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最終話、重なる匂いに酔わされて

(四) 閑話『黒光の受難』

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 ――閑話『黒光の受難』――


 流石に疲れたのか披露目も終わり、手伝いに来ていた他の猫たちも全員が帰っていった時刻。私の足元で申し訳なさそうに短く鳴く小柄な白猫……玉乃井がいた。
 今回の働きは国芳様も、私もよく分かっている。すず子様の小袿の色の重ねから色々と身の回りの事のみならず数えきれない事をこなしてきた。それが出来てしまうのが玉乃井――神から神使となるよう導きを受けた特別な白猫。

「少し休むか」

 抱きかかえようとする私の手に少し遠慮をしてから、それでも白い両手を伸ばした玉乃井は私の腕の中でもう一度小さく鳴く。それは「ごめんなさい」の言葉だった。自らを不甲斐ないと思っているのだろうか。これだけの準備に力を使う事が出来る猫の神使は数少ないと言うのに。

 ただ、玉乃井だけは私の我が儘だったから、国芳様に無理を言ってずっと猫寝殿付きの神使とさせている。

 眠そうな玉乃井を腕に抱えて廊下を歩いていれば離れた場所に国芳様が見える。明らかに私と目が合った……ので逸らした。今夜はこのまま見逃して欲しい、と。

 それが分かる方だからこそ、猫王。
 とても懐の深い方。

 東の、私の部屋の前まで行けば誰かが気を利かせて置いて行ってくれたらしい祝い酒の入った瓶子や茶菓子が膳台に置かれているのを見つける。とりあえず先に玉乃井を、と揺れが心地よかったのか殆ど眠ってしまっている白猫を片腕に抱えたまま火鉢に火を灯して寝冷えをしないようにする。

 今日、すず子様の侍女として仕える玉乃井に行事用の羽織を仕立ててやった。それと同時にすず子様と揃いとなるように仕立て直した国芳様からの贈り物である首飾りを玉乃井に持って行ってやったあの時の表情。

 泣かせてしまうか、と思いもしたが私は……自分が神使である前に雄猫なのだと思い知らされた。
 驚きと嬉しさを表していた玉乃井の白い耳、薄く紅が引かれていた口元はほころび、私に礼を何度も伝える姿が愛おしかったがしまいには“それ以上の言葉”を言いたげにしていたのを私は知っている。
 私は数十年、その言葉を待っているが……無くとも、それで良い。
 玉乃井が自らの気持ちを言葉にしてくれるまで無理やり聞き出そうとは思わない。

 座布団を火鉢の傍まで持って行き、寝ている子を下ろす。
 そして私は部屋の前に置かれていた祝い酒が乗った膳台を取りに行く。

 昼間の国芳様とすず子様への祝福の煌びやかな喧騒は夢、幻と思わせるくらいにとても静かな夜だった。
 火鉢の中の炭が弾ける音、寝息を立てるでもなく眠っている玉乃井に何か掛ける物を、と思っても布団は流石に……と黒い羽織を持ってきて起こさないように体に掛けてやる。

 そうして私は眠る玉乃井を肴に、国芳様とすず子様の婚礼の祝い酒をいつもは茶しか淹れない丸い湯呑に移して味わう。神の庭にあるまたたびの木の実で作られた酒の味は美味かった。

 黒い羽織りが動く。

「起きたか」

 ひと眠りしたから、白い耳が私の声に反応する。
 しかしすぐ傍には火の灯してある火鉢があり、驚いて起き抜けに人の形を取るとなる危険だ、と湯呑を文机に置いて白猫を羽織りにくるんだまま自分の足元へ引き寄せる。途端に、先日とは反対に音を立てて玉乃井は人の姿になる。

