運命のヒト

たんぽぽ。

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みたび水槽の部屋(完)

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 夏帆は部屋に上がるとまず、水槽のカクレクマノミの前にしゃがんで挨拶した。
「久しぶり、ニモ」

 オレンジ色の可愛らしい海水魚は「やぁご無沙汰」と、こちらに向かってヒレを動かしているように見えた。

「このクマノミさん達、夫婦ですか?」
「うん、ペアで買ったから。そろそろ卵産む頃かもな」
 夏帆は何故だか胸がドキドキした。

「先生の部屋に来るの、これで三回目ですね」
 夏帆は立ち上がり、感慨深く部屋の中を見回した。

 柊の部屋は、いくつもの段ボールが積み上げられているせいで雑然としている。中身が半分残された状態でクローゼットの扉は開け放たれ、床には段ボールの他に、たくさんの書類の束が紐で束ねられ置いてある。
 元々狭いのにますます狭くなった部屋の中、柊はここ数日寝起きしているらしい。

 が、今の二人には、部屋が窮屈でも問題ない。むしろ、狭ければ狭いほど都合が良かった。

「水槽はどうやって運ぶんですか?」
「それは業者に頼む」

 柊は夏帆の部屋に引っ越す予定なのである。柊を刺そうとした男の住んでいたアパートにそのまま居続けるのを、夏帆が嫌がったのだ。とりあえず一緒に住んでから、ゆっくり新しい部屋を探すつもりだ。

「ちょっと休憩」
 夏帆はまた水槽の前に座った。
「やっと二人きりになれた」
 柊も夏帆の横にあぐらをかく。

 夏帆は今朝退院して、柊のアパートに寄った。彼が引っ越す前になんとなく、柊が十二年間暮らし、二人が初めて肌を合わせた部屋を、記憶に留めておきたかった。

「あの日何もなかったら、本当にもう二度と会わないつもりだった?」
 柊が尋ねる。

「いえ、またどこかで会えるって信じてましたよ。なんてったって先生は私の、『運命の人』ですから」
 さらりと答える。そして柊の肩に頭を預けた。

「それでこそお前だよ」
 柊は笑った。

 柊に抱えられ、あぐらをかいた上に横向きに乗せられた。軽く抱擁される。

 目を閉じると、柊が夏帆の瞼をそっと撫でた。

「実にけしからん睫毛だ。一個人の人生を左右する、とんでもない睫毛だ。俺以外には見せるなよ」
「無理です」

 柊は夏帆のシャツの裾をたくし上げ、右脇腹の傷に手を這わせた。柊のしなやかで器用な指。
 久々の感覚に、夏帆の身体は熱くなる。

「傷、残っちゃったな」
「名誉の負傷です」
「まだ痛む?」
「激しい運動をしない限りは」
「激しくない運動ならいいってことか」
 夏帆はうなずく代わりに柊の背中に手を回した。

 柊が手のひらを徐々に上へと移動させる。下着の狭い隙間から胸のふくらみを直に触られたので、夏帆は吐息と共にわずかに首をのけ反らせた。
 それを合図に、
「移動しようか」
 柊が布団の方に視線を投げる。

 段ボールの山の中、布団だけがそのまま敷いてあるのを、夏帆は微笑ましく思う。

「隣は牢屋の中だからいくら叫んだっていいぞ。そっちは棺桶に首までつかった、耳の遠い爺さんだし」
 柊が右隣と左隣を指差して言う。
「先生のそういう、ブラックな陰湿さも含めて全部好き」

 二人は性急に服を脱がせあった。



 夏帆の上で、柊が揺れている。

 目を閉じて、苦しそうな気持ちよさそうな、でも真剣な表情だ。

 夏帆は痛みも忘れて見入った。

 ──先生のこんな顔を見られるのは私だけ。

 そう思うと、夏帆の気持ちはさらに昂った。手を伸ばし柊の頬を撫でる。

 長い前髪が身体と連動して揺れるのを見て、後で切ってあげようと思い付く。
 せっかく綺麗な目をしているのだから、全世界にもっとアピールすればいいのに、と。

 やがて柊は呻き、夏帆に覆い被さってきた。重みが心地良い。お互い背中に手を回し、固く抱き合う。

「身体、大丈夫?」
「平気です。……先生、夏帆って呼んで」
「……夏帆」

 夏帆は満足して微笑む。

「夏帆夏帆夏帆夏帆夏帆夏帆夏帆夏帆夏帆夏帆夏帆夏帆」
 荒い息と共に連呼された。

「呼び過ぎです」

 息が整った後、夏帆は柊の下から抜け出し、横から頭を包み込んで優しく髪を撫でた。

 こうすると柊が安心しきった顔になるのを知っているのだ。年上の男がふと見せる意外な表情は、夏帆の母性本能を十二分に刺激した。

 柊も横を向き、夏帆の胸に舌を這わせる。夏帆は吐息を漏らし、さらに強く柊の頭を抱いた。左足の先を、柊の足の間に入れる。

「そう言えば海綿体と海綿って名前似てますね。何か関係あるんですか?」
「ぶりっ子め」
 柊が夏帆の、傷のない方の脇腹をくすぐる。
「くすぐったいです」
 夏帆は身を捩らせた。

