楽園

たんぽぽ。

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楽園

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 埃っぽい床に敷かれた毛布に横たわるハナは、頭上のチンダル現象を興味深く眺めているような、何も見えていないような、不思議な表情をしていた。

「リョウちゃんのご両親は変わりない? 私が抜けて、人手は足りてるのかな」
 か細い声でハナは問う。
「……大丈夫」

 養魚場は臨時休業が続いているが、俺が行くことは二度とないから問題ない。ハナにとって、もはやリョウジが必要ないように。

 俺はハナの頭の隣に座り、壁に背をもたせかけた。買ってきたペットボトルの茶を差し出すが、ハナは首を横に振るだけだった。

「あの子、泣いてるかな」
「あの子?」
「リョウちゃんの前の彼女」
「泣いてなかった」

 リョウジの遺体が警察から自宅へ帰って来たのは、彼の死から一週間以上が経ってからだった。遅れて行われた近親者だけの葬儀に、無理言って俺は参列した。自分なりのケジメだ。

 葬儀の席でヒソヒソと交わされるのは失踪したきりになっているハナのことである。リョウジに横恋慕したハナが、可愛さ余って憎さ百倍で毒を盛ったという噂は山中を駆け巡っていた。

「今度は何して遊ぶ?」
 薄暗い中、ハナは微笑んでいる。
「何しようか」

 この頃、ハナの意識は過去と現在を頻繁に行き来する。食事も拒否するようになった。「リョウジ」の言うことなら何でも聞くはずだったのに。

 もう長くないだろう。ハナの死まで、俺の逮捕まで。

 山犬少年は毒の摂取から一ヶ月で死んだ。

「しりとりしよう」
「あぁ。しりとりの『り』から」
「じゃ、リョウジ」
 他の男の名で呼ばれるたび、俺の胸はちくりと痛む。

「自由」
「海」
「ミイラ」
「楽園」
「『ん』がついたからおしまい」

 ハナの髪をゆっくりとなでる。パサパサとした感触が悲しかった。
「ハナはここが好き?」
 日没後の沢のほとりでハナは、猛毒の果実を食べた少年は楽園を見たかもしれないと言った。
「リョウちゃんといられるならどこでも好き」
 ハナはうっとりと目を閉じた。


 ……なぁハナ、お前はあの時、草の名前も致死量も全て知っていたんだろ? 知った上で食べて、死ねないから絶望したんだろう?

 ハナの車がエンストした日、次の朝に彼女を職場まで送る約束をした。迎えに行った俺に、ハナは満面の笑みでこう言ったのだ。
「ユタカが来てくれるって言ってたけど、どうしたのリョウちゃん」
 ハナの母親が不思議そうな顔をするのを横目に、俺をリョウジだと思い込む彼女に俺は話を合わせた。
 そして、とりあえず本家の土蔵に向かったのだった。

 前日に見せたどこか釈然としない態度も気になって、俺はそれからもう一度あの斜面を訪れた。

 沢のほとりで見たものは、青い実のなる草である。夕闇の中で感じた不吉さを微塵も感じさせない、初夏の空気にふさわしい色の果実だった。

 狐につままれたような気分で、俺は同じ場所に同じ格好で座った。前の晩に投げた千切れた草が、木の枝に引っかかって揺れていた。

 あの時と異なる条件は二つ。ハナの不在と時刻だ。俺は騙された、赤い夕陽に染まることで、青い実は深い黒色に見えたのだ。

 やっぱりアイツは馬鹿だった。でも賭けに勝ったのだ。勝ったのに死ねなかった。

 絶望と混乱の中、俺を心配させまいと、とっさに「食べていない」などと嘘をついたに違いない。


 ハナは眠ってしまったようだ。腹に手を当てると、微かに上下するのを感じる。

 ポケットを探って、青い果実を数粒取り出す。手のひらに乗せて傾けると、採取から日が経っているのにもかかわらず、摘んだばかりの時の光沢そのままに転がった。
 死や殺意、嫉妬などという物騒な言葉とは無縁なようでいて、少なくとも四人の少年の生を奪った恐ろしい実。


