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恋人ごっこまでの経緯
王族の依頼は断れるわけない
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ユートゥルナはおもむろに引き出しを探り、金の紋章が入った書状を取り出した。
「王族からの依頼でね」
ユートゥルナは、少しため息を吐きながら、書状を開き、マリーに見せる。
「珍しい、ですね……」
王族は泉の神を信仰している立場であり、国境付近の結界を任せている一方、近年の他国における工業化や天才王子の誕生で主張を強め、修道院とは国政においてやや対立気味であった。
要は宗教を重んじる国が他国の近代化によって、格式と伝統を軽んじはじめているのだ。
時代の流れとともに人々は魔物や妖精、精霊を信じなくなり、信じられなくなったその者たちは力を失っていく。
信じる力こそ、彼らの力の源なのだ。
一昔前なら、力があった魔物も今や、たかが幽霊程度の存在と言われているものもある。
それと対応してか、人間における魔法を使える異能者も格段に減っているのも事実だ。
だから、王族が修道院に依頼するとは珍しい事だった。
たいていの依頼は、修道院のユートゥルナを信仰する各地の教会関係者貴族や平民からの依頼が多いからだ。
「そうなんだよ。僕も驚いている。まさか王家が頼み事なんてね。書状にも書いてあるけど、王家が管理する古代の魔物が封印された本が盗まれて、どっかの誰かさんが魔物を逃がしたそうなんだ。いくら武力を行使しても、こういう魔物系は僕たちじゃないと対処できないしね。あの、化け物みたいな王子様でも無理だったんじゃないかな」
『化け物みたいな王子』と聞いてわからない者は、この国にいない。
ここ数十年、世間を騒がしている異能の天才王子ーー氷華殿下は物を凍らす異能を持つ。
ちなみに先程述べた異能とは魔法のようなもので、魔法石から職人が作り出した装飾品や武器ーー魔器を使用して炎を出したり、水を作ったり、その場にない物を生成することだ。
王子はどんな魔器を使用しているか不明な点は多いが、話によると対象物に触れないで凍らすことができるらしい。
怖いところはただ凍らすだけでなく、水晶に変えてしまうところだ。
時には大気に無数の氷の矢を生み出し一瞬で飛ばしたり、街全体を凍らしてしまったこともあるらしい。
今もなお氷続ける街として有名だ。
その王子は端正な顔立ちだが、人形のように感情がなく、化け物と言われている。
王子の周りは冷ややかな空気が纏い、氷の結晶が華のように舞っているらしい。
そのため、専ら氷華殿下と呼ばれている。
そんな最強の王子がいる王家も、魔物や悪魔といった、形のない者は修道院にお任せと言ったところか。
「君は確か封じ込めの魔法得意だったよね」
「まぁ、人並みには……」
得意というか、他の攻撃魔法よりはまだ使い物になる程度だった。簡単な魔物くらいならできる。
マリーは修道女なのに、魔法がイマイチで、とても戦える品物ではないことは確かだ。
「君は今年で23だよね。正直若く見えるし」
「はい。さようですか……」
どちらかというと野暮ったいのか、色気がないからか、地味な黒髪のせいか、実年齢より若く見える方だった。
「社交界に令嬢として潜入してほしいんだ」
ユートゥルナはにっこり笑い、書状を丸めて、マリーにぽん、と渡した。
「は、はぁ」
マリーは戸惑いが隠せず、情けない声が漏れる。
(え、令嬢って、どこから見ても洒落っ気ひとつない私にどうやってあの煌びやかな社交界に潜入するスキルが? 無理無理無理! いくら綺麗にしてもメッキが剥がれるようにボロ出るでしょう?! だいたいダンスとか急に踊れないわよ?!)
確実な人選ミスだ。
令嬢なんてなりきれるわけがない。
すぐにバレるのがオチだ。
「いや、私は昔は貴族でしたが、そのような場は縁もなく……」
神様から与えられるミッションはイェス、ノー関係なく引き受けるのが修道女の務めだが、今回、マリーは丁重にお断りしたかった。
それにもっと他に適役はいくらでもいるはずだ。
華やかで、色っぽく、目立つような美人で、かつ社交性のある人物を選ぶべきだ。
ユートゥルナ様がなぜ血迷ったか分からないが、しっかり理由を説明すれば理解してくれるはずだとマリーは思った。
それは明らかな、本当に明らかな人選ミス、誤り、失敗だと。
(ここは丁重にお断りしなくてはいけないわ)
任務に選んで頂いたことは光栄なことだし、失礼がないように。
「ユートゥルナ様。よくお考え下さい。令嬢とは美しく華やかな存在。それに比べ私にはちょっと不適な」
「そういやぁ、毎年君が参加している絵画のコンクール5月の下旬だったっけ? もうそんな時期かぁ」
ユートゥルナはマリーが言い終わる前に言葉をかぶせてきた。断ることは許さないというような、はっきりとした口調で。
マリーの肩を両手で掴み、向かい合った状態で言い聞かせるように言った。
「王都には壮大な建造物や珍しい調度品も、有名な画廊もある。なにより薔薇が咲き誇る都だから景色もいいし、王宮もなかなか素晴らしい造りだ。君の絵の勉強にもなると思う。しかも、君が毎年参加しているコンクールの最終選考は王都で行われるらしいじゃないか」
マリーは毎年、王都に用がある修道女をつかまえて作品を郵送していた。
今年はフレッドが王都付近に仕事があるそうで、頼むつもりだったのだが。
「やっぱ本場を体験した方がいいんじゃない? 確かにいつもとは違う感じの仕事にはなるかもしれない。解決までに数ヶ月もかかるし。令嬢になると言っても、ざっくり言えば潜入捜査だ。なにも攻撃魔法で魔物を倒せと言っているわけじゃない。社交界に紛れ混んで黒幕を探ってほしいんだ。もちろん、魔物も適宜回収してね」
ユートゥルナは赤背表紙の本を渡す。
魔物封印用の本だ。
ちなみに、赤は修道院の魔本の色である。
「この本に魔物入れて行ってね。何冊か予備も渡しておくね」
ユートゥルナは何冊かと言っておきながら、マリーに厚みのある本を10冊程渡していった。
マリーが、ちょっと重いなぁ、という顔をしたら、彼は近くにあった高そうな皮の鞄に詰めて渡してくれた。
鞄は好きに使って、あげると。
なんだか、申し訳ない。
「今回は魔物に操られている人間が一番厄介なんだ。魔物自体はそこまでレベルは高くないけど、人害がひどい。僕たちの仕事は魔物回収だけど、人間相手と思ってくれてもいいくらいだ」
「人間相手? どういうことでしょう」
「この事件は単に強力な魔法を使えるからって解決は難しい。魔物より人間の方が厄介ってことさ。ちなみに僕は、この案件を君の昇進試験にしようと思っている」
昇進。
その言葉を聞いてマリーは目を見開く。
昇進すれば、少しは同僚と肩を並べることができる。
思いもしなかった機会だ。
万年雑用お荷物修道女にまさかのチャンスが訪れたのだ。
マリーの心が揺らいだのを見て、ユートゥルナが畳み掛ける。
彼はにこにこ人の良さそうな笑みを浮かべた。
「乗る気になってくれた? よかったー、安心したよ。僕も君の事は前々から応援したかったし」
「え、でも……」
令嬢になんてなれるのか? 地味な修道女が。
絵の具を顔につけてるような化粧っ気もない、社交マナーもしらない私が。
そんなマリーの気持ちなどお構いなしでユートゥルナは話をすすめる。
「じゃあ折角だから、より社交界に馴染めるよう婚約者つけとこうか! ついでに執事も!」
ユートゥルナは適当に紙を取り出し、走り書きした。
「えっーと、今回の件、承知しました、と。しっかりした間違いのない婚約者役、執事役、サポートにあたる教会関係者の協力もよろしくお願いします、とヨシ! できたぁーー!」
ユートゥルナが紙にふぅ、と息を吹きかけると紙は鳩になって飛んでいった。
「ちょ、ちょっと待って下さいっ。お返事はまだ……送っちゃったら、決定してしまうじゃぁ、ないですかぁ……」
鳩が出窓からマリーを一瞥し出て行った。
マリーの王都行きが決定してしまったのだ。
(どうしよう、どうしよう、どうしようーー!)
マリーは変な汗が身体中から吹き出した。
王家の任務ということは、うっかりヘマをしたら、あのこわーい王子様に殺されるのだろうか。
役立たず、恥を知れって。
そんでもって、さらに修道院と王族の仲が悪くなったりして……。
やっぱり、そんな重要な仕事はお断りしたい。
マリーが口を開きかけたその時。
何か思い出したようにユートゥルナは言った。
「あ、断ろうなんて今更思っていないよね。王族に二言はないから、分かるよね? 僕はちゃんと君が行くって書いたからね? 王族怖いから決定事項は守った方がいいよ」
回避不可。
マリーは地面に項垂れる。
もはや不安しかなかった。
王族の依頼。あのサイコパスと言われる氷華殿下の依頼なら容赦ないだろう。
もう成功させるしか未来はない。マリーの平和な日常は戻ってこないのだ。
「はい、がんばり、ます」
もう今すぐ泣きたい気分だったが、泣いたって何も解決しない。水分が体から失われるだけだ。
マリーはぐっと堪えた。
「あと、初めに言っておくけど、いくら向こうが楽しくてもちゃんと戻ってくること」
意味深にユートゥルナはマリーを見た。
急に意外な事を言われたマリーは「は?」と思わず間抜けな声を漏らしてしまう。
「外は色んな魅力があるしね。自由な生活とか、魅力的な出会いとか……」
分が悪そうに、彼は呟いた。
ユートゥルナはマリーが社交界、というか俗世が気に入ってしまうかもしれないと心配しているようだった。
いきなり何を言い出すかと思えば、おかしかった。
だって、マリーはここでの暮しは好きだったから。
労働は大変だけど、暖かいこの閉塞的な空間が好きだった。
気にかけてくれる友人やちょっとほっておけない優しい穏やかな神様が好きだった。
初めて見つけた自分の居場所だったから。こんな自分でも受け入れてくれる優しい優しい世界。
「私はこの生活が気に入ってます」
はっきりと答えると、ユートゥルナは安心したように息を吐き、笑った。
「なら、よかった。もし、君が社交界で素敵な人が現れて修道女辞めるとか言われたら悲しいしね」
ないない、絶対ない。ありえない。
恋多き美女ならそんなロマンスもあり得るかもしれないが、修道女が貴族に恋をして結ばれるなんておとぎ話レベルの有りえない話だった。
修道女になった時から俗世から離れ、もう一人の人間としては死んだも同然で、家庭がある未来とか愛する人と人生を歩むとか人としての幸せの権利を放棄したのだ。
もちろん、結婚するだけが幸せではない。そういう意味の幸せではなく、人生の選択肢を選ぶ自由の意味合いが強い。
修道女は人間ではなく、神の使いであり、所有物だ。
より良い世界の為に神様のお手伝いをする事が生きる意味そのものだった。
心配するユートゥルナに、心配する視点は王都で恋人うんぬんかんぬんではなく、任務をクリアできるかどうかではないか? とマリーは思った。
「任務まで時間があるけど、早めに王都着くように手配するし、休暇も兼ねて楽しんでおいで」
それは思ってもみない休暇だった。
マリーは流されて引き受けることになったが、まぁ、こうやって休暇をくれたり、好きなように絵を描かせてくれたりするユートゥルナのことは嫌いではなかった。
無茶ぶりもあるけど、色々気遣われているんだなぁ、と。
長い休みなんて修道女になってからいつぶりだろう。
「あ、ひとつだけ、確認したいんだけど、いいかな?」
「何でしょう?」
「君は自分の今後についてどう考えている?」
自分の今後。進路的な事を言いたいのだろう。
そんな下っ端の修道女に選べるだけの道はないが、希望はある。
「そうですね、一生修道院で暮らさせて頂ければ嬉しいです。微力ながら、自分にできることは生涯していきたいと思ってます」
「一生、修道院にいるんだね?」
「はい。私は修道女ですから。生涯、ユートゥルナ様のご活躍を支えるために尽力を尽くします」
ふーん、と少し面白くなさそうにユートゥルナはマリーを見下げる。
「じゃあ、君は修道女。僕の修道女。君は、僕の命令ならなんでも聞けるの?」
「はい、命令ならば命も惜しくありません」
「うわー大した信仰心だねぇ。ちょっと引くなぁ」
マリーは修道院に借りがあるし、ユートゥルナがマリーに間違った命令も下す事もない。あるのは信頼だ。
「じゃあ、僕の命令は絶対なんだね、わかった」
「何かありますか?」
「いや、いいよ。今回の任務が終わったら、ちょっと私的な事だけどお願いしようかな。いいよね、いいんだよね?」
「どうぞ、なんなりと」
私的とは珍しい。
検討もつかないが、どうせ、雑務だろう。
本が散乱する部屋の片付けとか?
「マリーよく聞いて? 人間の人生というものはね、案外あっという間なんだよ。若い時代なんて本当一瞬。だから、後悔しないように楽しんでおいで。なかなか王都なんて行けないしね。今後は修道院から出れないし……今回は素敵な体験が出来る事を祈っているよ」
ユートゥルナは意味深に笑った。
修道院から出れないと小声で聞こえたがどう言う意味だろう。
もう、任務は任せられないって事?
修道院から出れないなんてユートゥルナ様ではあるまいし。
「帰ってきたらじっくり聞かせてね!」
肩を叩かれ、激励される。
マリーはなんとなく納得いかず、言葉の裏を考えてみる。
(最後の外出みたいな口ぶりだな?)
真意は任務を無事終えて、修道院帰還まで謎だ。
「王族からの依頼でね」
ユートゥルナは、少しため息を吐きながら、書状を開き、マリーに見せる。
「珍しい、ですね……」
王族は泉の神を信仰している立場であり、国境付近の結界を任せている一方、近年の他国における工業化や天才王子の誕生で主張を強め、修道院とは国政においてやや対立気味であった。
要は宗教を重んじる国が他国の近代化によって、格式と伝統を軽んじはじめているのだ。
時代の流れとともに人々は魔物や妖精、精霊を信じなくなり、信じられなくなったその者たちは力を失っていく。
信じる力こそ、彼らの力の源なのだ。
一昔前なら、力があった魔物も今や、たかが幽霊程度の存在と言われているものもある。
それと対応してか、人間における魔法を使える異能者も格段に減っているのも事実だ。
だから、王族が修道院に依頼するとは珍しい事だった。
たいていの依頼は、修道院のユートゥルナを信仰する各地の教会関係者貴族や平民からの依頼が多いからだ。
「そうなんだよ。僕も驚いている。まさか王家が頼み事なんてね。書状にも書いてあるけど、王家が管理する古代の魔物が封印された本が盗まれて、どっかの誰かさんが魔物を逃がしたそうなんだ。いくら武力を行使しても、こういう魔物系は僕たちじゃないと対処できないしね。あの、化け物みたいな王子様でも無理だったんじゃないかな」
『化け物みたいな王子』と聞いてわからない者は、この国にいない。
ここ数十年、世間を騒がしている異能の天才王子ーー氷華殿下は物を凍らす異能を持つ。
ちなみに先程述べた異能とは魔法のようなもので、魔法石から職人が作り出した装飾品や武器ーー魔器を使用して炎を出したり、水を作ったり、その場にない物を生成することだ。
王子はどんな魔器を使用しているか不明な点は多いが、話によると対象物に触れないで凍らすことができるらしい。
怖いところはただ凍らすだけでなく、水晶に変えてしまうところだ。
時には大気に無数の氷の矢を生み出し一瞬で飛ばしたり、街全体を凍らしてしまったこともあるらしい。
今もなお氷続ける街として有名だ。
その王子は端正な顔立ちだが、人形のように感情がなく、化け物と言われている。
王子の周りは冷ややかな空気が纏い、氷の結晶が華のように舞っているらしい。
そのため、専ら氷華殿下と呼ばれている。
そんな最強の王子がいる王家も、魔物や悪魔といった、形のない者は修道院にお任せと言ったところか。
「君は確か封じ込めの魔法得意だったよね」
「まぁ、人並みには……」
得意というか、他の攻撃魔法よりはまだ使い物になる程度だった。簡単な魔物くらいならできる。
マリーは修道女なのに、魔法がイマイチで、とても戦える品物ではないことは確かだ。
「君は今年で23だよね。正直若く見えるし」
「はい。さようですか……」
どちらかというと野暮ったいのか、色気がないからか、地味な黒髪のせいか、実年齢より若く見える方だった。
「社交界に令嬢として潜入してほしいんだ」
ユートゥルナはにっこり笑い、書状を丸めて、マリーにぽん、と渡した。
「は、はぁ」
マリーは戸惑いが隠せず、情けない声が漏れる。
(え、令嬢って、どこから見ても洒落っ気ひとつない私にどうやってあの煌びやかな社交界に潜入するスキルが? 無理無理無理! いくら綺麗にしてもメッキが剥がれるようにボロ出るでしょう?! だいたいダンスとか急に踊れないわよ?!)
確実な人選ミスだ。
令嬢なんてなりきれるわけがない。
すぐにバレるのがオチだ。
「いや、私は昔は貴族でしたが、そのような場は縁もなく……」
神様から与えられるミッションはイェス、ノー関係なく引き受けるのが修道女の務めだが、今回、マリーは丁重にお断りしたかった。
それにもっと他に適役はいくらでもいるはずだ。
華やかで、色っぽく、目立つような美人で、かつ社交性のある人物を選ぶべきだ。
ユートゥルナ様がなぜ血迷ったか分からないが、しっかり理由を説明すれば理解してくれるはずだとマリーは思った。
それは明らかな、本当に明らかな人選ミス、誤り、失敗だと。
(ここは丁重にお断りしなくてはいけないわ)
任務に選んで頂いたことは光栄なことだし、失礼がないように。
「ユートゥルナ様。よくお考え下さい。令嬢とは美しく華やかな存在。それに比べ私にはちょっと不適な」
「そういやぁ、毎年君が参加している絵画のコンクール5月の下旬だったっけ? もうそんな時期かぁ」
ユートゥルナはマリーが言い終わる前に言葉をかぶせてきた。断ることは許さないというような、はっきりとした口調で。
マリーの肩を両手で掴み、向かい合った状態で言い聞かせるように言った。
「王都には壮大な建造物や珍しい調度品も、有名な画廊もある。なにより薔薇が咲き誇る都だから景色もいいし、王宮もなかなか素晴らしい造りだ。君の絵の勉強にもなると思う。しかも、君が毎年参加しているコンクールの最終選考は王都で行われるらしいじゃないか」
マリーは毎年、王都に用がある修道女をつかまえて作品を郵送していた。
今年はフレッドが王都付近に仕事があるそうで、頼むつもりだったのだが。
「やっぱ本場を体験した方がいいんじゃない? 確かにいつもとは違う感じの仕事にはなるかもしれない。解決までに数ヶ月もかかるし。令嬢になると言っても、ざっくり言えば潜入捜査だ。なにも攻撃魔法で魔物を倒せと言っているわけじゃない。社交界に紛れ混んで黒幕を探ってほしいんだ。もちろん、魔物も適宜回収してね」
ユートゥルナは赤背表紙の本を渡す。
魔物封印用の本だ。
ちなみに、赤は修道院の魔本の色である。
「この本に魔物入れて行ってね。何冊か予備も渡しておくね」
ユートゥルナは何冊かと言っておきながら、マリーに厚みのある本を10冊程渡していった。
マリーが、ちょっと重いなぁ、という顔をしたら、彼は近くにあった高そうな皮の鞄に詰めて渡してくれた。
鞄は好きに使って、あげると。
なんだか、申し訳ない。
「今回は魔物に操られている人間が一番厄介なんだ。魔物自体はそこまでレベルは高くないけど、人害がひどい。僕たちの仕事は魔物回収だけど、人間相手と思ってくれてもいいくらいだ」
「人間相手? どういうことでしょう」
「この事件は単に強力な魔法を使えるからって解決は難しい。魔物より人間の方が厄介ってことさ。ちなみに僕は、この案件を君の昇進試験にしようと思っている」
昇進。
その言葉を聞いてマリーは目を見開く。
昇進すれば、少しは同僚と肩を並べることができる。
思いもしなかった機会だ。
万年雑用お荷物修道女にまさかのチャンスが訪れたのだ。
マリーの心が揺らいだのを見て、ユートゥルナが畳み掛ける。
彼はにこにこ人の良さそうな笑みを浮かべた。
「乗る気になってくれた? よかったー、安心したよ。僕も君の事は前々から応援したかったし」
「え、でも……」
令嬢になんてなれるのか? 地味な修道女が。
絵の具を顔につけてるような化粧っ気もない、社交マナーもしらない私が。
そんなマリーの気持ちなどお構いなしでユートゥルナは話をすすめる。
「じゃあ折角だから、より社交界に馴染めるよう婚約者つけとこうか! ついでに執事も!」
ユートゥルナは適当に紙を取り出し、走り書きした。
「えっーと、今回の件、承知しました、と。しっかりした間違いのない婚約者役、執事役、サポートにあたる教会関係者の協力もよろしくお願いします、とヨシ! できたぁーー!」
ユートゥルナが紙にふぅ、と息を吹きかけると紙は鳩になって飛んでいった。
「ちょ、ちょっと待って下さいっ。お返事はまだ……送っちゃったら、決定してしまうじゃぁ、ないですかぁ……」
鳩が出窓からマリーを一瞥し出て行った。
マリーの王都行きが決定してしまったのだ。
(どうしよう、どうしよう、どうしようーー!)
マリーは変な汗が身体中から吹き出した。
王家の任務ということは、うっかりヘマをしたら、あのこわーい王子様に殺されるのだろうか。
役立たず、恥を知れって。
そんでもって、さらに修道院と王族の仲が悪くなったりして……。
やっぱり、そんな重要な仕事はお断りしたい。
マリーが口を開きかけたその時。
何か思い出したようにユートゥルナは言った。
「あ、断ろうなんて今更思っていないよね。王族に二言はないから、分かるよね? 僕はちゃんと君が行くって書いたからね? 王族怖いから決定事項は守った方がいいよ」
回避不可。
マリーは地面に項垂れる。
もはや不安しかなかった。
王族の依頼。あのサイコパスと言われる氷華殿下の依頼なら容赦ないだろう。
もう成功させるしか未来はない。マリーの平和な日常は戻ってこないのだ。
「はい、がんばり、ます」
もう今すぐ泣きたい気分だったが、泣いたって何も解決しない。水分が体から失われるだけだ。
マリーはぐっと堪えた。
「あと、初めに言っておくけど、いくら向こうが楽しくてもちゃんと戻ってくること」
意味深にユートゥルナはマリーを見た。
急に意外な事を言われたマリーは「は?」と思わず間抜けな声を漏らしてしまう。
「外は色んな魅力があるしね。自由な生活とか、魅力的な出会いとか……」
分が悪そうに、彼は呟いた。
ユートゥルナはマリーが社交界、というか俗世が気に入ってしまうかもしれないと心配しているようだった。
いきなり何を言い出すかと思えば、おかしかった。
だって、マリーはここでの暮しは好きだったから。
労働は大変だけど、暖かいこの閉塞的な空間が好きだった。
気にかけてくれる友人やちょっとほっておけない優しい穏やかな神様が好きだった。
初めて見つけた自分の居場所だったから。こんな自分でも受け入れてくれる優しい優しい世界。
「私はこの生活が気に入ってます」
はっきりと答えると、ユートゥルナは安心したように息を吐き、笑った。
「なら、よかった。もし、君が社交界で素敵な人が現れて修道女辞めるとか言われたら悲しいしね」
ないない、絶対ない。ありえない。
恋多き美女ならそんなロマンスもあり得るかもしれないが、修道女が貴族に恋をして結ばれるなんておとぎ話レベルの有りえない話だった。
修道女になった時から俗世から離れ、もう一人の人間としては死んだも同然で、家庭がある未来とか愛する人と人生を歩むとか人としての幸せの権利を放棄したのだ。
もちろん、結婚するだけが幸せではない。そういう意味の幸せではなく、人生の選択肢を選ぶ自由の意味合いが強い。
修道女は人間ではなく、神の使いであり、所有物だ。
より良い世界の為に神様のお手伝いをする事が生きる意味そのものだった。
心配するユートゥルナに、心配する視点は王都で恋人うんぬんかんぬんではなく、任務をクリアできるかどうかではないか? とマリーは思った。
「任務まで時間があるけど、早めに王都着くように手配するし、休暇も兼ねて楽しんでおいで」
それは思ってもみない休暇だった。
マリーは流されて引き受けることになったが、まぁ、こうやって休暇をくれたり、好きなように絵を描かせてくれたりするユートゥルナのことは嫌いではなかった。
無茶ぶりもあるけど、色々気遣われているんだなぁ、と。
長い休みなんて修道女になってからいつぶりだろう。
「あ、ひとつだけ、確認したいんだけど、いいかな?」
「何でしょう?」
「君は自分の今後についてどう考えている?」
自分の今後。進路的な事を言いたいのだろう。
そんな下っ端の修道女に選べるだけの道はないが、希望はある。
「そうですね、一生修道院で暮らさせて頂ければ嬉しいです。微力ながら、自分にできることは生涯していきたいと思ってます」
「一生、修道院にいるんだね?」
「はい。私は修道女ですから。生涯、ユートゥルナ様のご活躍を支えるために尽力を尽くします」
ふーん、と少し面白くなさそうにユートゥルナはマリーを見下げる。
「じゃあ、君は修道女。僕の修道女。君は、僕の命令ならなんでも聞けるの?」
「はい、命令ならば命も惜しくありません」
「うわー大した信仰心だねぇ。ちょっと引くなぁ」
マリーは修道院に借りがあるし、ユートゥルナがマリーに間違った命令も下す事もない。あるのは信頼だ。
「じゃあ、僕の命令は絶対なんだね、わかった」
「何かありますか?」
「いや、いいよ。今回の任務が終わったら、ちょっと私的な事だけどお願いしようかな。いいよね、いいんだよね?」
「どうぞ、なんなりと」
私的とは珍しい。
検討もつかないが、どうせ、雑務だろう。
本が散乱する部屋の片付けとか?
「マリーよく聞いて? 人間の人生というものはね、案外あっという間なんだよ。若い時代なんて本当一瞬。だから、後悔しないように楽しんでおいで。なかなか王都なんて行けないしね。今後は修道院から出れないし……今回は素敵な体験が出来る事を祈っているよ」
ユートゥルナは意味深に笑った。
修道院から出れないと小声で聞こえたがどう言う意味だろう。
もう、任務は任せられないって事?
修道院から出れないなんてユートゥルナ様ではあるまいし。
「帰ってきたらじっくり聞かせてね!」
肩を叩かれ、激励される。
マリーはなんとなく納得いかず、言葉の裏を考えてみる。
(最後の外出みたいな口ぶりだな?)
真意は任務を無事終えて、修道院帰還まで謎だ。
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