冷風

更科ゆう

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 今日子の寝顔を見ていると、今日子が癌なんてことは忘れてしまいそうになる。
 血色がいい寝顔。病気なんて嘘だったのだと思いたい。
 
 でも、ここは病室だ。
 
 周囲の白い壁が、いやおうなしに、嘘なんかではないと物語っているようだ。
 
 外はいつの間にか、雨が降っている。空が瞬く間に、真っ黒になっていく。

 哲夫は、今日子が眠っているベッドの横で読書にふけっていた。
 仕事が多忙で、仕事関連以外の本を読む機会がなかなかなかった。
 今読んでるのは、本田ゆうという新人作家が書いた本だ。
 新人作家のエンタメ小説など優先順位が低く、読むことなどないだろう。
 しかし、想像以上に面白い本だった。あっという間に、ほとんど残りのページがわずかになった。時間ができたことで、新しい発見もあったと、不運のなかにも気づくこともあったのだと、藁にもすがるように思いたい。

「……、哲夫さん」
 夢中で読んでいる本から顔上げた。今日子が目を薄く開けて、こちらを見ている。

「今日子、起きたか?気分はどうだい?」

「うん……、今日は大丈夫。よく眠れたし、……なんだか夢を見たみたい」
 半開きだった目を、徐々にはっきりと大きく開けた。その形のいい大きな目で哲夫をみつめる。

「どんな夢だい?」
「……酒本さんって、覚える?」
「ああ、……覚えてるよ」

 酒本一家はいろいろな意味で忘れられない。
「美佐子さんのことも?」

「ああ……」
 酒本美佐子のことは、数回顔を見ただけだ。だが、よく覚えている。

「さすが、記憶力いいね。あんまり美佐子さんとは会ったことないでしょ?なのに、よく覚えてるね。あったまいいー」
 今日子は、お道化た調子で言った。

「なに言ってるんだよ。君の方がよっぽど頭いいじゃないか。司法試験だって、俺より先に受かったし」

「あれは、まぐれよ。私、頭良くなんかないわ」

「またまたー、そんなこと言って。君より頭がいい人なんかそうそういないだろう?」

「私、小さい頃から、親に塾に行かされたり、家庭教師も2人もいたし、英才教育を受けていたのよ。あんだけやってれば、元の頭なんか良くなくたって、誰だって勉強できるようになるわよ」
 哲夫は、なんと言っていいのかわからず、黙っていた。

「本当に頭がいい人っていうのは、美佐子さんみたいに人に気づかいのできる人のことをいうのよ」

「なにを言ってるんだよ。さっきから、その美佐子さんがどういう性格の人だったかは、俺はよく知らないけど、今日子だって周囲に気配りとかできて、優しいじゃないか」

 哲夫がそう言うと、今日子は静かに左右に首を振った。

「私なんか……、私、美佐子さんにひどいこといったのよ」

 今日子はそこで一旦、言葉を切った。しばらく沈黙が流れた。哲夫も何も言わずにいた。

 やがて小さな声でこう言った。

「……あんたの子供が死ねばよかったのよって……」
 窓の外で、雷が光った。これはどこかに落ちるなと思った。

「それは……、あの瑠美のことかい?……そんなにこっちは子供を亡くしたんだ。そのぐらいのこといいたくなる。きっと、美佐子さんだってわかってくれているよ。それに本気でそんなことを今日子が思っているとは、向こうだって思ってないよ」

「……いいえ」
 今日子は哲夫がそれまで見たこともないような厳しい顔で言った。

「本気で言ったのよ」

 ガシャーンというどこかで雷が落ちた音がした。

「……そんな本気だったとしても、仕方がないじゃないか。それだけ俺たちは傷ついているんだ。逆の立場だったとしたら、向こうだってきっと今日子にそう言ったに違いないよ」

 そういうと、今日子は再び首を左右に振った。今度はより大きくゆっくりとした動作だった。

「美佐子さんは、決してそんなこと言わないわ」

「そんなこと……、人間弱い立場になれば、誰だってわからないじゃないか」

「ううん、美佐子さんは違う。あなたは、美佐子さんのこと良く知らないからそんなこと言うのよ」

 有無を言わせぬ迫力で今日子は言い切った。哲夫は何も言えなかった。

 外で再び雷が光った。しばらくたって、雷がどこかに落ちる音がした。今度はだいぶ遠くで落ちたようだった。

「……私、美佐子さんにまた会いたい。会って、ひどいこと言ってごめんなさいって謝りたい……。でも、どうやっ
て連絡とっていいのかわからない。電話帳に残ってた携帯に連絡したら、どうやら変えちゃったみたい。こっちの連絡先も全部変えて、引越ししちゃったから向こうから連絡が来るってことはないと思うし」

