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04.ただ君にそばにいてほしかった

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「君が責任者とはね」

 泥水が流れ込んだ痕跡も生々しい王宮のギャラリーにて出迎えてくれたのは、まさにそのジョエルだった。
 真夏の夜に発生した雨雲は丸一日、大雨を降らせて王都を水浸しにしただけでなく、大規模な土砂災害も引き起こしていた。
 王宮も土砂に呑み込まれた建物のひとつだった。
 豪雨からひと月近く経過しているため、土砂そのものは撤去されているが、泥水につかった美術品はそのまま。壁にかかっている大きな絵画たちも泥にまみれている。まずは市民の生活の再建が先だからだという。

「立派になったね、サラ」

 出迎えてくれたジョエルは王太子らしくきちんとしたかっこうをしているのに対し、サラは工房から派遣された修復士なので、作業着姿だ。

「ご無沙汰しております、ジョエル殿下」

 その姿のまま淑女の礼をとるのはちょっと滑稽だなと思いながら、サラはジョエルに対し腰を落として礼をしてみせた。

「カルネンでの日々は楽しい?」

 そんなサラを気にした様子もなく、ジョエルが近づいてくる。サラは顔をあげて久しぶりに――五年ぶりに、元婚約者の顔を見つめた。
 あの頃より精悍さが増して、より男らしくなったと思う。
 あの頃よりは少し疲れた感じがする。

「そうですね。充実しています」
「結婚は?」
「していませんが……」

 突然の話題の飛躍。

「でもこの五年、何もなかったわけじゃないだろう? 結婚の話は出なかったの?」
「そういう浮いた話はほとんどありませんでした。毎日絵具だらけ埃だらけで働いておりました」

 一度だけ告白されたけれど、付き合ってはいないから、これは浮いた話に数えない。

「君らしいね。そのかっこうで働いているの?」
「ええ、そうです。まさかジョエル殿下にお会いするとは思いませんでしたので、汚いかっこうで申し訳ございません」
「汚くなんてないよ。とてもかっこいいし、美しいと思う。誰も君の魅力に気が付かないのかな。カルネンの男たちは目が節穴だ」

 ずいぶん絡むではないか。
 いったいどうしたのだろう。
 彼らしくない。
 サラが困惑すると、ジョエルが「すまない」と詫びてきた。らしくない自覚はあるみたいだ。
 やっぱり疲れているのだろう。

「まあ、それが君の選んだ道なんだ。自分で選んだ道であれば、何が起きても納得できる」
「そうですね。ジョエル殿下が私と婚約破棄してくださったので、私は好きなことができました」
「そうか。あの時、僕が婚約破棄を選んだことは間違いではなかったんだな」
「……ジョエル殿下は……」

 聞くべきだろうか。聞いたら失礼だろうか。

「私と婚約破棄したことで、好きな方をお妃様にお迎えできましたか? カルネンは遠くて、この国のことがほとんど聞こえてこないのです」

 迷ったが、元婚約者としてこの話題を避けるのは不自然な気がして、思い切ってたずねる。

「していないよ」

 サラの問いに、ジョエルがあっさり答える。

「……え? だって」

 好きな人がいると言っていた。その人のためにサラとの婚約を破棄したいのだと。

「僕の好きな人は、僕と一緒にいてはいけない人だったんだ。だから残念だけど、彼女とは結婚していないし、これからもすることはないと思う。僕は、彼女以外と結婚する気はないからね」

 ジョエルの言葉が胸に突き刺さる。
 サラと婚約破棄してまで望んだ女性なのに、結婚できないなんて。
 しかもその人以外と結婚する気がないなんて。

 そんなふうにジョエルに想われる女性がいるなんて。

「どうしてですか、ジョエル殿下」

 気が付いたらサラはジョエルを睨み返していた。

「私はあなたからの婚約破棄を呑みました。それはあなたに幸せになってほしかったからです。私ではジョエル殿下を幸せにできないから! どうして幸せになっていないの!? それじゃあ私があまりにもかわいそうです!」

「君がとてもつらそうだったからだよ、サラ」

 激昂するサラに、ジョエルが静かに返す。
 サラは目を大きく見開いた。

「知らないと思っていた? 僕が気付いていないとでも?」
「何をですか?」
「僕の婚約者になってから君は笑わなくなった。おしゃべりもしてくれなくなった。何か問題はないか、困っていないかたずねるたびに『大丈夫です』としか言わない。そう言われたら僕にはどうすることもできない! なのに君はどんどん憔悴していく!」

 ジョエルが声を荒げる。サラは驚きのあまり固まった。
 初めてジョエルの大声を聞いた。
 初めて、感情をむき出しにする姿を見た。

「君をなんとか助けたかった。楽にしてあげたかった。君を追い詰めているものは何だろうと思った。妃教育か、僕の公務に付き合わせることか、それとも別にあるのか……ひとつずつ課題を見つけて解決していけば、君はまた笑うようになるだろう。そう思っていた矢先、君は僕に切り出したんだ。……留学したい、と」

「……」

「その時、帰国したら、ジョエル殿下のお妃様を頑張りますから。君はそう言ったんだ」

「……そう、でしたか……?」

 覚えていない。

「間違いなくそう言った。その時に悟った。『僕の妃』そのものが君の負担になっていると。個々の問題ではないと。僕は君に頑張って妃でいてほしいわけじゃなかった。ただ君にそばにいてほしかっただけなんだ。だから、婚約破棄を切り出した」

「……じゃあ、好きな人は? ジョエル殿下の好きな人はどこに?」

「そんな人は最初からどこにもいない。あれは君との婚約を破棄するための方便だよ。君との婚約は議会の決定だ。正当な理由がなければ婚約破棄できない」

 ジョエルはサラのために婚約を破棄したというのか。

「どうして……そんなことを……」
「ここまで言ってまだ気付かないとは、相当鈍いぞ、サラ」

 はああ、とジョエルが大きくため息をつく。

「……話の流れですと、ジョエル殿下が私のことを好きみたいな感じですが……、でもそんな素振りは一度も」

 ジョエルはサラを大切に扱ってくれたけれど、どこか距離を感じてもいた。ジョエルの本当の気持ちがさっぱり見当もつかなかったから、サラは不安だったのだ。

「サラは人の感情に敏感だからね。君を怖がらせたら絶対にダメだと自分に言い聞かせていたんだよ。僕の気持ちを知られてはいけない。だから君の前では聖人君子でいようと……少なくとも結婚するまでは。結婚してしまえば、君はもう僕から逃げられない」

 それはつまり……。

「君との婚約だけど、僕がサラを選んだんだ。あの子がいい、って。候補は何人もいたし、サラは内向的だから妃には向かないという声もあった。僕がフォローするといって反対意見をねじ伏せた」

 困惑するサラにジョエルが告げる。
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