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第12話

束の間だったとしても (4)

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 櫻子の申し出に一度引き抜いて体位を変える恭次郎だったがいざ、あまり動け無さそうな彼女を仰向けに転がしてやった所でいつもは強気な目元に涙が滲んでいる事に気が付いた。

「お前……」

 目尻から今にも零れ落ちそうな涙を拭おうとする指先に櫻子は反射的にぎゅっと目を閉じる。

「あ、れ」
「気づいてなかったのか」
「そう、みたい」

 悲しくは無かった。
 ただ、恭次郎に愛される気持ち良さが込み上げて、それが涙になっている。

「っ、ふふ……変ね、気持ち良すぎたの、かも」

 両手で顔を隠して恥ずかしそうに笑う櫻子を目下にした恭次郎は心配の感情から一転して、今にも射精してしまうのではないかと自分の下半身がまるで更に膨らむような感覚を覚える。

「出そう」
「え、ちょっと」
「これは色々とクるな」
「まって、本当に」
「挿れるぞ」

 う、うん、ととりあえず了承をした櫻子だったが――その後の事はよく覚えていなかった。正確には“覚えられなかった”のだが。
 ぐちゃぐちゃに抱かれて、キスもいっぱいで、強く握り合った手も、口呼吸しか出来なかった喉も気が付いた頃には痛くて。
 擦り上げられた入り口も、音がするほど肌と肌が当たった質感も、何もかもが記憶の中で一緒くたになっている。

 今は、二人でお風呂に入っていた。
 本当なら食事のあとに入る為にと湯を沸かしておいたバスタブ。その中には入浴剤の淡いラベンダーの透き通ったお湯と小さくなって膝を抱えている櫻子がいた。

 少々激しめだった情事の後に一人で入らせて途中で疲れてバスタブの中で眠ってしまったら危ない、と言うもっともらしい建前と共に先に櫻子には体を洗わせ、後から入って来た恭次郎も体を流して一緒に湯に浸かる。恭次郎の体の規格は一般的な成人男性より大きいがそれでも楽に大人二人が浸かれる広さだった。

「これ、洗ってて気が付いたんだけど」

 櫻子は自分の胸元にある白い入れ墨の、ちょうど桜東会の代紋が入っている宝玉の部分にキスマークが付いている事を咎める。

「いいじゃねえか、色が入って」
「どこの誰が自分の所属する会派の代紋に吸いつくのよ……」
「俺だが?」

 俺しかできねえしな、とニヤニヤとしている恭次郎に櫻子は項垂れてしまう。桜東会の会長職にしか許されていない代紋の刻まれた宝玉にまさかそんな事をするなんて思わなかった。
 ふと櫻子は「後ろ向いて」と恭次郎に命令する。

「恭次郎のこの飛び鳳凰の絵図って、私とは違って代々舎弟が揃いで入れてるやつの内の一つだけど」
「俺のはそもそもタマ無し、だろ?」
「言い方……でも、彫師は私と一緒よね」

 櫻子の白い飛び鳳凰に代紋が刻まれたぎょく、の意匠は当代一の彫師に彫らせた逸品。櫻子はスペースの関係で入れていないが恭次郎の背中には彫師の名前が入っている。

「ああ、彫師は足立に相談して紹介されたんだが誠一さんの口添えがあったんだろうな」
「会長職が決まっているなら最初から私と同じ宝玉を掴んだ絵図を彫らせた筈だった。あとは代紋を入れるだけで……父は、やっぱりあなたに桜東を継がせたかったのね。これ、いずれ宝玉が掴めるように少し鳳凰の鉤爪が開いてる」
「ああ、それな……後からなんか、そうなんじゃねえかと思ったが見せびらかすようなモンでもねえし。今、俺の墨の全貌を覚えてるのは足立くらいじゃねえか?」

 いつか、その鳳凰に代紋の入った宝玉を持たせる算段を誠一はしてしまっていた。
 恭次郎が入れ墨を入れ始めた頃を櫻子も知っているので彼が二十代、体がある程度大きくなり終わって皮膚の状態も落ち着いてきた頃だったのを覚えている。
 その時の恭次郎はまだ若い衆を纏める位の立場だった。

「父に、説明だけで良いから落とし前付けさせようとしたのに……先に、いなくなっちゃって……」

 つつ、と恭次郎の背中の入れ墨を指先でなぞる櫻子は鳳凰の鉤爪に自らの指先を合わせる。

「私の考えがもっと大人で、冷静で、父に……もう少しだけ歩み寄れていたら、何か変わってたのかな」

 極彩色の飛び鳳凰がある大きな背中に手をあてて話しかける櫻子とそれを黙って聞いていた恭次郎だったが本音を話すときの彼女はいつもより言葉が少し、軽くなる。
 上下の関係ではなく、まるで恋人同士で話をするように。

「なあ、さくら」

 名前を言い終わる前にそれを遮ったのは恭次郎の腹の虫の音。
 ぐう、と鳴ってしまったお腹に神妙だった空気が変わってしまった。それに背中に手を掛けてくすくす笑う櫻子にも「もう上がって何か食べよ」と言われてしまう。

「私もお腹空いた」
「俺、マジでガキだ……」
「お腹を空かせた恭次郎くんは何を買って来たの?」

 幾つか買って来た品物を挙げる恭次郎とざぶん、とバスタブから立った櫻子は手早く体の水分をタオルで押さえてバスルームから先んじて出て行こうとするがぴたりと足を止め、体の前面にだけタオルを当てて緩く振り向く。

「いつもありがとうね」

 濡れ髪のすっぴんではにかむように櫻子は笑う。
 いつか見た、何も飾り気のない素のままの櫻子の姿に恭次郎は「信頼してくれて光栄だよ」と笑い返し、自らも湯から上がる。

 ・・・

 リビングダイニングにあるソファーは大人の女性が楽に眠れるくらい大きい。よく櫻子もソファーで眠っているのは知っていた。
 特に今日は……先ほど、ちょっと激しめなコトをしてそのまま二人でお風呂に入り、だらだらと食事をしてしまった為にベッドは何も片付いてない。なんとか歯磨きをした櫻子をソファーの方に横にさせた恭次郎は彼女が愛用している手触りの良い毛布を体に掛けてやった。

 ベッドを汚さないように敷いていたタオル類だけでも手洗いをして先ほどお風呂の際に使った物と一緒に洗濯乾燥機に突っこんでおこう、と寝かしつけをした恭次郎は使った食器も片付けて、と考えてしまう。

「……起きてから、やるから」
「あ?でもアレじゃねえか?タオル類、がびがびになるぞ」
「いい……」
「お前なあ。そもそもここじゃお前と俺は一緒に寝られねえよ」

 背もたれを倒せば二人一緒に横になれる、フラットになる、と言う櫻子はどうやら完全に甘えの体勢に入っていた。こうなるとそれを突き通そうとするのを恭次郎も最近分かって来たのだが……。

「分かったよ。だが、タオルだけは洗わせてくれ」

 眠そうな、それでもじとーっとした櫻子の目に眉尻を落とすしかない恭次郎は「すぐ終わるから」と今だけは我が儘な恋人に言い聞かせてリビングから離れた。

 十五分も掛からず、手洗いが必要なタオルを洗い、洗濯乾燥機に納めてきた恭次郎はしっかりと背もたれが倒されて自分が一緒に眠れるようにフラットになっているソファーとちょっと端に寄ってくれている櫻子を見て思わず笑ってしまう。
 隣で寝て、との意思表示に恭次郎は寝室に向かい、枕と掛布団を掴んで持ってくると空いているスペースに横になる。

 すやすやと穏やかに眠る恋人を囲うように眠る事の幸せ。それを噛みしめる恭次郎は心もお腹も満たされて、そして温かな櫻子の体がすぐそばにあった為に直ぐに眠ってしまう。
 静かな夜を、静かに過ごす。それは自分たちが極道者だからこそ、あまりにも貴重で、あまりにも儚い時間だった。

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