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日記編
未来の日記 ①
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十二月六日
一昨日、お母さんが亡くなりました。
警察の検視によると、首をひも状のもので吊った状態で見つかり、遺体からは急性アルコール中毒が見られたことから自殺と結論付けられたそうです。
第一発見者はわたしでした。いつもの如く学校から帰り、玄関を開くとお母さんが首を吊っていました。わたしは一目で死んでいると気付き、ショックのあまりその場に倒れ、気絶してしまいました。
その音を聞いた隣に住む田中のおばさんが、異常を感じ出て来てくださったそうで、警察への通報や今日までわたしの介抱をしてくれました。咲美家はお金がないため、お母さんのお葬式をする余裕はありませんでした。
田中のおばさんはそれを見かねたのか、「直葬をするお金くらいなら出してあげる」と言ってくださり、お言葉に甘えることになりました。そして、今日の午前に火葬を終えました。
お母さんは運ばれた病院にて死化粧をしてもらい、少しの間だけ綺麗な顔を見ることができました。わたしはその顔を見て、大きな声で泣いてしまいました。どうして先に逝ってしまったの? どうして何があったのかをわたしに話してくれなかったの?
わたしは、お母さんが困っている姿を傍観しているだけで、何もしてあげられませんでした。自室で怯えているばかりで、お母さんはあの男の人たちと必死に戦っていました。
一度だけ、わたしに縋って泣いたことがありました。あのとき、やっと弱みを見せてくれたと思ったのですが、お母さんを慰めても、何の効果も生んでいなかったようです。
どうして自殺してしまったのでしょうか。お母さんは一体どれほどの苦痛を与えられ、どれほどの苦痛を味わっていたのでしょうか。わたしはあの男の人たちを許せない気持ちでいっぱいになりました。自殺にまで追い込んだ人たちを絶対に許すか、とさっきまでは思っていました。
母が命を絶ってから丸一日間、警察の捜査の影響で家に帰れなかったため、田中のおばさんのお家に泊めて貰っていました。
わたしは食事も喉を通らないほどに落ち込んでいたため、それを見て心配に思ってくれたのか、「こういうとき出すものかわからないんだけど食べて元気出してね」との言葉を添えて、アジの開きを出してくれました。
好きな食べ物と言えるほどでもなかったはずでしたが、そのときばかりはどうしようもなく美味しく感じました。
お母さんの火葬を終えた後、荷物整理のため一旦元のお家へと帰りました。児童養護施設に入れて貰うつもりだからです。当面の間は田中のおばさんに泊めて貰う予定ですが、せめて準備くらいは今しておこうと思いました。
家具類は既に何もないためそれは諦め、学校の教材や数少ない洋服を大きなバッグに詰めていました。そして整理の終わりがけに鞄の中を見ると、お母さんが書いた日記が入っていました。
お母さんから見た咲美家の思い出を覗いてみようと思い、パラパラとめくってみました。模擬試験で好成績を出したとき、一緒になって喜んでくれたこと。張り切ってカレーライスを作ったこと。それらの記述を見て、在りし日のことを思い出しました。
お母さんが「作りすぎちゃったね」と言い、二日間の合計四食が同じカレーだったのはさすがに辟易しましたが、とても美味しかった思い出です。
そうして続きを捲っていくと、あの人の記述を見つけました。こんな目に遭っていたんだなと思い涙を浮かべていると、お母さんの過去についてを見つけました。わたしのお父さんはあの人だったんだ。それを初めて知りました。
幼少時代、見知らぬおじさんがよくお家に来ていたのは覚えていましたが、あれがお父さんだったとは。それに、わたしが産まれたきっかけも衝撃的でした。あの人は昔から惨い人だったんだと思い、激しい憤りを感じました。
そうして段々と読み進め、ほぼ全てが初めて知ることとなりました。二百五十万円もの大金を盗られていたなんて。何も話してくれなかった。どうしてなのお母さん。
そうして最後まで読み進め、確信しました。お母さんはあの人たちに殺された。
