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前編
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しおりを挟むその晩はまたお礼に一杯奢った。
もうよもふけて気分よく酔いのまわった僕たちは石動氏の棲家の方面へ帰りがけた。
小さな木造の橋を世間話をしながら渡る。
たもとの碑に"芙美橋"と書かれていた。満月のもとで夏の夜風に柳の葉がなびいてなかなか風情がある。
「先生、この橋あの画帖の絵ににてませんか?」
「そうだったか?」
石動氏はみるともなくあたりをキョロキョロした。
そしておい見ろと言う。彼があごでしゃくった先には欄干にもたれて俯いた女の姿があった。
「もしもあの絵に描き加えるならあんな女だな」
女は洗い髪のままこうべを垂れて顔を白く細い手でおおっていた。
その色のない指先からはなにか透明なしずくが…………。
……——僕たちは女の異常さに気付き立ち止まった。
指先だけでなく、たれた黒髪や着物の裾やそでからも透明なしずくがぽたぽたしたたり橋をぬらしている。
雨でもないのに全身びしょ濡れだ。あしもとの下駄はかたほう脱げて裸足だった。
そしてかすかにすすり泣く声が聞こえるのだ。
そうこうしているうち女はぼんやりと顔をあげこちらをみた。
その目は真っ暗な洞穴のような空洞だった。
そして叫びにも風の音にも似た高い泣き声がその空洞からこちらへ響いてきた。
しばらくそれから目を離せない。
しかし夜風が柳の葉をゆらし、それに洗われるように女の姿はふっと消えてしまった。
「おい倉科」
「はい?」
「怖いぞ」
石動大全は意外に正直者だ。そして怖がりみたいだった。
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