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第十三話、国芳の胸中
(四) 閑話『黒光の胸中』
しおりを挟むーー閑話『黒光の胸中』ーー
私の主人たる猫王三条国芳様がある日、妻にするのだと人の子を本社から攫って来た。私や玉乃井は当初は国芳様の行いに、今でこそ正式な奥方であるすず子様ともどもえらく振り回されていたがやっと落ち着いて来た秋の日。
すず子様の為の披露目の準備に玉乃井が呻っていたりと日々、忙しかった。
私のせいで……転生よりも神使になるよう仕向けてしまった白い猫はすっかり新しい主人であるすず子様に懐き――過ぎている。
いや、それには確かな理由がある。
我々が慕う国芳様の気と神の気が混ざるすず子様は日に日に美しく、気高く、私も認めざるを得ない猫王の妻としての風格が出て来ていたからだ。気立ても柔らかく、穏やかであった。
それに寝殿に常に仕えている雌は玉乃井のみ、本当は話し相手を欲しがっていたと私が気づいてやれなかった。
「黒光さま、お披露目の席のお酒とお茶なのですが……」
すり、と隣に座っていた玉乃井の肩が私の腕に触れる。
それくらい私より華奢な人の姿、猫に戻ってもそれは同じだったが――今夜は国芳様から命ぜられた私たち二匹で軽い酒宴の膳の内容を文机を並べて話し合っていた。盛大な茶の席、のような物。季節の果物や菓子の内容を決める為に東の離れ、普段は私が一人で使っている寝殿と廊下で繋がっている離れの部屋で夜遅くまで玉乃井は細筆を握っていた。
その筆の持ち方を教えたのも私、墨の含ませ具合も、文字の書き方も私が教えた。
昔……視察、と言うよりも現世の営みを見に散歩に出ていた国芳様が両手で掬い上げるように連れ帰って来たのはうつろな瞳をした灰色に薄汚れた小さな猫。
まだ一歳程度の雌の野良猫だったが現世での命の灯火は既に消え入りそうな程に尽きかけていた。
当時は暖かな時期でもあったので国芳様は猫寝殿の庭に寝かせ、そのままそっと命の果てをいつものように私たちで見守る筈だった。苦痛もなく、静かに現世での肉体は光の粒となり魂そのものになるように。
この神域、自らが望めば猫の姿で過ごす事も可能だが神の庭では光る玉になったまま緩やかに漂っている者もいる。生前のと同じ猫の姿をしてのびのびと転がって昼寝をしている者、人の形をとり神に仕えている者とさまざま、自由気ままに猫の習性で次なる転生を迎える為に過ごしていた。
国芳様は小さな白い花が群れている所にその猫を寝かせていた。
あと二日くらいか、と呟かれていたが私はその猫の事がどうにも気になって……神使としての仕事の間に幾度か見に来ていた。
そんな中で虚ろな瞳が、私と同じ金茶の色をした瞳が一瞬だけ、私を見上げた。
どうやら神域の庭に寝かされ、苦痛が消えて少し意識が戻ったのだと――そして私はその猫から、得も言われぬ甘い芳香を感じ取る。他の雌が擦り寄って来る事はあったがその時に感じた匂いではない。
これはもしや、と自覚してしまったが最後。
私はその猫の世話をし始めてしまった。
国芳様も何やらお気づきになったようで私のしている事を黙って見守っていてくださった。そしてその小さな猫にはどうやら才があり、たまたまこちらに降りてこられていた神にも気に入られて……今に至る。
「すず子さまにこの前お出しした落雁とこのお茶、風味がよく合うとおっしゃっていたので……黒光さま?」
「ん……ああ、何だ」
「もう、ちゃんとたまのはなしを聞いてください!!」
大切な事ですよ、と白い耳を少し横に倒して目くじらを立てている玉乃井。
国芳様とすず子様の仲の良さを目の当たりにし、混ざる気を感じていれば私とて雄猫。隣のこの玉乃井を腕の中に閉じ込めてしまいたくもなる。
以前、白猫のまま疲れていたのか昼寝をしてしまっていた玉乃井を腕に抱いた事はあるが……あれ以来、何も起きていないどころか、お二人が現世に出掛けていた日の騒動後に私はこの子に人の姿で唇を寄せようとしてしまい、本当に泣かれた。
あれは確かに私が悪かった。