「くろみつさま!!」
「火傷をする」
「え、あ!!ありがとうございます……すっかり寝ちゃった……」

 火鉢の存在に気づいて正座に座り直す玉乃井は私の傍にあった膳台にある湯呑の匂いに反応した。

「黒光さまがお酒……めずらしいですね」
「祝い酒だからな」
「……たまも、飲んでみていいですか」

 慌てて西の離れに帰るかと思いきや――私も私で酒を飲ませてしまうなど。

 そして私は自分の軽率な行いを恥じる事になる。
 美味しい、とまたたび酒を味わう玉乃井に釣られて深酒を……何よりこの白猫、まるでウワバミだった。思い返してみれば私も国芳様も玉乃井に酒を飲ませた事は無かった。玉乃井も飲みたいとも言わなかったのでそのまま時が経っていた。

「玉乃井、お前……」
「こんなに美味しいものをたまは今まで飲んだことがなかったなんて」
「待て、それ以上は流石に」

 するすると私にしなだれかかって崩れて行く玉乃井の体を受け止める。

「たまはずっと黒光さまを――」

 横抱きにして見下ろした可憐な桜色の唇は声にはなっていなかったが確かに「お慕いしています」と動いた。
 それを見てしまった私は頬を朱に染めて眠ってしまった玉乃井を腕に抱いたまま暫く……呆気にとられて目を見開いたまま本当に体が固まってしまって動けなくなっていた。
 人の姿の玉乃井を抱き起す事が出来ず、とにかく枕と掛布団をと用意して私も心配で傍で横になる。

 眠れる訳が無かった。
 そして翌日の出仕時間の昼ごろ、まだ眠っている玉乃井の様子を見てから国芳様の元へ弁解しに向かう。隠したって無駄なのだと私も分かっていた。


 玉乃井が飛び起きたのはその後だった。
 弁解しに行った先で妙な笑みを浮かべた国芳様から今日一日、いとまを頂いて私も玉乃井を隣に寝かせたまま披露目で出されていた縁起の良い茶菓子を口にしていた。そう言えば、と国芳様とすず子様がいらっしゃったお部屋から帰る途中、玉乃井の部屋の前にも祝いの膳が置かれているだろうと思い部屋の中に入れておいてやろうと西の離れに寄れば私の膳の三倍もの菓子が山のように積んであった。

 私はその意味を知っている。
 玉乃井は、雄たちから好意をよく向けられていた。

 ただ、玉乃井は素で気づいていない。
 番にしたい、娶りたいと言う意味を含んだ好意の存在もあるのだと私は教えなかった。ゆえに玉乃井がこの膳を見れば「足りなくならないように多めに頼んだから余っちゃったのかな」と言うだろう。

 無邪気な白猫は――私だけの白猫でいて欲しかった。
 ここまで来たらもう何も国芳様に言えない。幸いにもすず子様と言う良き番を迎えてくれたおかげで私から国芳様へ小言を言う機会も減った。私が言う前にすず子様が釘を刺すようになったからだ。

「起きたか」
「え、あ……まさか、ひる、ですか」
「いや、もう幾らか過ぎている」

 飛び出して行きそうになる子の細い手首を咄嗟に掴んでしまう。
 あれだけ私もすず子様から言われているのに、いざこの子を前にしてしまうとどうしようもない雄猫になってしまう。

 びく、と肩を跳ねさせた玉乃井を今一度隣に座らせて事情を説明する。そして流石に昨夜は飲み過ぎであり、私も止めに入らなかった事を詫びた。

「たまが……わるいので、す。おいしいからって」

 申し訳なさそうに左右に倒れてしまう白い耳。

「疲れていたんだろう。どこか体に悪い所はないか」
「はい……」

 そしてこの子は昨夜の言葉を覚えているのだろうか。
 たとえ覚えていなくとも、良い。良いんだ。
 私が覚えている。

 しゅんとした耳にそっと触れる。
 手触りの良い短く柔らかな毛に包まれた繊細な耳は起き抜けのせいでまだ、温かかった。


 閑話 おしまい
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