心に鍵を掛けて -海に向かって、その後-

ひふみん

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③心に鍵を掛けて

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●●●

――昇と桜が幼馴染だということを知った時から、全ては分かっていたことかもしれない。

 知るきっかけは、私が「昇」と呼び始めてからしばらく経ったある日、三馬鹿トリオとの何気ない会話からだった。それも、昇から聞かされたわけではなく、井川と吉川の会話からだった。

 しかし、後に知る二人の関係からして、昇や桜からそのことを聞かされることは、決してなかったんだろうなと思う。

「ところで昇、最近芹沢とはどうなんだよ?」

 ある日四人で帰ってた時に、吉川が唐突にそんなことを昇に聴いた。

 普段から「桜」で呼び慣れていた私からすると、聞き慣れない「芹沢」という名前に、しばらく誰のことか分かってなかった。

 しかし、まるで昇とその子がどうにかなっているかのような口振りに、内心で随分動揺が走ったことを覚えている。

「どうも何も……もう随分話もしてないから、何にもねぇよ」
「何だよ、お前らまだそんな感じなのか?」

 吉川は、呆れたようにため息をついた。

 何だか訳ありな感じの話に、私の中の動揺は広がるばかりだった。

「…えっ?昇って、その芹沢って子と何かあるの?」

 なるべく、自分の動揺を悟られないように、少し戯けた調子で聴いた。

「あれ?むしろ原田って、芹沢と仲良くなかったっけ?」

 キョトンとして聴いてきたのは、井川だった。井川は、さほどその話には興味がない様子で(井川は、そもそも恋愛話にはそこまで食いついて来るタイプではなかった)両手で頭を抱えながら歩いていた。

「えっ?私が…?」

 言われて、「そんな子と仲良かったっけ?」と頭の中でグルグルと仲良い人の顔を思い浮かべて、ようやくそこで桜と合致した。

「あっ、もしかして桜?」

 私が当てると、吉川は「正解!」とクイズ番組さながらに声を上げて、何故か昇は当てられたことが嫌そうで顔を顰めていた。

「えっ?何?桜と昇って、何かあるの?」

 思ってもみなかった登場人物に、思わず率直にそんなことを聴いた。

「あぁ、この二人はな…」
「別に、ただの幼馴染だ。それ以上特に何でもないから、健吾、変な脚色はするな」

 吉川がニヤニヤしながら何か言おうとしていたのを遮って、昇が早口でまくし立てた。

 比較的この四人でいる時は、大人しくしていることがほとんどの昇が、そんな風に慌てた様子を見せるというのは珍しかった。

「へぇー、ただの幼馴染ねー」

 おちょくる言い方で、意味ありげな視線を昇に投げた。

 正直、この時の私の感情はいまだによく分からない。昇をおちょくろうとする気持ちもあったし、実際は桜とどういう関係なのか知りたいというのもあったし、この二人に本当に何かあったとしたらどうしようというのもあった。

 ただ私は、その相手が桜であることが分かった瞬間に、先程感じた動揺が自分の中でほとんど消えていることに気付いていた。

「言っとくけど、お前らが変な勘繰りするようなことは本当にないから、勝手な憶測は止めろよ」
「そうだよな。昇は、単純に小学校時代まで仲良かった芹沢が、中学校に上がってから急に可愛くなったもんだから、照れてるだけだもんな」

 さも何でもないことのように、井川が昇の心情を暴露した。

 案の定、吉川はそれに対して爆笑して、昇は顔を真っ赤にしながら全速力で井川を追い掛け、井川はゲラゲラ笑いながらそんな昇から一目散に逃げていった。

 そんな三人の様子を見ながら、合わせて私も笑っていたけど、三人で楽しそうに走り去って行く背中を追い掛ける気にはなれず、じっと遠くなっていく三人の背中を見つめていた。

―――
 
 それからしばらく経ってから、何気なく桜に昇のことを聴いてみた。

 桜は、私がそのことを知っていたことに素直に驚いていたけど、すぐに「そういえば、由唯ってあの三人と仲良かったもんね」と情報元にすぐに合点がいったようだった。

 桜は、「別に隠すようなことでもないし、むしろ特に言うようなことでもなかったから…」と前置きをしながら、昇達との小学校時代の関係を教えてくれた。

 昇とは小さい頃からの幼馴染であり、その後井川と吉川が加わって、小学校時代は四人でよく遊んでいたという。まさしくその時は、桜とあの三人が今の私達四人の関係のようになっていたということだった。

 しかし、中学校に上がってクラスが分かれて、そこから自然と三人と関わる機会がなくなってきて、今は話すこともなくなってしまっていた。

 桜は、淡々と事の顛末を話していたけれど、頑なに三人まとめての話ばかりをして、昇個人との関係性には一切触れなかった。

 そこに何か意図があったのか、無意識だったのかは分からない。だけど、井川と吉川の口振りから、この二人には何かあったのではないかと思っていたので、それを桜が避けていることがどうしても気になった。

「桜は、昇と何かあったわけじゃないの?」

 だから、思わず聴いてしまっていた。

 桜は、私に嘘をつかないし、何より桜は嘘をついたり誤魔化したりすることが苦手だった。

「えっ?別に、何かなんてないよ。ただの幼馴染で、今は話す機会がなくなったっていうただそれだけのことで。…まぁ、小さい頃から一緒だったから、三人の中でも小学校時代は一番仲は良かったけど」

 何でもないことのように言いながらも、私にはそう言っている桜が何だか無理をしているように見えて、その姿はやけに寂しそうだった。

 そのことに、正直胸がざわついた。

 それから、私と三人、そして私と桜の間でその話題が上がることはなかった。各々からその話題を出してこなかったことももちろんあるけど、何よりも私自身がその話題を蒸し返したくないと思っていた。

 その話を蒸し返すことによって、気付かないで欲しいことに気付くんじゃないか。何か二人の間で関係性が変わるんじゃないか。

 この時の私は、はっきり言ってそのことが怖かった。

 桜と一番仲が良く、昇のことが気になっている私からすると、二人のそれぞれに対する反応は何でもないことのようにはとても思えなかった。

 昇は、絶対に皆の前では桜の話を出さないし、桜も昇のことになると頑なに口を閉ざしていた。

 むしろ、そんな風に隠し立てされればされるほど、私の中では大きなわだかまりと疑問が膨らんでいくばかりだった。

 私が知らない二人の過去。その過去の中で、二人はお互いのことをどう思っていたのか。

 そして、今も二人はお互いのことをどう思っているのか。

 それを想像しようとすると、胸が苦しくなった。

 こちらから見てると二人の関係は本当に焦ったくて、まるでお互いの気持ちを分かってるはずなのに中々くっ付かない、よくある恋愛ドラマを観ているような気分になる。

 それを、何の関わりのないただの視聴者として観ていられたら何てことはなかった。

 だけど私は、ちゃんとその中の登場人物の一人で、ヒロインの友だちで、一応画面の中には居るけれどメインにはならない存在。そんな、画面の向こうでは何てことはない、むしろ応援することもある存在が、当事者が自分になるとこんなにもしんどいものかと思う。

 二人に本当に何もなければ良かった。

 でもたった一度だけ、桜が昇のことについて私に伝えてくれたことがあった。

「昇と話がしたい」

 桜の願いは、そんな何でもないことだった。

 人から見たら、「願い」と呼ぶにはあまりに小さなお願い事で、正直私も言われた時には拍子抜けしてしまった。

 だけどその時、私は桜がいまだに昇のことを「昇」と呼んでいることを知って、そしてそれを伝えてきた桜は、本当に真剣な表情をしていて、必死であることが伝わってきた。

 それで、私は桜の心の奥底にある気持ちを知ってしまった。そして、その時に自分の中で浮かんできた感情は、「やっぱり」と「なんで?」だった。

 初めて昇と桜と会った時に、どことなく二人は似ているような気がしていた。

 人前では基本的に大人しいのに、スイッチが入ると明るく楽しそうに色んな話をするところや、誰に対してもフラットに接してくれるところや、気付かれないところで周りに気を配っているところや。

 だからこそ、私はこの二人と仲良くなれたんだと思う。

 そんな二人が、実は幼馴染だったということが分かって、それも小さい頃は二人ともすごく仲が良くて、でも今は少し離れてしまったことで疎遠になってしまっていて、でも明らかにお互いがお互いのことを意識していて。

 そんなことに気付いてしまっている自分が嫌だった。

 もしも、桜がその一言を私に伝えてなかったら。もしも、私が桜の気持ちに気付かなかったら。もしも、桜と昇が幼馴染でなかったら。

 そんな、起こらなかったもしもを積み重ねて、それを積み重ねる度に自分で自分を苦しめた。

 色んな感情が渦巻いて、油断するとマイナスな感情が桜に向いてしまいそうになる。

 そんなことがよぎる度に、私は私自身のことがもっと嫌いになった。

 桜はあまりにも純粋で無垢で、私からはどうしようもないほど憧れの存在だった。

 そして、そんな桜と対照的な自分自身を自覚させる眩しい存在だった。

 桜を応援しなきゃ。でも、できない。

 そんなことを何度も何度も何度も何度も繰り返して、結局私は何をすることもできずに中学時代を終えた。

 桜の願いを叶えてあげることもできず、自分自身の想いを伝えることもできずに、そうしてそのまま、そんな機会はずっと訪れることはないと思っていた。

―――

――だけど、その機会は訪れてしまった。

 高校三年生の夏の始まり。大会も終わり、部活動も既に引退していて受験勉強漬けの日々が始まる、と憂鬱になっている時期だった。

 随分久しぶりに、唐突に昇からメールが来た。

 その日の夜、一応ちゃんと勉強していた時に携帯にメールの通知音が鳴った。

 この時間にメールってことは、あの子かな?あの子かな?それとも桜かな?なんていつもメールのやり取りをするメンバーの顔を何人か浮かべながら、メールの受信画面を開いた。

 そこに出てきた「昇」という名前に、持っていたシャーペンを落とした。

「えっ?何で?」

 思わず、誰も居ない部屋で声が出ていた。

 昇とは、中学を卒業してからは特にやり取りはなくなっていた。別々の高校に行っても、恋人同士でもない男女で頻繁にやり取りすることは流石になくて、私から昇に連絡をすることはなかったし、昇から連絡が来ることもなかった。

 そんな中の唐突なメールだった。昇からの用件に思い当たることは当然なくて、そのことが余計に私を戸惑わせた。

 昇がわざわざ私にメールを送ってくる色んな可能性が浮かんできて、あれかな?いや、そんなわけない。もしかして?いや、そんなわけない。でも……なんてそんなことをグルグル考えながら、答えを見るのが怖くてメールを開くのにしばらく時間が掛かった。

 そうして、ようやく開いたメールの内容は、「井川から、夏休みに自転車で氷見まで行こうって誘われたんだけど、原田もどうだ?」だった。

 ドキドキしながら開いたので、思ってもみなかった内容に最初はピンと来なかった。

 しかしすぐに、一体自分は何を期待していたのか、と自身のさもしさに苦笑いした。

 メンバーは中学時代のあのメンバーで、夏休みにまだ特に予定がなかった私にはとても魅力的な誘いだった。泊まりといえど、あのメンバーだったら変なことも起きないだろうし(起こしてきたところで返り討ちにできる自信もあった)、単純に楽しそうだなと思った。

 でも、当然と言えば当然だけど、そのメンバーの中に桜がいないことが気になった。

 昇が、どういうつもりで私に声を掛けて来たのかは分からない。そもそも、発案者は井川だということだから、どちらが私に声を掛けようと言ったのかは分からない。

 でも、なんで私なんだろうと思った。

 男子四人で行くのと、そこに女子が一人加わるのではその旅のノリは全然違うものになる。

 もちろん、単純に男だらけの旅行に私を入れた方が楽しいんじゃないかと思ってくれたのかもしれない。

 でも、私がその旅行に行って、その四人の中に混じって一緒に楽しそうに笑っている姿を想像したとき、胸がザワリと騒いだ。

『昇と話がしたい』

 中学時代に、そう言って来た桜の顔が浮かぶ。

 高校に入っても、桜のその表情は幾度となく浮かんできた。そして、それを聴いていながら、結局何もすることがなかった私自身の過去も浮かんでくる。

 私は、自分自身の独占欲の為に、桜を裏切っていたのかもしれない。

 そんな心のしこりは、ずっと取れずにこびり付いていた。

 そんな中で、もしも私がこの旅に一人で行ったらどうなるだろうか。桜にそのことが伝わることは、まずないだろう。井川達三人ともそこまで交流がなくなっているから、そこから伝わることはないだろうし、昇からなんてことは絶対にあり得ない。

 それでも、もしもそれを桜が知ったらどんな顔をするだろう、と想像してしまった。

 きっと、桜は笑ってくれるだろう。

『そうなんだー。楽しかった?』

 そんな風に笑って、だけどその笑顔はどこか寂しそうで、きっと明るく振る舞って誤魔化すんだろうな、と思った。

 そんな桜を想像して、それを見て見ぬ振りしている過去の自分の姿が浮かんだ。

 そして、そんな自分の姿がとても恥ずかしく見えた。

―――

――だから、私は心に鍵を掛けた。

 桜の寂しそうな顔はもう見たくなかった。

 自分自身の気持ちを優先して、親友の切なる望みを踏み躙るような行為の代償は、中学を卒業してから嫌というほど味わってきた。

 桜が、たった一度だけ私に伝えてきたのは、私に何かして欲しかったんじゃないか。

 私だけが桜の望みを叶えてあげられたんじゃないか。私だけが桜の味方になれたんじゃないか。私だけが桜を助けてあげられたんじゃないか。

 そんな後悔が、ずっと付き纏い続けていた。

 桜とは、高校に入っても変わらずメールのやり取りを続けていたし、時々会ってもいた。

 会う度に、桜は変わらない態度と笑顔で私に接してくれていて、でもそんな桜から、同じ高校に行っているはずの昇の話が出てくることは一向になかった。

 そんな桜を見るたびに、心の中で「ごめん」と呟いて、そしてその言葉が何度も自分を押し潰していった。

 私にとって、桜は本当に大切な友だちだった。

 何度も転校を繰り返して、色んな街で沢山の友だちと出会ってきた。それでも、そんな友だちの中でも、昇と同じように本当に自然体で居られるのは桜の前でだけだった。

 だからこそ、そんな桜の望みを知りながら、それを差し置いて自分だけが自分の望みを叶えようとすることを、自分自身が許さなかった。

 だから、私は心に鍵を掛けた。

 昇に対する想いは、心の奥底に仕舞い込んだ。大切な宝物を隠すように、宝箱の中に入れて、鍵を掛けた。誰にも気付かれないように、外に漏らさず伝えることもなく。

 これは、私しか持っていない、私にしか開けられない鍵だ。

 そして、今度こそ桜の望みを叶えてあげよう。

 たとえ、それで桜が心の奥底にある本心に気付いたとしても。

 私は、私自身に決着をつけたかった。

●●●

 理久君から告白をされてから、はっきりとした答えを出すことなく私はずっと考えていた。

 「海に向かって」が終わって、昇と桜が元のように普通に話せるようになった。

 そこから、今二人がどんな関係に至っているのかは知らない。

 桜は、自分からそういった話を振ってくる子じゃない。きっと、私から話を振れば少し恥ずかしそうに答えてくれるだろう。

 だからこそ、私は桜に何も聴けなかった。

 聴いたときに、桜の赤面する顔が容易に浮かんできて、そのことで胸が苦しくなる。

 あぁ、やっぱり私はまだ自分の中で折り合いを付けられていないんだな。

 想像する度に、自分自身の感情を知った。

 もしかしたら、昇と桜の関係が元に戻ったことで、私も自分自身の想いに決着をつけることができるんじゃないかと思っていた。

 だからこそ、理久君に少しだけ時間を貰った。

 理久君に、ちゃんと返事をする為に。私の自分自身の気持ちをちゃんと知る為に。

 だけど、ダメだった。

 ごめん。ごめん。ごめん。

 心の中で、何度も理久君に謝る。

 一度、「もしも理久君と先に出会えていたなら、もしかすると私は理久君と付き合っていたのかもしれない」なんてことを考えたことがある。

 だけど、そのもしもはすぐに自分の中から掻き消した。そんなことは考えようとしても想像すらできなくて、何よりその妄想は理久君にも、そして昇にもあまりに失礼だと思った。

 こんな風に、自分の都合の良いように考えてしまう自分自身が嫌だった。

 私のことを容姿ではなく、性格から見てくれた初めての人は昇だった。そのことが、私が昇に惹かれていった理由の一つであることは間違いないけれど、そんな単純なことだけで好きになったわけではなかった。

 何でもないことを、ただ二人でグダグダ話し続ける。そんな何でもない日常を、自然体で過ごせることが好きだった。

 井川達の前でも、私の前でも特に態度を変えることなく、同じように接してくれるところが好きだった。

 昇の前では、何の気兼ねもなく素の自分をさらけ出していても良いんだと思える、その感覚が好きだった。

 容姿だけで見てくれない。そんな単純なことだけで好きになれていたなら、どれだけ楽だっただろうか。

 でも、考えれば考えるほどそんなわけはなく、そのことを自覚すればするほど、それが自分自身を苦しめていった。

 私は、きっと自分の気持ちを伝えることはないだろう。いや、きっと伝えたくても伝えられない。

 あの旅を通して、昇と桜は元の関係に戻った。そして、あの旅を通して二人を見ていて、あの二人の本当の気持ちも分かった。

 恐らく、二人が自分の気持ちをハッキリと自覚するまで、そこまで時間は掛からないだろう。

 この結末を、多分私は知っていた。

 でも、それがこんなに辛いものだとは知らなかった。

 自分自身の想いも、ちゃんと本気だったんだということを知った。だからこそ、理久君の気持ちには応えられない。

 理久君には、何度謝っても足りない。でも、声に出して理久君に伝えるのは一回だけ。

 それ以上は、理久君に対する贖罪ではなく、単なる自己満足で自己弁護だ。

 そんな言葉を、理久君には向けられない。

 だから、そうやって一つ一つの言葉に鍵をして、誰にも知られないように自分自身の中に閉じ込めておく。

――でも、

 一つ、自分の中で言葉が落ちる。

――でも、いつの日か、、


―――

 ガタンゴトンと電車に揺られながら、地元の街へと帰って行く。

 行きと同じように、四人掛け席に斜め向かいになって座っていた。普通に座ることはできたけれど、行きと比べて夕方の今の時間帯は、思いの外車内には乗っている人が多かった。

 車外の風景を見つめながら、投げ出した足をバタバタさせている小さな子や、その足をポンポンと叩きながら嗜めてるお母さん。大きく口を開けて眠っているお爺さんや、本を読んでいるお婆さん。

 そして、私たちと同じくらいの子達も何人かいて、吊革に捕まりながら友だち同士楽しそうに話をしていた。

 幸い、知り合いらしき姿は全く見てはいないので、何とか無事に家まで帰ることはできそうだ。

 チラッと、斜め向かいの理久君に目線を向けた。

 理久君は、少し俯いて正面を見つめていた。その目線が、私の視線に気付いたのかこちらに向いた。

「大丈夫?原田さん、疲れてない?」

 理久君は、笑顔で言った。いけない、むしろ理久君に気を遣わせてしまったかもしれない。

「うん、大丈夫。むしろ、理久君こそ疲れてない?」
「僕は、全然大丈夫だよ。部活やってた時の方が、この何倍も疲れて帰ってたから」

 そう言って、理久君はあははと苦笑した。

「あぁ、でも確かに私も部活やってた時は、帰りの電車はヘトヘトだったなー。それで、案外座れなかった時とかもう最悪だった」
「座れないってことは、僕の場合はなかったねー。それは、帰るのが他の人たちに比べて遅くて、むしろ終電の時間気にしなきゃいけなかったからだけど」

 今朝からそうだったけど、理久君の部活大変だったエピソードはどれも凄い。私も、部活時代は結構大変だったんじゃないかと思ってたけど、理久君と比べてしまうと、しんどいと思ってたこと自体申し訳なく思えてくる。

「でも、理久君も部活引退したってことは、本格的に受験勉強開始?」
「うーん、一応始めるんだけど、僕は一応テニスで推薦もらってるから、できればそれで上手いこと行ってくれたら良いなって思ってるかな」

 確かに、理久君くらい部活で実績出している人には、普通に推薦の話は来るだろう。もちろん、それは理久君が必死に頑張ってきたからこそのものなんだけど、受験勉強を本格的に始めた身からすると、それは何だか合格のショートカットに見えて羨ましい話だった。

「そっかー、理久君は推薦もらえたのかー。じゃあ、そこまで勉強頑張らなくても大丈夫な感じ?」
「ううん。やっぱり、ちゃんと小論文とかあるからそれの対策しなくちゃいけないし、確実に推薦で合格するって確証もないから、ちゃんと勉強はしておかなきゃいけないかな」

 推薦組は推薦組で、別の大変さがあるみたいだ。やはり、合格が決まるまでは誰もがしんどいあと半年を送ることにはなりそうだ。

「原田さんは、最近勉強漬け?」
「そう。もう、勉強ばっかりで頭変になりそう」

 実際、これから家に帰ったら夕飯を食べてすぐに勉強しなきゃいけないだろう。お母さんにも、今日は帰ってからちゃんと勉強するという約束で遊びに行く許可が下りていた。

「受ける大学は決めたの?」
「一応ね。今のままじゃ、まだ合格圏内に入れてないから、もっと頑張んなきゃだけど」

 そう言って、あははと苦笑した。

「県外の大学?」
「うん、一応ね。とりあえず、受ける大学は全部県外にしようかと思ってるから」

 それは、前から決めていたことだった。

 今までは、父さんの都合で色んな都道府県を転々として、この富山県は結構気に入ってる街だけど、ようやく自分の意思で住む場所を選べるのであれば、やっぱり県外には出たかった。

「そっか、県外なんだね」
「理久君は?」
「一応、県外だけど金沢にしようかなって思ってる。やっぱり、ちゃんと都会に出て行くのは少し勇気がなくて」

 理久君は、少しバツが悪そうに笑った。

「理久君は、きっと都会に出ていったとしても大丈夫だよ。あの三人よりも全然しっかりしてるんだから」

 理久君は、勇気がないと言ったけど、私からすると全然そんなことはなかった。

 理久君にはちゃんと勇気も強さもある。だって、あんな風に私に気持ちを伝えてきてくれたこともそうだし、振ってしまった私と今もこうして普通に話をしてくれているのは、本当にすごいと思う。

 きっと、私だったら理久君みたいに強く優しくはなれない。

「えっ?そうかな?でも、原田さんにそう言ってもらえたら少し自信になるかも」

 そう言って、理久君は笑ってくれた。

「ところで、あの三人って進路どうするの?」
「あぁ、一応皆大学は行くみたいだよ。井川だけ、県内の大学って言ってたけど、昇と吉川は県外に行くって」
「そうなんだね」
「芹沢さんは?」
「桜も、県外だよ。一応、私と同じ志望校らしいんだけど、桜は普通に合格できそうだけど、私が合格できるかどうか……」

 それは、本気で心配していることなので、思わず声のトーンが下がった。

「あはは。芹沢さん、中学の時から成績良かったもんね」
「本当、あの子は可愛いくせに運動神経も良くてなおかつ頭も良いんだから、本当にズルい」

 冗談抜きで思ってることなので、思わず声に力が入った。

 すると、理久君は「あはは!」と声を上げて笑ってくれた。

「まぁ、確かに芹沢さんは色々凄いよね。中学の時も、男子からの人気凄かったし」

 そう、桜は自分では自覚してないけれど、かなり凄い女の子なのだ。まぁ、それが原因で昇とあんな風になってしまったという節はあるけれど。

「本当本当、あんな子と友だちでいられて、頑張れば同じ大学にも行けそうなんだから、私も頑張らないと!」

 ぐっと手を握り締めて、今一度気持ちを奮い立たせる。友だちと同じ大学に行きたいから頑張るなんて、不純な動機かもしれないけど、私にはそっちの方がやる気になる。

 各駅に停車しながら、ゆっくりと、でも確実に電車は地元の街へと向かっていた。

 その間、私たちは話し続けた。行きと同じように、他愛ない話をしながら地元へと帰っていく。

『次はー…』

 次の到着駅を知らせる車内アナウンスが流れた。それから、一際大きな揺れと共に電車が停車した。プシューという音を立てて扉が開いて、数人の乗客が乗り込んでくる。

 「閉まる扉にご注意ください」というアナウンスが流れ、また音を立てて扉が閉まった。大きく揺れながら、電車はゆっくりと出発した。

 次が、地元の駅だった。

「皆、バラバラの所に行くんだね…」

 ガタンゴトンと揺れる車内に、理久君の声が響いた。

 さっきまでと違う声に、思わず理久君を見た。

 理久君は、じっと前を見ていた。口元は、ほんの少しだけ微笑んでいるように見えたけど、その顔はどこか寂しそうだった。

 その顔を見て、改めて実感した。

 私たちの高校生活も、あと残り僅かだ。それはつまり、皆とこんな風に会える機会も、本当にほとんどなくなってしまうことを意味していた。

 中学を卒業して、それぞれが別の高校に行くときも、少しだけ寂しかった。だけど、違う高校とは言っても遠く離れ離れになるわけじゃない。住んでいるのは同じ町で、誰かが声を掛ければいつでも会うことができた。多分、そう思えていたから、結局三年間まともに会うことはなく、今年の夏にようやく皆と再会することができていたんだと思う。

 でも、高校を卒業したら、今度こそ本当に皆はそれぞれ別々の場所に行く。違う街に引っ越して、違う生活を始めて、また違う人たちと出会って、そして違う人生を歩んでいくんだろう。

 いつでも会えるから会わないのと、いつでも会えなくなって会えないのでは、意味合いが全く違う。

 高校三年生の進路っていうのは、そういう境目なんだと、改めて思った。

「…そうだね」

 思わず、私も声が小さくなった。

 すると、少しセンチメンタルになった雰囲気に、理久君が慌てた様子で両手をブンブン振った。

「あぁ、ごめんごめん!なんか、しんみりしちゃったね」
「ううん。私も、確かにそうだな、って思ったからいいよ。桜と一緒の大学に行こうって言ってたから、あんまり意識してなかった」

 私の中で、大学で別の町に行くというのは一つの区切りでもあった。

 それは、昇のことも正直ある。今日一日で改めて自分の気持ちをハッキリと自覚したし、それに対して本当に色々と折り合いが付けられるようになるにはまだしばらく時間が掛かるだろう。

 でも、今日の一日がなかったら、多分私はもっとうじうじ色んなことを考えて、自分一人でどんどん悩んで沈んでいってしまってたんだろうと思う。

 だけど、今日理久君と一緒に映画に行って、改めて理久君から気持ちを伝えられて、それに対しての自分の答えもはっきりと出た。

 少しだけスッキリしてしまっている自分に、理久君に対する申し訳なさは募るけれども、でもこうして笑ってくれている理久君に甘えてしまう。

「でも…」

 言うかどうか迷った。

 これは、今私が言ってもいいのか。理久君をまた傷付けてしまうんじゃないか。

 だけど、本当にそうしたいと思ったし、理久君も分かってくれるんじゃないかと思った。

「でもさ、また皆でいつか、『海に向かって』に行けたら良いよね」

 私の提案に、理久君はほんの少し意外な表情を浮かべた。

 でも、すぐに笑顔を浮かべてくれた。

「…うん、それは良いね。それは、ぜひ行きたい」
「うん。今度は、自転車じゃなくて、誰かが車運転して、その時は皆でお酒なんか飲んじゃって!あっ、そしたら運転手は自動的に吉川かな?」
「あぁ、やっぱりそこは自動的に吉川になっちゃうんだね」

 もう、あの旅行ですっかりお決まりになってしまった吉川イジリに、理久君は声を上げて笑ってくれた。

 私も、声を上げて笑った。

 そう、またあんな旅行が皆で出来たら良いなって思う。

 きっと、私と吉川がいつまでもテンション高くはしゃいでいて、それに井川が悪ノリをかぶせてきて、そんな私たちを理久君や、昇や桜が笑って見ててくれる。

 そして、

「……」

 その先の想像は、今はまだできない。

 でも、いつかきっと、その想像ができたら良いなと思った。

「うん、行こうよ」

 だから言った。

「またいつか、皆で一緒に」

―――

 電車は、地元の駅へと到着した。

「今日は、ありがとうね!楽しかった」

 駅を出るなり、理久君は振り向いて言った。

「私も楽しかった!ありがとう!」

 笑顔を浮かべながら、私も言った。

 そうして、二人連れ立って自転車乗り場まで行った。

「じゃあ、ここで解散だね」

 自転車に跨りながら、理久君が言った。

「うん、そうだね」

 私も、自転車を牽きながら言った。

「じゃあ、今日はありがとう!じゃあね」
「うん、じゃあね」

 そして、理久君は家へと帰っていった。

 そんな背中を見つめながら、ずっと手を振り続けた。

 理久君の背中が見えなくなるまで手を振って、見えなくなってようやく手を下ろした。

「……さてと、私も帰るか」

 自転車の上で大きく伸びをしながら、自分に言い聞かせるように独り言を呟いた。

 空を見上げると、夕焼けに染まる空がとても綺麗だった。夕焼け空なんて、いつも見ている風景のはずだけど、この時間にこの場所にいることなんてないから、それはいつもと違う風景に見えた。

 だからだろう。その風景が、やけに綺麗に見えて眩しくて、目に染みた。

「うん、帰ろう」

 もう一度、小さく呟いて、私は自転車に跨って走り出した。
 


◯◯◯

 私には秘密がある。

 それは、親友にも言えない秘密。

 これはきっと、ずっと誰かに言うことはないんだろう、と思っていた。

 だけど、もしもまたこの夏の旅行のように、また皆で海に行く機会なんてのができたら、もしかすると私は話すのかもしれない。

 きっとその時、あの二人はこの夏とは違って、二人手を取って仲良さそうにしていて、

 そんな二人を茶化しながら、私はこの秘密を伝えるかもしれない。

 あいつは、少し照れたりしてくれるかな。

 あの子は、笑いながら怒ってくれるかな。

 そんな日が来たら良いな。来たらきっと、その時私はちゃんと二人の前で笑えているだろうから。

 そんな妄想をして、そんな日が来るまで私は、ずっと心の中でこの秘密を大切に守っていく。




Fin.
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