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「ちょっと相談なんだけど、連休中もっと出られない?」
出勤した俺の顔を見るなり、上司が言った。
「……俺もう結構シフト入ってますよね?」
やんわり断ったが、上司は手を合わせて俺にすり寄って来た。
「そこをなんとか! 誰も出たがらなくって困ってんのよ」
「いいですよ、全部出ても」
「本当?」
上司の顔がほころんだ。大型連休中のシフトの事で揉めているのは知っていたので、ある程度の予想は出来ていた。
「ただし条件があります。連休が終わったら退職させて下さい」
「えっ……何で?」
「一身上の都合です」
俺はそれだけ言うと上司に背中を向け、仕事の準備に取り掛かった。
退職日になった。昼食を取っていると、同僚の一人が話しかけてきた。
「今日までだろ、二人で飲みに行こうか。餞別代わりに奢るよ」
シフトを良く代わってやった貸しがあるからか、彼はそう提案してきた。
「行かない。お互いの時間が無駄になるだけだから」
吐き捨てるように答えると彼は目を丸くした。こんな時、皆が金太郎飴みたいに同じ顔をする。それまで従順だった俺が豹変したせいだろう。
翌日から隣の県の賃貸物件を探し、引っ越しの準備を始めた。荷造りは直ぐに終わった。元々物が少ないし、いずれ引っ越す前提で住んでいたからだ。
✳︎
自分以外の人間は信用出来ない。
最初にそう感じたのは小学五年生の時だ。その頃、俺はひどいいじめに遭っていた。
おそらく「暗いから」と言う理由だったと思う。俺が抵抗しない為かいじめは次第にヒートアップし、彼らにさらなる優越感を与えた。担任教師は当てにならなかったし、他の奴らも傍観を決め込んだ。
一番ショックだったのは親友までもが俺を無視した事だ。俺の心は深く傷付いた。
中学校に上がっていじめは無くなったが、クラスメイトとは努めて距離を置いて過ごした。人間が怖かったのだ。近づいても、また裏切られるかもしれない。
高校生活でも大学に進学してからも考えは変わらず、大抵の時間を一人きりで過ごした。
やがて大学を卒業し、俺は大手自動車メーカーの下請け会社に就職した。給与や福利厚生などの待遇に不満は無かったが、そこでもやはり信頼できる人間に出会う事はなかった。
出世するのは上司に気に入られる口の上手い奴らだ。例え仕事をサボって業務中にネットサーフィンしていても、雑談ばかりで仕事がとろくても、結局はおべっかが上手な奴が良い目を見る。真面目に働く方が馬鹿を見る。
他人を信用するなかれ。俺はますます孤立を深めていった。
入社して二年が経った時、両親が事故で死んだ。
突然の事で俺はうろたえ、遺体安置所では声をあげて泣いた。葬儀では喪主を務め、どうにかこうにか全てを終えた時には憔悴しきっていた。それでも忌引き休暇は容赦なく過ぎていった。
忌引き明けに出社すると、上司に気に入られ出世コースに乗った同僚が俺に言ったのだ。
「あんた、ちょっとしたボンボンなんだって? いくら相続したの」
この言葉で僕は退職を決めた。
彼の言う通り、ひとりっ子である俺はそれなりに高額な遺産を受け継いだ。平均寿命まで遊んで暮らすには足りないが、贅沢をしなければパートタイマーでもやっていける額だ。
退職後に俺は実家の中のほとんどの物を処分した。面倒な諸々の手続きを何とかこなし、受け継いだ土地と家を売り払い、ウィークリーマンションからハローワークに通い始めた。
そして寮完備の期間従業員の職を得て身一つで引っ越した。県境を五つも越える遠い土地だ。数少ない理解者であった両親はもういないのだから、生まれ故郷に縛られる必要など無い。
両親の死から既に一年が経っていた。
それからは期間従業員として自動車部品の組立をひたすらこなし、あっという間に契約期間は過ぎた。
次に見つけた職も別の会社の期間従業員だった。その次は郵便局、次は物流倉庫……嫌な事があると直ぐに職を辞し、二、三年ごとに保証人不要の物件を探し引っ越した。
多くの職場を見、様々な人間に出会った。
有休の取り方が滅茶苦茶な奴、ミスを人になすりつけ平然としている奴、陰口ばかりの奴、他人の手柄を盗む奴。いざこざの無い完璧な職場なんて一つも無い。妬み、嫉み、僻み……、皆何かしらの鬱屈を抱えているのだ。頻繁に顔を合わせていれば嫌でも分かる。俺はますます人間不信を募らせていった。
一方で、ギリギリ「友人」と呼べるような人物が出来る事もあった。友人と言ってもたまに飲みに行く程度の薄い薄い付き合いだが。
そいつらは転職と共にバッサリ切った。二度と会う事は無いのだ、どうだっていい。深入りしたってどうせ後悔するだけなのだ。