最後の方にこの日記は証拠になるから警察に渡してくださいと書いていますが、そうはしません。お父さんを殺すことに決めました。
十二月七日
お父さんの居場所を探るため、行動を起こすことと決めました。
居間に置きっぱなしとなっていたお母さんの携帯電話を見て、お父さんから何かメールや電話が来ていないか、連絡先から手掛かりとなる情報を見つけられないかを探しました。
メールの多くは友達のようで、お父さんからのものはありませんでした。通話履歴も同様でした。そうして連絡先を見ていると、思わぬ情報を見つけました。携帯電話と固定電話の番号が載っていたのです。
これなら相手の住所を割り出せるかもしれません。市外局番を見るに、ここ横浜市ではなく山梨県にある地域のようです。山梨県にある大きな図書館に行けば個人名の載ったハローページがあると考え、それを使って居場所を突き止めることとしました。
ただし、電話番号を載せないという選択もできるそうです。見つかるかどうかは賭けとなると心もとないものの、あることを願うばかりです。
住所は一旦保留にしておき、殺害方法について考えることとしました。
警察の検視では、お母さんは自殺として処理されました。つまりお父さんたちは完全犯罪を成し遂げたということです。わたしもやられたからには同じ完全犯罪を狙うことを考えました。でも、やめました。わたしはお父さんと違って警察から逃げる気はありません。
お父さんを殺せたら十分です。罪はしっかり償うつもりです。
体格差を鑑みると、到底お父さんには太刀打ちできません。酔わせるか眠らせるかして、弱ったところを殺す方が確実でしょう。そういえば、お母さんも急性アルコール中毒になっていましたし、これを真似することにします。
首を吊らせるという方法は難しいと思います。これもまた非力さが原因です。わたしにもできそうなやり方は、ロープのような長くて丈夫な物で首を絞めることでしょうか。これなら多少なりとも可能性はあります。
とりあえず、お父さんを殺すのに必要な物を買うこととしました。今日は時間に余裕があったため行っても良かったのですが、疲れました。
十二月八日
今日はホームセンターに行きました。
わたしは推理小説が好きでよく読んではいますが、殺しのプロではないので何が必要になるかわかりませんでした。最も重要であるロープは必要になるだろうと思い、買い物かごに入れました。
万が一何かが起きたときのために血が飛び散っても目立ちにくい服とか、染み込みにくい服とかあれば良いんでしょうか。その場では適当な色の濃い服も入れました。
それと髪の毛が落ちないように帽子、指紋が残らないように手袋を入れ、レジに向かいました。続いて酒屋に行き、なるべく度数の強いお酒をと注文し、店内で最高度数のお酒を買いました。
帰り路でふと、殺害後捕まるつもりのはずが、なぜ証拠隠滅を考えているのだろうと思いましたが、ひとまずは忘れることにしました。
今日はお小遣いだった全財産の一万円を使いました。お母さんもまさかこんなことのためにお金を遣うとは思わなかったでしょうね。親不孝な娘でごめんなさい。でも、仕方のないことなんです。
残りの財産は先日お邪魔した田中のおばさんから貰った一万円のみです。
十二月九日
今は学校を忌引きで休んでいるため、その期間中に山梨へ行こうと思います。今日は月曜日で、期限は十一日の明後日までです。決行は明日にしようと決めました。心を落ち着かせるため、今日は休息日としました。
こたつに入りながら田中のおばさんと並んでいると、「未来ちゃんはもう大丈夫なの」と話し掛けられました。
あまり大丈夫じゃありませんでしたが、心配を掛けるのは忍びないと思い、「大丈夫と言いました」それを聞いて、「なら安心した」と言って笑顔を浮かべてくれました。思わず嬉しくなり、「うん」と笑顔を返しました。わたしは笑顔ができていたでしょうか。
田中のおばさんは、わたしがこれからしようとしていることを聞いたら止めるのでしょうか。きっと止めるでしょうね。お父さんを殺した後、田中のおばさんとはもう会ってはならないと思いました。
心の中で謝罪をし、お別れの日に向けて「アジの開きを食べたい」と言いました。それを快く受けてくれ、二枚も焼いてくれました。わたしはこれが好きになったのかもしれませんね。食べている間、お母さんを思い出して泣いてしまいました。
