6 / 8
6
しおりを挟む
目の前の男の笑みが深くなる。
一言も発することなく曲刀を弄ぶ様が不気味だった。獲物に恐怖を植え付けたいらしい。
しかし、アザリーに不思議と恐怖はなかった。冷静とは言い難かったが、恐れを感じてはいない。
一つ、恐れているとしたらここでビゼルを失うことだろう。
特別な感情でも何でもなく、初めて会ったあの夜に拾った命をこんなところで失ってほしくないと思った。
「アザリー!」
ふと気をそらした瞬間だった。
右肩から左の腰にかけて刃が走る。
一瞬で引かれた赤い線が急速に熱を持ち、逆に身体全体が冷水を浴びせられたかのように冷えていった。
よろめいて、しかしアザリーは倒れなかった。
二度、三度斬りつけられてもまだ彼はその場から動かない。後ろにはビゼルがいる。
それだけがアザリーの思考を占めていた。
致命傷を与えても未だ絶命することのないアザリーに苛立ったのかぞっとしたのか、これで終わりだと言わんばかりに盗賊の男はアザリーの左胸を貫いた。
押さえても止まることのない赤い色が足下に広がり、地面に染み込んでいく。
今度こそアザリーは倒れるはずだった。
しかし予想に反して、彼は盗賊に向かって足を進める。
盗賊の顔が引きつった。命を奪った感触は確かにある。何故、まだ生きているのか。
アザリーは自らに突き立てられた曲刀を引き抜き、無造作に投げる。
それが地面に転がった音を聞いて、やっと異常な状況をはっきりと理解できたのか、盗賊の男はよく分からない言葉を発しながら逃げ出した。
***
目を開けるとアザリーは柔らかいとは決して言えない寝台に横たわっていた。
寝台には赤い跡がついており、記憶に残る盗賊の襲撃が夢ではないことを如実に表している。
アザリーは身体を起こし、ビゼルの姿を探す。
ここがどこなのかは分からないが、こうして自分に手当ての跡があるということは、彼女も無事だということだろう。そもそも、とアザリーは案外丁寧に巻かれた包帯を外しながら考える。
「なぜ、僕は生きている?」
激しい痛みと衝撃、溢れて止まらない命。
左胸にある心臓を刃が貫いていく感覚も未だ生々しく残っている。
まず、そこから刃を抜く記憶が残っているのがおかしい。なぜその状態で生きていたのか。
包帯を外し終え、自分の身体を見下ろして、アザリーはぞっとした。
身体のどこにも傷がない。何もなかったかのように、傷付いた痕跡がなかった。
「アザリー……」
見ているものが信じられず、半ば放心状態だったアザリーの耳に、今となっては聞き慣れた声が入ってくる。
顔を上げると部屋の入り口にビゼルの姿があった。
足を怪我したのか、物に掴まりながらゆっくりアザリーのもとに近付く。
信じられないものを見る様子はなかった。
彼女が彼をここに運び、包帯を巻いたのだとしたら既に異常に気付いていたとしてもおかしくない。
「本当に、生きているのね」
寝台のそばに椅子を引き寄せ、そこに腰掛けながらビゼルは言った。
驚きも何もない。ただ彼女は確認していた。
そしてその一言に、アザリー本人もやっと現実を受け入れる。
あの時一度死んだのか、そもそも死んでいなかったのかは分からないが、自分はあの襲撃を受けてなお生きているということ。それは奇跡でも何でもなく、異常なのだということ。
「傷がないんだ……」
「……うん」
――あの後のことをビゼルは語る。
盗賊が逃げて、ビゼルはアザリーに駆け寄った。
自分の代わりに散った命に張り裂けそうな悲しみを感じながら、赤く濡れた身体を抱き締める。
違和感はそこで訪れた。
徐々に冷たくなっていくものだと思っていた身体は未だ熱を持ったまま、何気なく首筋に手を乗せると鼓動が感じられた。
勘違いかと思いながら傷に目をやると、最初の一太刀の痕がもう消えている。
まさかと信じ難い思いを抱きながら服を裂き、背中まで刃の通った左胸の傷を探す。
しかし、そこにも傷はない。