✳︎
彼女に出会ったのはそんな生活を続けて十年近くが過ぎた頃、ある本屋での事だった。俺は既に十二の職場で働き、五回の引っ越しを経験していた。面接に受かるため履歴書も捏造するようになっていた。
本屋の求人に応募した理由は、単に新しく越したアパートの近くだったから。それだけだ。
ここでの仕事には接客業務もある。接客はそれまで避けていた仕事だった。しかし社会に出て一応は一人でやっていけているし、何とかなると思った。嫌になればまた辞めれば良いのだから。
彼女と初めて話した時、他の奴らとは何かが違うと感じた。彼女との間に生じる沈黙さえ心地よかった。俺の視線は自然と彼女を追うようになった。
彼女は仕事を押し付けられても嫌な顔一つしないし、皆が嫌がる土日にも良く働いた。理不尽なクレーマーにも丁寧に対応した。陰口も言わないし、誰にでも笑顔で挨拶した。俺にさえもだ。
時々はにかんで見せる笑顔は道端にひっそりと咲くスミレの花みたいだった。
上手く説明出来ないが強いて言えば「波長が合った」のだと思う。理屈では無い。
この人となら上手くやれるんじゃないだろうか、そう思った。俺は仕事に行くのが楽しくなった。初めての事だ。
彼女の事をもっと知りたい。俺は彼女にアプローチを始めた。彼女は最初困ったように首を傾げるだけだったが、何度も聞くうちに電話番号とアドレスを教えてくれた。
彼女が消えたのは、食事に誘おうと評判の良いレストランについて調べた矢先だった。足取り軽く出勤すると、シフトに入っているはずの彼女の姿はなかった。店長に問うと彼は顔をしかめた。
「いきなり『もう辞めます』だって」
「え……何でですか?」
「さぁ? 何かが気に食わないんじゃないの? ま、やっぱりって感じだけど」
「やっぱりって……」
「彼女、今までも転職しまくってたっぽい。履歴書の職歴欄がボロボロだったし。人数に余裕ないから採ったけど」
仕事中にも関わらず俺は彼女にメールを送った。辞めた理由と、また会えないかを聞く為だ。
返事が届いたのは夕方の事だった。着信音を聞きスマホに飛び付いた俺は、メールを開いて絶句した。
『お前がウゼーから辞めたんだよキモ男が。二度とメールすんな』
彼女に電話をかけてみても、呼び出し音が虚しく鳴るだけだった。
俺は夜が明けるまでずっと、これまでの人生について考え続けていた。
出勤した俺の顔を見るなり、上司が言った。
「……俺もう結構シフト入ってますよね?」
やんわり断ったが、上司は手を合わせて俺にすり寄って来た。
「そこをなんとか! 誰も出たがらなくって困ってんのよ」
「いいですよ、全部出ても」
「本当?」
上司の顔がほころんだ。大型連休中のシフトの事で揉めているのは知っていたので、ある程度の予想は出来ていた。
「ただし条件があります。連休が終わったら退職させて下さい」
「えっ……何で?」
「一身上の都合です」
俺はそれだけ言うと上司に背中を向け、仕事の準備に取り掛かった。
退職日になった。昼食を取っていると、同僚の一人が話しかけてきた。
「今日までだろ、二人で飲みに行こうか。餞別代わりに奢るよ」
シフトを良く代わってやった貸しがあるからか、彼はそう提案してきた。
「行かない。お互いの時間が無駄になるだけだから」
吐き捨てるように答えると彼は目を丸くした。こんな時、皆が金太郎飴みたいに同じ顔をする。それまで従順だった俺が豹変したせいだろう。
翌日から隣の県の賃貸物件を探し、引っ越しの準備を始めた。荷造りは直ぐに終わった。元々物が少ないし、いずれ引っ越す前提で住んでいたからだ。
✳︎
自分以外の人間は信用出来ない。
最初にそう感じたのは小学五年生の時だ。その頃、俺はひどいいじめに遭っていた。
おそらく「暗いから」と言う理由だったと思う。俺が抵抗しない為かいじめは次第にヒートアップし、彼らにさらなる優越感を与えた。担任教師は当てにならなかったし、他の奴らも傍観を決め込んだ。
一番ショックだったのは親友までもが俺を無視した事だ。俺の心は深く傷付いた。
中学校に上がっていじめは無くなったが、クラスメイトとは努めて距離を置いて過ごした。人間が怖かったのだ。近づいても、また裏切られるかもしれない。
高校生活でも大学に進学してからも考えは変わらず、大抵の時間を一人きりで過ごした。
やがて大学を卒業し、俺は大手自動車メーカーの下請け会社に就職した。給与や福利厚生などの待遇に不満は無かったが、そこでもやはり信頼できる人間に出会う事はなかった。
出世するのは上司に気に入られる口の上手い奴らだ。例え仕事をサボって業務中にネットサーフィンしていても、雑談ばかりで仕事がとろくても、結局はおべっかが上手な奴が良い目を見る。真面目に働く方が馬鹿を見る。
