

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逃亡者

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 クラウスはブルーゲートにある自宅の屋敷に戻った後、さっそく新しい計画に取り掛かっていた。

 クラウスとキャスリーンの新居は、以前クラウスが前の妻と暮らしていた屋敷を使う予定だ。自宅から近い場所にあり、海を一望できる高台の上にある。

 部屋の内装を一新し、更に贅を尽くした屋敷にするつもりだ。特に彼が力を入れているのは夫婦の寝室で、床のカーペットから壁紙まで、全て一から入れ替える予定になっている。
 新居の模様替えについて、クラウスは父の執事エーゲルと打ち合わせをしていた。

「ここの部屋には外鍵をつけてくれ」
 クラウスが下品な笑みを浮かべる。
「鍵は二つも必要ないでしょう。こちらは奥様の衣裳部屋ですよ? 外鍵など……」
「いいからつけてくれよ。『大切な宝物』が盗まれでもしたら大変だろう?」
 エーゲルはため息をつき、さっそく職人を呼ぶと言って部屋を出た。



(今日の坊ちゃまは機嫌がいい。昨夜の『お遊び』のおかげか……)

 エーゲルの脳裏に昨夜の出来事が浮かぶ。

 クラウスの寝室から、女の泣き声がする。エーゲルはクラウスの寝室に入った。寝室の更に奥にはクラウス専用の風呂があり、そこからクラウスの鼻歌が聞こえている。
 寝室のベッドの脇に、うずくまるようにして泣いているメイドの女がいた。

 メイドの女を見てため息をついたエーゲルは、女の元へ行き、かがんだ。
「明日、医者に診てもらおう。今夜はもう休みなさい」
 そう言ってエーゲルはメイドの女に銀貨を握らせた。
「これは坊ちゃまからのお詫びだと思ってくれ……さあ、行きなさい」

 メイドは涙を拭いながらそれを震える手で受け取り、黙って逃げるように寝室を出て行った。

(……やれやれ。また坊ちゃまの『病気』が始まった。婚約が決まるまでは大人しくしていると思ったのだが……)

 クラウスの下手くそな鼻歌を聞きながら、エーゲルは物思いにふけった──



 上機嫌だったクラウスの元に、突然訪ねてきた男の名を聞いたクラウスは眉を吊り上げた。

「訪問者だ? バルタなんて男は知らん。追い返してくれ」
「私も帰るよう言いましたが……坊ちゃまに大切なお話があると、門の前を動きません。キャスリーン様のことでお伝えしたいことがあると申しておりますが」
 エーゲルは困った顔をしていた。
「……キャスリーン様のこと、だと? 仕方ない。会うだけ会ってやる」
 渋々クラウスはバルタとの面会に応じた。



 バルタは応接室に通された。真ん中に置かれたソファには、ふんぞり返って足を組む、不機嫌な顔のクラウスがいた。
「何の用だ。俺とお前が繋がっているとバレたらまずいと言っただろ?」
 バルタはクラウスの前に座る。ニヤニヤと笑い、節くれだった手を揉むようにさすっている。
「申し訳ない。だがクラウス様、私の仕事はもう終わりましたよ。ですからこうして報酬を頂きにあがったというわけで」
 やけにへりくだった態度を取るバルタに、口元を歪めながらクラウスは口を開く。

「何だと?」
「おめでとうございます。キャスリーン様との婚約が決まったようで……私がやることはもうない。陛下はすっかり私を信用している。婚約が覆ることはもうないはずだ」
「それはそうだが、お前がいなくなったことで、陛下が心変わりしたらどうする?」
 クラウスはまだバルタが逃げたことを知らない。バルタはそれを悟られないよう、精一杯芝居をしている。

「それはないでしょう。あなたは魅力のあるお方だ。陛下は坊ちゃまを気に入っておられるし、キャスリーン様だって坊ちゃまのことを熱い目で見ているのだからね」
「そうか? まあ、キャスリーンも満更でもなさそうな顔をしていたな」
 ずっと眉間に皺を寄せていたクラウスの表情が、少し和らいだ。

「私にできることは、もうないよ。老体に鞭打って働いたが、王宮暮らしは窮屈で、いささか疲れてしまってね……私には気ままな暮らしの方が合っているようだ。それで、船でしばらく旅に出ようかと思っている。実を言うと、その為の旅費が必要でね……だからこうして、坊ちゃまを訪ねたというわけだ」
「旅費か……まあいい。お前が王宮を出てしまえば、陛下も俺とお前のことを疑うこともない。分かった、報酬を払ってやる」

 バルタの目が輝いた。
「ほ、本当か! いやあ、有り難い!」
 そわそわと手を揉みしだくバルタの姿を、クラウスはじっと見た。
「だが、今すぐは無理だ。お前に払う報酬の額が大きすぎて、用意に時間がかかる。夜にもう一度ここへ来い」

