野生のチューリップ

たんぽぽ。

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【白羽の諦念】

初恋はホット青汁の苦味

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 白羽が入院したのは、癌の告知から一月半後のことだった。

 ホット青汁を入れるため給湯室に向かう途中、ふらつき転倒して骨折したのだ。すでに癌は骨転移を起こしており、整形外科に入院した後、ついにホスピスへと移された。
 癌による疼痛にとうとう耐えられなくなったのである。

 ユキは白羽の病室に足繁く通った。ナースステーション内で「めかけ」とあだ名されるくらい通った。

 白羽はユキに対していつも通りの態度だったが、元々華奢な彼が、面会の度に目に見えてさらに痩せていくのがユキには辛かった。

 白羽はモルヒネの副作用なのかウトウトしていたり、そうでなければ家族に買って来てもらったらしい大人の塗り絵やパズルなどをひたすらやっていたり、床頭台の目立たない部分にイニシャルを彫っていたりした。

 仕事以外で何をしていいのかわからないそうだ。彼は根っからの仕事人間であった。

 ある日、ユキは自分も塗り絵がやりたくなり、色鉛筆と塗り絵と、それから見舞いのホット青汁を買って病室を訪れた。白羽はベッドに胡座をかいてクロスワードパズルをやっていた。
 ユキも椅子と小さな机を借りて塗り絵を始める。

「ピカソの本名って何だっけ?」
 白羽が聞く。
「パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・マリーア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンディシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソじゃないですか」
「…………ルイス・イ・ピカソ、と」
 白羽はクロスワードに文字を書き込む。
「サンキュー。じゃ、ヒザラガイの学名は?」
「Acanthopleura japonicaです」
「お、出来た。答えは『芋ケンピ』だってさ」

 いつもはその日の仕事のことなどを話して十分やそこらで帰るのだが、この日は塗り絵に集中したせいで長居してしまった。

 自分にも家族がいたらこんなふうなのだろうか、とユキは不思議な感じがした。
 例えば家のリビングでめいめい違うことをして、時々話しかけたりちょっかいを出したりするのだろうか。

 だから思わず言ってしまった。
「今日だけお父さんって呼んでいいですか?」

 そしてすぐ後悔した。変な奴だと思われる、と思った。
 しかし一瞬の間ののち、白羽は「娘よ、どうした?」と、いつもの柔和な笑顔で答えた。

 ユキはその答えにホッとして、同時にこの人は近い将来いなくなるのだと知っているので悲しくなって、毒を食らわば皿までとばかりに、
「そっちにいってもいいですか?」
 と、返事を待たずににベッドに上がり、白羽の懐に飛び込んだ。
「……お父さん」
 彼の背中に両手を回す。

 白羽はユキの突飛な行動にどきりとしたが、幼い子にするように彼女の背中をトントンと優しく叩いた。

 ユキは白羽の痩せたのを直に感じ、無性に泣きたくなった。けれど、来るべき瞬間に備え、必死に涙をこらえた。

 彼がこの世からいなくなってしまうなんて、考えられなかった。白羽の胸に頬を押し当て、その体熱に身をゆだねた。
 白羽の右手がユキの背中から頭に移動し、彼女の髪を優しく撫でる。

 そうしているうち、ユキはさざ波立った心が、不思議と凪いでゆくのを覚えた。

 二人はしばらくそのままでいた。

 時間よ止まれ、ユキは矢沢永吉みたいなことを思った。
 白羽にまだ生きていて欲しかったし、ベッドから下りて顔を見られるのが恥ずかしかったからだ。

 結局は三十分後に巡回にやって来た看護師が部屋をノックするまで抱き合い、ナースステーションに「妾はやっぱり妾だった」という恰好の話題を提供したのだった。







 白羽の訃報がユキ達の職場に届いたのはその翌週、十一月に入ってすぐのことである。

 ユキと水沢は見回りから帰って来たところで、副長にそれを伝えられた。

 ユキは訃報を聞くと無言でくるりと回れ右をして部屋の外へ出ていき、水沢も当然のようにそれを追う。

 ユキは屋外にある喫煙所に駆け込んだ。
 ベンチには村尾が一人座っている。彼は外出から戻った後、ちょうど休憩時間だったのもあり、喫煙所に直行していたのだ。

「ちょっとそれ吸ってもいい?」
 ユキは村尾の隣に腰掛け、そう言って返事も聞かずに、村尾の手から煙草を取り上げた。

「ど、どうしたの?」
 村尾は面食らった。ユキは煙草を吸わないはずだ。
「先生が亡くなったんだって」
 ユキは何でもないような口調で答え、どうやって吸うのかわからずにしばらく煙草の火を見つめていたが、恐る恐るくわえてすぐ咳き込んだ。
 村尾は何も言えずにいる。

「ごめん、やっぱり返す」
 と、ユキは煙草を村尾に渡して立ち上がり、そのまま何処かへ行ってしまった。

 一部始終を見ていた水沢がやって来て、
「その煙草、俺に下さい」
 と村尾の手を指差す。
 村尾は彼が間接キスを狙っていると察した。
「俺の唾液付きだぞ」
「森田さんが口を付けたので浄化されました、大丈夫です」
 村尾は煙草を吸い殻入れに捨ててしまった。水沢はしょんぼりしている。

「森田ちゃんパニクってたけど大丈夫かな」
「俺、探して来ます」
「一人になりたいんだろ。行って何て言うつもりだよ」
 その通りだと思い、水沢は大人しく食事に戻った。

 自分では白羽の代わりにはなれないことは、よくわかっていた。



 ユキは署の建物の外壁と、その外側の塀の間のごく狭い隙間に挟まっていた。
 ここなら誰も来ない。物理的にユキ以外が入るのは無理だからだ。

 ユキは漠然とだが、白羽は妖物との戦いで命を落とすような気がしていた。
 例えば壮絶な戦いの末に親指をたてて溶鉱炉に沈んでいくとか、「お前は生きると約束してくれ」と言って氷の浮かぶ海へ沈んでいくとかである。

 ところが病気で逝ってしまった。

 彼は無理に現場に行き、妖物駆除を続けていた。それがたたり、寿命を随分と縮めた。部下が無理しないでくださいと言っても聞かなかった。
 結局年を越せずに逝ってしまった。告知から、二ヶ月という短さで。むしろ、告知後の方が現場に行く頻度が増えていた。
 大気圏に突入し、燃え尽きる前に一瞬大きな輝きを放つ流星みたいだった。

 ユキは白羽の、道着を着たキリリとした立ち姿を思い出す。背は高くないが大きな手や、その大きな手でホット青汁のカップを包むように両手で持っている姿、ホット青汁をぐびりと飲む横顔、給湯室にホット青汁を入れに行く後ろ姿、「ホット青汁が切れそうだから何かのついでに買ってきてくれない? 領収書忘れるなよ」と言う落ち着いた声を思い出す。

 ……あの時のホット青汁は、無事に経費で落ちたのだろうか。

 そしてユキは最終的に、病室で抱き合った時に背中に感じた、彼の手の感触を思い出す。

 ユキはあの時、泣きそうになりながらも何故か安心感を覚えていた。
 誰かに物理的に包み込まれることが、こんなに心地よいとは思ってもいなかった。白羽の薄い胸に顔を押し付けて、この人となら自分はどうなっても良いとさえ思った。

 ユキはそれを、好きという感情だと結論付けた。

 初めてのことだった。

 彼女は考え続ける。

 結局のところ、そういう感情を覚えたのは先生が死にゆく人だからだ。それが分かっているから、嫌われるリスクが限りなく小さいから、安心して彼を好きになることが出来た、つまり私は卑怯なのだ。

 そしてユキは健診の重要さ、受診勧告を無視する危険性を噛み締めた。

 水沢は休憩中、「月刊囲碁宇宙」を読みながらずっとチラチラと部屋の入り口に目をやり、ユキの帰りを待っていた。

 彼にとって白羽は確かに目の上のたんこぶではあったが、亡くなったことを喜んでいる訳では決してない。彼はそこまで冷血人間ではないし、愛する人の悲しむ顔を見るのはやはり辛いものだ。

 休憩が終わるとユキは目を真っ赤にして戻って来たが、淡々と仕事をこなしていた。村尾も水沢も普段通りに彼女に接した。



 翌々日、三人は夜勤明けに白羽の葬儀に出席した。冷たい雨がしとしとと降っていた。

 彼は独身だったので喪主は父親が勤め、出席者は少数の親族と職場の関係者のようだった。

 村尾も水沢も、ユキが普段着ない喪服の黒いワンピースを着て伏し目がちにしているのを、不謹慎だが今までで一番綺麗だと思った。

 お葬式で泣かないと冷たい人だと言われそうであったが、ユキはこの二日間、隙あらば泣きに泣いていたので涙は枯れてしまっていた。

 出棺が済んだ。
「……帰ろうか」
 当然三人で帰るつもりだったらしい村尾の呼びかけを、ユキは断った。
「ごめん、一人で帰りたいから」
 火葬場までどうしても行きたかったのだ。心配そうな二人と別れ、タクシーで向かう。

 親族でないので火葬場には入らず、雨の中、何となく辺りをうろうろした。
 火葬場といったら高い煙突とそこから立ち上る煙を想像していたのに、その綺麗な建物に煙突は見当たらなかった。

 歩き回っていると公園があったので、そこのベンチを拭いて傘を差したまま座る。

 ──先生は今焼かれているのかな。

 ユキは火葬場の辺りの上空を眺めた。

 ──先生、私の大好きな先生さようなら、これで私の大きな目標は、永遠に達成することが不可能になりました、これからどうしましょう。先生先生……。

 冷たい雨の中ユキは、二度と会うことの出来ない師へ、ひたすら慕情を語りかけていた。

 涙は枯れたはずなのに、また泣けてきた。

 白羽がいなくなる覚悟は出来ていたはずだった。しかし彼の不在を想像するのと、実際にいなくなるのは全く別物だった。

 空が薄暗くなって来たので、やっとユキは立ち上がった。

 仕事に行かなければならない。
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