親子で縁のある料理ではないですが、涙が溢れて堪りませんでした。
わたしは、田中のおばさんが未だ寝ている明日の朝五時に家を出ることとしました。
十二月十四日
しばらく日が空いてしまいましたが、しっかりお父さんの家に行きました。そして、お父さんも死んだはずです。ですが、思わぬ事態があの日起きたことに怖気付いてしまい、何も思い出したくなったので、日記に書くのが遅れてしまいました。
今は少しだけですが落ち着いたので、あの日起こったこと全てを書こうと思います。
あの日、未だ朝日が昇っていない朝の五時に家を出ました。なるべく田中のおばさんが起きださないようひっそりと歩き、枕元に「さようなら、今までお世話になりました」との書置きを残して家を出ました。
合い鍵を持っておらず、鍵を閉めずに出てしまったので少し心配です。その後、わたしは駅へと歩いて行きました。冬の朝は非常に寒いです。指紋の付着防止用として買った手袋を着けたは良いものの、指がかじかんで震えました。
駅まで数十分ほど歩き、始発の電車に乗りました。初めて行く場所だということで、駅に停車するたび路線図を見て、調べながら向かいました。
昨日の夜から朝に掛け、緊張で全くと言っていいほど眠れなかったので、今になって眠気を覚え始めました。段々とうつらうつらとし始め、乗り換えまでは時間があることを調べると眠りに入りました。その間に夢を見ました。お父さんを殺す夢でした。
わたしは一所懸命にお父さんの首を絞めます。苦しんだ様子で口から泡を吹き始めました。「やめろ、未来。お前も殺してやるぞ」そう言われてもなお締め続けると、息が途絶えました。
あまりにリアルな夢を見たので、飛び起きました。これからする犯行ではお酒を呷らせてから首を絞めるつもりでしたが、夢は違いました。胸を抑え、早い音を鳴らせて動く心臓を宥めました。
それだけでは落ち着かなかったので、深呼吸もしました。それは数分間続き、やっと落ち着いたところでため息を吐きました。こんな夢のことで焦っていては本番で失敗するかもしれません。わたしは段々と不安になりました。
電車を降りて次の電車に乗りました。その電車に一時間半ほど乗ると、県内で一番の大きさはある図書館に行けるはずです。この電車では眠らないようにしました。
平日だということもあり、続々と通勤のお客さんが乗ってきました。普段学校へは歩いて行っているので、満員電車を初めて経験しました。あまり良い思い出になりそうもないです。
お客さんがひしめく中、少しの間から覗ける外の景色を眺めました。段々と山が増え始めてきました。ここまで山ばかりの景色というのも初めてだったので、この電車の旅は新鮮な気持ちでした。しかし、どういった目的から電車に乗っているのかを考えると、憂鬱になってきました。
わたしだって、人なんて殺したくありません。確かに、この日記を読んだときは殺意に満ち溢れなが意気揚々と書き足していきました。でも、段々と時間が経って行くうちに、今のこの殺意が嘘のように思えてきました。
お父さんのことはもちろん許せません。許せないのですが、だからと言って人を殺めて良いというわけではありません。それに一人の人間を殺すということは、それ相応の覚悟を持つものでしょう。わたしにその覚悟はあるのでしょうか。
怒りの勢いに任せてこんな行動をしているのではないでしょうか。
でもどうしたら良いのでしょうか。このままではわたしもそうですが、お母さんも報われません。お父さんをのうのうと生き永らえさせて良いものなのでしょうか。
やはりお母さんの言う通り、警察に日記を渡すべきだったのでしょうか。わたしの行いは本当に正しいことなのでしょうか。お母さんは、わたしに殺して欲しいのでしょうか。
お母さんは、わたしを人殺しにしたいのでしょうか。お母さんは、わたしに幸せになってくれるよう願っていました。わたしはお父さんを殺したら幸せになれるのでしょうか。
わたしはお父さんを殺しても辛い現実からは逃れられないのではないでしょうか。もしかすると、お父さんを殺されると悲しむ人がいるのではないでしょうか。
お父さんは、お母さんのお姉さんと結婚したそうです。もしもお父さんに子どもがもう一人いたら? お父さんがわたしとは違い、その子どもに愛情を注いでいたとしたら?