 再び訪れた山の斜面で俺はひとつの仮説を立てた。

 ハナの家系は体質的に、この実の毒成分に対して耐性があるのではないか。
 俺に吐かされたことで、より作用は弱まったのではないか。

 あの草について調べたところ、毒の含まれる部位は確かに果実だ。症状の欄には「痙攣」「昏睡」「呼吸麻痺」などの不穏な単語と並び、「せん妄」とあった。

 ハナを迎えに行った時、彼女は母親とは普段通り会話をしていた。だが俺をリョウジと呼んだ。
 つまり、ハナには人間の男がリョウジに見えているのではないか?
 試しに後から様々な芸能人の画像を見せてみたところ、やはりハナは男性芸能人の時にだけ、全て「リョウジ」と答えた。

 ハナはおそらく、あの日の別れ際からずっと、せん妄状態にあるのだ。

 本来ならば症状が出るまで、毒の摂取から三十分から一時間ほど。

 養魚場は夕方の四時に閉まる。退勤は五時だと聞いている。五時丁度にそこを出たとして、県道のヘアピンカーブ先まで車で十分、車を降りて沢まで女の足で二十分としよう。
 この辺りの五月の日没の時間を調べるとだいたい七時。

 俺の推測が正しければ、俺が彼女を見つけるまでに、実を食べてから少なくとも一時間は経っていたことになる。

 ひとつ食べて何も起こらなければどうするか。俺ならもう一度試す。ハナが闇の中、俺の目を盗んでもうひと粒を飲んだとしても不思議ではない。

 俺は彼女が吐いた痕跡を確認した。慌てて飲み込んだのだろう、青い実はそのままの形で、剥き出しの土の上にひっそりと転がっていた。

 ハナは俺を恨んだろうか。


 遠くでパトカーのサイレンが鳴っている。

 気づけばハナは目を開けていた。

「ねぇ、ユタカは? 最近、全然会ってないけど」
 ハナの口から俺の名を聞くのはいつ以来だろう。熱いものが込み上げてきた。

「泣かないで、リョウちゃん。ユタカに何かあったの?」
「……風邪引いて寝てるだけだよ」
「そう……心配だね」
 また目を閉じる。

「ユタ坊のこと、ハナは怒ってる?」
「なんで? ユタカは何も悪くないよ」
 思わず俺は上を見た。
 埃の粒を照らす太陽光の筋は消滅しつつある。

「怒ってるのはユタカでしょ。リョウちゃん、ユタカの風邪治ったら、早く謝ってきなよ」
「……なんだっけ」
「忘れたの? イチゴ全部、食べちゃったこと」

 思い出した。
 まだ園児の頃、三人でリョウジの家の庭で遊んでいた時のこと。彼の母親が、苺を洗ったからおいでと呼んだ。
 しかし俺が手洗いに行っている間に、リョウジがあらかた食べ終わっていたのだ。苺は俺の好物である。

 俺たち二人は喧嘩をした。俺にとって一生に一度の、殴り合いの大喧嘩だった。

 あれからもう二十年が経つのか。

「大丈夫、ユタカ優しいから、きっと許してくれるよ」
「……そうだな」
 俺は頬をゴシゴシと擦った。
 殴り合って解決できればどれだけ良かっただろう。だがリョウジはもういない。

 サイレンの音は次第に近くなる。

「……次は何して遊ぶ?」
 ハナの声はほとんど消えそうに弱々しい。

「心中ごっこ」

 ハナも俺も、もう十分に夢を見た。

 ほら、と目の前に果実を近づける。窓からの微かな光は、その艶と青さをかろうじて映し出す。

 ハナは目を開いてそれを見た。
 途端に彼女は起き上がり、大声で叫んだ。

「大きいばあちゃんが言ってたよ、それ食べちゃダメだって!」
 これまでと一変して、ハナの目は爛々と光っている。

「ホントに死んじゃうよ!」
「大丈夫、これは偽物。俺が先に食べるから」

 リョウジは甘党だ。
 彼の家に届けたジャムサンドの中には、たっぷりと塗った苺ジャムに加え、潰したひと粒の果実を混ぜておいた。

 俺は青い果実をひとつ、口に入れた。咀嚼してごくりと飲み込む。
「意外と甘い」
 微笑みかけると、ハナも安心したように笑った。

「いつもみたいにして」

 ハナはまぶたを閉じた。俺は残り全ての実を口に含んだ。

 そしてぐちゃぐちゃに噛み潰し、ハナの口へと流し込んだ。
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