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15.とらわれる 2

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「『エロスの矢』を使われた時、あなたは私のことをメーアと呼んだわ。あなたが好きなのはメーア、あなたが求めているのはメーア。でも私はメーアじゃないし、メーアに戻るつもりもないの。私たち、一緒にいたら不幸になるわ」

 残酷なことを言っている自覚はある。
 でも、ここは譲れない。そう、アンナの中のメーアが言っている。

「つまりあなたは、メーアではなくアンナを見て、と言いたいわけですか?」
「……まあ、そうね……。でも、できな」
「問題ありません」
「いでしょ、って、え?」

 あっさり否定され、アンナはぽかんとエヴァンを見つめた。

「いやだなあ、アンナ。俺がそんな狭い心であなたを捜していると思っていましたか?」
「あなた、メーアのことが好きなんでしょ? あの夜、あなたは私のことをずっとメーアと呼んでいたわよ」

 どれだけメーアのことが好きか、どれだけメーアを捜していたか、ずっと語っていた覚えがある。

「そりゃ、アンナの名前を知りませんから、メーアと呼ぶしかないですよね。これからはアンナと呼びます。メーアの名は口にしません」
「そういう問題じゃなくて」
「呼び名なんてどうでもいいんです。記憶がなくても、なんだったら男でも、それこそ人間でなくてもかまわなかったんですよ、俺は。メーアの魂を持つ存在が、俺の手の届く場所で平穏に暮らしてくれたらそれで」

 エヴァンが手を伸ばしてアンナの頬に触れる。

「一応、人間に転生させる術を使ったのですが、性別までは指定できなかったので、男性に転生している可能性は考えていました。だから今生でも女性の姿をしてくれていて嬉しかったんですよ、俺は」
「……お、男だったら、どうする気だったの……」
「まずはお友達から始めます」

 ――そしてどこにたどり着く気!?

「も、もし、動物だったら……」

 おそろしくなって追加でたずねてみる。

「大切にかわいがりますよ。ええ、責任もって最後までね。俺より早く逝くのなら、何度でも転生してもらいます」

 うっとりと答えるエヴァンに、アンナは見てはいけないものを見てしまった気持ちになった。

「あなたの姿かたちなんて些事なんですよ、俺には。その証拠に、あなたを抱くことで『エロスの矢』は解毒できたじゃないですか。それこそ、俺があなたの姿かたちにこだわっていない証拠です。大切なのは、あなたの魂を持つ存在が幸せであること。俺が守ります、全力で」

 エヴァンの指先がアンナの頬をたどり、顎に触れ、次にそっと唇に触れる。
 ゾクリと寒気に似た何かが背筋を駆け抜けた。

「そこまでしてもらう必要はないわ。自分の幸せくらい自分で守るわよ」
「実にあなたらしい」

 エヴァンがくすりと笑う。
 なぜだろう、エヴァンの形のいい唇から目が離せない。

「でも、あなたの力だけではどうにもならないことはたくさんありますよ。もっとしたたかに生きてください。あなたにはその権利があるのだから、俺を利用すればいい。あなたが本当にほしいものはなんですか?」

 エヴァンが改めて問う。エヴァンの声は低くて心地いい。
 けれど、こんなにとろりと耳の奥に絡みつくような声だっただろうか。

「……平和で平凡な人生よ。好きな人と結婚して、その人との子どもを産んで育てるの。孫娘に、おばあちゃんの人生は退屈ねって言われるような。間違っても、私の昔話のどこにも英雄なんて登場しないような……」
「いいですよ」

 エヴァンがにっこりと笑う。

「あなたを見つけるという目的を達成したので、戦場の魔術師は引退しましょう。独り身だし、ずっと戦場にいたので、蓄えもありますしね」

 エヴァンがアンナの手を取って指先に口づける。
 柔らかい感触に再びゾクリとしたものが体を走り抜ける。

「魔術師をやめるの? なぜ」
「なぜって、あなたが英雄は不要だとおっしゃったからじゃありませんか」
「私のためにやめるというの!? 何を言うの……あなたはこの国の宝よ。あなたを失ったら、この国はパニックに陥ると思うのだけれど」
「たった一人に依存して戦争を繰り返す体制なんて、どのみち長続きしませんよ。この国のことはこの国の人間でなんとかするべきだ。俺はもともとこの国の人間じゃないから、この国に尽くす理由なんて最初からどこにもありませんし。俺はあなたがいればそれでいいので」

 エヴァンがアンナの手に頬ずりをしながら答える。
 そういえばそうだった。エヴァンは滅びた国の王族の生き残り。でもあまりに身勝手な言い分だ。

「俺を好きになってください、アンナ。俺はもう、あなたに守られる子どもじゃない」

 頬ずりしているアンナの手首に、エヴァンがちゅっと口づけする。
 途端にまたしてもゾクゾクと寒気にも似た何かが体を走り抜ける。いやではない。なんというか、病みつきになるようなゾクゾク感。
 体の奥底がズクリとひとつ疼いた。

「蓄えがあるし、魔力もある。王都にツテもある。孤児だから面倒な親戚付き合いもありません。家事も育児も頑張りますし、ご近所さんとも仲良くしてみせます。見た目だってそんなに悪いほうじゃないと思うし、何よりあなたのことが大好きです。あなたの伴侶としてこれほどふさわしい人間がほかにいると思えません」
「……」
「逆に、俺じゃダメな理由を教えてください。直しますから」
「……」
「メーアの名を口にするなというのならもう二度とメーアの名は口にしません。メーアの話もしません」

 必死に言い募るエヴァンを見ているうちに、不意に「もういいんだ」という気持ちがストンと胸に落ちてきた。
 私はエヴァンから逃げる必要なんてない。だって、エヴァンはアンナに「メーア」を求めていない。
 メーアの代用品をしてほしいわけではない。
 アンナのままでいい。

 ――……なんだ……。

 それにもうひとつわかったことがある。
 私はもうメーアではないから、気持ちを抑えなくてもいい。
 年上でもないし、エヴァンを導かなくてはいけないわけでもない。彼に気持ちを押し付けて、彼の未来を邪魔するようなことになってはいけない、なんて配慮も不要。

 目の前にいるエヴァンは、好きになっても大丈夫な人。
 アンナから何も奪っていかない人。

 ――なんだ……そうなの……。

 メーアに囚われていたのは私のほうだったのかもしれない。

「だから、アンナ、俺を選んでください。俺は、アンナがいないと生きていけないんです。俺は、アンナと生きたいんです……」

 エヴァンがアンナの手を撫でながら気持ちを告げる。
 好きな人と生きたい。
 それはアンナも同じだ。

「私の……メーアのほしいものをくれるのなら」

 かすれた声で呟いた途端、エヴァンがバッと顔を上げる。

「なんですか? 必ず手に入れて……」
「好きな人と……あなたと結婚してあなたの子どもを産む、平和で平凡な人生と、生意気な孫娘がいる未来よ。メーアがずっとほしがっていたもの。私が一番ほしいもの。それをあなたがくれるというのなら、あなたと結婚するわ」

 エヴァンの目がこれ以上ないというほど大きく見開かれ、みるみる涙が盛り上がる。

「アンナ……」
「メーアはね、あなたのことが好きだったの。ずっと、あなたのことが好きだったのよ」

 メーアが生前隠し続けていた気持ちを明かすなり、アンナはエヴァンに強く抱きしめられた。エヴァンはソファに座っており、アンナは立っている状態なので、エヴァンがアンナの胸に顔をうずめる状態だ。

「でもあなたは子どもで、メーアは大人だった。自分の気持ちを押し付けてあなたの未来を台無しにすることを恐れていた。生まれ変わって、あなたが英雄と呼ばれていると知って、あなたがとても遠くて……だから私は」
「愛しています。アンナ。もう、離さない。絶対に離さない。勝手に死ぬのもだめです。俺が守ります。あなたを傷つけるものから全部」

 アンナの胸に顔を埋めているけれど、泣いているのは明らかだ。泣き顔を見られたくないのだろう。
 この子はいつからこんなに泣き虫になったのだろう。メーアといた頃は泣き顔なんて見せなかったのに。
 そんなことを思いながら、アンナはエヴァンの背中に腕を回して、うわごとのようにアンナの名を呼ぶエヴァンの震える背中を撫で続けた。
 どれくらいそうしていただろう。

「あなたを諦めなくてよかった」

 エヴァンがしみじみと呟いて体を離す。ようやく気持ちが落ち着いてきたのか、涙は引っ込んだようだ。
 ほっとして、アンナが何か言おうとした時だった。
 急にかくんと体から力が抜け、思いっきりエヴァンに体を投げ出してしまう。
 倒れてきたアンナをやすやすと抱きとめ、エヴァンがもう一度、アンナを抱き締めた。

「ようやく薬が効いてきましたね」
「……なんの薬を仕込んだのよ……」

 エヴァンの口ぶりに、嫌な予感がする。
 そういえばこの男、自分でお茶を淹れたうえにお茶を口にしていない。さらに、アンナにおかわりをすすめてきた。
 やられた。

「内緒です。しかし俺だと一口飲んだだけで一撃される量なのに、あなたにはなかなか効かないところをみると、やっぱり魔術師って毒に弱いんですね」

 耳元で嘯くエヴァンの声がゾクゾクと響き、体の奥底の疼きに火をともす。
 なんの薬なのか、だいたい想像がついた。

「……最初からそのつもりだったのね……」

 アンナの非難のこもった声に、エヴァンが「当然です」と返してきた。

「俺がなんのためにあなたを転生させたと思っているんですか」

 エヴァンがアンナの耳元で囁く。

 あなたを手に入れるためですよ、と。
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