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第8話

誘惑 (2)

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 都内に入り、あと十分程度の所でハッとしたように櫻子が「私、寝ちゃってた」と目を覚ます。時間にして三十分程度の丁度いい昼寝ではあったが本人はそんな自らにふう、と軽く息をつく。

「恭次郎はどうする?このまま本部に帰るなら先に置いて行くけれど」
「稔、今日一日の俺のマジな予定は」
「足立さんが言うにはフリー、と伺ってます」

 今日の櫻子は表情がよく変わる。
 じと目で恭次郎を横目に見ているが「私、少し仕事するけど」の言葉に「んじゃあ俺はコーヒーでも飲んでる」との事で本当にこのまま、また櫻子のマンションへと帰るつもりらしい。

 しかし最終の決定権は櫻子にある。

「大崎君、本部までお願い」
「え、良いンすか?」

 櫻子に危害が及ばないように接触を控えていたのは恭次郎の筈で彼女もそうしていたのだが。

「私も“下”で仕事するから」

 それなら大丈夫でしょう、との提案に大崎は拒否権を持たない。
 普段からこの黒塗りのトランクの中には櫻子のスーツケースが入っていて、その中にはブラックスーツが含まれている。急を要する際に出先でも着替えられるように下着の類いも数日分が入っていた。

 事実上の桜東会本部の下階にあるビジネスホテル。
 大崎は櫻子の仕事部屋になっている部屋まで彼女を送り届ける。櫻子からは買い物をしてきた荷物はトランクに入れっぱなしでもマンションに置いて来ても構わない、それで今日はそのまま仕事を終わりにして良いから、と伝えられて部屋にスーツケースを置いて今日は早めの上がりとなった。

 恭次郎も出迎えに降りて来ていた足立や他の幹部と共に上階フロアに行ってしまい、ひと眠りをしてすっきりしていた櫻子は一人、軽い仕事を始める。
 ノートパソコンの画面を見ながらメッセージの返信や諜報部とのやり取りをし始めるとインターホンが鳴り、櫻子の解錠を待たずに恭次郎がずかずかと勝手に部屋に入って来る。彼のスマートフォンにも権限を持たせてあるので電子制御のドアロックにかざせば中から開けなくとも開いてしまうのだ。

「茶菓子持って来た」
「本気で寛ぐ気?」

 午前中に買い物に出て、帰ってきても時刻はまだ夕方を迎える前の三時過ぎ。

 来客対応用に高級和菓子などが買い置きされている桜東会本部。
 どうやらその茶菓子をちょろまかして来たようで日持ちのする栗まんじゅうの包みが櫻子のデスクに一つ、置かれる。

「たまには出掛けてみるもんだな」

 桜東や三島の家訓的な物とは言ってもあまり感情を抑え込み過ぎるのも良くない。
 だから今日みたいに少し都会から離れた場所に出掛けて、普通の女性のように笑ったり、恥ずかしそうにしていたり……何が食べたいかを言う日があっても良いんじゃないだろうか、と恭次郎はまた櫻子の表情を確認する。
 今は自分の来訪に仕方なさそうに、それでも口元は緩んでくれている。

「夕飯は流石に足立に頼むとして、食いたい物はあるか」
「もうお夕飯の話……とは言っても」

 細身の華奢な腕時計を確認する櫻子。昼を回っているが当日の夜の仕出し注文をするならなるべく早い方が良い。

 それに恭次郎は見た目のわりに舎弟の扱いが良い、と言う話。人望と言うよりも単に恭次郎は優しいだけなのだと櫻子は知っている。

「そうね……」

 考えているようで櫻子の視線はノートパソコンの画面へ落ち、綺麗な指の先は静かにキーボードを叩いてる。

「たまには当直にも良いご飯食べさせてあげたいから引き受けてくれそうな所の折箱を人数分」
「今日、当番のヤツはラッキーだな」

 来客用のローテーブルに出しっぱなしになっているスマートフォンを手にした恭次郎が「足立、晩飯なんだが」と話をし始めるのを聞きながら櫻子はぴた、と指先を止める。朝、諜報部と警備についてのやり取りをする前からにすでに送られてきていた案件についての話が画面の向こうから上がってきた。

 内容は千葉と埼玉方面の連合組織“千玉会”と神奈川の“龍神舎”の上級幹部同士の昨夜の会食情報。正確なウラを取って来る、と朝に報告を受けていたがどうやら互いの本部の本部長級が赤坂の料亭で、との事。

 本部長と言う役職は大まかに数えれば上から四、五番目にあたる。桜東会で言うならば一番の会長に座す櫻子の下、本来は本部若頭の恭次郎、その下には若頭補佐、さらにその下の本部長。桜東では役に慣れた中堅の直参組長に割り当てられる役職だった。

 桜東の直参組長は八名、恭次郎が表向きの頂点である三島本家を入れれば九名。既に誠一の時代から各組のスタイルに特化した役職を与えているので桜東での本部付きの本部長はトップダウンの連絡役的な管理職――とは言え、大きな権限のある直参組長である事に違いは無い。

 ただ彼ら、組長同士での交流はあまり無い。
 いくら同じ桜東会とは言え互いに行き来したりする事は無く、本部に召集されてその足で桜東の持ち物の会員制のラウンジなりバーに飲みに行くとか、その程度。

 それが他の会派同士の本部長級……組長同士で会食が行われた、と。

 関東の三大派閥、互いに拮抗しあい大規模な衝突は避けて来た。先代の三島誠一、その息子の三島恭次郎、と言うブランドが牽制をかけてくれているが……櫻子は自分と極秘で会食をした人物の事を脳裏に浮かべる。

(これが発覚したら、私も“組織”もタダじゃ済まされない)

 自分たちが必要悪であると掲げてはいるが櫻子の腹の中は誰も知る事はなく、また静かにととと、と綺麗な指先はキーを打ち始める。
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