2 / 6
沢のほとり(一)
しおりを挟む
ガードレールに足を掛ける。
元は白色だったことが信じられないくらい苔と埃とにまみれたその上部には、四本のくっきりとした指の跡があった。俺は自分の指をそれにぴったりと合わせ、ガードレールの先へと体を投げ出した。
斜面を這い上る気の早い葛の蔓に足を取られかけたが、なんとか地面に両足をつく。
着地と同時に、長い年月をかけて降り積もった枯れ葉に足が滑った。斜面を少しばかり転げ落ちたところで、斜めに伸びる木に腕が引っかかり止まった。
面倒で何も羽織ってこなかったことを俺は後悔した。
今日のハナの様子は明らかに変だった。ぼんやりしていたし、注文を間違えたし、挙げ句の果てにお釣りを千円多く渡そうとした。
そしてさっき、彼女の車が曲がりくねった県道の路肩に停められているのを発見したのだった。車内は無人で、電話を何度かけても出ない。
ついに限界がきたか。
三十分もかかる山の麓のコンビニまで、切れた煙草を買いに行った帰り道。ヘアピンカーブの少し先に停められたパールホワイトの軽を見た時、今度は何事が起こったのかと胸騒ぎがした。
ハナの車のナンバーは「642」、語呂合わせで、「リョウジ」
アイツはずっと前から狂っている。
明らかに脈なしの男がいる家族経営の養魚場で働くなど、超ド級のマゾヒストなのか、気が狂っているかのどちらかとしか考えられない。
それとも、脈なしだということすら理解できないほど馬鹿なのか。どっちにしろ狂っている。
息を整えて体を起こす。日没の迫る斜面には、ひょろりとした樹木が疎らでもなく密でもなく生えている。その幹や枝を手がかりとして、俺は慎重に下ってゆく。
西向きの斜面を真正面から照らす日が、木々の間で薄赤く変わり出した時、はたと気付いた。
じゃあ俺は?
いつも視線をリョウジに向けているハナを見るためだけに、頻繁に養魚場を訪れる俺は?
暗くなりつつある山奥の斜面で、鳥肌の立った剥き出しの腕に傷を付けながら、いるかもわからない女を探している俺は?
ハナも俺も、長い長い一種の自傷行為の最中にいるのかもしれなかった。
勉強すればするほど上がる試験の点数と違い、どんなに努力しても他人の心は変えられない。
水の音が聞こえてきた。近くに沢があるらしかった。
やがて、こちらに背を向けて座る女の、枯れ葉を貼り付けた背中が梢の影に見え隠れした。
何をしているのだろう。しばし立ち止まり呼吸を整える。
近づいていくと枝の折れる音に女が振り向いた。ほつれた長い髪が肩で揺れた。
「ユタカじゃん、どうしたの?」
山の麓のコンビニで出くわした時のような口ぶり。
「こっちのセリフだろ」
俺もハナの右隣に体操座りした。
「何やってんだよ」
「エンストしちゃって」
「なんでエンストしたらここまで下りてくるんだよ」
晴れ渡った空は今まさに、これぞ赤、というべき赤色に染まっている。眼前を覆う樹々の葉を通してなお、その色は薄れずにハナの頬や、膝を抱える腕を染めていた。
「これ」
ハナの右手には草が握られていた。
「何?」
「ほら、この実」
ハナが差し出す草には、卵形の葉に隠れるようにしてポツポツと、小指の先よりも小さい果実が成っていた。夕陽を受け微かに艶めくそれは、深い黒色をしている。どこか不吉な色だった。
「座敷牢の話、覚えてる?」
「座敷牢?」
なんとなく虚ろな表情のハナの言葉にはやはり脈絡がない。
「三人で遭難ごっこしたじゃない?」
座敷牢とハナの持つ草との関連性を、やっと俺は思い出す。
ゾッとした。
「まさかお前……」
「食べてないよ、そんなバカじゃないって」
ハナは草ごと手を胸の前で振った。深い色の粒もヒラヒラ揺れる。
俺は長く息を吐いた。
「心配したんだぞ」
「……ごめん」
「どうすんの、それ」
ハナは答えず俯いた。
よく見ればハナの左側の、斜面にへばりつくように生えている数本の下生えは、全てその草らしかった。俺は目を逸らした。
