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第1話

スイちゃんのおしごと (3)

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 なんだろう、今日は凄い疲れた。
 どうってことないいつもの仕事だった筈なのに最後のアレが効いていた。
 タクシーに乗って帰る前に少し休憩、と私は夜でも賑やかな駅前の植栽を囲むベンチに腰を下ろして今一度、紙袋の中身を確認する。
 妙な疲労と言うか、もやついているよく分からない感情のせいで拠点の一つにしているビジネスホテルにこのまますぐ帰る気にはなれなかったのだ。

「ドーナッツ……」

 どこからどう見ても、誰が見ても分かる渋いオールドファッションドーナッツが三つ。一つは何も付いていないクラシカルな物、もう一つが半分だけチョコレートが掛かっていて最後の一つは白いから多分、シュガーコーティング。

 何故、こんな物を極道者の男が所持していたのか、しかもコロシの現場に。甘党?ピクニック気分?馬鹿じゃないの?の三つが私の頭に巡りつつも楽器ケースを装っているナイロンバッグのポケットからスマートフォンを取り出そうと手を突っ込んだ瞬間、何だかとても嫌な予感がしてしまう。

 今日、更新されたと通知が入っていたショート動画のタイトル。
 私にこの紙袋を押し付けるように差し出して来た男の綺麗な手。

 いや、ナイ。
 絶対に、違う。

 私の唯一の楽しみである動画の推しの配信者がさっきまで私の背後で“裏・社会科見学”をしていたなど……あり得ない。
 頭の中がドーナッツのせいで混乱しているが確証には至っていない、と恐る恐るショート動画の再生ボタンに触れる。

 仕事をする前に見た筈の動画の内容が既に吹っ飛んでいる。
 こんな偶然などあってたまるか、と私は二十秒程度の動画を見るが今、膝の上にある紙袋の中身と明るいキッチンで完成品として映し出されているオールドファッションドーナッツの種類は――完全に一致していた。

「あれ?私の動画の視聴者さんだったんだ」

 大きく、息を飲んだ。
 駅前ロータリーの喧騒にパトカーと救急車のサイレンが聞こえ始める。

 発声元を見上げようとして、出来なかった。
 座っている私に対して体を屈めて「ね、やっぱりこのまま“ディナー”に付き合ってくれないかな」と、けたたましく通り過ぎて行くサイレンの音をまるで無い物とする低い声のただ一つだけが私の耳に吹き込まれる。

 私の左右を固めているのはブラックスーツのガタイの良い男。それでも申し訳なさそうに「射手、どうしてもカシラが」と言葉にするけれど抵抗をした場合は私を加害する、と言う意思は一応持っているらしい。
 なんて横暴な……とは言えこの裏の世界では飼われている側は飼い主の言葉は絶対だから、仕方のない事。

 今ここで私が傍らに置いてあるライフルではなくサマーセーターの少し緩い裾の中、伸縮性のある携行用バンドを使って腰に挿している護身用のハンドガンを取り出そうものなら腕の一本、飼い犬たちはへし折る気概はあるらしい。

 ゆっくりとした動きで私はスマートフォンの画面に触れて流しっぱなしになっていた動画を止める。ちょうど止めた所に映っているのは生のドーナッツ生地を丸く型抜きをしている男の手元。その手の甲にはほくろが二つ。

「午前中にソレ作ってたんだけど、編集作業をしていたら急に親父オヤジから“たまには現場を見て来い”って言われてしまってね」

 仕事の後に尾行される事は何度もあった。
 弱みを握りたかったり消してしまおうとしたんだろうけれどそれはご法度だ。
 自分たちの手を汚さずにコロシを頼むのだからそれ相応に筋は通して貰わないと……なのだけれど。

「それで君さ、ちょっとの間で良いから私のお嫁さんになってくれない?」
「は……?」

 今夜二回目の私の間抜けな声。

「最近色々あって、歳の近そうな君を見て咄嗟に思い付いたんだよね。だからディナーついでに話を……と思ったんだけど私の動画の視聴者さんなら話が早い」

 私の左右に立っているブラックスーツの二人も「射手なら」「普通のオンナよか頑丈だろう」と言い出している。

「なに、勝手な事を」

 いよいよ顔を上げて声の主を見上げた私は夜でも明るい繁華街のその中で初めてまじまじと目の前の――推しの顔を見た。

 悔しい。
 悔しいくらいにカッコイイ、と言うか私の思い描いていた顔がにこにこと爽やかさを湛えて「やっと目が合った」と私を見つめている。

 どんな顔をしているのか、幾らでも想像した。
 その推し本人が、目の前にいる。

 また視線を下げて彼の手を見れば確かにその右手の甲にはほくろが二つ。疑う要素が綺麗さっぱり無くなった。

 彼は、私の推しだ。

 綺麗な手が、そのいつも見ていた繊細な指先が「車の中で食べよっか」と私の膝から紙袋を取って、それが合図だったように私の商売道具が入っているナイロンケースがブラックスーツの、構成員の男に奪われる。

「ああでも食前にドーナッツは重いか。ブールドネージュスノーボールクッキーにでもすれば良かったな。どう?次の動画から暫くクッキー特集とか面白そうじゃない?」

 言葉が出ない私と勝手に話を進めている推し。
 さあ行こう、と言い出す推し。

 私の、推し。

 左右の屈強な構成員を見上げれば「射手、申し訳ないがカシラの話だけでも付き合ってくれないか」と言う。そっちはそっちで本当に困り果てているようだった。

「こんなの、どうかしてる……」
「悪いようにはしないから、さ。車ならそこに停めてあるから」


 ――人にはそれぞれ生業なりわいがある。


 例えば私が裏社会で暗躍する“殺し屋”であるように移動中の黒塗りの車内、後部座席の私の隣でディナー前だからと半分に割ったオールドファッションドーナッツの製作過程を心地よい声音で話している男が“そう”であるように。

「美味しい……」

 悔しい。
 一度でいいから食べてみたかった推しの作った手作り菓子。
 甘すぎない、私が想像していた通りの素朴な味わい。
 でも良い材料を使っているのだと分かる品の良い口当たり。

 ずっと食べてみたかった。
 なのに、どうして。

「御手拭き、足りる?」

 ドーナッツを食べている私に甲斐甲斐しく世話を焼く推しがまさか“同じ穴の狢”だったなんて誰が想像できようか。
 それに「お嫁さんになって」とは一体どういう事なのか。

 訳が分からないまま私は推しの男を隣に侍らせて、その推しが作ったオールドファッションドーナッツを味わっている。
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