心に鍵を掛けて -海に向かって、その後-

ひふみん

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②優しさに寄り添って

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 ●●●

 昇と初めて会った時、昇の第一印象は、「アクティブそうに見えるのに、意外と大人しい」だった。

 中一の秋という一番中途半端なタイミングでお父さんの転勤が決まって、そのままバタバタと富山に引っ越してきた。

 その頃、東京でも普通に女の子の友だちも結構できていたので、皆は寂しいと言って何人か泣いてくれる子もいた。だけど、慣れっこになっていた私は泣くことはなく、むしろ泣いてるその子たちの頭を撫でてあやす側になっていた。

 正直なところ、東京から引っ越すということに対しても、寂しさよりも嬉しさの方が勝っていたと思う。色んな男子から告白をされて、正直うんざりしているところもあって、このタイミングで別の場所に行くことができるというのは、私にとっては渡りに船だった。

 しかも、行き先は富山県という田舎の町だ。行ったことはない町だったけど、何となく東京よりは男の子からそういったアプローチをされるということも少なくなるんじゃないかな、という感想を抱いていた。

 そうして富山県に越してきて転校初日、今度は東京の時とは別の反応に驚かされた。「東京から来た」ということが珍しかったみたいで、自己紹介が終わってすぐに、女の子たちに囲まれて、色々質問攻めにあった。それは、私のこと以上に「東京ってどんなところ?」という内容が多かった。

 でも、その時の私にはそれがありがたかった。女の子達に囲まれたこともそうだったし、私以上に別のものに皆の意識が向いていることがとても楽だった。

 しかしそれでも、そうした反応は女の子だけでは留まらず、男の子の間でも「東京から女の子が転校してきた」という噂は他クラスにも徐々に広がっていっていたみたいで、時折他クラスの男の子が多分用事もないのに私たちのクラスに来て、何やら騒ぎながらどこかに行くのを何度か見た。

 そんな男の子達の姿を見て、周りの女の子達が「男子って本当にバカだよねー」と言っているのを、「そうだねー」と同調して笑っていた。

 男の子と全く話さないわけではなかったけど、特別親しくなることもないのは相変わらずで、そうして短い中一の冬は終わっていった。

 しかし、そんな中で一つ良かったことは、同じクラスであり同じ部活にもなった桜と仲良くなれたことだ。

 桜はクラスの中では比較的大人しくはあったけど、その綺麗さはクラスの中でも飛び抜けていた。私自身も、初めて見た時は「こんな可愛い子は、東京にも中々いない」と思ったくらいだ。

 そんな桜とは、部活の中で話す機会が増えて、そこからごくごく自然に仲良くなっていった。多分、お互いに波長が合ったのだろう。気が付けば当たり前のように一緒にいるようになって仲良くなっていた。

 そして、中学二年生になった。

 一応、中一の時点で友だちは何人かできたものの、やはり冬に転校してきたというのはあまりに中途半端だった。本格的に仲良くなるためには、中学二年生からが大事だとは思っていた。

 その中で、まず桜と同じクラスになれたので、その時点でとりあえずは楽しい二年生を過ごせそうなことが確定してホッとした。やはり、流石に一人で一から友だちを作っていくより、一番仲良い人がクラスにいるのは、とりあえず一安心だ。

 そうして、二年の教室に向かって、指定されていた自分の席に向かった。

 その席の隣が、昇だった。

 昇は、特に何をするわけでなく、所在なさげに自分の席に座っていた。しかし、どこか落ち着きなく辺りの様子に気を配っているようだった。

「あっ、ここだ」

 わざとらしく、そんな声を上げながら机に鞄を置いて、椅子を引いた。そのことで、自然と昇の意識はこちらに向いた。

「澤島君だよね?」

 隣の席の子の名前を覚えて、最初に挨拶するのは、繰り返してきた転校の中で身に付けた処世術だ。いくら男子との接点を極力減らしたとは言っても、流石に最初の挨拶くらいはしっかりしておかないと、印象が悪くなってしまう。その後の接点があろうとなかろうと、男子だろうと女の子だろうと、隣になった席の子に良い印象を持ってもらうのは、新しいクラスにすぐに溶け込むための大切なポイントだ。

 ところが、突然女の子から声を掛けられたことに驚いたのか、昇は固まった様子で、すぐに挨拶を返しては来なかった。

 その最初の反応で、昇に対しての印象はそんなに悪くなかった。

「原田由唯です、よろしくね!」

 だからこそ、私は笑顔で昇に自分の名前を伝えた。

―――

 昇は、最初の反応でも分かるように変に距離を詰めてきたり、執拗にアプローチをしてきたりするようなタイプではなかったので、日々の中で言葉を交わす機会は結構あった。

 それは、隣の席ということもあったけど、それ以上に話しかけたり仲良くしたりしても無害(その当時の私は、下手にアプローチして来ない男の子のことを内心でそのように言っていた)であることが分かって、私もそこまで警戒することなく自然と昇とは話をすることができた。

 それまで、必要以上の男子との接触を避けていた私にとって、この「自然と」昇と話ができていたのは我ながら不思議だった。

 それができた一番の要因は、昇が私と他の人で態度をほとんど変えなかったというのが大きかった。

 今までの男子達は、私と話をする時はしどろもどろになるか、妙に距離感を詰めて話してくるようになるかしかなくて、それこそ私の容姿を見て近付いてくる人も多かった。

 とは言っても、昇も最初の方は私が話し掛けると少ししどろもどろになることもあった。ただそれは、単純に女の子と話し慣れてなかっただけで、少し話していくとすぐにそれもなくなって、自然に話をするようになった。

 男子と話をすることが嫌になっていた私が、昇と話をするようになってからは次第に前と同じように男女分け隔てなくあまり気にせずに話ができるようになっていった。中には、そこまで仲良くなっていなくても告白してくる子もいたにはいたけど、それが前ほど気にならなくなっていた。

 そして、昇と仲良くなっていくと井川や吉川の三馬鹿トリオや、理久君とも仲良くなっていった。そのメンバーは、昇同様に私の容姿どうこうで態度を変えることなく、本当に自然に接してくれていたから、私も一緒にいるのが楽だった。(吉川に関しては、会って話すとほとんど漫才みたいなやり取りしかしてなかったけど)

 そんな中でも、やはり昇と話をするのは楽しかった。好きなものとか、趣味が合うというのもあったけど、それ以上に「私自身」を見て仲良くしてくれていることが嬉しかった。容姿でなく、ちゃんと私を見てくれていた。

 でも、昇とどんな話をしていたのかとかは、正直そこまで覚えていない。昇とのやり取りはあまりに日常に溶け込み過ぎてて、そんな日常の記憶をいちいち覚えていたりはしない。

 それでも、昇と一緒にいるのが心地良かったことは自分の中でハッキリと残っていて、そんな日々が大袈裟だけど幸せだった。

 だからこそ、自分が抱いている昇への感情が、少しずつ特別なものに変わっていってることに気付くのに、そこまで時間は掛からなかった。

●●●

「いやー、楽しかったー!」

 両手を伸ばしながら、声を上げた。片手には、服屋さんの紙袋がぶら下がっている。

「あっという間だったね」
「うん!でも、何かごめんね。後半は、ほとんど私の買い物に付き合ってもらう感じになっちゃって」

 斜め後ろを歩いていた理久君に、振り返りながら言った。

「ううん、それは気にしなくていいよ。女の子の買い物に付き合うなんて初めてだったから、普段見れないものとか色々見れて楽しかった」

 理久君は、本当に無理した感じはなく優しく答えてくれた。

 それは、あの三馬鹿トリオからは絶対出てこない台詞だった。特に、吉川なんかは多分私の買い物に付き合ったら開始一分くらいで文句を垂れ流してくるに違いない。

「理久君は、買い物とかしなくて良かったの?」
「うん、僕は大丈夫。今は買いたいものも特になかったし、今日は原田さんと映画を観れて大満足だよ」

 そう言って、理久君は笑ってくれた。

 それは本心からの笑顔で、私に対して特に気を遣ってくれているという感じはしなかった。

 理久君は、どんな時でもいつも変わらずに優しい。

「そっかそっか、それなら良かった!」

 声を弾ませながら、また前に向き直った。

 駅までの帰り道を、紙袋を揺らしながら歩いて行く。

 お昼ご飯を食べ終えてからは、色んなお店を回っていたのでほぼ歩き通しだった。そのせいで、身体全体にぼんやりとした疲労感が漂っていたけど、その身体を暮れ始めた夕暮れの風が優しく冷ましていってくれた。

 線路沿いの何でもない道を、道端のススキの穂と同じように風に吹かれながらゆっくりと歩いていく。

 今日は、本当に楽しかった。映画も、予想していた以上に面白かったし、思いがけず沢山買い物もできた。実際、来る前は少し緊張していたけれど、いざ来てみたら理久君と過ごす時間もとても楽しかった。

 その時間も、間も無く終わる。

 後、十分ほど歩けば駅に到着して、そこから地元まで戻ったらそのまま解散だ。

「…原田さん」

 さっきまでとは違う、少し強張った声で名前を呼ばれた。

 その声に、トクンと心臓が跳ねたのが分かった。

「…うん?」

 私は、この声を聴くことをどこかで予感していた。

 何気ないフリをして振り返ると、理久君は少し俯いて立ち止まっていた。私の方が少し先に進んでいたので、理久君との距離はほんの少し開いていた。

 私も立ち止まって、理久君に向き直った。

「あの、原田さん…今日は、すごい楽しかった」

 真正面から、でも直接私のことは見ずに少し俯いたまま理久君は話し出した。

「映画に一緒に行ってくれたことも嬉しかったし、一緒に買い物もできて楽しかった」

 理久君は、大切なことを一つ一つ確認するかのように言葉を選びながら話を続けた。

 その間、私はあえて相槌を打たなかった。ここは、きっと私が何か言う場面ではない。

「原田さんと、こうやって二人で過ごしたのって初めてだったけど、それがやっぱり楽しいんだって改めて分かった。だから…」

 この後に続くであろう言葉を、私は知っていた。

 なぜなら、今目の前に立っている理久君の表情を私は見たことがある。そして、その表情の先にある、理久君の感情を私は知っている。

 この状況は、ほんの少し前に一度経験している。

「…改めて、好きです。良かったら、付き合ってくれませんか?」

 微かに震えながら言われた理久君からの言葉に、分かっていたはずなのに、ギュッと心臓を掴まれるような疼きと、そして確かな痛みを感じた。

 あの日の夜の風景と、今目の前の理久君の姿がピッタリと重なった。

 本当に、あの時がそのまま目の前で再生されているんじゃないかと思うくらい、目の前の理久君はあの時と同じだった。

 ただ、あの時は夜で、ぼんやりとした表情くらいしか分からなかったけど、夕焼けに照らされて見える理久君は少し俯いて耳元を赤らめていて、少し手も震えているように見えた。

「……」

 何か言わなきゃいけない。そう思ってはいるのに、頭の中が痺れていてあまり考えがまとまらない。

 一秒一秒が、やけにハッキリ頭の中で自覚できて、それが過ぎゆく度に焦りが積み重なっていく。

 言うことは、決まっている。その答えを出すために、そして伝えるために、私は今日ここに来たのだから。

「……あの」

 何とか絞り出た声は、緊張でカサカサになっていて我ながらみっともなかった。

 自分の思いを伝えるということは、こんなにもドキドキして苦しいものなのかと、初めて自覚した。

「理久君…私は、、」

●●●

 いつから、昇のことをそんな風に意識するようになったのか。

 きっかけらしいきっかけというのは特になくて、多分言えるのは他愛ない日常の積み重ねで、私の気持ちが徐々に友情から別の感情へと変わっていったんだと思う。

 私にとって、何の気兼ねもなく話せる、そして話して来てくれるということは、とても心地良いものだった。

 朝、いつものように登校して、隣の席に既に昇が座っていたら「おはよう」と言って、昇も「おはよう」と返してくれたり。

 授業の合間に、「次って、移動教室だっけ?」「確かそうだよ」なんてわざわざ聴かなくてもいいようなことを、聴いたり聴かれたり。

 同じ好きなアーティストの新曲が出たら、「聴いた!?」「聴いた聴いた!」なんて、お互いにテンション高くその日一日は過ごしたり。

 思い返せば、なんて事のない思い出。いや、思い出というにはあまりにそれは日常過ぎて、きっと昇の方は覚えてなんていないことだと思う。

 だけれども、昇とそんな風に過ごせる時間が、私にとっては何よりの想い出になっていった。

 そんな風に昇と毎日を過ごしていくうちに、私と昇が付き合っているんじゃないかという噂がクラスで流れ始めた。そしてその噂は、自然と私の耳にも入ってきた。

 クラスで所属しているグループの中では、色々気を遣ってくれて聴いてこない子達もいれば、いわゆるイケてるグループの子達はグイグイそのことについて聴いてきた。

 だけど、そんな追求に私は「そんなわけないじゃーん」と軽く受け流して、特に取り合ったりしなかった。

 だって、その頃には既に私は自分の気持ちを自覚してしまっていて、それを周りに気付かれてしまう方が嫌だった。

 そんなある日、放課後の部活が始まるまでのほんの僅かな時間、教室で昇と二人っきりになった。

 それだけ聞いたら、なかなかにドキドキなシチュエーションだけど、実際この時の私は、その状況に特にドキドキするような甘酸っぱい感覚はなかった。
皆と一緒にいることも増えていたけれど、昇と二人になることはそこまで珍しいことではなかったし、別段何か特別なことが起こるなんてことも思っていなかった。

 だって、これも私の中ではいつもの日常の中の一場面に過ぎなかった。

「面倒くさいことになったな」

 会話の内容は、自然と私と昇が付き合っているという噂のことになった。

 実際、私はそこまで気にしてなかったけど、昇は思いの外気にしている様子だった。

「そうだねー」

 だから、私の返答は自然とおざなりになっていた。所詮は噂なんだから、皆の好きなように言わせておけばいいのだ。

「どうする?教室とかで話すのは止めるか?」

 ところが、思いがけない昇の申し出に、考えるより先に言葉が口をついて出た。

「それは、嫌」

 我ながら、それは流石に返しが速過ぎたんじゃないかと思ったけど、言ってしまった以上、ここで止めた方が変な意味ができてしまう。

「何であんな噂真に受けて、私たちが我慢しなくちゃいけないの?そんなの絶対におかしい」

 反射的に嫌と言ってしまったことの弁明のつもりで続けた言葉だったけど、それは紛れもなく本心だった。

 だって、そんなことで私の幸せな日常を奪われたくはなかった。

 昇は、私の返答に少し不思議そうな表情を浮かべていた。私の方は、昇からそう言われたことにモヤモヤしたのに、昇の方は何とも気にしてないようで、そのことが私を更にモヤモヤさせた。

 その時、ふと思いついた。

 そして同時に、ほんの少しだけトクンと心臓が跳ねた。

「…よし、決めた!」

 少しでも間が空いたら、きっと私は言えなくなる。勢いに任せて、手を叩いて座っていた机から飛び降りた。

「昇、今日から私のボーイフレンドね」

 なるべく、変に聞こえないように、なるべく、冗談ぽく聞こえるように、言った。

 言ってしまってから、心臓が細かく脈を打っているのが分かった。

「……はっ?」

 昇は、予想通りの反応だった。

「お前、今何て言った?」
「ボーイフレンド。聞こえなかった?」

 自分の心臓の音が聞こえないように、間髪入れずに答えた。

 一方的に私から言われたことに、昇は見るからに動揺していった。最初は、何を言われたか本当に分からない様子でキョトンとしていたのが、言葉の意味を考えていくうちに徐々に視線が泳いでいって、耳元が少しずつ赤くなってきた気がした。

 その表情を見て、思わずむず痒くなる。

――あぁ、私にそんな反応見せてくれるんだ。

 でも、それ以上は私の方がダメだった。

「って、昇、何か変な想像してない?」

 そして、私は自分で始めたからかいを自分で終わらせた。

 どうしてあんなことを言ったのか。きっと、昇の慌てる反応を見て楽しみたかったんだ。

 それと同時に、昇は私のことをどんな風に見てくれるんだろう、と思った。

――私のことを友だち以上に意識してくれるんだろうか。
――私が彼女になったら、なんてことを想像してくれるんだろうか。

 だからきっと、私はあんなことを昇に言ったんだと思う。

 でも、その時の私にはそれ以上踏み込む勇気がなかった。

 冗談ぽく、「ボーイフレンド」なんて言いながら、実際心臓は破裂しそうなくらいドキドキしていて、もしもそれが本気と捉えられたらどうしようと焦ってるくせに、実際そうなったらどうしようもなく嬉しくて。

 自分の中で矛盾した感情がせめぎ合って、訳が分からなくなった。

 だけど、この時一つだけ良かったことが、それまでの「澤島君」という呼び方からどさくさに紛れて「昇」と呼べたことだった。

 これで、もっと昇との仲が近付いていって、いつかは…

 そんなことを考えていた。

●●●
 
「私は、やっぱり理久君とは付き合えない」

 もう、理久君も自分も誤魔化していくことはできない。

 だって、これ以上は何より理久君に失礼だ。

「『海に向かって』に行って、理久君から言われた時は驚いたけど嬉しかった。実際、まさかそんな風に理久君が思ってくれていたなんて思ってもみなかったから、本当に驚いたけど」

 そして、へなっと力なく笑った。

 だけどすぐさま、笑って誤魔化そうとしているように思える自分の態度に、腹が立った。

「あの日は、ちゃんと返事ができなくて、でもずっと今日まで色んなこと考えてきた。きっと、理久君とは楽しく過ごすことができるかな、って思ったし、実際今日は本当に楽しかった」

 そこまで言って、ギュッと指先に力を込めた。ここからが、本当に伝えるべきことだ。

「だけど、今の私は誰かと付き合ったりするっていうのは考えられない。理久君のことも、どうしても友だち以上には見れない」

 言いながら、どんどん息が苦しくなっていく。息は吸っているはずなのに、身体に入ってくる酸素の量が明らかに足りない。

「だから、ごめん」

 私は、少し頭を下げて最後の言葉を言い終えた。

 理久君からは、何も返答がなかった。沈黙の中で、自分の心臓の音がうるさく込み上げて来た。

 ジンジン痺れている頬を、風が撫でていった。

「…あはは、やっぱりダメだったか」

 理久君の笑い声が響いた。

「原田さん、顔を上げてよ。もう大丈夫だから」

 理久君の言葉に顔をゆっくりと上げた。

 目の前の理久君は、笑っていた。それは、いつもの理久君の笑顔のように見えて、どこか違っていた。

 その顔は、やっぱりどこか淋しそうに見えた。

「でも、ありがとう。そう言ってくれて、でもこうして今日一日僕と過ごしてくれて嬉しかった。それに、僕もこれでスッキリしたから」

 理久君が笑ってくれていることが切なくて、そんな資格はないはずなのに泣きそうになる。

「原田さん、一つだけ聞いてもいいかな?」

 理久君が、その笑顔のまま問い掛けた。

「原田さんは、誰か好きな人っているのかな?」
「……」

 答えられない。答えられるはずがない。

 だけど、そうやって黙ること、今の自分の表情が何よりの答えになってしまいそうで、どうしたらいいのか分からなかった。

「ごめん。余計な事聞いちゃったね!」

 理久君は、慌てた様子で自分自身の言ったことを掻き消すかのように、両手をブンブンと振った。

「ごめん、今のは聞かなかったことにして」

 そう言って笑いかけてくれる理久君に、私は静かに「うん」と答えた。

「うーーん。よし、じゃあ行こうか」

 理久君は、明るく言いながら伸びをした。

「ちょうど、着いた頃には電車も来ちゃうだろうし、遅れちゃったら大変だし」

 そして、理久君は振り返って駅までの道をまた歩き始めた。

 ゆっくりと遠ざかっていく背中を見つめながら、また胸が苦しくなった。でも、そんなことを私が思うのはお門違いだと、自分を戒める。

 ここで苦しい思いをするのは私じゃない、理久君だ。その気持ちを共感するフリをして、自分のことを守るのは止めろ。

 私も、少し急ぎ足で理久君の背中を追った。

「原田さん」

 少し大きめの声で呼び掛けられて、思わずビクリと身体が震えた。

 次にどんな言葉が来るのか、恐る恐る顔を上げた。

 理久君はこちらを見ることなく、真っ直ぐ前を向いたまま歩き続けて、特にその先を続けなかった。

 おそらく、本当はほんのひと時、でもすごく長く感じた時間が流れた。

 そして、理久君は振り返りながら言った。

「…あの、こんなこと言うのもあれなんだけど、原田さんさえ良かったら、友だちでい続けさせてくれないかな?」

 理久君から言われたのは、思いがけない申し出だった。

 その申し出に、強張っていた身体が緩むのを感じた。

 だって、それは私からは絶対に言えないことで、そして私がそうできたら良いなと思っていた言葉だった。

「…いいの?」

 だから、思わずそんな返答をした。

「良いも何も、むしろ僕の方こそいいのかな?こんな虫のいいお願いしちゃって」

 私からの間抜けな返答に、理久君は気まずそうに頬を掻いた。

「虫のいいお願いなんかじゃない。…むしろ、ありがとう。そう言ってくれて」

 そんな理久君に、慌てて言った。

 この言葉が、変わってしまう前に。

「私も、できるなら理久君とこれからも友だちでいたいし、そうできたら良いなって思ってた」

 言いながら、本当にそんな風にできるんだろうかと一瞬嫌な考えがよぎった。

 理久君をこんな風に振ってしまった私が、また理久君と友だち関係に戻って笑ってもいいんだろうか。理久君は、この先も私と話をして苦しくなったりしないだろうか。

 自分自身が、この先も理久君と関わる資格があるのか。そして、理久君の心情を考えて不安になる。

「もちろん」

 でも、理久君は即答だった。

「僕が原田さんのことが好きなのは確かにそうだけど、でも振られたからって話せなくなったり、原田さんが僕に気を遣ったりする方がもっと嫌かな」

 理久君の声は、本心からそう言ってくれているようだった。

「まぁ、しばらくは頑張らないとうまく話せないかもしれないけど」

 理久君は、お道化るように言った。

 でも、すぐに顔を引き締めて言葉を続けた。

「でも、僕としては、これからも皆で会ったり、原田さんとも仲良くできたら嬉しいかな」

 そして、満面の笑顔を私に向けてくれた。

「…うん」

 その笑顔に、少しだけ救われてしまった。

「…ありがとう」

 あぁ、やっぱり理久君は本当に優しい。

 ここで、私にそんな言葉を掛けてくれること。そして、ここで「皆」という言葉を使ってくれること。

「私も、そうできたら嬉しい」

 そんな理久君からの優しさに甘えて、私から言える言葉はこんなことしかなかった。

 でも、そんな私からの返答に、理久君は満足したように前に向き直った。そして、変わらず前を向いて歩き続けていた。

 ほんの少しだけ、歩調を速めながら。

「……」

 その歩調に合わせて、私も少し歩くスピードを速めた。

 少しでも、理久君の歩調に合わせられるように。

 その優しさに、追いつけるように。
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