空を覆う葉の向こう側は紫色に変わりつつある。
小二だった。まだ県道が通る前、ハナとリョウジと俺とで山の中を探検したことがある。三人で毎日のように遊んだ最後の年だった。
リュウジの髪がまだ真っ黒で、ハナは兄のお下がりの半ズボンを着ており、俺の身長が三人の中で一番低かった、あの頃。
しばしの沈黙が流れた。冷気と夜の匂いが満ちてくる。俺は腕をさすった。
「ここってあの時の沢なんだな」
「下って行ってホントに遭難したんだよね」
「アホみたいに怒られたよな」
「人生で一番バカな時期だった。でも人生で最高潮の時でもあった」
コイツ泣くかな。そう思って隣を見るが、濃くなる闇に輪郭が溶け込んで表情が良くわからない。
ただ、慈しむように果実を指でつまんでいるのがかろうじてわかった。
あの日、「遭難ごっこ」が本物の遭難になった後、俺達を探しに来た大人達に叱られている最中のことだった。
ハナが途中で見つけ、握りしめてきた草を見た彼女の曽祖母は血相を変えた。そして三人にそれを口にしていないかを確かめ、あの話をしたのだった。
彼女が子供の頃だと言うから、昭和初期の出来事ということになる。
俺達と同じように山の斜面で遊んでいた少年四人が、沢のそばで小さな実の成る草を見つけ、食べたらしい。「らしい」というのは、彼らのうち三人が泡を吹いて死に、残るひとりは発狂して話がとても通じない状態で見つかったからだ。
その果実に含まれるのは猛毒なのである。
生き残りの少年は確か、ハナの曽祖母の歳の近い叔父……か何かだったと思うが、よく覚えていない。
彼は自分が山犬だと思い込んでいたそうだ。土蔵を改造した座敷牢を四つ足で這い回り、夜になると遠吠えをする。そして徐々に衰弱した結果、一ヶ月後に息絶えたという。
その悲しげな遠吠えが耳にこびりついて離れないとハナの曽祖母は語り、辛そうに目をつむった。
元は白色だったことが信じられないくらい苔と埃とにまみれたその上部には、四本のくっきりとした指の跡があった。俺は自分の指をそれにぴったりと合わせ、ガードレールの先へと体を投げ出した。
斜面を這い上る気の早い葛の蔓に足を取られかけたが、なんとか地面に両足をつく。
着地と同時に、長い年月をかけて降り積もった枯れ葉に足が滑った。斜面を少しばかり転げ落ちたところで、斜めに伸びる木に腕が引っかかり止まった。
面倒で何も羽織ってこなかったことを俺は後悔した。
今日のハナの様子は明らかに変だった。ぼんやりしていたし、注文を間違えたし、挙げ句の果てにお釣りを千円多く渡そうとした。
そしてさっき、彼女の車が曲がりくねった県道の路肩に停められているのを発見したのだった。車内は無人で、電話を何度かけても出ない。
ついに限界がきたか。
三十分もかかる山の麓のコンビニまで、切れた煙草を買いに行った帰り道。ヘアピンカーブの少し先に停められたパールホワイトの軽を見た時、今度は何事が起こったのかと胸騒ぎがした。
ハナの車のナンバーは「642」、語呂合わせで、「リョウジ」
アイツはずっと前から狂っている。
明らかに脈なしの男がいる家族経営の養魚場で働くなど、超ド級のマゾヒストなのか、気が狂っているかのどちらかとしか考えられない。
それとも、脈なしだということすら理解できないほど馬鹿なのか。どっちにしろ狂っている。
息を整えて体を起こす。日没の迫る斜面には、ひょろりとした樹木が疎らでもなく密でもなく生えている。その幹や枝を手がかりとして、俺は慎重に下ってゆく。
西向きの斜面を真正面から照らす日が、木々の間で薄赤く変わり出した時、はたと気付いた。
じゃあ俺は?
いつも視線をリョウジに向けているハナを見るためだけに、頻繁に養魚場を訪れる俺は?
暗くなりつつある山奥の斜面で、鳥肌の立った剥き出しの腕に傷を付けながら、いるかもわからない女を探している俺は?