その子どもはわたしを憎むのではないでしょうか。その子どもはわたしと同じ悲しみを味わうのではないでしょうか。その子どもはわたしを憎み、そして殺そうとするのではないでしょうか。
結局、お父さんを殺すことは負のスパイラルとなり、幸せになる人なんていないのではないでしょうか。
もしかしたら、わたしが我慢すれば全てが解決するのではないでしょうか。
この悩みをひとまずは忘れ、電車の到着を待つことにしました。
そうして何も考えずぼうっとしていると、目的駅へと到着しました。わたしは地図を見ながら図書館へと向かいました。意外とすぐ近くに見つけたので入ると、職員の方に「ハローページを見せて貰えますか」と聞きました。
職員の方はすぐさま探してきてくれました。わたしは近くにあった椅子に座り、ページを開きました。氏名と電話番号の書いたメモを取り出し、照らし合わせて探しました。
そうして細かい字に目を疲れさせながら時間を掛けて探していくと、とうとう見つけました。電話番号を載せないという選択をしていないことに安堵しました。
しかしその反面、遂に見つけてしまったという気持ちもありました。とうとうここまで来てしまいました。この住所に行けばお父さんがいる。その事実を思うと恐怖に慄きました。
わたしは自問自答しました。本当にやるのか。本当に後悔しないのか。お前はお父さんを殺して幸せになれるのか。
わたしは全てに否定しました。本当はやりたくない。絶対に後悔する。わたしはお父さんを殺しても幸せになんてなれない。結局、覚悟は最初だけで、勢いに任せた偽りの姿だったのです。お母さん、本当にごめんなさい。
書籍を職員のもとに返し、図書館を出ました。時刻はまだ朝の九時でした。
殺すか殺さないかは別として、当初の予定通り進めることにしました。歩けるところまで歩いて行こうと思い、手に地図を持って歩き始めました。ここからお父さんのお家までは約五十キロメートルあります。
さすがにその距離を歩けると思いませんが、時間を潰すために歩きました。電車やバスを乗り継いで行くという方法もありますが、これでは早く着き過ぎてしまいます。
なぜ早く着き過ぎてしまうと困るのかというと、近隣住民の方に見つかってしまう可能性があるからです。
ですが結局のところ、わたしはどうしたいのでしょうか。捕まることを厭わない捨身と自分は捕まりたくないという保身の気持ちを持つことで、二律背反に陥っています。わたしの意思は未だ固まっていません。
わたしはできる限り何も考えず歩き続けました。凍えそうになりながらも必死で歩き続けました。そうしていくら歩いたかわかりませんが、四時間ほど経ちました。
少し休憩をと思い、山間にあった休憩所に座りました。水場がそばにあったため、喉の渇きを潤すためにたくさん飲みました。そこで軽くストレッチをすると歩き始めました。
歩けど歩けど何の変化もない景色にいい加減飽き飽きして来ました。遠くを見るとバス停を見つけました。どこに行くバスなんだろうと思い、時刻表と路線図を見ました。
目的地を地図で探すとき見た覚えのある地名を見つけました。確かそこからは電車が出ており、最寄り駅まで行ける電車だったと思います。このバスに乗ろうと決めました。田舎だということもあり、とても少ない本数のバスでした。
四十分ほど待つと、バスがやって来ました。それに乗って最奥の席に座りました。足元には暖房が付いており、凍り固まったわたしの体を解きほぐしました。少し眠気を覚えていた頃、ようやく駅に到着しました。
時計を見ると、十四時でした。どうしようかと思い、駅前にあったベンチに座りました。今日は平日なため、学生はまだ学校に行っているはずです。そして、わたしは大きな荷物を抱えて座っていました。
そんな姿を不審に思ったのか、交番で立哨していた警察官がわたしのもとに歩み寄ってきました。「君、学校はどうしたの」と聞かれました。
誤魔化すため、「実家の用事で来ました」と言いました。警察官はあまり詮索せずに交番へと戻って行きました。わたしはそのとき心臓が高鳴っていました。
もしもこの大きなバッグ中身を見られてしまったら、絶対に怪しまれていたと思います。幸運にもわたしの言を信じてくれたので、安心しました。
ここから離れ、駅のホームに向かいました。もう目的地に早く着いても良いかと思い、電車に乗りました。
一日にここまで移動していると、慣れたものですぐ到着したように思いました。
最寄り駅へと着きました。時計を見ると、まだ十五時でした。既に疲労困憊といった状態だったので、眠りに就きたいと思いました。しかし、横になれるような場所は近くにありません。仕方なくトイレに入り、横に添えつけてあった手すりを抱くように眠りました。
深い眠りだったようで、夢は見ませんでした。寝ぼけまなこになりながら時計を見てみると、二十時を過ぎていました。ずいぶんと寝てしまったと思い、急いで立ち上がり、その場を出ました。
そこからバスに乗ると一番早いのですが、歩いて行きました。ここもやはり目的地に行くまで、人との接触や目撃されるのを避けるためです。
ここでとうとうお父さんを殺すことの覚悟を決めました。そして、お父さんを殺したらそのまま死ぬことに決めました。
駅を離れてしばらく歩くと、周りは田畑ばかりになり、人通りがなくなりました。街灯もなく、夜空から照らされる薄い月明かりだけが頼りです。わたしは空を見上げました。とっても綺麗でした。わたしはここまで綺麗な星空を見たことがありませんでした。
お母さんにも見せてあげたかったなぁ。
わたしは歩き続けました。そろそろというところで、人とすれ違いました。顔を見られたと思いすぐに逸らしましたが、相手は気にしていない様子でした。これなら問題なさそうです。
遂に辿り着きました。家の周りを広く生け垣が囲っていて、庭に池が付いていました。そのとき、「大きくて羨ましい家だ」と素直な感想を持ちました。
玄関に近づき、表札を見ました。そこには石岡と書いてあったので、間違いないと確信しました。呼吸を整え、早鐘を打った心臓を落ち着かせるため、胸に手を置きました。
「ここまで来てしまったのだからやるしかない」「いつまでも言い訳をしているわけにはいかない」と自分に言い聞かせ、手袋を嵌めた手でインターホンを押しました。
わたしは数刻待ってみました。でも、誰も出てくる気配がありません。再び押して、玄関のドアをノックしました。それでも、誰も出てくる気配はありませんでした。
「もしかするとこの家にはいないのだろうか」と思いながらドアを引いてみると、開きました。家にいると確信し、「もう眠っているのかもしれない、それなら好都合だ」と思いました。
玄関をゆっくり覗いてみると、比較的綺麗な家でした。靴を見るともちろん一組置いてあります。
わたしは足音が鳴らないようそっと靴を履いたまま上がりました。ゆっくりと、ゆっくりと、家の主に気付かれないようゆっくりとを心掛けて歩きました。
廊下を真っすぐ行き、中心ほどまで来ました。わたしは立ち止まり、何か音が聞こえないかと耳を傾けました。じーっとしていると、どこかから水音が鳴っているように聞こえました。どうやらお父さんはお風呂に入っているようです。
音を頼りに、風呂場を見つけ出しました。そのドアをゆっくりと開き、お風呂場の樹脂パネルを見ると灯りが映っていました。しかし、同時に赤い色をしたものも映っていました。
あれは、血なのでしょうか。浴室のドアに耳を付けました。シャワー以外の音は何も聞こえません。「これはもしかして……」そう思い、ドアを引きました。
そこには右手にカッターナイフを持って、浴槽の端に頭を垂らしているお父さんの姿がありました。そして、お湯は真っ赤に染まっていました。驚きのあまり叫びそうになりましたが、途端に口を両手で押さえました。
「どうして、何が起きているの」わたしは混乱しました。お母さんに蛮行とも呼べるほどのことをした人間が、どうして、どうして自殺なんかを!
わたしはお父さんに近寄り、息をしているのかを調べてみました。虫の息ではあるものの、息をしている! これなら救急車を呼べば助かるかもしれない。わたしはどうしようかという悩みを浮かべました。
お父さんを殺すためにここまで来た。絶好のタイミングで自殺しようとしているんだから、もっと惨く殺せるるチャンスじゃないか!
このままお父さんの右手に握られているカッターナイフで、更に切り刻んでも良いかもしれない。このまま殺せ。そしてそのまま何事もなかったかのようにのうのうと生きろ。
違う! 今助ければ未だ間に合う! 見殺しにしたところで何の幸せがある? 見殺しにしたことで悩み続けるんだったら、助けた後悩み続けた方がずっとマシだろう?
それに、お父さんを憎んでいるのだったら、同じことをやろうとするな! 同じ位の人間になるな! 解決方法は他にもあるはず!
そうしてわたしは、殺すことも助けることもできず逃げ出しました。
わたしは、お母さんの復讐をした悪人にはなれず、かと言ってお父さんを助けた善人になることもできない半端な人間でした。
風呂場のドアを強引に開け、玄関まで走り抜けました。ドアを開けて外に出る途中、勢い余って何かをなぎ倒してしまい、慌てていたわたしは元の位置がどこかも忘れ、適当な空間に立て直しました。
その当時何かわかりませんでしたが、昨日やっと思い出しました。傘立てでした。
家を出てもずっと走り続けました。この際どうにでもなってしまえという気持ちになり、証拠隠滅やこそこそと逃げることを忘れていました。
わたしの計画は何一つとして遂行されず、ただただ後悔だけを作り出したものとなりました。
わたしは怖くなり、胸の奥からこみ上げてくるものがありました。罪悪感に苛まれ、目の前が何も見えなくなるほどの涙が溢れだしました。一所懸命に腕を振って走り続け、この場から一刻も早く立ち去ろうとしました。
わたしは、お父さんを助けられたかもしれないのに見殺しにした。わたしのせいだ。いやだ、いやだ、わたしのせいじゃない!
