あばずれアカネ

たんぽぽ。

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あばずれアカネ

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 土曜日のお昼過ぎ。

 わたしは家の近所の公園で一人、ブランコに座って本を読んでいる。ひじの内側にチェーンを食い込ませるようにして体を支えて、時々土をけって前後に揺れながら文字を追う。ブランコの後ろに生えたモクセイの木がいい具合に日陰を作ってくれている。ちょうど花盛りのモクセイからは、風が吹くと甘い香りがただよった。

 ブランコは揺らして遊ぶものだ。決して読書のための遊具じゃない。だから小さな子どもたちがやって来たら別の場所に移るつもりだ。でも今のところ誰も来ない。

 どうして外で読んでいるのかというと、家に居場所がないからだ。

 アパートのリビングではお父さんが野球中継を観ている。選手や監督の悪口を言いながら観るものだから、家にいるととても耳障りで不愉快なのだ。わたしの住むアパートは台所の他に部屋が二つしかなくて、しかもその二つともがとても狭いから、どこにいてもお父さんの文句が聞こえて読書に集中出来ない。お母さんは良く耐えられるものだと思う。お父さんは休みの日のほとんどをテレビに費やすから、わたしはたいてい外で過ごす。

 キリの良いところで、少し休憩しようと顔を上げた。

 公園の隅の申し訳程度の花壇にはコスモスやマリーゴールドがお行儀良く並んで風に揺れている。この公園はブランコとシーソーとすべり台しかない小さなものだけれど、手入れが良く行き届いていて雑草もあんまり生えていないし、きっとこの辺りの町内会は優秀なんだろう。

 ついこの間まであんなに騒がしかったセミ達もみんな地上での短い生を終えたのか、聞こえるのはか細いスズムシの声だけだ。公園は静かな住宅地の中にあるし、周りの道は狭くて車が通ることもめったにないから、澄んだ鳴き声は本当に気持ち良く響く。夜になるとこの何倍もの虫の合唱が公園に満ちるのだろう。

 ぐるぐると首を回すと、一緒に世界も回った。高い空にはどこまでも続くうろこ雲。

 今の季節は外で読書するのにうってつけだ。今の内にたくさん外で本を読もう。

 近い内に冬が来る。そうしたら少し遠いけど、市立図書館まで行かなければいけないのが面倒だ。

 首の運動を終えた時、狭い道の先から甲高い笑い声が聞こえた。三人くらいだろうか。こちらへ近づいて来るみたいだ。

 わたしは本にしおりを挟んで、モクセイの木の陰に隠れた。聞こえた声が茅野カヤノさん達のもののような気がしたからだ。

 わたしを見つけても意地悪はしないだろうけど、一人で公園で本を読んでた、暗いって後で皆んなでバカにするかもしれない。至近距離からのモクセイの香りは、茅野さんのハンドクリームの匂いを思い出させた。

 茅野さんはクラスで一番目立つ女子だ。休み時間になるといつもトイレで数人の取り巻きとリップをつけたりハンドクリームをぬり直したりしているので、すごくトイレに入りにくい。教室では男子達とユーチューバーの話で盛り上がったり、堂々とスマホを出して何かの動画を見たりしている。わたしは簡単ケータイさえ持っていない。みんな、何でそんなにお金持ちなんだろう。

 声が公園の前まで来た。こっそり目だけで観察すると、茅野さんとは全然違う女の子達だった。彼女たちは「マック行くー?」「またー?」とか言って笑いながら通り過ぎて行った。

 ホッとしてブランコに戻ると、少しの間に座る部分が冷えていた。

 はぁ。ため息が出る。来年はもう中学生だ。こんな調子でやっていけるのだろうか。

 わたしはクラスで浮いている。

 四年生から五年生に上がる時にクラス替えがあって、その時に唯一仲の良かった有村アリムラさんと離れてしまった。他に仲良くなれそうな子は全くいなかった。

 五年生の始業式の日、学校の玄関口に張り出された紙を見て、わたしはざわめきの中目を閉じて手を合わせた。

 わたしの小学校生活はこれにて終了いたしました。合掌。チーン。

 そして卒業前の二年間を孤独に過ごす覚悟を決めた。

 クラスでは、わたしの他にも常に一人の子がいる。でも彼、塩屋シオヤくんはなんと言うか……言い方は変だけれど堂々と孤立しているのだ。好きなことをやってのびのびと孤立しているのだ。

 例えばこの前の学級会で「クラスみんなでウーパールーパーを飼いましょう」と提案して却下されたり。その前は「今年のクラスレクはサバゲーをやりましょう」と発言してやっぱり却下されていた。それでも塩屋くんは全然応えていないみたいなのだ。

 彼がうらやましい。わたしは人の目が気になっていつもキョロキョロしてしまって、挙動不振だと自分でわかっているのにどうすることも出来ない。

 茅野さん似の声のおかげでわたしの読書タイムはすっかり台無しになってしまった。でもせっかく公園まで来たのだし、こんなに良い天気なのだ。絶対に読み終えてしまおうとひたすら読み進めていたら、いつの間にか本に没頭していた。

 もう少しで読み終わるという時、ぼんやりした黄色い物体が視界の端に出現した。反射的にそちらを向くと、公園出入り口の側の椿の木の前に女の人が一人いた。こちらからは顔は見えない。上下黄色のスーツに黄色いカバン、靴も黄色、髪の毛だけ濃い茶色。前にお父さんが見ていた国会中継にこんな感じの女の議員が映っていたっけ。あの時もお父さんはテレビに向ってボロクソにヤジを飛ばしていた。

 女の人は椿の木の方を向いたまま、しゃがんたり立ち上がったりしながら木の周りを一周した。何をしているんだろう。気になって読書に集中出来ない。いつの間にかスズムシの音色は消えていた。

 一周してしばらくすると、女の人はこっちにやって来た。他の人をジロジロ見たらいけないと小さい頃に教わったから、あわてて本を読むふりをして、今気づきました、という風にまた顔を上げてあいさつした。

「こんにちは」
「こんにちはー」
女の人は片手を上げて応えてくれた。人懐っこそうな笑顔だ。そしてカバンを土の上に放って、わたしの右側のブランコに座った。

 大人の女の人の年齢は良くわからないけど、お母さんよりはずっと若くて音楽のツジ先生よりも少し上に見えた。つまり三十歳くらいだろう。多分。

 話しかけられたら面倒だから、もう帰ってしまおうか。でも今腰を上げたら感じが悪いと思われてしまうかもしれない。頃合いを見て逃げよう。わたしはうつむいて本に視線を向けた。

「アタシはアカネ。あばずれアカネ」
すると突然女の人は、最初に名前を言ってその後にフルネームを言う、通常ではあり得ない漫画みたいな自己紹介をした。……いや、フルネームじゃないか、どう考えても。
「あなたは?」
あばずれアカネは前を向いたままわたしに尋ねた。
田辺タナベです」
「水くさいなぁ。下の名前だよ」
初対面でいきなり水くさいと言われてしまった。
「なぎさと言います」
「ふうん。いい名前だね。……今何時⁈」
あばずれアカネが急に大きな声を出したので、わたしはおどろいてしまった。
「……すみません、時計、持ってなくて……」
「大丈夫、シンドバッド繋がりで聞いてみただけだから」
「……」
何のことを言っているのか全然わからない。

 わたしはあばずれアカネに興味がわいた。なんとなく、塩屋くんと同じ匂いがするからだ。塩屋くんを女にして成長させたら、こんな具合になるのかもしれない。

「秋深き……」
あばずれアカネは黄色い上等そうな、ヒール付きの靴をはいた足をぶらぶらさせながらつぶやいた。そして、
「隣は何を! する人ぞ‼︎」
そう叫んでぐりんと90度首を回してこっちを見た。わたしはまたドキリとする。

「なぎさ何読んでんの?」
両親以外に下の名前で呼ばれるのは新鮮だ。学校のみんなはわたしを名字で呼ぶ。
「『かもめのジョナサン』です」
学校の図書室で借りたその本を少し閉じ、あばずれアカネに表紙を見せた。
「へぇ、ジョナサン・ジョーンズか。懐かしのゲームだね」
これも良くわからない。
「ジョーンズじゃなくて『ジョナサン・リヴィングストン』ですよ」
「知ってるよ。なぎさは頭が固いね。テキトーでいいんだよ、テキトーで」
あばずれアカネはゆっくりとブランコをこぎ出した。肩までの髪も元気に揺れている。

 そうなのかもしれない。もっとテキトーに人と会話ができれば、わたしは生きやすいのかもしれない。

 あばずれアカネはそれきり黙った。ただブランコに揺られている。なんだか沈黙が怖い。
「えと……あばずれさんは、お仕事の帰りなんですか?」
年上の人をいきなり下の名前で呼ぶのはちょっと失礼かなと思ったので、わたしはこう呼ぶしかなかった。
「アカネでいいよ。仕事の面接に行って来たんだ」
「面接ですか……」
面接というのは黄色いスーツで受けるものなんだろうか? 働いたことがないのでわからない。でもわたしが面接官だったらきっとおどろくと思う。

「こんなカッコの人間を受け入れてくれるような仕事場にしか興味ないもん」
わたしの視線から不信感を感じ取ったのか、あばずれアカネは笑ってはいるけど早口で言った。
「人生一度きり。嫌なことはしたくないでしょ。誰にも文句は言わせない」

 もしかして、気分を害してしまっただろうか。わたしは急いで話題を変えた。
「さっき木の所で何をしてたんですか?」
虫瘤むしこぶ探してたんだよ」
「ムシコブって、あれですか? 虫とかが寄生してできる……」
「そうそう! でも秋だからかな、見つからなかった」

 不意にあばずれアカネはこぐのを止めてブランコに足をかけた。ヒールだから見ていてヒヤヒヤしたけど、ブランコの上に上手に立っている。
「アカネの"ア"、は、『ありのまま』の"ア"~~!」
あばずれアカネは叫んだ。あばずれの"ア"じゃなくていいのだろうか。
「あのね、『アウトロー』とどっちにしようか、すっごく迷ったの」
あばずれアカネはここだけの話、という風に声をひそめる。周りには誰もいないのに。

「そうなんですね」
気の利いたことが言えなくて、わたしは申し訳なく思う。するとあばずれアカネはすかさず言った。
「そこは『あばずれの"ア"じゃないのかよ!』でしょ!」
「……すみません」
「謝ることないのに!」
あばずれアカネは高笑いする。

 あばずれアカネはひざを曲げてブランコをこぎ出した。大人がこんなに思いっきりこいでいるのを見るのは初めてだ。

 あばずれアカネがあんまり楽しそうだから、本をポケットにしまって、わたしも真似して立ちこぎしてみた。風が気持ちいい。
「アカネの"カ"は『可能性無限大』の"カ"~~‼︎」
ブランコが一番前まで来た瞬間に、あばずれアカネはまた叫んだ。声は住宅街に反響して、向かいに見える家の窓がピシャッと閉まった。嫌な感じだ。でもあばずれアカネは表情を変えない。

 そしてしばらくわたし達は無言でブランコを揺らした。もう沈黙も気まずくなかった。

「アタシ、そろそろ帰るね。アナちゃんの散歩に行かなきゃ」
あばずれアカネはブランコから降りてスーツのおしりをパンパンはたいた。
「飼ってる犬ですか?」
「イグアナだよ。かわいいよ。じゃあ、遊んでくれてありがとね」

 ハーネスを付けられたイグアナとそれを引く黄色いあばずれアカネの姿を思い浮かべたら、ほんの少しだけ名残惜しくなってきた。だから勇気を出して、言ってみた。
「アカネの"ネ"、はないのかよ!」
「うんうん、良くできました!」
あばずれアカネは満足そうに何度も首を縦に振った。それから彼女はカバンを拾い「そいじゃねー」と言って、ヒールの付いた靴で器用にスキップしながら去っていった。

 なんだかお腹がすいてきた。帰ってオヤツにしよう。食パンにイチゴジャムとマーガリンと練乳をぬった「なぎさスペシャル」を二枚食べよう。

「人生一度きり」
わたしはそうつぶやいて、あばずれアカネみたいにスキップしながら家へと急いだ。
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