「……確かに、払ってくれるんだろうな?」
 疑り深いバルタの顔に、クラウスは不機嫌そうな表情を返す。
「俺が信用できないのか? 間違いなく払ってやるから安心しろ」
「それなら……夜にまた伺おう。もしも私を騙したら、この家に災いが起きるだろうね……クラウス坊ちゃまが私を騙すことなど、ないと思うが……」

 不敵な笑みを浮かべるバルタを、クラウスは気味悪そうに見ていた。



 バルタが去った後、クラウスは衛兵を呼んだ。
「お呼びでしょうか?」
「今の男を殺せ」
「……かしこまりました」
 衛兵は頷き、静かに部屋を出て行った。


♢♢♢


 バルタはブルーゲートにある質屋から満足気な顔で出てきた。
 王宮から盗んだ銀食器や金の燭台などが、なかなかの値段で売れたのだ。これでしばらく生活は困らない。後は夜まで待ってクラウスから報酬を受け取り、船で遠くまで逃げる算段である。



 王宮から逃げる前、バルタが自分の部屋でくつろいでいた時のことだ。彼の隣には若い女のメイドがぴったりと寄り添い、彼に酒を注いでいた。

「ブルーゲートで占いをしていた男のことを、騎士団が聞きまわっているみたいですよ? バルタ様」
 メイドの言葉に、椅子に浅く腰かけてまどろんでいたバルタの目が覚めた。
「何? 騎士団が?」
「年老いた占い師ってあなたのことでしょう? あなたがどんな人間なのか、調べてるみたいです」
「誰に聞いたんだ?」
 バルタは起き上がり、メイドの肩を乱暴に掴む。
「痛い! ……もう、出入りの行商人に聞いたんです! ブルーゲートから来てる人で、私がバルタ様のメイドだと言ったら教えてくれたんです」
「ふむ……騎士団が私のことを調べてるか……」

 バルタは顎に手を当て、しばらく考えた。
「長居しすぎたかもしれん」
 バルタはその後、夜明けを待って荷物をまとめ、逃げたのだった。



 王宮のものを売り払い、ご機嫌で通りを歩いていたバルタだったが、ふと立ち止まり、後ろを気にした。

(……つけられてるな。クラウスの屋敷にいた衛兵二人か。下手な変装だ)

 バルタから距離を取り、こちらを伺っている二人の大柄な男にバルタは気づいた。目立たない格好をしているが、その鋭い目つきと鍛えた身体は、普通の男には到底見えない。

(仕方ない。クラウスは諦めるか)

 バルタはその後、酒場に入る振りをして追っ手をまき、娼館に入って時間を潰した。


♢♢♢


 一方、バルタを追ってブルーゲートにやって来たルディガーとユーリアールは、バルタが船で逃亡するとみて港で待ち伏せをしていた。

「本当に来るでしょうか?」
 大きな船の近くで、二人は身を潜めながら話をしていた。
「必ず来る。昼間、質屋に持ち込まれた銀食器と金の燭台は王宮のものだ。バルタがこの町にいるのは確実だし、ここから逃げるには船しかない」
「しかし、もう夜ですよ。この後の船の出航はないようですし……別の手段を使うのでは」
 うーん、とルディガーは腕組みをした。既に日は落ちて、辺りは暗くなっていた。
「確かに今夜はもう動く船はないからな……ん?」

 ルディガーの視線の先に、フード付きの外套を着ている男がいた。男はフードを深く被り、まるで人目を避けているようである。
「いたぞ」
 ルディガーが小さな声で、嬉しそうに呟いた。



 停泊中の船にバルタらしき男が乗り込むのを見て、ルディガー達は後を追った。この船は明日の朝出航する予定で、今夜中に多くの荷物を積み込む為、船の周囲には船員がウロウロしている。
 人混みに紛れて素早く船に入り込んだバルタは、荷物に隠れて朝までやり過ごそうとしていた。

「よう、バルタ」

 バルタは急に名前を呼ばれ、驚いてこっそりと荷物の影から声の主を覗いた。そこにはルディガーとユーリアールが立っていた。彼らはレーヴェンハーツ騎士団の隊服を身に着けている。まずいことになった、とバルタは身体を引っ込めた。

「ここで騒ぎを起こしたくないんだ。出てきてくれないか?」

 ルディガーの声を無視し、黙り込むバルタ。ルディガーはため息をついた。

「今俺達と戻れば、王宮で盗んだものには目をつぶってやる」

 しばし間があって、バルタは「ヒヒッ」と笑った。

「何がおかしい」
「いや、すまない。あんた達は誰の命令で私を追ってきたのかね。私はデクスター国王陛下の専属占い師だぞ? その私を盗っ人扱いか」
「盗んだだろう? 質屋で金に換えたことも知ってるぞ」
 ルディガーは不機嫌そうに腰に手を当て、木箱の影に隠れたバルタに言った。
「あれはもらったものさ。私は王宮での役目を終え、新たな地へ旅立とうとしているだけだ……あんた達に追われる理由はないね」
「陛下を操っただろう? どんな手を使ったか知らないが、クラウスに頼まれたな? 奴にいくらもらった?」