でもわたしは助けられた! いいやあのまま救急車を呼んだところで助けられなかった。死体の発見が早くなるか遅くなるかだけの違いだろう。
でも息をしていた! わずかながらにも息をしていた! でもあの出血で水に肌を浸けおいたら、間違いなく助からない! わたしは悪くない! わたしは悪くないんだ!
周りを見ずに走り続けていたため、道路に落ちた大きなレンガに気付かず転んでしまいました。痛い、痛い、痛い。膝を大きく擦り剝いてしまいました。
熱い、痛い、辛い、でもお父さんの方がもっと痛い。わたしが殺したんだ。ごめんなさい。許してください。お母さんお父さん、わたしを許してください。産まれてきてごめんなさい。全てわたしが悪いんです。
わたしはお父さんを殺してしまった。きっと、一生後悔し続けることになる。
一昨日、お母さんが亡くなりました。
警察の検視によると、首をひも状のもので吊った状態で見つかり、遺体からは急性アルコール中毒が見られたことから自殺と結論付けられたそうです。
第一発見者はわたしでした。いつもの如く学校から帰り、玄関を開くとお母さんが首を吊っていました。わたしは一目で死んでいると気付き、ショックのあまりその場に倒れ、気絶してしまいました。
その音を聞いた隣に住む田中のおばさんが、異常を感じ出て来てくださったそうで、警察への通報や今日までわたしの介抱をしてくれました。咲美家はお金がないため、お母さんのお葬式をする余裕はありませんでした。
田中のおばさんはそれを見かねたのか、「直葬をするお金くらいなら出してあげる」と言ってくださり、お言葉に甘えることになりました。そして、今日の午前に火葬を終えました。
お母さんは運ばれた病院にて死化粧をしてもらい、少しの間だけ綺麗な顔を見ることができました。わたしはその顔を見て、大きな声で泣いてしまいました。どうして先に逝ってしまったの? どうして何があったのかをわたしに話してくれなかったの?
わたしは、お母さんが困っている姿を傍観しているだけで、何もしてあげられませんでした。自室で怯えているばかりで、お母さんはあの男の人たちと必死に戦っていました。
一度だけ、わたしに縋って泣いたことがありました。あのとき、やっと弱みを見せてくれたと思ったのですが、お母さんを慰めても、何の効果も生んでいなかったようです。
どうして自殺してしまったのでしょうか。お母さんは一体どれほどの苦痛を与えられ、どれほどの苦痛を味わっていたのでしょうか。わたしはあの男の人たちを許せない気持ちでいっぱいになりました。自殺にまで追い込んだ人たちを絶対に許すか、とさっきまでは思っていました。
母が命を絶ってから丸一日間、警察の捜査の影響で家に帰れなかったため、田中のおばさんのお家に泊めて貰っていました。
わたしは食事も喉を通らないほどに落ち込んでいたため、それを見て心配に思ってくれたのか、「こういうとき出すものかわからないんだけど食べて元気出してね」との言葉を添えて、アジの開きを出してくれました。
好きな食べ物と言えるほどでもなかったはずでしたが、そのときばかりはどうしようもなく美味しく感じました。
お母さんの火葬を終えた後、荷物整理のため一旦元のお家へと帰りました。児童養護施設に入れて貰うつもりだからです。当面の間は田中のおばさんに泊めて貰う予定ですが、せめて準備くらいは今しておこうと思いました。
家具類は既に何もないためそれは諦め、学校の教材や数少ない洋服を大きなバッグに詰めていました。そして整理の終わりがけに鞄の中を見ると、お母さんが書いた日記が入っていました。
お母さんから見た咲美家の思い出を覗いてみようと思い、パラパラとめくってみました。模擬試験で好成績を出したとき、一緒になって喜んでくれたこと。張り切ってカレーライスを作ったこと。それらの記述を見て、在りし日のことを思い出しました。
お母さんが「作りすぎちゃったね」と言い、二日間の合計四食が同じカレーだったのはさすがに辟易しましたが、とても美味しかった思い出です。
そうして続きを捲っていくと、あの人の記述を見つけました。こんな目に遭っていたんだなと思い涙を浮かべていると、お母さんの過去についてを見つけました。わたしのお父さんはあの人だったんだ。それを初めて知りました。
