運命のヒト

たんぽぽ。

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運命の人(彼)

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 夏帆は家に帰ってからも、何も手に付かなかった。

 意味もなく狭い自室を行ったり来たりする。

 夏休みで帰省中の弟に「徘徊するなら外でやって」とドア越しに言われ、やっとベッドに倒れ込んだ。 

 肩に添えられた彼の手の感触、噛みついた指の潮の味。

 夏帆は指を口に含む。

 それから右の腰の突き出た骨のあたりをさすった。昼間、柊に何度も触れられた場所だ。
 下着の中に手を差し入れ、柊の手を思いながら、そこを繰り返し繰り返しまさぐった。

 身体は未だ、熱を帯びている。夏帆は自分を抱きしめた。

 ぐちゃぐちゃにしてほしかった。あのまま服を引き裂かれ、白昼の海辺で、十歳も年上の大人の男にぐちゃぐちゃにされてしまいたかった。

 しばらくして夏帆は立ち上がる。クローゼットを開け、衣装ケースの奥から一枚のタオルを取り出した。

 ジッパー付きのポリ袋に乾燥剤や防虫剤と共に入れられた、夏帆の宝物。
「笹尾技研工業株式会社 祝! 20周年記念」と黒文字で書かれた、白地のシンプルなタオルである。

 袋からタオルを取り出し頬に当てる。防虫剤の香りが鼻をくすぐった。

 そして至近距離で見つめた彼の真剣な眼差しや、押し倒された時に背中に感じた焼けた砂の熱を思い返す。

 夏帆の心はおのずと遠い夏へと飛んだ。



 ──約十二年前。

 夏帆の一家は小さな町に住んでいた。

 大半の地域に田畑が広がり、北と東に山が迫る、唯一の特徴と言えば中心部に車の部品を製造する大きな工場があるだけの、そんな町だ。

 町の人間は主に農家か、公務員か病院関係者か、その工場の従業員。
 ご多分に漏れず、夏帆の父親も工場のエンジニアだった。

 その年の夏休みのある日、小学四年生の夏帆は弟と駄菓子を買いにスーパーへ向かった。
 早い昼食を食べた後で、空にはカンカンと日が照っていた。

 途中、ネットカフェへと続く小さな交差点を横断中、夏帆は左折してきた車にはねられた。車はほとんど速度を落としていなかったから、体の右側に凄まじい衝撃を受けた。

 少し後ろで決定的瞬間を目撃した夏帆の年子の弟によると、「ゴム毬みたいにポーンと飛んだ。人間ってあんな風に飛ぶもんなんだね」とのことだった。

 そして、対向車線で信号待ちをしていた車のフロントガラスにぶち当たり落下。

 弟曰く「絶対死んだと思った」。

 後から聞いた話によれば、事故直後に若い男がすぐさま夏帆に駆け寄り、まずは強い衝撃によって骨折し出血する右腕に布を巻いたという。
 姉の悲劇をつぶさに見ていた弟によると、「右の腕はぐちゃぐちゃになって骨が見えてた」らしい。

 それから男は夏帆の胸の中心に手を重ねて強く圧迫した。続けて人工呼吸を行い、その二つを何度か繰り返した後、AEDが届いたので電気ショックを流した。
「周りに人がたくさん集まって、前にお祭りの射的でプラモデルを当てた時みたいだったよ」と、夏帆の弟はその時の様子を後に表現する。

 結果、夏帆は蘇生する。

 救急搬送された先の病院の医師の話では、初期対応がなければ百パーセント命はなかった、ということだった。

 退院後、夏帆と家族は救命処置を行なった男を探した。だが何故か男は救急車の到着直前に、忽然と姿を消していた。

 一部始終を冷静に観察していた弟によると、その男は「ヒーラギって名前みたい」とのこと。

「ヒーラギじゃん」
「すげーなヒーラギ」
「妹さん助かるといいな」
 現場で彼の知人とおぼしき二人組がそんな会話を交わしていたらしい。

 弟にサイコパスのがあることに、夏帆は初めて感謝した。

 ちなみに彼は「あれは兄妹ではなく、まったくの他人です」と丁寧に訂正したそうだ。

「柊」という名前がいくら珍しくても、その情報だけでは捜索は難航しただろう。
 だが夏帆の腕に巻かれていたタオルには、「笹尾技研工業株式会社 祝! 20周年記念」とあった。笹尾技研は夏帆の父親の勤める会社でもある。

 父親は人事担当者に訳を話して、工場内に「柊」という人間がいないか調べてもらった。人事担当者はそういうことならば、と名簿にひとりだけ乗っていた柊氏の情報を父に渡す。

 彼の名は柊史郎、二十歳。

 しかしわかったところで、期間従業員である彼は既に契約期間を満了し工場を去った後だったため、直接会うことはできずに終わる。

 さらに、人事担当者に教えてもらった電話番号は通じず、彼の住所宛に出した手紙は宛先不明で返送されてきた。

 この時点で柊氏と繋がる線は途切れたかのように思えた。

 しかし夏帆の頭には、彼の声がしっかりと刻み込まれていた。

 あの事故の直後、夏帆の意識はいったん途切れ、数分の空白の後、音だけが蘇った。

 研ぎ澄まされた聴覚が捕らえたのは、連呼される励ましの声だった。

 ──大丈夫、きっと大丈夫、がんばれ、がんばれ……

 あんなに必死な声色を、夏帆は他に知らない。左手を固く握りしめられ、夏帆は不思議と、声の通り自分は大丈夫なのだと信じた。

 その声を、何度頭の中に再現したことだろう。その声が、どれだけ助けてくれただろう。
 つらい時悲しい時苦しい時、死にかけた音だけの世界に響いた声を、幾度も幾度も頭の中に再生し乗り越えてきた。


 声と再会したのは事故から五年が経過した時で、夏帆は十五歳になっていた。

 父親が県外の別の工場へと転勤したため、事故現場から一千キロ以上も離れた土地に、夏帆達家族は引っ越していた。

 高校受験を控えた夏帆が塾の夏期講習の帰り道、電車待ちで訪れた公園のベンチに、不意にその声は降ってきた。

 ──大丈夫、きっと大丈夫……

 最初、幻聴かと思った。

 瀕死の夏帆を励まし、それ以来ずっとお守りのように、夏帆を守ってきた声。

 ──……あの声だ。

 今まさにチーズ蒸しパンを食べようとしていた手が止まった。

 それは五年前の夏のように切羽詰まった響きはなく、優しく語りかけるような声色だったが、繰り返し頭の中に再現してきた夏帆にはわかった。

 振り返って見上げると、ベンチの置かれた後ろ、小さな遊歩道に斜め上に張り出す太い木の枝に、若い男がひとり乗っていた。

 細長い足を折り曲げ、左手で枝を掴んでバランスを取り、右手を前方に差し伸べている。その先には猫がいた。二股に分かれた枝に挟まるようにして、猫は丸い目で男の方を見つめている。
 男は猫を腕の中に納め、芝の上へと降り立った。

 その瞬間、ふわりと浮いた癖のある長めの前髪から覗く瞳を、一・五の視力を持つ夏帆の目はとらえた。

 ──綺麗な目。

 一瞬の映像を夏帆は脳裏に焼き付けた。

 猫を地上に放った男はすぐに背を向けて歩いてゆく。
 夏帆は電車の時間を忘れて彼を追いかけ、その姿が幻影でないことを確かめた。

 ──確かにあの人は、私の目の前に存在する。

 やがて彼は近くの大学の門をくぐった。さらに追うと、「水産学部」と書かれた建物の中に消えてしまう。

 帰宅した夏帆は父親のパソコンで「柊史郎」と検索してみた。これまで何度かやってみたことだが、彼らしき情報が表示されたのは初めてだった。

 ヒットしたのはその日彼を追って訪れた大学の水産学部の、ある研究室のホームページ。そこにはこうあった。

『博士前期課程1年 柊史郎』

 この瞬間、夏帆の進路は決定した。


 見知らぬ少女に胸骨圧迫と、人工呼吸までもを施し、この世に蘇生させてくれた人。

 その彼が事故の現場から一千キロも離れた地、夏帆の家から電車で四駅の場所にいて、再び夏帆の頭上にあの言葉を降らせた。

 この事実は十五歳の少女に、男を「運命の人」と認識させるに十分な出来事だった。

 彼女にとって、恋はするものでも落ちるものでもなく、意思にかかわらず暴力的なまでの、かつ超常的な力によって、視覚及び聴覚に叩きつけられた事実だった。

「運命の人」にさりげなく近づき、いつか彼と結ばれたい。

 以来、夏帆は声の他に、彼の綺麗な瞳をたびたび頭に描く。そしてその目に見つめられる空想をして、日々を過ごすようになった。

 夏帆の目下の目標は、柊との正式な交際にこぎつけた暁に、「あの時助けていただいたJS女子小学生です」と言って、タオルを差し出すことである。
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