確かに自分の手は彼の命で赤く濡れているし、刃が彼を裂く瞬間を目の前で見ている。
なのに、今意識のないアザリーは眠っているかのように安らかな呼吸を立て、受けたはずの傷は一つ残らず消えている。
現実では起こり得ない何かが起きたのだと頭を切り替え、ビゼルはひとまずアザリーを自分の家まで運ぶことにした。
幸い、そう遠くもない。自分より頭一つ分は背の高いアザリーだが、なんとか運べるだろう。
まともに動くのが右腕くらいだったため、アザリーをほとんど引きずることになってしまう。
運よく他の盗賊には出会わず、うまく動かない足を動かしながらも、ビゼルは彼を自宅まで運ぶことができた。
荒くなった息を整えてから、一応傷のあった場所に包帯を巻く。
もっと身体を拭ってやるべきだったと後になって気付いたが、そのときには疲れのためか、もう身体が言うことを聞かなかった。
ビゼルはそのまま床の上で泥のように眠り、そして朝が訪れた。
いつも通りの時間に目覚めたビゼルが水を汲みに行って帰ってくると、意識を失っていたアザリーが目覚めていた。
まるで何事もなかったかのように。
一言も発することなく曲刀を弄ぶ様が不気味だった。獲物に恐怖を植え付けたいらしい。
しかし、アザリーに不思議と恐怖はなかった。冷静とは言い難かったが、恐れを感じてはいない。
一つ、恐れているとしたらここでビゼルを失うことだろう。
特別な感情でも何でもなく、初めて会ったあの夜に拾った命をこんなところで失ってほしくないと思った。
「アザリー!」
ふと気をそらした瞬間だった。
右肩から左の腰にかけて刃が走る。
一瞬で引かれた赤い線が急速に熱を持ち、逆に身体全体が冷水を浴びせられたかのように冷えていった。
よろめいて、しかしアザリーは倒れなかった。
二度、三度斬りつけられてもまだ彼はその場から動かない。後ろにはビゼルがいる。
それだけがアザリーの思考を占めていた。
致命傷を与えても未だ絶命することのないアザリーに苛立ったのかぞっとしたのか、これで終わりだと言わんばかりに盗賊の男はアザリーの左胸を貫いた。
押さえても止まることのない赤い色が足下に広がり、地面に染み込んでいく。
今度こそアザリーは倒れるはずだった。
しかし予想に反して、彼は盗賊に向かって足を進める。
盗賊の顔が引きつった。命を奪った感触は確かにある。何故、まだ生きているのか。
アザリーは自らに突き立てられた曲刀を引き抜き、無造作に投げる。
それが地面に転がった音を聞いて、やっと異常な状況をはっきりと理解できたのか、盗賊の男はよく分からない言葉を発しながら逃げ出した。
***
目を開けるとアザリーは柔らかいとは決して言えない寝台に横たわっていた。
寝台には赤い跡がついており、記憶に残る盗賊の襲撃が夢ではないことを如実に表している。
アザリーは身体を起こし、ビゼルの姿を探す。
ここがどこなのかは分からないが、こうして自分に手当ての跡があるということは、彼女も無事だということだろう。そもそも、とアザリーは案外丁寧に巻かれた包帯を外しながら考える。
「なぜ、僕は生きている?」
激しい痛みと衝撃、溢れて止まらない命。
左胸にある心臓を刃が貫いていく感覚も未だ生々しく残っている。
まず、そこから刃を抜く記憶が残っているのがおかしい。なぜその状態で生きていたのか。
包帯を外し終え、自分の身体を見下ろして、アザリーはぞっとした。
身体のどこにも傷がない。何もなかったかのように、傷付いた痕跡がなかった。
「アザリー……」
見ているものが信じられず、半ば放心状態だったアザリーの耳に、今となっては聞き慣れた声が入ってくる。
顔を上げると部屋の入り口にビゼルの姿があった。
足を怪我したのか、物に掴まりながらゆっくりアザリーのもとに近付く。
信じられないものを見る様子はなかった。
彼女が彼をここに運び、包帯を巻いたのだとしたら既に異常に気付いていたとしてもおかしくない。
「本当に、生きているのね」