 そう言って、今日子は下を向いた。やがてすすり泣くような声が聞こえてきた。哲夫はいたたまれなくなり、今日子の手を握った。

「今日子……、わかった。一緒に美佐子さんに会いに行こう」

 その言葉を聞いた今日子の顔がパッと明るく輝いた。

「でも、その前に今日子がやるべきことは病気を治すことだ。まずは元気になって、そしたら、美佐子さんに会いに行って、一緒に謝ろう」

 哲夫がそう言うと、今日子は哲夫の手を強く握り返した。そして、大きく頷いた。

「うん、そうだね。わかった。私、頑張って病気を治す。絶対に元気になる」

 その笑顔を見て、哲夫は、今日子が本当に癌を完治して、すっかり元気になるのではないかと期待した。

 それから、しばらく今日子の様子は本当に良くなっているようだった。食欲も以前より増したように思えた。
 哲夫は今日子に目標ができたことで、精神的な面でプラスになったのだと思った。
 
 酒本美佐子の連絡先は、酒本広志の勤務先がわかっているので、すぐにわかるだろうと思った。
 
 しかし、ここで美佐子の連絡先を今日子に教えて、あの事を謝罪してしまったとしたら、すっきりしてしまい、生きる目標を失ってしまうのではないかと危惧した。
 
 これが間違いだったのだ。
 
 その後、今日子の容態が急変したのだった。職場にいる時に、病院から連絡が入り、一目散に駆けつけた。最近今日子の調子がいいように見えたのは線香花火が最後にパッと燃えあがり、消えていくそんなようなものだったのだと悟った。

 今日子は既に危篤状態になっていた。誠人の方にも連絡がいったようで、哲夫のすぐ後に来た。

「今日子……、今日子――!」
 哲夫は今日子に向かって必死に訴えかけた。今日子は、息も絶え絶えにこう言った。

「哲夫さんごめんなさい。私、約束守れなくて……」 

「いいんだ。謝らなくていいんだ」

「お母さん……」   
 誠人も泣きながら、今日子にすがりついた。 

「誠人……、お父さんのことよろしくね」

「お母さん、やだよ。死なないでよ」
 誠人は顔をぐしゃぐしゃにしている。9年前のあの事件のことが思い出された。

「ごめんね。哲夫さん、誠人と二人仲良く生きてね。こんな妻で、こんな母親でごめんなさい」

「いいから、もう謝らなくていい。君は立派な妻で、立派な母親だった」
「ありがとう……」

 今日子は目を閉じた。そして、その閉じた目から一筋の涙が流れた。

「……わ……たし……、美佐子さんに……謝り……たい」
 


「それが、今日子の最期の言葉でした……」

 美佐子は、ハッとした顔を哲夫に向けた。そんな……、それが最後の言葉だったなんて……そんな……。

「私は、間違っていたのです。あなたのことをすぐに捜して、今日子に会わせるべきでした。長年連れそった夫婦にも関わらず、今日子のことを何もわかっていなかったのです」

 哲夫は、下を向いたままそう言った。
 涙が滴り落ちている。明らかに泣いていた。
 
 そんなことになっているなんて……。美佐子は体の震えを止めることはできなかった。

「あの……お願いです。今日子さんと二人きりにさせてもらえませんか……?」

 そうお願いした。哲夫の痛々しい様子を見ていられなかった。

「わかりました……」

 そう言って一礼し、哲夫はその場を去った。哲夫が去るのを見届け、今日子の墓に向き直った。

「今日子さん……、久しぶり……」

 なんでこんな久しぶりなどと呑気な言葉が出てきたのだろう?
 美佐子は自分でも不思議だった。不謹慎だとは思うが、自嘲気味に笑みまでもが、でてしまった。

「今日子さん、私に会いたがってくれてたんだ。私も会いたかったよ。なんとか連絡取れれば良かったね」 

 世の中には、どんなに後悔しても戻らないものがある。
 頭の片隅でいつも理解していたつもりのことだが、いざ自分の身にそのことが降りかかると、心が張り裂けそうになり、叫びだしたくなるような衝動にかられる。

「今日子さん……、随分私のことをかってくれてたんだね。ありがとう。でも、それは買い被りだよ。私も謝りたかったんだ」

 美佐子は、もう一度周囲を見回した。哲夫はどうやら、どこか遠くに離れたようだ。姿がない。

「今日子さん……ごめんなさい……」

 そう謝った途端、まるで走馬灯のように今日子との思い出が蘇った。
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