運命のヒト

たんぽぽ。

文字の大きさ
上 下
4 / 14

水槽の部屋

しおりを挟む
 ブーンという低い音がして、夏帆は一瞬、研究室で寝てしまったのかと思った。

 天井に淡い影が伸びている。締め切ったカーテンの隙間からは闇が覗く。

 夏帆は僅かに痛む頭を押さえてから、布団の上に起き上がった。

 影の主は、こちらに背を向けて胡座をかいて座っている。その向こう、壁に沿って複数の水槽が並び、部屋全体に人工的な光を放っている。

 柊の部屋に来たのだ、と気づく。

 布団が直に敷かれたフローリングの部屋は狭く、彼との距離は近かったが、その背中にはどこか話しかけづらい雰囲気があった。

 研究室の実験台に頬杖をついて物思いにふける柊の後ろ姿を、夏帆はふと思い出す。

 影がゆらりと揺れた。

「勘違いすんなよ。酔っ払いを放置して死なせたら、保護責任者遺棄致死罪に問われるんだ」

 逆光の中、柊がこちらを振り返る。

「すみません……」

 夏帆は昨晩、濡れた服を脱いでシャワーを浴びた後、柊の服を借りていた。
「憧れの彼シャツ!」などとはしゃいだ記憶が微かにある。
 だが今の二人の間に、甘い空気は微塵もない。

 柊は床に直接缶ビールを置き、水槽を眺めながら飲んでいるようだった。

「ニモだ!」
 夏帆は努めて明るい声を出した。這って柊の隣にぺたんと座る。低い棚に設置された水槽が間近に迫る。

 一番窓際の水槽にはカクレクマノミが二匹泳いでいた。青い光を浴びた彼らは、ヒレをゆらゆら動かしながら、イソギンチャクの間を行ったり来たりしている。

「そっちの二つが海水、他は淡水」
 柊がぼそりと言う。

 計五つの水槽は全て小型のものだったが、こまめに手入れされているらしく水は澄んでいた。

 カクレクマノミやイソギンチャクの他に、ヤドカリや小さなエビ、カラフルな熱帯魚などが、光に照らされ夏帆の目の前を行き来する。

 しばらくどちらも黙ったままだった。

 柊は時々ビールを口に運び、夏帆は水槽の中に蠢く生き物達や、エアレーションにより気泡がぷくぷく湧き上がるのをただ眺めている。

「先生は一人暮らし長いんですか?」
 先に沈黙を破ったのは夏帆だった。

「……初めては小五の時だな」
「えっ」
 飲んでいるとは言え、そんな冗談を言うような人ではない。

「途中で夏休みに入ったからさ、全く誰にも会わないんだよ。家のが帰ってくるかもって、何回も何回も外に出て確かめて、でも誰も来ないから、仕方なくスーパー行って飯買って帰って、テレビ観ながら食べて。でもそのうち電気が止まって、音のない空間でひとりで食べた。真っ暗闇の中で寝て、また起きて、食べて寝て、待って待って、それでも誰も来なくて、それで……」

 柊はいったん言葉を切った。

「人生で一番長い夏だった」

「……すみません」
「なんで謝るんだよ」

 また沈黙。

 二匹のカクレクマノミは今、トンネル状になった岩の下に身を潜めるように静止している。

「あっ」
 柊が声を上げた。夏帆は思わず首を横に向けて柊を見た。彼は目の前の水槽、カクレクマノミの二つ隣の水槽を見つめている。

「ほらここ」
 透明で小さなエビの這う水槽の端を、柊は指差した。夏帆はそこに顔を近づける。長さ数ミリの白いものが、ガラス面にへばりついていた。

「……何ですか、これ」
 夏帆は遠慮がちに聞いた。
「プラナリア」
「切ったら増える、漫画みたいな顔のヤツですよね?」
「あぁ。たまに湧くんだ」
 よく見るとその近くにも二匹いた。
「思ってたより小さい……」
 夏帆はそれが伸び縮みする様に見入った。

 確か、中学か高校の教科書に出ていた。プラナリアは脅威の再生能力を持ち、百ヶ所以上を切り刻んでも百以上に分裂・再生するという。

「切っても再生するってことは、不老不死なんですか?」
 夏帆が聞くと、
「いや、潰すと死ぬから違うけど、まぁ限りなく不老不死に近い存在なんだろうな」
 ゴクリとビールを飲む。

「コイツら、半分に切断して頭を失っても、記憶が無くならないらしい」
「へぇ……」
 プラナリアは縮んで伸びて、水草の影に隠れた。

「……地獄だな」
 柊は立ち上がった。玄関のそばに置いてあるごちゃごちゃしたカゴから、小さな銀色の袋を取り出し、また座る。

 柊は小さなスプーンで、袋の中の粉末を計っている。研究室で実験器具を扱う時のような、自然な手付き。

「すぐ楽にしてやるよ」
 そして間をおかず粉末を水槽に投じた。粉は水中に、白い煙のように広がってゆく。

 光に照らされた柊の横顔は、恍惚としているような悲しいような、初めて見せる表情だった。

 見てはいけないものを見ている気がするのに、夏帆はその怪しい横顔から目を逸らせない。

「お前もうひとりで歩けるだろ。途中まで送るから帰れ」
「……はい」
 素直に従うしかなかった。

 柊のシャツを自分の生乾きの服に替え、部屋を出た。
 柊は大通りまで夏帆を送り、タクシーをとめてくれた。

 ひとつの傘を二人でさしたが、二人共、ほとんど無言だった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

副社長と出張旅行~好きな人にマーキングされた日~【R18】

日下奈緒
恋愛
福住里佳子は、大手企業の副社長の秘書をしている。 いつも紳士の副社長・新田疾風(ハヤテ)の元、好きな気持ちを育てる里佳子だが。 ある日、出張旅行の同行を求められ、ドキドキ。

不埒な一級建築士と一夜を過ごしたら、溺愛が待っていました

入海月子
恋愛
有本瑞希 仕事に燃える設計士 27歳 × 黒瀬諒 飄々として軽い一級建築士 35歳 女たらしと嫌厭していた黒瀬と一緒に働くことになった瑞希。 彼の言動は軽いけど、腕は確かで、真摯な仕事ぶりに惹かれていく。 ある日、同僚のミスが発覚して――。

お前を必ず落として見せる~俺様御曹司の執着愛

ラヴ KAZU
恋愛
まどかは同棲中の彼の浮気現場を目撃し、雨の中社長である龍斗にマンションへ誘われる。女の魅力を「試してみるか」そう言われて一夜を共にする。龍斗に頼らない妊娠したまどかに対して、契約結婚を申し出る。ある日龍斗に思いを寄せる義妹真凜は、まどかの存在を疎ましく思い、階段から突き落とす。流産と怪我で入院を余儀なくされたまどかは龍斗の側にはいられないと姿を消す。そこへ元彼の新が見違えた姿で現れる。果たして……

10のベッドシーン【R18】

日下奈緒
恋愛
男女の数だけベッドシーンがある。 この短編集は、ベッドシーンだけ切り取ったラブストーリーです。

私を溺愛してくれたのは同期の御曹司でした

日下奈緒
恋愛
課長としてキャリアを積む恭香。 若い恋人とラブラブだったが、その恋人に捨てられた。 40歳までには結婚したい! 婚活を決意した恭香を口説き始めたのは、同期で仲のいい柊真だった。 今更あいつに口説かれても……

ヤクザの若頭は、年の離れた婚約者が可愛くて仕方がない

絹乃
恋愛
ヤクザの若頭の花隈(はなくま)には、婚約者がいる。十七歳下の少女で組長の一人娘である月葉(つきは)だ。保護者代わりの花隈は月葉のことをとても可愛がっているが、もちろん恋ではない。強面ヤクザと年の離れたお嬢さまの、恋に発展する前の、もどかしくドキドキするお話。

鬼上官と、深夜のオフィス

99
恋愛
「このままでは女としての潤いがないまま、生涯を終えてしまうのではないか。」 間もなく30歳となる私は、そんな焦燥感に駆られて婚活アプリを使ってデートの約束を取り付けた。 けれどある日の残業中、アプリを操作しているところを会社の同僚の「鬼上官」こと佐久間君に見られてしまい……? 「婚活アプリで相手を探すくらいだったら、俺を相手にすりゃいい話じゃないですか。」 鬼上官な同僚に翻弄される、深夜のオフィスでの出来事。 ※性的な事柄をモチーフとしていますが その描写は薄いです。

処理中です...