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大切な貴女へ

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私のご主人。
一緒に暮らし始めてからしばらく私の前ではいつも笑顔でした。
学校からアルバイト先から帰って来ては、ご主人の部屋で寛いでいる私の姿を認めて嬉しそうに話しかけてきました。

「あの、あのね。 美味しそうなご飯を見つけたんだよ!  ネットで探して」

というか、ご主人は犬の私になぜか気を使ってばかりいました。
自分の卵かけご飯よりも何倍も値の張るドッグフードを差し出すご主人の意図が分かりませんでした。
ただ異常に動物が好きなことぐらいは分かっていました。
飽きずに何時間も私をモフるご主人は私よりも蕩けそうな表情をしていました。


けれどもある日に、なかなか入浴から出てこないご主人を不思議に思った私はアパートの脱衣場で小さく吠えてみました。

「あっ、もう少しで上がるから!」

ご主人の声は震えていたので、私は構わずに戸を押しました。

「……シンもお風呂に入りたいの?」

いや全然全く。
ふるふる首を横に振る私にご主人は笑いました。
よく見ると目が赤いし、肌の所々が真っ赤です。
ご主人が現実やネットでからかわれていたのは知ってましたので、またそんな類いが現れたのかと思いました。

「ね……ねえ、犬は鼻がいいよね、私はまだ臭いかな?」

(臭いといわれたのですか?)

私はご主人に問いました。

「じ、自分じゃ分かんないから。 私、気付かないうちに人に嫌な気分にさ、させてたのかな……?   でも、お母さんの育て方が悪いってのは、分かんない。 だって私のお母さんはもういないから」

(ご主人はご両親のことを言われるのを嫌いますから)

浴場の端をチラリと見るといつもの三個100円の石鹸ではなく新しいボディシャンプーが置いてありました。

「わ、私は……私のことなら、いいの。 でも、でもね……でもっ…!!」

スポンジを手に取ったご主人は再び赤い肌を擦り始めました。
柔らかい肌が傷付いていくことよりも、ご主人の噛み締めた形の良い唇が血で滲む方が私には許せませんでした。
それは純真な心を自分自身で黒く塗り潰していくように見えたのです。

(ご主人。 見誤ってはいけません。  貴女はこんなにも可憐な少女なのに。 気紛れな悪意になど相手にしてはなりません)

「シン?  あ、泡が」

ご主人はスポンジに噛み付いた私を慌てて自分の体から離しました。

「それは体に悪いものなの。 シンぺっしなさい。  ほら、ぺっ!」

(ご主人がそんな馬鹿なことをしないなら)

ご主人にはなぜだか私の言いたいことがぼんやりと伝わるようでした。
そして私がご主人の涙を見たのはそれが初めてでした。
ご主人は今にも崩れ落ちそうな表情をしていました。

「ぺってして……だって体を壊したら、病気になっちゃう……それって苦しくて痛いんだよ。 お父さんとお母さんは事故だったけど、きっとすごく痛かったんだよ」

(………)

「シンはダメだよ。 シンはどこにも行かないよね。 い、いかないよね、私を嫌わないよね、傍にいてくれるよね」

高校生の少女が一人っきりで生きていく。
それは辛く過酷なことですが世間とは何者にも厳しいものです。
私はご主人に語りかけました。

(……ご主人、私は自分の意思でここにいるのですよ)

「うっ、…ふぐ……っ」

(貴女は私の意思での飼い主なのです)

「っぅ…うっあぁ…ぅわぁあああっ」

(何だかんだいっても結局、私はご主人のような人間を放っておけないのです)

「わあああああん、うぁああ────……」

(だから私は傍におります)





そしてセイゲル様。
ご両親の保険金と偽り毎月援助をしていたのはセイゲル様でした。
私はその時はまだご主人と暮らしてはおらず、将来獣人の妻となるにめぼしい女性を軍のデータベースに登録していました。
出来るだけ人間世界にしらがみが少なく健康。 容姿、遺伝子に極端な欠陥がなく頭の良い女性がそのターゲットです。

「白いの。 そりゃまた偉い若いな。 両親が死んだのか……可哀想に」

ご主人の情報を登録している際にセイゲル様が私の後ろから画面を覗き込んできました。
将校になったばかりのその時のセイゲル様には何の思惑もなく。
のちに援助を申し出た理由を話してくれました。

「施設なんかじゃろくな教育を受けらんねえ。 俺の同僚がそうだったから分かるんだけど、あの子虐められてただろ?  年ごとに表情が不自然に明るくなってた。  両親以外といる顔は暗いのに。 こっちも軍なんて細かいやっかみは日常茶飯事だけどさ。  親に気を遣うようないい子の芽はつぶしたくねえんだ。 こっちの世界に来なくってもさ、向こうで頭のいい良い奴が増えるのは俺らのプラスになる」

何の気なしにセイゲル様はそんなことを言いました。

「でも何だコイツ。 可愛いな」

ハロウィンの仮装をしたご主人の画像をみてセイゲル様はふっと笑いました。
獣人を模したものでしょうか。 モサモサの毛を付けたシーツを頭から被った、まだ幼いご主人と亡きご両親の姿でした。

親切である反面、セイゲル様とはかなりおおらかというか…いえ、おおざっぱというか…いいえ。  寄付をした事実さえ忘れてしまう性格でした。


それでも二年も三年も経つうちに私はご主人と住み始め、いつの間にかセイゲル様もご主人のことを気に留めるようになっていました。

「や、なんかこの女、趣味おかしいだろ。  こないだお前からもらった画像、ほらエコノミーバッグとか作ってたやつ。  ライオンがウサギ抱っこしてる刺繍柄の。  俺、あれ思い出すたびに二週間は腹筋が辛くって」

ぎゃははとお腹を抱える、まだこちらも年若い獣人です。
後から改めて知ったことですが……そしてご主人にあえて口には出しませんでしたが、ご主人とは服飾のセンスがぶっちゃけ皆無です。
ちなみにのちに高校のスカート(制服)と商店街で購入したという激安トレーナー(水玉)の画像を見せた時のセイゲル様は悶絶していました。

それはともかく、私はご主人の現状を憂いていました。
早くに大人になることを強いられたご主人は、無鉄砲なほど旺盛過ぎる自立心を身に付けました。
結果、ともすれば異性にも平気で楯突くような、かなり面倒な女性に育ってしまったのです。

「……お気持ちは分かりますが。 私のご主人は弱い者が虐げられるのは大嫌いですから。 ついでに本格的に男性を嫌う前に少し異性に慣れさせる必要があるでしょう。  私は人間の男性をまずご主人にあてがう事に決めました」

するとセイゲル様はその顔から笑いを消しました。

「それは……嫌だな」

「嫌、というと?」

セイゲル様は何だか決まりの悪そうな表情をしました。

「知らん。 今気付いたんだから仕方ねえ」

ほう、これは。
私の脳内でお二人のカップリングが成立しました。
それからの私はご主人とセイゲル様の仲を取り持つために奔走することになります。





ハリス家はきっと、口喧嘩や笑いの絶えない家庭になるでしょう。


────琴乃様、もう私のために泣かないでください。

別れとは寂しさと悲しみを抱えるもの。
人は本能の飢えに耐えきれず手を伸ばします。
貴女が伸ばして握り返された手は大きな愛情に溢れていると私が保証しましょう。


新たな家族を得た大切な貴女に、私は祝福の言葉を贈ります。

さようなら。




[完]
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