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水槽の部屋
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ブーンという低い音がして、夏帆は一瞬、研究室で寝てしまったのかと思った。
天井に淡い影が伸びている。締め切ったカーテンの隙間からは闇が覗く。
夏帆は僅かに痛む頭を押さえてから、布団の上に起き上がった。
影の主は、こちらに背を向けて胡座をかいて座っている。その向こう、壁に沿って複数の水槽が並び、部屋全体に人工的な光を放っている。
柊の部屋に来たのだ、と気づく。
布団が直に敷かれたフローリングの部屋は狭く、彼との距離は近かったが、その背中にはどこか話しかけづらい雰囲気があった。
研究室の実験台に頬杖をついて物思いにふける柊の後ろ姿を、夏帆はふと思い出す。
影がゆらりと揺れた。
「勘違いすんなよ。酔っ払いを放置して死なせたら、保護責任者遺棄致死罪に問われるんだ」
逆光の中、柊がこちらを振り返る。
「すみません……」
夏帆は昨晩、濡れた服を脱いでシャワーを浴びた後、柊の服を借りていた。
「憧れの彼シャツ!」などとはしゃいだ記憶が微かにある。
だが今の二人の間に、甘い空気は微塵もない。
柊は床に直接缶ビールを置き、水槽を眺めながら飲んでいるようだった。
「ニモだ!」
夏帆は努めて明るい声を出した。這って柊の隣にぺたんと座る。低い棚に設置された水槽が間近に迫る。
一番窓際の水槽にはカクレクマノミが二匹泳いでいた。青い光を浴びた彼らは、ヒレをゆらゆら動かしながら、イソギンチャクの間を行ったり来たりしている。
「そっちの二つが海水、他は淡水」
柊がぼそりと言う。
計五つの水槽は全て小型のものだったが、こまめに手入れされているらしく水は澄んでいた。
カクレクマノミやイソギンチャクの他に、ヤドカリや小さなエビ、カラフルな熱帯魚などが、光に照らされ夏帆の目の前を行き来する。
しばらくどちらも黙ったままだった。
柊は時々ビールを口に運び、夏帆は水槽の中に蠢く生き物達や、エアレーションにより気泡がぷくぷく湧き上がるのをただ眺めている。
「先生は一人暮らし長いんですか?」
先に沈黙を破ったのは夏帆だった。
「……初めては小五の時だな」
「えっ」
飲んでいるとは言え、そんな冗談を言うような人ではない。
「途中で夏休みに入ったからさ、全く誰にも会わないんだよ。家のが帰ってくるかもって、何回も何回も外に出て確かめて、でも誰も来ないから、仕方なくスーパー行って飯買って帰って、テレビ観ながら食べて。でもそのうち電気が止まって、音のない空間でひとりで食べた。真っ暗闇の中で寝て、また起きて、食べて寝て、待って待って、それでも誰も来なくて、それで……」
柊はいったん言葉を切った。
「人生で一番長い夏だった」
「……すみません」
「なんで謝るんだよ」
また沈黙。
二匹のカクレクマノミは今、トンネル状になった岩の下に身を潜めるように静止している。
「あっ」
柊が声を上げた。夏帆は思わず首を横に向けて柊を見た。彼は目の前の水槽、カクレクマノミの二つ隣の水槽を見つめている。
「ほらここ」
透明で小さなエビの這う水槽の端を、柊は指差した。夏帆はそこに顔を近づける。長さ数ミリの白いものが、ガラス面にへばりついていた。
「……何ですか、これ」
夏帆は遠慮がちに聞いた。
「プラナリア」
「切ったら増える、漫画みたいな顔のヤツですよね?」
「あぁ。たまに湧くんだ」
よく見るとその近くにも二匹いた。
「思ってたより小さい……」
夏帆はそれが伸び縮みする様に見入った。
確か、中学か高校の教科書に出ていた。プラナリアは脅威の再生能力を持ち、百ヶ所以上を切り刻んでも百以上に分裂・再生するという。
「切っても再生するってことは、不老不死なんですか?」
夏帆が聞くと、
「いや、潰すと死ぬから違うけど、まぁ限りなく不老不死に近い存在なんだろうな」
ゴクリとビールを飲む。
「コイツら、半分に切断して頭を失っても、記憶が無くならないらしい」
「へぇ……」
プラナリアは縮んで伸びて、水草の影に隠れた。
「……地獄だな」
柊は立ち上がった。玄関のそばに置いてあるごちゃごちゃしたカゴから、小さな銀色の袋を取り出し、また座る。
柊は小さなスプーンで、袋の中の粉末を計っている。研究室で実験器具を扱う時のような、自然な手付き。
「すぐ楽にしてやるよ」
そして間をおかず粉末を水槽に投じた。粉は水中に、白い煙のように広がってゆく。
光に照らされた柊の横顔は、恍惚としているような悲しいような、初めて見せる表情だった。
見てはいけないものを見ている気がするのに、夏帆はその怪しい横顔から目を逸らせない。
「お前もうひとりで歩けるだろ。途中まで送るから帰れ」
「……はい」
素直に従うしかなかった。
柊のシャツを自分の生乾きの服に替え、部屋を出た。
柊は大通りまで夏帆を送り、タクシーをとめてくれた。
ひとつの傘を二人でさしたが、二人共、ほとんど無言だった。
天井に淡い影が伸びている。締め切ったカーテンの隙間からは闇が覗く。
夏帆は僅かに痛む頭を押さえてから、布団の上に起き上がった。
影の主は、こちらに背を向けて胡座をかいて座っている。その向こう、壁に沿って複数の水槽が並び、部屋全体に人工的な光を放っている。
柊の部屋に来たのだ、と気づく。
布団が直に敷かれたフローリングの部屋は狭く、彼との距離は近かったが、その背中にはどこか話しかけづらい雰囲気があった。
研究室の実験台に頬杖をついて物思いにふける柊の後ろ姿を、夏帆はふと思い出す。
影がゆらりと揺れた。
「勘違いすんなよ。酔っ払いを放置して死なせたら、保護責任者遺棄致死罪に問われるんだ」
逆光の中、柊がこちらを振り返る。
「すみません……」
夏帆は昨晩、濡れた服を脱いでシャワーを浴びた後、柊の服を借りていた。
「憧れの彼シャツ!」などとはしゃいだ記憶が微かにある。
だが今の二人の間に、甘い空気は微塵もない。
柊は床に直接缶ビールを置き、水槽を眺めながら飲んでいるようだった。
「ニモだ!」
夏帆は努めて明るい声を出した。這って柊の隣にぺたんと座る。低い棚に設置された水槽が間近に迫る。
一番窓際の水槽にはカクレクマノミが二匹泳いでいた。青い光を浴びた彼らは、ヒレをゆらゆら動かしながら、イソギンチャクの間を行ったり来たりしている。
「そっちの二つが海水、他は淡水」
柊がぼそりと言う。
計五つの水槽は全て小型のものだったが、こまめに手入れされているらしく水は澄んでいた。
カクレクマノミやイソギンチャクの他に、ヤドカリや小さなエビ、カラフルな熱帯魚などが、光に照らされ夏帆の目の前を行き来する。
しばらくどちらも黙ったままだった。
柊は時々ビールを口に運び、夏帆は水槽の中に蠢く生き物達や、エアレーションにより気泡がぷくぷく湧き上がるのをただ眺めている。
「先生は一人暮らし長いんですか?」
先に沈黙を破ったのは夏帆だった。
「……初めては小五の時だな」
「えっ」
飲んでいるとは言え、そんな冗談を言うような人ではない。
「途中で夏休みに入ったからさ、全く誰にも会わないんだよ。家のが帰ってくるかもって、何回も何回も外に出て確かめて、でも誰も来ないから、仕方なくスーパー行って飯買って帰って、テレビ観ながら食べて。でもそのうち電気が止まって、音のない空間でひとりで食べた。真っ暗闇の中で寝て、また起きて、食べて寝て、待って待って、それでも誰も来なくて、それで……」
柊はいったん言葉を切った。
「人生で一番長い夏だった」
「……すみません」
「なんで謝るんだよ」
また沈黙。
二匹のカクレクマノミは今、トンネル状になった岩の下に身を潜めるように静止している。
「あっ」
柊が声を上げた。夏帆は思わず首を横に向けて柊を見た。彼は目の前の水槽、カクレクマノミの二つ隣の水槽を見つめている。
「ほらここ」
透明で小さなエビの這う水槽の端を、柊は指差した。夏帆はそこに顔を近づける。長さ数ミリの白いものが、ガラス面にへばりついていた。
「……何ですか、これ」
夏帆は遠慮がちに聞いた。
「プラナリア」
「切ったら増える、漫画みたいな顔のヤツですよね?」
「あぁ。たまに湧くんだ」
よく見るとその近くにも二匹いた。
「思ってたより小さい……」
夏帆はそれが伸び縮みする様に見入った。
確か、中学か高校の教科書に出ていた。プラナリアは脅威の再生能力を持ち、百ヶ所以上を切り刻んでも百以上に分裂・再生するという。
「切っても再生するってことは、不老不死なんですか?」
夏帆が聞くと、
「いや、潰すと死ぬから違うけど、まぁ限りなく不老不死に近い存在なんだろうな」
ゴクリとビールを飲む。
「コイツら、半分に切断して頭を失っても、記憶が無くならないらしい」
「へぇ……」
プラナリアは縮んで伸びて、水草の影に隠れた。
「……地獄だな」
柊は立ち上がった。玄関のそばに置いてあるごちゃごちゃしたカゴから、小さな銀色の袋を取り出し、また座る。
柊は小さなスプーンで、袋の中の粉末を計っている。研究室で実験器具を扱う時のような、自然な手付き。
「すぐ楽にしてやるよ」
そして間をおかず粉末を水槽に投じた。粉は水中に、白い煙のように広がってゆく。
光に照らされた柊の横顔は、恍惚としているような悲しいような、初めて見せる表情だった。
見てはいけないものを見ている気がするのに、夏帆はその怪しい横顔から目を逸らせない。
「お前もうひとりで歩けるだろ。途中まで送るから帰れ」
「……はい」
素直に従うしかなかった。
柊のシャツを自分の生乾きの服に替え、部屋を出た。
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