寝台のそばに椅子を引き寄せ、そこに腰掛けながらビゼルは言った。
驚きも何もない。ただ彼女は確認していた。
そしてその一言に、アザリー本人もやっと現実を受け入れる。
あの時一度死んだのか、そもそも死んでいなかったのかは分からないが、自分はあの襲撃を受けてなお生きているということ。それは奇跡でも何でもなく、異常なのだということ。
「傷がないんだ……」
「……うん」
――あの後のことをビゼルは語る。
盗賊が逃げて、ビゼルはアザリーに駆け寄った。
自分の代わりに散った命に張り裂けそうな悲しみを感じながら、赤く濡れた身体を抱き締める。
違和感はそこで訪れた。
徐々に冷たくなっていくものだと思っていた身体は未だ熱を持ったまま、何気なく首筋に手を乗せると鼓動が感じられた。
勘違いかと思いながら傷に目をやると、最初の一太刀の痕がもう消えている。
まさかと信じ難い思いを抱きながら服を裂き、背中まで刃の通った左胸の傷を探す。
しかし、そこにも傷はない。
確かに自分の手は彼の命で赤く濡れているし、刃が彼を裂く瞬間を目の前で見ている。
なのに、今意識のないアザリーは眠っているかのように安らかな呼吸を立て、受けたはずの傷は一つ残らず消えている。
現実では起こり得ない何かが起きたのだと頭を切り替え、ビゼルはひとまずアザリーを自分の家まで運ぶことにした。
幸い、そう遠くもない。自分より頭一つ分は背の高いアザリーだが、なんとか運べるだろう。
まともに動くのが右腕くらいだったため、アザリーをほとんど引きずることになってしまう。
運よく他の盗賊には出会わず、うまく動かない足を動かしながらも、ビゼルは彼を自宅まで運ぶことができた。
荒くなった息を整えてから、一応傷のあった場所に包帯を巻く。
もっと身体を拭ってやるべきだったと後になって気付いたが、そのときには疲れのためか、もう身体が言うことを聞かなかった。
ビゼルはそのまま床の上で泥のように眠り、そして朝が訪れた。
いつも通りの時間に目覚めたビゼルが水を汲みに行って帰ってくると、意識を失っていたアザリーが目覚めていた。
まるで何事もなかったかのように。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
獣人の里の仕置き小屋
真木
恋愛
ある狼獣人の里には、仕置き小屋というところがある。
獣人は愛情深く、その執着ゆえに伴侶が逃げ出すとき、獣人の夫が伴侶に仕置きをするところだ。
今夜もまた一人、里から出ようとして仕置き小屋に連れられてきた少女がいた。
仕置き小屋にあるものを見て、彼女は……。
ヤンデレ王太子と、それに振り回される優しい婚約者のお話
下菊みこと
恋愛
この世界の女神に悪役令嬢の役に選ばれたはずが、ヤンデレ王太子のせいで悪役令嬢になれなかった優しすぎる女の子のお話。あと女神様配役ミスってると思う。
転生者は乙女ゲームの世界に転生したと思ってるヒロインのみ。主人公の悪役令嬢は普通に現地主人公。
実は乙女ゲームの世界に似せて作られた別物の世界で、勘違いヒロインルシアをなんとか救おうとする主人公リュシーの奮闘を見て行ってください。
小説家になろう様でも投稿しています。
皇帝陛下は身ごもった寵姫を再愛する
真木
恋愛
燐砂宮が雪景色に覆われる頃、佳南は紫貴帝の御子を身ごもった。子の未来に不安を抱く佳南だったが、皇帝の溺愛は日に日に増して……。※「燐砂宮の秘めごと」のエピローグですが、単体でも読めます。
死神と天使。
雨音露乃
恋愛
訳があり死んでしまった少年。
癌になって入院しているく中二の女の子、
佐藤夢希の前に現れ、7日後に命日が訪れることを話す。
それから死後の世界を話したり、
夢希の過去の話をしているうちに
やがて2人は惹かれ合う。
だけどこの先会える事も出来ない。
2人は死後の世界でどうなるのか。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる