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恋人ごっこまでの経緯
蝶降る花弁
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「どうした、早くかかってこい」
男は腕を組んだまま、自信満々な不遜な態度だ。
顔は聖書の肖像画のように端正なのに、全くの慈悲が無い無表情で意地悪ささえあった。
顔立ちは端正なのに、ちょっとした物憂げな雰囲気と、愛想のなさ、釣り目で性格が悪そうに見える。
しかも、初対面から不愛想で、マリーを刺客扱いだ。
(……こんな失礼な男性、初めてみたわ)
彼の態度もそうだが、もうひとつ気がかりな点がある。
ゆらゆら長いピアスが揺れ、西陽を浴びて妖しげに輝いている。
マリーは不思議に思った。
仮に彼が軍人ではなく貴族だとしても、腰に剣がないのはなぜだろうか?
今日は王家の婚姻だからか?
剣もなく、丸腰で戦うとはよほど力自慢か、簡単な術しか使えないからとマリーを舐めているからだろうか。
彼が異能者だったとしても武器となる魔器がない。
彼は明らかな手ぶらだった。
仮に派手なピアスが魔器であっても、どうやって使用するのか。
(ピアスを爆弾みたいに投げるとか? 外したら、一発で終わりじゃないの)
目の前の彼はそんな間抜けな感じには見えなかった。
彼を例えるなら、狙ったものは逃がさないタイプだ。
逆らったらタダで済まさない威圧感がそれを物語っている。
マリーの体をびりびりと伝う緊張感は、彼が戦いにおいて慣れており、かつ、本能のどこかでこの男は危険だと警鐘を鳴らしているのだ。
剣さえない相手に対して。
ただ、これは、戦いというか、これはゲームみたいなものだ。
少し身体を張る遊び。
もしかして貴族である彼はマリーのような術使いが珍しかったから腕試しでもしたかったのかもしれない。
「さっさとしろ」
マリーが思案している間に男は痺れを切らしていた。
やはり、かなりせっかちで切れやすいタイプかもしれない。
マリーは彼が言う刺客ではないが、そんなことを説明するよりもさっさと勝負に決着をつけたほうがいいと思った。
自信ありげで、傲慢、かつ思い通りにいかないと我慢できないタイプだから。
(何を言ってもダメそう。……仕方ないよね)
マリーは彼の遊びに少し付き合うことにした。
マリー本を宙に投げ出した。
(あんまり任務以外で、しかも一般人に術は使いたくなかったけど……仕方ない。気が済んだら、諦めるよね)
そもそも軍人と修道士ではフィールドが違う。
軍人が対人間であるのに対し、修道士は対魔物的な、対象物が違うのだ。
本が空中を回転しながら落ちてくる前に素早く指で呪文を描く。
すると本が光を帯びて、本に描いてあった数百の蝶が飛び出した。
赤、黄色、白ーーさまざまな輝く蝶は、ひらひらと天井まで舞うと、ひかりを帯びて花びらのように散る。
あたりは一面光に包まれた。
その中の、一羽だけを光の中に隠しておいた蝶を光のスピードで向かわせる。
(当たればいいんでしょう?)
あのスピードについていける人はなかなか見たことない。
光のような速さで一瞬で終わる筈だ。
(……やったかな)
真っ白だった視界が徐々に鮮明になる。
術を終え、本に全ての蝶が戻った頃には決着はついている。貴族に危害を加えるわけいかない。
これで気が済んでくれればいいけど。
光が晴れて本が落ちた。
マリーは目の前の光景に唖然とする。
無数の蝶が凍って精巧にできた硝子細工のような姿で地面に転がっている。
花弁になった子たちも、全部。
最後の一羽に関しては丁寧に凍らせず、氷でできた籠に入っており、彼は足元の檻を見下ろしていた。
勝負はついた。かなりあっさり。
マリーのそばに落ちている本には蝶は一羽も描かれておらず、ただの白紙の束になっていた。
「どうやら一匹も戻れなかったな?」
彼の冷ややかな視線がマリーに降り注ぐ。
「約束だ。絵の事は諦めるんだな」
と低い声で言った。
側に落ちている蝶を掬いあげると、冷たいが体温で溶けそうなものではなく、まるでクリスタル細工だった。
この鮮やかな美しい術は一部の王族しか使えない。
クリスタル加工技術は王家のものだが、戦闘に実用化したのは最近世間を賑わせている人物のみだ。
氷華殿下。――ただひとり。
現時点で彼が氷華殿下であるのは、99%くらいの確率だ。
しかも、マリーは(仮)氷華殿下刺客だと思われているらしい。
勝負はマリーの負け。
愚かな刺客は始末される、確実に不敬罪だ。
彼がもし、氷華殿下なら100%謀叛で処刑だ。
よくてクリスタル漬けにされて幽閉だ。噂によると。
蝶は一羽もいない。力の差は歴然だ。
(触れなくても私なんか一瞬で凍らせられる)
一歩ずつマリーに近づく足音が静寂している教会に響く。マリーには死が近づく音に聞こえた。
(ダメだ……これが運良く有能な軍人でも処罰対象だよね。思いっきり、術使っちゃったし……危害を加えるつもりはなかったけど)
マリーがもうダメだと目を瞑るが、何も起こらない。
男は籠の近くまで寄ると、ぱちんと指を鳴らした。
籠ががちゃんと壊れ、蝶が逃げ出した。
(あれ、どうして……逃したの?)
すると今朝探していた青鳳蝶の『青ちゃん』も出窓の方からやってきた。
よく夜にこっそり出て行っては朝帰りをする不良蝶、青ちゃん。
マリーの処女作である鳳蝶はよくふらふら本から勝手に出て行く娘だ。
青ちゃんはひらひら彼の周りを飛んでいる。
(やめて青ちゃん。それ以上刺激しないで)
無常にも蝶は彼の肩に止まった。
彼は青ちゃんに気を止めることもなく、マリーに淡々と言う。
「触れられなかった。貴様の負けだ」
「あの……」
「勝負は終わった。もう声をかけるな」
彼は近くにあった礼拝者ようの長椅子に座って、本を開き読み始めた。
出窓が開いていており、雨が入ってくる。
雨が降っているのに開いていたらしい。
マリーは罰せられることもなく、何もなかったように彼はーーまるでマリーの存在など無いものかのように無視して、真剣に読書に耽っている。
不自然に開いた出窓と妙に懐いている青ちゃん。
(もしかして、青ちゃんを逃してくれようと開けてくれたの?)
しかし、もし、彼が氷華殿下なら無情かつ人離れしか化け物のはず。
屍の山を築く、戦場に酔いしれる戦闘狂なのだから。
彼は服装から相当な身分だと思われるが、お咎めもなく、この場から立ち去れとも言わない。
何もなかったような、沈黙が続く。
もしかして怖い人ではないのだろうか。ちょっと交戦的な、威張りたいタイプの実は親切な軍人さん?
「あの……」
マリーは意を決して、声をかけてみる。
彼の視線は本の方を向いたままだった。
「なんだ? 声をかけるなと言っただろう」
彼は気だるそうに答えた。
マリーは落ち着いて聞いてみると、彼の声は低いのに、やけに響く、癖のない、いい声だった。
何より本を読んでいるだけなのに、絵になる美貌。
(ああ、やっぱり描きたい)
マリーは懲りてなかった。
ここは確認のためにやはり確かめるべきだ。
違ったら、それに越したことない。
彼は悪い人じゃなさそうだし、王都で『友達1号さん』になってくれたら嬉しいとマリーは楽観的に考えた。
貴族なら社交界で会うかもしれないし。
そんでもって、たまに絵を描かせてくれたら最高だ。
「お名前を、お、お聞きしても良いでしょうか?」
氷華殿下でありませんように! と願いを込めて、念には念をこめて、マリーは訊いてみた。
「リシャール」
「え?」
「リシャール・スウルス・メイルアンテリュール」
ああやっぱり。
今思い出したぞ、名前。そうそう、リシャール。
国によっては、リチャードとかリチャルドとかいう、結構平凡な名前。
マリーとおんなじくらい平凡な名前。
(やっちゃったーーーー!!)
ユートゥルナ様ごめんなさい。
やらかしました。
私、修道士マリーは王族かつ恐れ多い氷華殿下の喧嘩買いました。
しかも、つい、軽く声をかけてしまいました。
あまりに綺麗だったんだもの。
存在がこの世のものとは思えないくらい尊かったんです。
しかも、氷華殿下に綺麗だとかしつこく言い寄ってしまいました。
マリーは心の中でユートゥルナに懺悔した。
(今更、教会から派遣されているといえばいい?)
確かリシャールは修道院嫌いってきいたことあるし、女も嫌いだったはずだ。
テオフィル殿下の依頼だったらいいなぁ、とマリーは思う。
そうじゃないとマリーは救われない。ミッション前にアウトだ。
マリーは今から極秘任務に着くのに、こんなに簡単に手の内をばらすように、術を使うのだから、昇進もナシ決定だ。
バクバクする心臓、手に握る汗。
マリーはいろいろ問題がありすぎて、どこからリシャールに謝ればいいか分からなかった。
とりあえず、現実逃避するかのように、リシャールから出来るだけ離れて遠くに座る。
どうしよう、どう切り出そう。
(雨が止むまで。そう。止むまで。なにか解決策を!!)
地獄一歩手前の鬼気迫る表情のマリーは必死に考えていた。
しかもなんだか、寒い。
そういえば、画材を守るために雨に打た、上衣がかなり濡れている。
下に着ているワンピースにも湿っているかもしれない。
「くしゅ……」
まさかのまさか、こんな重要な事態にくしゃみが出そうになって、思わず鼻を押さえる。
我慢だ我慢。
(あそこにこわ~い王子サマがいるんだよ、マリー)
ただでさえ、いろいろやらかしているんだ。
リシャールは犯罪者級のサイコパスという噂だ。
趣味は墓荒らし、死体観察とか雑誌に書いてあったヤバいお方。
「く、く、くしゅっ…!」
無情にもくしゃみは出た。
リシャールは、今度は本から顔を上げて、全く表情のない顔でマリーを見つめていた。というか睨んでいた。
「ローゼ」
あの、やけにいい声が響く。
(まさかの、まさか。名前を呼ばれた……! 覚えたんだ、私の名前)
それはかなり意外だった。
マリーは忘れて欲しかったのに。
私の事なんてどうかきれいさっぱり忘れて欲しかった。お願いだから。
リシャール本を閉じ、ゆっくり歩み寄り、鼻を押さえるマリーを不機嫌そうに見下ろした。
「無礼の数々に加え、風邪までうつすのか。……貴様やはり喧嘩売っているだろう。私相手にいい度胸だな」
「いやそんなつもりじゃああわわわ」
リシャールの綺麗な顔が明らかに歪んでいた。
「ま、まさかリシャール殿下がいらっしゃると存じ上げずーー」
「私が暇人だと言いたいのか、小娘?」
またリシャールは不機嫌になってしまった。マリーは声なんてかけなければよかったと後悔するが、もう遅い。
「私は、普段はもっと忙しいのだがな、今日は結婚式のせいで少し時間があっただけだ」
マリーの目の前まで詰め寄ったリシャールの表情に険しさが増す。
「こんな日は稀なんだ」
リシャールは暇でふらふらしているように思われることが余程心外らしい。それもそうだろう。
今日みたいな日に王族なのに、何故一人で教会にいるのだろうと。
しかしここは火に油を注いではいけない。なんとしてもマリーは自分の未来のためにリシャールに話を合わせねばならない。
「滅相もございません! 殿下は……大変お忙しい身とお聞きしてますっ。よく殿下の活躍を新聞で拝見してます! 大活躍ですね!」
「あの、新聞を読んでるなら私がどんな人物かよくわかるだろう?!」
そうです、知ってます、散々書かれていることを。
マリーがやや涙目で鼻水も少し垂らして、恐縮していると、リシャールはため息をついた。
「今日はろくなことが無い。久しぶりに帰ってきて立て続けにこのザマか。貴様といい、ああ、もう嫌になる……!」
リシャールはブツブツと独り言を言いながら、いらついたように上衣のボタンに手をかけた。
幾重にも刺繍された上質な上衣の、複雑なボタンを慣れた手付きで外していく。
リシャールはバサっと上衣を脱いで、乱雑に頭からマリーに被せた。
「あ、あの、これは……」
「捨てたんだ」
それは殺気のこもるような獰猛な瞳だった。
「どうせ一度しか着ない、税金の無駄遣いした実用性にかける服だ。すぐに脱ぐつもりだった。貴様が居ようが居まいがここに捨てていた」
捨て台詞のように言い残し、氷華殿下ーーリシャールは、まだ寒いというのに、上衣もなく下に着ていたシャツ一枚になって外の扉に向かって颯爽と歩き出した。
「あ、ありがとう、ございます……」
彼は教会から出て行ってしまった。
出窓から聞こえる雨音は先程よりうるさく、街全ての音をかき消すほどだった。
小雨が土砂降りへと変わってしまった。
(なんで……貸してくれたの? あんなに怒っていたのに)
上衣は暖かった。ほんのり上品な薔薇の香りもする。
リシャールの周りは冷たい空気が纏い、人間の体温を感じないほど冷たいと聞いていたのに、さっきの彼の表情も、噛み合わない態度と口調も、妙に人間らしい。
今日という日が最悪だと思ったけど、そんなこともない様だ。
マリーはあの噂の殿下に会って、思いのほか優しくて、ほんのり胸が暖かくなった。
顔も綺麗だけど、なんか、いい人だったな、なんて能天気にマリーは考えていた。
それからしばらくマリーはリシャールが出て行った扉を眺めていた。
そして気づいた。
(あれ、青ちゃんいない……? もしかして)
リシャールについていったのだろうか。いやまさか。そんな。悲劇あるわけない。と、思いたい。
これが修道士マリーとローズライン王国第一王子リシャール・スウルス・メイルアンテリュール出会いだった。
男は腕を組んだまま、自信満々な不遜な態度だ。
顔は聖書の肖像画のように端正なのに、全くの慈悲が無い無表情で意地悪ささえあった。
顔立ちは端正なのに、ちょっとした物憂げな雰囲気と、愛想のなさ、釣り目で性格が悪そうに見える。
しかも、初対面から不愛想で、マリーを刺客扱いだ。
(……こんな失礼な男性、初めてみたわ)
彼の態度もそうだが、もうひとつ気がかりな点がある。
ゆらゆら長いピアスが揺れ、西陽を浴びて妖しげに輝いている。
マリーは不思議に思った。
仮に彼が軍人ではなく貴族だとしても、腰に剣がないのはなぜだろうか?
今日は王家の婚姻だからか?
剣もなく、丸腰で戦うとはよほど力自慢か、簡単な術しか使えないからとマリーを舐めているからだろうか。
彼が異能者だったとしても武器となる魔器がない。
彼は明らかな手ぶらだった。
仮に派手なピアスが魔器であっても、どうやって使用するのか。
(ピアスを爆弾みたいに投げるとか? 外したら、一発で終わりじゃないの)
目の前の彼はそんな間抜けな感じには見えなかった。
彼を例えるなら、狙ったものは逃がさないタイプだ。
逆らったらタダで済まさない威圧感がそれを物語っている。
マリーの体をびりびりと伝う緊張感は、彼が戦いにおいて慣れており、かつ、本能のどこかでこの男は危険だと警鐘を鳴らしているのだ。
剣さえない相手に対して。
ただ、これは、戦いというか、これはゲームみたいなものだ。
少し身体を張る遊び。
もしかして貴族である彼はマリーのような術使いが珍しかったから腕試しでもしたかったのかもしれない。
「さっさとしろ」
マリーが思案している間に男は痺れを切らしていた。
やはり、かなりせっかちで切れやすいタイプかもしれない。
マリーは彼が言う刺客ではないが、そんなことを説明するよりもさっさと勝負に決着をつけたほうがいいと思った。
自信ありげで、傲慢、かつ思い通りにいかないと我慢できないタイプだから。
(何を言ってもダメそう。……仕方ないよね)
マリーは彼の遊びに少し付き合うことにした。
マリー本を宙に投げ出した。
(あんまり任務以外で、しかも一般人に術は使いたくなかったけど……仕方ない。気が済んだら、諦めるよね)
そもそも軍人と修道士ではフィールドが違う。
軍人が対人間であるのに対し、修道士は対魔物的な、対象物が違うのだ。
本が空中を回転しながら落ちてくる前に素早く指で呪文を描く。
すると本が光を帯びて、本に描いてあった数百の蝶が飛び出した。
赤、黄色、白ーーさまざまな輝く蝶は、ひらひらと天井まで舞うと、ひかりを帯びて花びらのように散る。
あたりは一面光に包まれた。
その中の、一羽だけを光の中に隠しておいた蝶を光のスピードで向かわせる。
(当たればいいんでしょう?)
あのスピードについていける人はなかなか見たことない。
光のような速さで一瞬で終わる筈だ。
(……やったかな)
真っ白だった視界が徐々に鮮明になる。
術を終え、本に全ての蝶が戻った頃には決着はついている。貴族に危害を加えるわけいかない。
これで気が済んでくれればいいけど。
光が晴れて本が落ちた。
マリーは目の前の光景に唖然とする。
無数の蝶が凍って精巧にできた硝子細工のような姿で地面に転がっている。
花弁になった子たちも、全部。
最後の一羽に関しては丁寧に凍らせず、氷でできた籠に入っており、彼は足元の檻を見下ろしていた。
勝負はついた。かなりあっさり。
マリーのそばに落ちている本には蝶は一羽も描かれておらず、ただの白紙の束になっていた。
「どうやら一匹も戻れなかったな?」
彼の冷ややかな視線がマリーに降り注ぐ。
「約束だ。絵の事は諦めるんだな」
と低い声で言った。
側に落ちている蝶を掬いあげると、冷たいが体温で溶けそうなものではなく、まるでクリスタル細工だった。
この鮮やかな美しい術は一部の王族しか使えない。
クリスタル加工技術は王家のものだが、戦闘に実用化したのは最近世間を賑わせている人物のみだ。
氷華殿下。――ただひとり。
現時点で彼が氷華殿下であるのは、99%くらいの確率だ。
しかも、マリーは(仮)氷華殿下刺客だと思われているらしい。
勝負はマリーの負け。
愚かな刺客は始末される、確実に不敬罪だ。
彼がもし、氷華殿下なら100%謀叛で処刑だ。
よくてクリスタル漬けにされて幽閉だ。噂によると。
蝶は一羽もいない。力の差は歴然だ。
(触れなくても私なんか一瞬で凍らせられる)
一歩ずつマリーに近づく足音が静寂している教会に響く。マリーには死が近づく音に聞こえた。
(ダメだ……これが運良く有能な軍人でも処罰対象だよね。思いっきり、術使っちゃったし……危害を加えるつもりはなかったけど)
マリーがもうダメだと目を瞑るが、何も起こらない。
男は籠の近くまで寄ると、ぱちんと指を鳴らした。
籠ががちゃんと壊れ、蝶が逃げ出した。
(あれ、どうして……逃したの?)
すると今朝探していた青鳳蝶の『青ちゃん』も出窓の方からやってきた。
よく夜にこっそり出て行っては朝帰りをする不良蝶、青ちゃん。
マリーの処女作である鳳蝶はよくふらふら本から勝手に出て行く娘だ。
青ちゃんはひらひら彼の周りを飛んでいる。
(やめて青ちゃん。それ以上刺激しないで)
無常にも蝶は彼の肩に止まった。
彼は青ちゃんに気を止めることもなく、マリーに淡々と言う。
「触れられなかった。貴様の負けだ」
「あの……」
「勝負は終わった。もう声をかけるな」
彼は近くにあった礼拝者ようの長椅子に座って、本を開き読み始めた。
出窓が開いていており、雨が入ってくる。
雨が降っているのに開いていたらしい。
マリーは罰せられることもなく、何もなかったように彼はーーまるでマリーの存在など無いものかのように無視して、真剣に読書に耽っている。
不自然に開いた出窓と妙に懐いている青ちゃん。
(もしかして、青ちゃんを逃してくれようと開けてくれたの?)
しかし、もし、彼が氷華殿下なら無情かつ人離れしか化け物のはず。
屍の山を築く、戦場に酔いしれる戦闘狂なのだから。
彼は服装から相当な身分だと思われるが、お咎めもなく、この場から立ち去れとも言わない。
何もなかったような、沈黙が続く。
もしかして怖い人ではないのだろうか。ちょっと交戦的な、威張りたいタイプの実は親切な軍人さん?
「あの……」
マリーは意を決して、声をかけてみる。
彼の視線は本の方を向いたままだった。
「なんだ? 声をかけるなと言っただろう」
彼は気だるそうに答えた。
マリーは落ち着いて聞いてみると、彼の声は低いのに、やけに響く、癖のない、いい声だった。
何より本を読んでいるだけなのに、絵になる美貌。
(ああ、やっぱり描きたい)
マリーは懲りてなかった。
ここは確認のためにやはり確かめるべきだ。
違ったら、それに越したことない。
彼は悪い人じゃなさそうだし、王都で『友達1号さん』になってくれたら嬉しいとマリーは楽観的に考えた。
貴族なら社交界で会うかもしれないし。
そんでもって、たまに絵を描かせてくれたら最高だ。
「お名前を、お、お聞きしても良いでしょうか?」
氷華殿下でありませんように! と願いを込めて、念には念をこめて、マリーは訊いてみた。
「リシャール」
「え?」
「リシャール・スウルス・メイルアンテリュール」
ああやっぱり。
今思い出したぞ、名前。そうそう、リシャール。
国によっては、リチャードとかリチャルドとかいう、結構平凡な名前。
マリーとおんなじくらい平凡な名前。
(やっちゃったーーーー!!)
ユートゥルナ様ごめんなさい。
やらかしました。
私、修道士マリーは王族かつ恐れ多い氷華殿下の喧嘩買いました。
しかも、つい、軽く声をかけてしまいました。
あまりに綺麗だったんだもの。
存在がこの世のものとは思えないくらい尊かったんです。
しかも、氷華殿下に綺麗だとかしつこく言い寄ってしまいました。
マリーは心の中でユートゥルナに懺悔した。
(今更、教会から派遣されているといえばいい?)
確かリシャールは修道院嫌いってきいたことあるし、女も嫌いだったはずだ。
テオフィル殿下の依頼だったらいいなぁ、とマリーは思う。
そうじゃないとマリーは救われない。ミッション前にアウトだ。
マリーは今から極秘任務に着くのに、こんなに簡単に手の内をばらすように、術を使うのだから、昇進もナシ決定だ。
バクバクする心臓、手に握る汗。
マリーはいろいろ問題がありすぎて、どこからリシャールに謝ればいいか分からなかった。
とりあえず、現実逃避するかのように、リシャールから出来るだけ離れて遠くに座る。
どうしよう、どう切り出そう。
(雨が止むまで。そう。止むまで。なにか解決策を!!)
地獄一歩手前の鬼気迫る表情のマリーは必死に考えていた。
しかもなんだか、寒い。
そういえば、画材を守るために雨に打た、上衣がかなり濡れている。
下に着ているワンピースにも湿っているかもしれない。
「くしゅ……」
まさかのまさか、こんな重要な事態にくしゃみが出そうになって、思わず鼻を押さえる。
我慢だ我慢。
(あそこにこわ~い王子サマがいるんだよ、マリー)
ただでさえ、いろいろやらかしているんだ。
リシャールは犯罪者級のサイコパスという噂だ。
趣味は墓荒らし、死体観察とか雑誌に書いてあったヤバいお方。
「く、く、くしゅっ…!」
無情にもくしゃみは出た。
リシャールは、今度は本から顔を上げて、全く表情のない顔でマリーを見つめていた。というか睨んでいた。
「ローゼ」
あの、やけにいい声が響く。
(まさかの、まさか。名前を呼ばれた……! 覚えたんだ、私の名前)
それはかなり意外だった。
マリーは忘れて欲しかったのに。
私の事なんてどうかきれいさっぱり忘れて欲しかった。お願いだから。
リシャール本を閉じ、ゆっくり歩み寄り、鼻を押さえるマリーを不機嫌そうに見下ろした。
「無礼の数々に加え、風邪までうつすのか。……貴様やはり喧嘩売っているだろう。私相手にいい度胸だな」
「いやそんなつもりじゃああわわわ」
リシャールの綺麗な顔が明らかに歪んでいた。
「ま、まさかリシャール殿下がいらっしゃると存じ上げずーー」
「私が暇人だと言いたいのか、小娘?」
またリシャールは不機嫌になってしまった。マリーは声なんてかけなければよかったと後悔するが、もう遅い。
「私は、普段はもっと忙しいのだがな、今日は結婚式のせいで少し時間があっただけだ」
マリーの目の前まで詰め寄ったリシャールの表情に険しさが増す。
「こんな日は稀なんだ」
リシャールは暇でふらふらしているように思われることが余程心外らしい。それもそうだろう。
今日みたいな日に王族なのに、何故一人で教会にいるのだろうと。
しかしここは火に油を注いではいけない。なんとしてもマリーは自分の未来のためにリシャールに話を合わせねばならない。
「滅相もございません! 殿下は……大変お忙しい身とお聞きしてますっ。よく殿下の活躍を新聞で拝見してます! 大活躍ですね!」
「あの、新聞を読んでるなら私がどんな人物かよくわかるだろう?!」
そうです、知ってます、散々書かれていることを。
マリーがやや涙目で鼻水も少し垂らして、恐縮していると、リシャールはため息をついた。
「今日はろくなことが無い。久しぶりに帰ってきて立て続けにこのザマか。貴様といい、ああ、もう嫌になる……!」
リシャールはブツブツと独り言を言いながら、いらついたように上衣のボタンに手をかけた。
幾重にも刺繍された上質な上衣の、複雑なボタンを慣れた手付きで外していく。
リシャールはバサっと上衣を脱いで、乱雑に頭からマリーに被せた。
「あ、あの、これは……」
「捨てたんだ」
それは殺気のこもるような獰猛な瞳だった。
「どうせ一度しか着ない、税金の無駄遣いした実用性にかける服だ。すぐに脱ぐつもりだった。貴様が居ようが居まいがここに捨てていた」
捨て台詞のように言い残し、氷華殿下ーーリシャールは、まだ寒いというのに、上衣もなく下に着ていたシャツ一枚になって外の扉に向かって颯爽と歩き出した。
「あ、ありがとう、ございます……」
彼は教会から出て行ってしまった。
出窓から聞こえる雨音は先程よりうるさく、街全ての音をかき消すほどだった。
小雨が土砂降りへと変わってしまった。
(なんで……貸してくれたの? あんなに怒っていたのに)
上衣は暖かった。ほんのり上品な薔薇の香りもする。
リシャールの周りは冷たい空気が纏い、人間の体温を感じないほど冷たいと聞いていたのに、さっきの彼の表情も、噛み合わない態度と口調も、妙に人間らしい。
今日という日が最悪だと思ったけど、そんなこともない様だ。
マリーはあの噂の殿下に会って、思いのほか優しくて、ほんのり胸が暖かくなった。
顔も綺麗だけど、なんか、いい人だったな、なんて能天気にマリーは考えていた。
それからしばらくマリーはリシャールが出て行った扉を眺めていた。
そして気づいた。
(あれ、青ちゃんいない……? もしかして)
リシャールについていったのだろうか。いやまさか。そんな。悲劇あるわけない。と、思いたい。
これが修道士マリーとローズライン王国第一王子リシャール・スウルス・メイルアンテリュール出会いだった。
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4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
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他サイトでも掲載しています。
表紙は写真ACより転載しました。
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