他人を信用するなかれ。俺はますます孤立を深めていった。
入社して二年が経った時、両親が事故で死んだ。
突然の事で俺はうろたえ、遺体安置所では声をあげて泣いた。葬儀では喪主を務め、どうにかこうにか全てを終えた時には憔悴しきっていた。それでも忌引き休暇は容赦なく過ぎていった。
忌引き明けに出社すると、上司に気に入られ出世コースに乗った同僚が俺に言ったのだ。
「あんた、ちょっとしたボンボンなんだって? いくら相続したの」
この言葉で僕は退職を決めた。
彼の言う通り、ひとりっ子である俺はそれなりに高額な遺産を受け継いだ。平均寿命まで遊んで暮らすには足りないが、贅沢をしなければパートタイマーでもやっていける額だ。
退職後に俺は実家の中のほとんどの物を処分した。面倒な諸々の手続きを何とかこなし、受け継いだ土地と家を売り払い、ウィークリーマンションからハローワークに通い始めた。
そして寮完備の期間従業員の職を得て身一つで引っ越した。県境を五つも越える遠い土地だ。数少ない理解者であった両親はもういないのだから、生まれ故郷に縛られる必要など無い。
両親の死から既に一年が経っていた。
それからは期間従業員として自動車部品の組立をひたすらこなし、あっという間に契約期間は過ぎた。
次に見つけた職も別の会社の期間従業員だった。その次は郵便局、次は物流倉庫……嫌な事があると直ぐに職を辞し、二、三年ごとに保証人不要の物件を探し引っ越した。
多くの職場を見、様々な人間に出会った。
有休の取り方が滅茶苦茶な奴、ミスを人になすりつけ平然としている奴、陰口ばかりの奴、他人の手柄を盗む奴。いざこざの無い完璧な職場なんて一つも無い。妬み、嫉み、僻み……、皆何かしらの鬱屈を抱えているのだ。頻繁に顔を合わせていれば嫌でも分かる。俺はますます人間不信を募らせていった。
一方で、ギリギリ「友人」と呼べるような人物が出来る事もあった。友人と言ってもたまに飲みに行く程度の薄い薄い付き合いだが。
そいつらは転職と共にバッサリ切った。二度と会う事は無いのだ、どうだっていい。深入りしたってどうせ後悔するだけなのだ。
✳︎
彼女に出会ったのはそんな生活を続けて十年近くが過ぎた頃、ある本屋での事だった。俺は既に十二の職場で働き、五回の引っ越しを経験していた。面接に受かるため履歴書も捏造するようになっていた。
本屋の求人に応募した理由は、単に新しく越したアパートの近くだったから。それだけだ。
ここでの仕事には接客業務もある。接客はそれまで避けていた仕事だった。しかし社会に出て一応は一人でやっていけているし、何とかなると思った。嫌になればまた辞めれば良いのだから。
彼女と初めて話した時、他の奴らとは何かが違うと感じた。彼女との間に生じる沈黙さえ心地よかった。俺の視線は自然と彼女を追うようになった。
彼女は仕事を押し付けられても嫌な顔一つしないし、皆が嫌がる土日にも良く働いた。理不尽なクレーマーにも丁寧に対応した。陰口も言わないし、誰にでも笑顔で挨拶した。俺にさえもだ。
時々はにかんで見せる笑顔は道端にひっそりと咲くスミレの花みたいだった。
上手く説明出来ないが強いて言えば「波長が合った」のだと思う。理屈では無い。
この人となら上手くやれるんじゃないだろうか、そう思った。俺は仕事に行くのが楽しくなった。初めての事だ。
彼女の事をもっと知りたい。俺は彼女にアプローチを始めた。彼女は最初困ったように首を傾げるだけだったが、何度も聞くうちに電話番号とアドレスを教えてくれた。
彼女が消えたのは、食事に誘おうと評判の良いレストランについて調べた矢先だった。足取り軽く出勤すると、シフトに入っているはずの彼女の姿はなかった。店長に問うと彼は顔をしかめた。
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「え……何でですか?」
「さぁ? 何かが気に食わないんじゃないの? ま、やっぱりって感じだけど」
「やっぱりって……」
「彼女、今までも転職しまくってたっぽい。履歴書の職歴欄がボロボロだったし。人数に余裕ないから採ったけど」
仕事中にも関わらず俺は彼女にメールを送った。辞めた理由と、また会えないかを聞く為だ。
返事が届いたのは夕方の事だった。着信音を聞きスマホに飛び付いた俺は、メールを開いて絶句した。
『お前がウゼーから辞めたんだよキモ男が。二度とメールすんな』
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