 それから二人はしばらく、無言で絡み合っていた。

「夏帆……」
 柊が再び夏帆の足の間に入り込んできた。何度も睫毛に口付けされる。

「ちょっと待ってください。水飲んできます」
 さっきから熱くて熱くてたまらない。

「五秒で戻ってこい」
「無理です」
 夏帆はタオルケットを身体に巻き付けて立ち上がる。

 光の速さで段ボールの山を縫って進む。冷蔵庫を開け、ペットボトルの水を勝手にラッパ飲みした。

「あと二秒」
 カウントダウンが始まった。

 十三年も追い求めた「運命の人」に、こんなにも求められているのだ。

 夏帆は幸福な気持ちで、再び段ボールを飛び越える。そしてその勢いのまま、柊の待つ布団にダイブした。

 タオルケットがはだけた身体を、柊が受け止める。
「ナーイスキャッチ!」
 二人は同時に言って抱き合い、もはや何度目かわからないキスをした。



 *



 太陽が高く昇り、差し込む光の線が短くなっても、段ボールの山の狭間に敷かれた布団の上に二人はいた。

 柊が肘枕をして横になった隣に、夏帆は仰向けに寝転がって、スマホの画面に夢中になっている。

 柊は夏帆の真剣な横顔を見つめた。

「さっきから何見てんの」
「壮大な計画を立ててるんです。先生、今日は私達の初デートですよ」

 そう言えば夏帆とは短くない付き合いだが、二人きりできちんとした食事を取ったことすらない。海に行った時、軽トラックの車内でコンビニのおにぎりを頬張ったくらいだ。
 柊は改めて、夏帆のことを雑に扱ってきたことを反省した。

「お昼はアーケードまで遠征します。ガッツリと丼物でいきましょう。サーモンとイクラとウニの大量に乗った、背徳的な海鮮丼が待ってます」
「初デートで丼物とは確かに壮大だな」

「病院のご飯で健康的になりすぎました。高カロリー食で明日の仕事復帰に備えます。食べ終えたらデザート目指して速やかに電車で移動します」
「デザートもアーケードで良くないか?」
「先生と巨大パフェを制覇したいんです」

 夏帆はスマホの画面を柊に見せた。そこにはカラフルなフルーツやチョコレートのゴテゴテと乗った、巨大なパフェが映っている。

 九割くらいの処理は夏帆に任せよう、と柊は決めた。

「その後は?」
「食べた後で考えます。空腹で頭が働きません!」
「壮大というか、ぞんざいな計画だな」

 夏帆は仰向けから横向きに体勢を変えた。スマホ画面を懸命にスクロールしている。
「十二時三十二分のバスが一番早いですよ」

 柊はキュロットスカートの裾から覗く夏帆の太腿を凝視した。

 柊の視線に気付き、夏帆はニッコリ微笑む。
「やっぱり前髪、短い方が似合います!」

 さっき夏帆の切った柊の前髪は、鏡で見ると左右で長さが違ったり、所々で唐突に数本の毛が飛び出ていたりと不揃いだったが、夏帆によるとそれは「ご愛嬌」というものらしい。

「さ、行きましょうか。先生、私達の冒険は始まったばかりですよ!」
「序盤から打ち切られてどうする」

 柊は起きあがろうとする夏帆にのしかかり、抱きしめた。鼻先を胸にうずめる。

「全くお盛んですなぁ」
「それは第三者が言うセリフだろ」

 腰の線をなぞる。上から覗き込むと、早くも夏帆はとろんとした目つきになっている。

 柊の頭の中では、一回くらいならギリ間に合うだろ、と時間の計算がなされている。

「先生、バスに遅れちゃ──」

 夏帆の発言を、柊は唇で強制終了させた。



 結局この日、二人は十二時三十二分のバスに乗り遅れ、背徳的な海鮮丼にはありつけず、巨大パフェにも挑戦しなかった。

 部屋でやるべきことがたくさんあって、それどころじゃなかったからだ。

 一体何をしていたかというと、それは二人だけの秘密──
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