ハナも俺も、長い長い一種の自傷行為の最中にいるのかもしれなかった。
勉強すればするほど上がる試験の点数と違い、どんなに努力しても他人の心は変えられない。
水の音が聞こえてきた。近くに沢があるらしかった。
やがて、こちらに背を向けて座る女の、枯れ葉を貼り付けた背中が梢の影に見え隠れした。
何をしているのだろう。しばし立ち止まり呼吸を整える。
近づいていくと枝の折れる音に女が振り向いた。ほつれた長い髪が肩で揺れた。
「ユタカじゃん、どうしたの?」
山の麓のコンビニで出くわした時のような口ぶり。
「こっちのセリフだろ」
俺もハナの右隣に体操座りした。
「何やってんだよ」
「エンストしちゃって」
「なんでエンストしたらここまで下りてくるんだよ」
晴れ渡った空は今まさに、これぞ赤、というべき赤色に染まっている。眼前を覆う樹々の葉を通してなお、その色は薄れずにハナの頬や、膝を抱える腕を染めていた。
「これ」
ハナの右手には草が握られていた。
「何?」
「ほら、この実」
ハナが差し出す草には、卵形の葉に隠れるようにしてポツポツと、小指の先よりも小さい果実が成っていた。夕陽を受け微かに艶めくそれは、深い黒色をしている。どこか不吉な色だった。
「座敷牢の話、覚えてる?」
「座敷牢?」
なんとなく虚ろな表情のハナの言葉にはやはり脈絡がない。
「三人で遭難ごっこしたじゃない?」
座敷牢とハナの持つ草との関連性を、やっと俺は思い出す。
ゾッとした。
「まさかお前……」
「食べてないよ、そんなバカじゃないって」
ハナは草ごと手を胸の前で振った。深い色の粒もヒラヒラ揺れる。
俺は長く息を吐いた。
「心配したんだぞ」
「……ごめん」
「どうすんの、それ」
ハナは答えず俯いた。
よく見ればハナの左側の、斜面にへばりつくように生えている数本の下生えは、全てその草らしかった。俺は目を逸らした。
空を覆う葉の向こう側は紫色に変わりつつある。
小二だった。まだ県道が通る前、ハナとリョウジと俺とで山の中を探検したことがある。三人で毎日のように遊んだ最後の年だった。
リュウジの髪がまだ真っ黒で、ハナは兄のお下がりの半ズボンを着ており、俺の身長が三人の中で一番低かった、あの頃。
しばしの沈黙が流れた。冷気と夜の匂いが満ちてくる。俺は腕をさすった。
「ここってあの時の沢なんだな」
「下って行ってホントに遭難したんだよね」
「アホみたいに怒られたよな」
「人生で一番バカな時期だった。でも人生で最高潮の時でもあった」
コイツ泣くかな。そう思って隣を見るが、濃くなる闇に輪郭が溶け込んで表情が良くわからない。
ただ、慈しむように果実を指でつまんでいるのがかろうじてわかった。
あの日、「遭難ごっこ」が本物の遭難になった後、俺達を探しに来た大人達に叱られている最中のことだった。
ハナが途中で見つけ、握りしめてきた草を見た彼女の曽祖母は血相を変えた。そして三人にそれを口にしていないかを確かめ、あの話をしたのだった。
彼女が子供の頃だと言うから、昭和初期の出来事ということになる。
俺達と同じように山の斜面で遊んでいた少年四人が、沢のそばで小さな実の成る草を見つけ、食べたらしい。「らしい」というのは、彼らのうち三人が泡を吹いて死に、残るひとりは発狂して話がとても通じない状態で見つかったからだ。
その果実に含まれるのは猛毒なのである。
生き残りの少年は確か、ハナの曽祖母の歳の近い叔父……か何かだったと思うが、よく覚えていない。
彼は自分が山犬だと思い込んでいたそうだ。土蔵を改造した座敷牢を四つ足で這い回り、夜になると遠吠えをする。そして徐々に衰弱した結果、一ヶ月後に息絶えたという。
その悲しげな遠吠えが耳にこびりついて離れないとハナの曽祖母は語り、辛そうに目をつむった。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説