幼少時代、見知らぬおじさんがよくお家に来ていたのは覚えていましたが、あれがお父さんだったとは。それに、わたしが産まれたきっかけも衝撃的でした。あの人は昔から惨い人だったんだと思い、激しい憤りを感じました。
そうして段々と読み進め、ほぼ全てが初めて知ることとなりました。二百五十万円もの大金を盗られていたなんて。何も話してくれなかった。どうしてなのお母さん。
そうして最後まで読み進め、確信しました。お母さんはあの人たちに殺された。
最後の方にこの日記は証拠になるから警察に渡してくださいと書いていますが、そうはしません。お父さんを殺すことに決めました。
十二月七日
お父さんの居場所を探るため、行動を起こすことと決めました。
居間に置きっぱなしとなっていたお母さんの携帯電話を見て、お父さんから何かメールや電話が来ていないか、連絡先から手掛かりとなる情報を見つけられないかを探しました。
メールの多くは友達のようで、お父さんからのものはありませんでした。通話履歴も同様でした。そうして連絡先を見ていると、思わぬ情報を見つけました。携帯電話と固定電話の番号が載っていたのです。
これなら相手の住所を割り出せるかもしれません。市外局番を見るに、ここ横浜市ではなく山梨県にある地域のようです。山梨県にある大きな図書館に行けば個人名の載ったハローページがあると考え、それを使って居場所を突き止めることとしました。
ただし、電話番号を載せないという選択もできるそうです。見つかるかどうかは賭けとなると心もとないものの、あることを願うばかりです。
住所は一旦保留にしておき、殺害方法について考えることとしました。
警察の検視では、お母さんは自殺として処理されました。つまりお父さんたちは完全犯罪を成し遂げたということです。わたしもやられたからには同じ完全犯罪を狙うことを考えました。でも、やめました。わたしはお父さんと違って警察から逃げる気はありません。
お父さんを殺せたら十分です。罪はしっかり償うつもりです。
体格差を鑑みると、到底お父さんには太刀打ちできません。酔わせるか眠らせるかして、弱ったところを殺す方が確実でしょう。そういえば、お母さんも急性アルコール中毒になっていましたし、これを真似することにします。
首を吊らせるという方法は難しいと思います。これもまた非力さが原因です。わたしにもできそうなやり方は、ロープのような長くて丈夫な物で首を絞めることでしょうか。これなら多少なりとも可能性はあります。
とりあえず、お父さんを殺すのに必要な物を買うこととしました。今日は時間に余裕があったため行っても良かったのですが、疲れました。
十二月八日
今日はホームセンターに行きました。
わたしは推理小説が好きでよく読んではいますが、殺しのプロではないので何が必要になるかわかりませんでした。最も重要であるロープは必要になるだろうと思い、買い物かごに入れました。
万が一何かが起きたときのために血が飛び散っても目立ちにくい服とか、染み込みにくい服とかあれば良いんでしょうか。その場では適当な色の濃い服も入れました。
それと髪の毛が落ちないように帽子、指紋が残らないように手袋を入れ、レジに向かいました。続いて酒屋に行き、なるべく度数の強いお酒をと注文し、店内で最高度数のお酒を買いました。
帰り路でふと、殺害後捕まるつもりのはずが、なぜ証拠隠滅を考えているのだろうと思いましたが、ひとまずは忘れることにしました。
今日はお小遣いだった全財産の一万円を使いました。お母さんもまさかこんなことのためにお金を遣うとは思わなかったでしょうね。親不孝な娘でごめんなさい。でも、仕方のないことなんです。
残りの財産は先日お邪魔した田中のおばさんから貰った一万円のみです。
十二月九日
今は学校を忌引きで休んでいるため、その期間中に山梨へ行こうと思います。今日は月曜日で、期限は十一日の明後日までです。決行は明日にしようと決めました。心を落ち着かせるため、今日は休息日としました。
こたつに入りながら田中のおばさんと並んでいると、「未来ちゃんはもう大丈夫なの」と話し掛けられました。
あまり大丈夫じゃありませんでしたが、心配を掛けるのは忍びないと思い、「大丈夫と言いました」それを聞いて、「なら安心した」と言って笑顔を浮かべてくれました。思わず嬉しくなり、「うん」と笑顔を返しました。わたしは笑顔ができていたでしょうか。
