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第10話
話し合うこと (2)
しおりを挟む会長席のデスクには既に随分前から飲み干されたアイスコーヒーのカップが二つ。完全に二人きりになってしまった部屋で恭次郎は櫻子が座っている革の椅子をそばに立っていた自分の方に向けさせると「言いにくいか」と言う。
ベッドの上で素足を絡ませ眠る関係でも、こうして面と向かって重要な話をするのはあまりない。大体が上級幹部会など、誰かしらがその場に居る。
恭次郎の問い掛けに緩く首を横に振った櫻子は観念したように口を開いた。
「まずはどこから話そうかな……凄い最初の方から……うん。あれは私が大学生の頃。まわりはみんな就活に勤しんでいる中で私はもう、やる事は決まっていたから。二十歳になってからはよく桜東の持つ風俗店に顔を出していて。そう、その時だった。少し路上でトラブルがあった時に危ない絡み方をされた私を守ったのが私服の、ね……それからずっと監視対象だったって事が分かって」
当たり前よね、と膝の上で組まれた指に少し力が入る。
「監視ってお前それ警察……当時の四課の刑事か?」
暴力団を取り締まる警視庁刑事局内、現在の組織犯罪対策課。恭次郎とて自分たち組織は監視されるべき立場である事は理解しているし、担当刑事の顔も知っているし会話もかわしていたが櫻子の学生時代は末の分家の子女としてあった筈だった。
特に監視など受ける筋合いのない血の薄い女の子の身分。
「まさかお前の事」
「そう、私が三島誠一の実の娘、そしてあなたが……父が現場から連れ出した赤の他人の子だと言うのも何もかも、最初から向こうには知られていたの。父が正式に届け出ていたみたいでね。それで警視庁は私が今の桜東会の正式な跡目であり四代目を襲名している事も知っている。まあそれは向こうとしても極秘だからほんの上層の数人、ってところだけど」
「なら俺の知らない内に出掛けていたりするのはあの担当刑事との」
「会食、と言う名の定時連絡。悪いコトをしてないかの呼び出しね。あとは桜東が尻を拭ってやっている政治屋の事を含めて色々と……どうして私たちがクロ寸前の事をやっていても警察連中は見て見ぬふりをしているのか、恭次郎だって分かるでしょう?」
浅く組まれていた櫻子の指先がぐ、と深く握り合う。
表情や声音には出していないが指先だけは言いたくない事を言っていると示していた。
「なら桜東が仕入れた情報と引き換えにお前自身が出張って直接、話付けていたって事か」
頷く頭、揺れるセミロングの髪。
そして頷いたままで下を向いている櫻子は「それとね」と話しのついでだからと言葉を続ける。
「私、父が何故……母の事を追いやったのか、今の私なら冷静に聞けると思って近々、本人に聞こうとしていたの。まあ答えなんて初めから分かってる。そんな事……分かってたんだけどね。私が桜東で働き始めてカネ回りを右肩上がりにさせても頑なに褒めもせず、何も教えてくれなかった父の事は心底、憎かった。ずっと昔からそう、小さい時から私だけが母を支えなきゃって……まだ私、中学生だったのよ?」
高校受験を控えた年に、櫻子の母である章子は運の悪さが重なって帰らぬ人となった。その時、都内に住んでいれば助かったかもしれない命。
もし、誠一が自らのそばに呼び戻してくれていたら。
後から考えてももう起きてしまった事は変えられない。
それでも櫻子は父親の口から何故、別れなかったのかを聞きたかった。
火葬の際に所在無げにしていた若き恭次郎の事も櫻子はよく覚えていて……居心地が悪そうに誠一の後ろに青年は黙って立っていた。
そんな青年、恭次郎の生い立ちを知ったのは父と娘の会話の機会が必然的に設けられていたその時だった。
恭次郎はどこかの取り立ての現場で誠一自らが拾ってきた子で当時、戸籍すら無かったのだと。それから“恭次郎”と言う名を与えられた男児は何かと後に融通が利くように三島の分家に養子として入り、誠一は誠一で外に作った女が生んだ自らの血を持つ実子だと偽りの情報を流した。
本来の娘である櫻子の籍は自分と章子の子として置いたままに。
「最初は父のもとで順風満帆に暮らすあなたの存在も憎くてしょうがなかったけれど……父があなたを私の身代わりとして桜東の幹部に据えた事がその内に……どうしても許せなくなった」
「それは俺が」
「選んだ事?」
顔を上げた櫻子の疲労が伺える目元が少し潤んでいる。
「父はあなたを施設に預ける事だって出来た筈よ。本家の戸籍に入れなかったのも、あなたがいつか自由を選んだ時の隔たりにならないように」
「それはそうだが」
「父はあなたと言う人、一人の人生を無意識のうちに握ってしまっていたのかもしれない。自分の娘の命が無事なら、と言う深層にあった欲を……父は人心掌握に長けていた、と足立からも聞いていたから。だから父に全てを白状させて落とし前をつけさせ、ようと……思って……」
戦慄く桜色の口元。
複雑に絡み合う物事の無常さに行き場の無い怒りや憎しみ、疑問や贖罪の全てが恭次郎の見下ろしている細い肩にのしかかっていた。
「私、本当はあなたに命令なんてする筋合いはないの……父の、罪を……こんな汚れた裏の世界に……私はなにも、あなたに、してあげられ……っ」
大粒の涙が櫻子の瞳から溢れ出す。
膝の上で組んでいた指先はいつしか爪が食い込み、それでも溢れて止まらない涙が彼女のタイトスカートをぽつぽつと濡らし……恭次郎は黙ってその頭を抱き込んでしまった。
「良いんだよ。どのみち俺は……親父さんに拾われてなきゃ死んでたんだ。誰にも愛されず、何も分からないガキがよ……あの日の親父さんは、誠一さんの判断は間違っていなかった。痩せこけて、もう歩くこともままならなくなっていた汚いガキを担いで、外の世界へ連れ出してくれたんだ」
それに、と恭次郎は腕の力を少し緩めて肩を震わせて泣いている櫻子を見つめる。
「誠一さんは、俺がお前を愛してしまった事を知っていても咎めなかった。なあ櫻子……俺、まだ章子さんが生きていた時に小さいお前の手を引いている所を見たんだ。遠目に、誠一さんに連れられて……あれが自分の妻と娘なんだって。その時から俺は……あの小さな女の子の事を守らねえと、って。だから今の俺の生きる全ては」
腕の中で違う、違う、と頭を振る櫻子に恭次郎は体を離して未だ震える肩に大きな手を添える。
「あの時に、俺はお前にひと目惚れしちまったんだよ」
惚れたオンナを守るためならなんだって出来る。
そう言い切る恭次郎の声は優しく、大きな体を屈めて下を向いて泣いている櫻子の様子を伺う。
「誠一さんの真意は俺にも分からねえ。でも、俺に章子さんとお前を見せてくれた時の誠一さんは……今の俺と変わらねえ事を言っていた」
小さな女の子と、綺麗な女性の後ろ姿。それを遠目に見ていた誠一が発した「ひと目惚れだったんだ。綺麗だろ?ただ俺は極道者で、章子もそれを承知で付いて来てくれた。その極道者の妻としての気概を無碍には出来なかった。ってまだお前にゃ難しい話だよな」との言葉。幼さゆえにうろ覚えではあるが確かに誠一は妻、章子の事を思っての選択をしていた。
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