私の思いを伝えていない子にいきなり……自らの余裕の無さに呆れた。もはや国芳様の勝手ぶりを諫めていい立場ではなくなっている。
「明日も早いだろう。もう部屋に戻って寝た方が良い」
ああ、不服そうな瞳だ。
「……もう少し、いてもいいですか」
呟くように言った子を、私はこれ以上無碍になど出来なかった。火鉢を出して火を灯すほどの寒さでもなかったが私は自分の他の――と言っても黒い羽織りしかないがそれを一枚出して来て玉乃井の肩に掛ける。
国芳様がすず子様にされているように私も、大切な白猫に愛情を掛ける。
「黒光さまの羽織りものはおっきいですね」
筆を置き、華奢な肩では余ってしまう物を引き寄せてふふ、と笑った玉乃井の嬉しそうな顔。
「……っ」
「え、あれ?黒光さま?頭がいたいのですか」
「いや、違う……気にしないでくれ」
「でも……あ、やっぱりたまはもう自分の部屋にかえり、」
にゃ、と言う小さな悲鳴ごと私は小さな体を抱き込んでしまった。
小さくて、温かい。
急な事態に緊張して身を竦めているのがよく分かる。
いつか、この玉乃井を妻に迎えたい。
覚悟はあの日、灰色に薄汚れた小さな白猫を胸に抱いて温めていた時からずっと、私は決めていた。
ぼすん、と音を立てて玉乃井が私の腕の中で白猫に戻ってしまった。
私が抱き締めたせいで気持ちが揺れたのだと……でも、彼女の喉元はかつてない程ごろごろと大きく鳴っている。
いつもこの首に掛けている国芳様からの贈り物の組紐をすず子様とお揃いになるよう頼んだがそれもそろそろ出来上がって来る。
「玉乃井……」
強く拘束しないように抱きかかえたまま、彼女の首元に顔を落とす。
桃のような甘い芳香と細く艶のある白い毛並。
私がそれ以上手を出さない事に安心したのか、暫くすれば身を委ねるように私の黒い羽織の中にくるまって……そのまま私たちは朝まで一緒に眠ってしまった。
「白い毛が付いているぞ」
国芳様に指摘されて思い切り自分の羽織を確認する。
「玉を抱いたのか?」
「な、にを、そんな明け透けに」
「俺と妻の仲は筒抜けていると言うのに」
「それは……そうですが、何もしていませんよ。あの子が酷く怖がるような事はもう」
口吸いすらしていない。
ただ、二人で寝て……確かにこの言葉だと語弊が生まれる。
「……すず子は、ああ見えてわりと積極的な面があるからな」
「そうなんですか」
「助けられているのは俺の方だ」
その時、廊下の方でばさ、と音がしたので玉乃井が何かしでかしたのかと振り向けば頬を真っ赤にさせたすず子様がいらっしゃった。最近では猫のように足音をさせずに歩かれるので私も気がそぞろでいらしていた事に気が付かなかった。
肩から滑り落ちた羽織りを私が拾って着せ直す。
長い髪は玉乃井が結ったのか丁寧にまとめられており、袴の色と同じ濃緑の組紐で結ばれていた。
「立ち聞きするつもりは……なかったんです」
でも、と我々と視線を合わせないすず子様は本当に猫のようになられてきている。
「顔が赤いぞ」
「それは国芳さんが私のことを……もう。黒光さん、あまり私が言ってしまうのも可哀想かもしれないですがたまちゃんはお腹の上が好きみたいです。すやすや眠っていたので、人の呼吸とか心臓の音とか……そう言った物に安心するのかもしれませんね」
それはきっと私が執務以外の時間はあの子を片腕にずっと抱いていたせいだ。
「たまちゃんもその内、黒光さんの気持ちに気づいてくれますよ」
玉乃井とは違う声音でふふ、と笑うすず子様は定位置となった国芳様のすぐ傍の座布団を捲って「あった」と針に糸を通す小さな裁縫道具を手にされるとそそくさと出て行かれる。
「妻は物事を良く見ている、だろう?」
「そうですね」
国芳様の番となられるに相応しい方なのだと思う。
自分本位ではなく、誰かを慮るその優しさにそっと心をすくわれる。
それはまるで猫を撫でるように、慈しみの手のような気配を持っていた。
閑話 おしまい
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