 木箱の影で、再びバルタがヒヒッと笑った。
「金なんてもらっちゃいないよ……私はただの占い師。私の占いに惑わされたとして、私には何の責任もないこと。陛下がご自身で選んだことだ……」

「お前を今すぐ引きずり出して、その減らず口を縫い付けてやる」
「おお、怖い。恐ろしいことを言うもんじゃないよ……」

 膠着状態のその時、外からガヤガヤと男達の声がした。船員がこちらに近づいてくる声だ。一瞬ルディガー達が船員に気を取られたその瞬間、バルタは弾けるように飛び出し、一目散に逃げだした。

「あ、待て!」
 慌ててルディガー達が後を追う。荷物だらけの船室を駆け回り、バルタは甲板の方へと逃げていく。



 バルタを追ったルディガー達が甲板に出ると、そこには目をギラギラさせたバルタが立っていた。
「お前、爺のくせにすばしこいな……いい加減諦めろ。もう逃げられないぞ」
 ルディガーは剣を抜き、バルタに迫る。バルタはじりじりと下がり、やがて甲板のふちに手を掛けた。
「変なことを考えるんじゃないぞ? 夜の海は危険なんだ。長生きしてるんだから知ってるだろう? 薬で寿命を延ばしたとして、百二十か、百三十辺りか……? そんなに長生きできるとは驚きだな」
 剣を向けたまま、ルディガーはバルタににじり寄る。ユーリアールは横に回り、バルタを取り押さえようと近寄る。

「ははは、私は絶対に捕まらないよ」
 バルタはニヤリと笑うと、勢いよく手すりを乗り越え、海に飛び込もうとした。

「こいつ!」
 慌てて飛びかかったルディガーの手が、バルタの服を掴んだ。バルタは宙づりになり、今にも落ちそうになっている。

「残念だが私の勝ちだ」
 バルタはその場で服を脱ぎ、そのまま海の中へ落ちて行った。
「くそ! 本当に落ちやがった!」
 ルディガーが海面を覗き込む。暗がりの中、何かが落ちた音が聞こえた後、バルタの姿が見えなくなった。

 悔しそうに海面を見つめるルディガー達は、やがて遠くに光が集まっているのを見た。

「何だ? あれ」
 その光はどんどん増えていく。その光の中心に、バルタが浮かんでいるのが見えた。

 バルタは海に落ちた後、逃げようと必死に泳いでいた。その時、彼も周囲が光っていることに気づいた。
 バルタは光を怪訝な顔で見ていたが、突然足を引っ張られる感覚を覚えた。
「……!」
 彼の足を掴んでいたのは、集まって来た人魚達。彼女らは伝説のように美しい女性の姿ではなく、ガリガリに痩せた醜い女の姿だった。

「や……やめろ!」
 バルタの瞳に恐怖が宿る。人魚達は久々の獲物に喜んでいた。バルタに群がった彼女らは、鋭い歯をバルタの身体に食い込ませた。

 もがき苦しみながら、バルタは海の底へと消えていった。女を求め、若さを求めた愚かな男は、人魚達の手によって海の底へと消えていった。

「……だから、夜の海は危険だって言ったんだ」
 光が消えていくのを、ルディガーはじっと見つめながらポツリと呟いた。



「あーあ、この服しか残らなかったな。これだけでも王宮に持って帰るか」
 ルディガーの手には、バルタが残した外套と上着があった。
「仕方ないですね。生きて捕らえられなかったのは残念ですが……」
 ため息をつくユーリアールの横で、何気なく服を探っていたルディガーは、突然何かに気づくとそれを床に置き、小刀を取り出して服を切り裂き始めた。
「どうしたんです?」
「……あった!」

 ルディガーがバルタの上着から取り出して見せたのは、丸くて平たい石のようなものだった。表面には美しい女の顔が彫られていて、その瞳には赤い石がはめ込まれている。見事な作品だが、どこか不気味だった。

「なんですか? これ」
「グレンが話してたんだよ。こいつが陛下を操った魔法具の類のものが、必ずあるはずだって。この爺さん、上着の裏に隠しポケットをつけて縫い付けてやがった」

 ルディガーは魔法具を床に置いた。そしてそれに小刀を勢いよく突き立てた。一度だけでは傷がつかず、更に小刀を突き立てた。何度も繰り返し、赤い石は二つとも外れ、ようやく魔法具の表面はボロボロになった。

「……ふう、これで陛下を縛っていた呪いは解けるかな」
 ルディガーはボロボロの魔法具を見下ろした。
「こんなものを使っていたなんて。恐ろしい男でしたね」
「そうだな……さて、バルタも片づいたことだし、宿屋で一休みして帰るか。殆ど寝てないから疲れたよ……」
「私も疲れました」
 苦笑いするユーリアールと共に、ルディガーは船を下りて宿屋を目指した。
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