愛する貴方の心から消えた私は…
矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。
周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。
…彼は絶対に生きている。
そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。
だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。
「すまない、君を愛せない」
そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。
*設定はゆるいです。
思い出さなければ良かったのに
田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。
大事なことを忘れたまま。
*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。

地獄の業火に焚べるのは……
緑谷めい
恋愛
伯爵家令嬢アネットは、17歳の時に2つ年上のボルテール侯爵家の長男ジェルマンに嫁いだ。親の決めた政略結婚ではあったが、小さい頃から婚約者だった二人は仲の良い幼馴染だった。表面上は何の問題もなく穏やかな結婚生活が始まる――けれど、ジェルマンには秘密の愛人がいた。学生時代からの平民の恋人サラとの関係が続いていたのである。
やがてアネットは男女の双子を出産した。「ディオン」と名付けられた男児はジェルマンそっくりで、「マドレーヌ」と名付けられた女児はアネットによく似ていた。
※ 全5話完結予定

アルバートの屈辱
プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。
『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。

蔑ろにされた王妃と見限られた国王
奏千歌
恋愛
※最初に公開したプロット版はカクヨムで公開しています
国王陛下には愛する女性がいた。
彼女は陛下の初恋の相手で、陛下はずっと彼女を想い続けて、そして大切にしていた。
私は、そんな陛下と結婚した。
国と王家のために、私達は結婚しなければならなかったから、結婚すれば陛下も少しは変わるのではと期待していた。
でも結果は……私の理想を打ち砕くものだった。
そしてもう一つ。
私も陛下も知らないことがあった。
彼女のことを。彼女の正体を。

ある王国の王室の物語
朝山みどり
恋愛
平和が続くある王国の一室で婚約者破棄を宣言された少女がいた。カップを持ったまま下を向いて無言の彼女を国王夫妻、侯爵夫妻、王太子、異母妹がじっと見つめた。
顔をあげた彼女はカップを皿に置くと、レモンパイに手を伸ばすと皿に取った。
それから
「承知しました」とだけ言った。
ゆっくりレモンパイを食べるとお茶のおかわりを注ぐように侍女に合図をした。
それからバウンドケーキに手を伸ばした。
カクヨムで公開したものに手を入れたものです。

男と女の初夜
緑谷めい
恋愛
キクナー王国との戦にあっさり敗れたコヅクーエ王国。
終戦条約の約款により、コヅクーエ王国の王女クリスティーヌは、"高圧的で粗暴"という評判のキクナー王国の国王フェリクスに嫁ぐこととなった。
しかし、クリスティーヌもまた”傲慢で我が儘”と噂される王女であった――

私の大好きな彼氏はみんなに優しい
hayama_25
恋愛
柊先輩は私の自慢の彼氏だ。
柊先輩の好きなところは、誰にでも優しく出来るところ。
そして…
柊先輩の嫌いなところは、誰にでも優しくするところ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる