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林に付きまとわれる前から、由衣子はとっくに限界を迎えていたのだ。

仕事に忙殺され、婚期を逃し、恋人も何年もいない、旅行にも行けない、そもそも休みが無い、2連休なんて夢のまた夢、実家にも帰れない、当直を週に2回、多い時は4回やって、当直明けも帰れず夜遅くまで立ちっぱなし、服薬指導の記録は深夜にやっと入力し、委員会を掛け持ちし、家でも結局徹夜で資料を作成し、経営陣からは点数点数とハッパをかけられ、不揃いで意味不明の持参薬を鑑別し、鳴り続ける電話で神経をすり減らし、注射薬調剤で体力を使い果たし、溜まっていく処方箋、終わらない棚卸し、基本給も安いまま、当直手当で稼いでいる様なもの、どう丁寧に対応しても看護師とは電話口でトラブルになり、医師は採用薬以外を今直ぐ使いたいと無茶を言い、患者は一瞬で薬を用意しろと窓口で怒鳴り、室長は全くやる気がなく、使えない先輩薬剤師のミスの尻拭いをし、後輩はちっとも仕事を覚えず、こんな朦朧とした頭だと調剤ミスで患者が死ぬんじゃ無いかとビクビクし、常に神経が尖っていた。

それでいて、どんなに真面目に頑張っても、世間では薬剤師はいらない、オワコンの職業、ただ座ってるだけなんでしょ、楽で良いよね、医者を気取るな、AIで充分、馬鹿でもできる底辺職、などとボロクソに言われるのだ。

もちろん別の意見もあるだろうし、誇りを持って仕事をしている同業者の方が圧倒的に多いだろう。

しかし由衣子の耳にはネガティヴな意見ばかりが、しかも誇張されて入ってきた。彼女は生来、物事を悪い方へ捉える傾向にあった。

今やすっかり疎遠となった大学の同期達の勤める調剤薬局や他院やドラッグストアや保健所は、ホワイトとまでは言えないが人間関係も悪くないらしく、同僚同士で旅行に行ったりしていると何年も前のクラス会で聞いていた。羨ましかった。

先月たまたまスーパーで会ったかつての友人によると、第三の結婚・第二の出産ラッシュが起きているらしい。そのかつての友人もベビーカーを押していた。完全に出遅れた、そう由衣子は思った。焦燥感が彼女を襲った。

余所はどうだか知らないが、少なくともうちの病院では薬剤師は最底辺だ、由衣子はそう感じていた。とにかく人権がないのだ。

由衣子の職場の激務の理由は簡単だ。どんどん人が減っているのに、反対に業務量は増えているからだ。由衣子の就職時には10人いた薬剤師は、今や4人にまで減っていた。

ハローワークに常に出ている求人は何かあるのだと警戒され避けられるし、狭い薬剤師界では噂はあっという間に広まる。何も知らない新卒が入る事もあったが、定着しない。ひどいのになると2日でバックれた。

薬剤室長は他部署から頼まれれば愛想良く何でも引き受けた。薬剤室には何を言っても良い、そんな空気が院内にはあった。結局やるのは部下だ。室長は肩書きが好きだった。病院の外でも彼は薬剤師会の仕事を率先して受け持っているらしい、ドヤ顔で話すから由衣子は知っている。一方で、知人に聞いた彼の噂はというと「口ばっかりの怠け者」との事だ。

まともな同僚たちはとっくに皆んな退職してしまっていた。そして変人ばかりが残った。「吉川さんも辞めたら? 病気になるよ」などと言われたが、室長に「君がいなきゃ回らない」と懇願されると出来なかった。

働き方改革がなんだ、どこの次元の話だろうか、ほとんどの時間を職場で過ごしながら由衣子は季節感も失い、たまの休みにはただボーッとベッドの上で過ごす。そんな日々が何年も続いていた。

そんな時、室長は言ったのだ。

「ねぇ吉川さん、学会発表してみない?」

この人は何を言っているのか、と由衣子は異国語を聞くような思いで聞いていた。彼は簡易懸濁法かんいけんだくほうがどうの、薬剤師会の理事の誰それがこう言ってて、だからそれをうちの病院も導入して、その結果をまとめて学会で発表してはどうか、などとしゃべり続けた。

さらに、うちでもそろそろ抗がん剤のミキシングを始めようかと思ってるんだよね、と別の話も切り出した。背後で電話が鳴り響いても、聞こえていないみたいにひたすらしゃべっていた。

――この状況で、まだ仕事を増やすのか‼︎

由衣子は最後にはもう何も聞こえなくなって、すぐ横の壁をドン! と叩いた。でもやっぱり何も聞こえなくて、このままここにいては自分はおかしくなってしまうと手洗いに駆け込んだ。そこでやっと音が戻ってきた。胃酸が上がってきて吐き、しばらくその場にうずくまっていた。昼食を摂っていないので胃の中は空っぽだった。

自分で選んだ職業であり、自分で選んだ職場だ、それは分かっている。もっときつい仕事だってごまんとあるだろう。でもせめて週一回は休みが欲しいし、朝日と共に起き、陽が沈んだら眠る生活をしてみたかった。

彼女を支えているのは責任感とプライドだけだ。自分が戻らないと仕事が終わらない、その一心で重い腰を上げ薬剤室に戻り、室長の顔は見ずに黙々と働いた。
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