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 でも、そんなの、できないよね。

『民の夢と希望を守るために。坊ちゃまはそれを理解した上に、背負うと決めました』

 現状ですら私が蒔いた種なのに。その上に私の我が儘を上乗せするなんて、おこがましいことだ。
 そんな私でも、彼の覚悟を無駄にしてはいけない。

 もし、彼が本当に私を食い殺すのなら――。

(彼は世間に、なんと言われるのか容易く想像できるわ)

 なんとか、あんな最悪の可能性を阻止しないと。痛みに耐えながら彼の行為に甘んじて、一点の隙を狙う。

 彼の顔が私の首から少し離れた、この瞬間だ。

 唯一自由に動かせる左手を使って、彼の口を塞いだ。
 力がまともに入らないそれで彼を押したが、案外あっさりと退かしてくれた。

 私たちは左手の厚みで隔たれている。
 至近距離から見る彼の瞳は、やはり美しい。そんな、場違いな感想を抱いた。

 静寂の中に、私の吐息だけが煩く響いている。
 彼から動きがないと確認して、深く息を吸う。

 だけど、それを声と一緒に吐けなかった。

 彼が、少しずつ私から離れたから。
 支えを失った左腕がストンと、そのまま床の上に落ちた。

「だんな、さま?」
「何故、君が……」

 言葉を発した彼に肩から力が抜けた。

「よかった、です。旦那様……無事に戻ってくれました、ね?」
「俺は、一体、君に何を……うっ」
「旦那様!」

 呻き声と同時に、彼は前のめりに倒れた。
 彼を受け止めたが、彼があまりにも重くて私も倒れた。
 苦戦しながら、なんとか座り直せた。

「旦那様……どうしよう」

 彼は私の膝の上に脂汗を流しながら眠っている。眉間に深い皺が刻まれて、時折辛そうな声を噛み殺している。
 彼のあまりにも悲痛な姿に泣きそうになった。
 試しに誰かを呼ぼうとしたが、声が枯れたせいか、誰も来てくれなかった。

「旦那様……」

 涙を堪えながら震える手で、彼の黒髪を撫でる。

 お願い、せめて。
 せめて、今回だけ。

『妖精、痛み、隠す』

 お姉様が教えてくれた妖精言語を拙く唱えてみた。
 だけど、何の変化も訪れなかった。

(私は、お姉様だったら……)

 少しくらい、彼の役に立てるのかな?
 いや、そもそもお姉様がこんな状況を招かないだろうね。

 でも、今は卑屈になっている場合ではない。
 自分の弱みに酔う場合ではない。

 手の甲でごしごしと頬に流れる水滴を拭き取る。
 少しでも、彼が心地よく眠れるように彼の態勢を整える。

(旦那様……)

 彼の額から溢れる新しい汗を拭いながら、心の中で彼を呼ぶことしかできなかった。


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