田中のおばさんは、わたしがこれからしようとしていることを聞いたら止めるのでしょうか。きっと止めるでしょうね。お父さんを殺した後、田中のおばさんとはもう会ってはならないと思いました。
心の中で謝罪をし、お別れの日に向けて「アジの開きを食べたい」と言いました。それを快く受けてくれ、二枚も焼いてくれました。わたしはこれが好きになったのかもしれませんね。食べている間、お母さんを思い出して泣いてしまいました。
親子で縁のある料理ではないですが、涙が溢れて堪りませんでした。
わたしは、田中のおばさんが未だ寝ている明日の朝五時に家を出ることとしました。
十二月十四日
しばらく日が空いてしまいましたが、しっかりお父さんの家に行きました。そして、お父さんも死んだはずです。ですが、思わぬ事態があの日起きたことに怖気付いてしまい、何も思い出したくなったので、日記に書くのが遅れてしまいました。
今は少しだけですが落ち着いたので、あの日起こったこと全てを書こうと思います。
あの日、未だ朝日が昇っていない朝の五時に家を出ました。なるべく田中のおばさんが起きださないようひっそりと歩き、枕元に「さようなら、今までお世話になりました」との書置きを残して家を出ました。
合い鍵を持っておらず、鍵を閉めずに出てしまったので少し心配です。その後、わたしは駅へと歩いて行きました。冬の朝は非常に寒いです。指紋の付着防止用として買った手袋を着けたは良いものの、指がかじかんで震えました。
駅まで数十分ほど歩き、始発の電車に乗りました。初めて行く場所だということで、駅に停車するたび路線図を見て、調べながら向かいました。
昨日の夜から朝に掛け、緊張で全くと言っていいほど眠れなかったので、今になって眠気を覚え始めました。段々とうつらうつらとし始め、乗り換えまでは時間があることを調べると眠りに入りました。その間に夢を見ました。お父さんを殺す夢でした。
わたしは一所懸命にお父さんの首を絞めます。苦しんだ様子で口から泡を吹き始めました。「やめろ、未来。お前も殺してやるぞ」そう言われてもなお締め続けると、息が途絶えました。
あまりにリアルな夢を見たので、飛び起きました。これからする犯行ではお酒を呷らせてから首を絞めるつもりでしたが、夢は違いました。胸を抑え、早い音を鳴らせて動く心臓を宥めました。
それだけでは落ち着かなかったので、深呼吸もしました。それは数分間続き、やっと落ち着いたところでため息を吐きました。こんな夢のことで焦っていては本番で失敗するかもしれません。わたしは段々と不安になりました。
電車を降りて次の電車に乗りました。その電車に一時間半ほど乗ると、県内で一番の大きさはある図書館に行けるはずです。この電車では眠らないようにしました。
平日だということもあり、続々と通勤のお客さんが乗ってきました。普段学校へは歩いて行っているので、満員電車を初めて経験しました。あまり良い思い出になりそうもないです。
お客さんがひしめく中、少しの間から覗ける外の景色を眺めました。段々と山が増え始めてきました。ここまで山ばかりの景色というのも初めてだったので、この電車の旅は新鮮な気持ちでした。しかし、どういった目的から電車に乗っているのかを考えると、憂鬱になってきました。
わたしだって、人なんて殺したくありません。確かに、この日記を読んだときは殺意に満ち溢れなが意気揚々と書き足していきました。でも、段々と時間が経って行くうちに、今のこの殺意が嘘のように思えてきました。
お父さんのことはもちろん許せません。許せないのですが、だからと言って人を殺めて良いというわけではありません。それに一人の人間を殺すということは、それ相応の覚悟を持つものでしょう。わたしにその覚悟はあるのでしょうか。
怒りの勢いに任せてこんな行動をしているのではないでしょうか。
でもどうしたら良いのでしょうか。このままではわたしもそうですが、お母さんも報われません。お父さんをのうのうと生き永らえさせて良いものなのでしょうか。
やはりお母さんの言う通り、警察に日記を渡すべきだったのでしょうか。わたしの行いは本当に正しいことなのでしょうか。お母さんは、わたしに殺して欲しいのでしょうか。
お母さんは、わたしを人殺しにしたいのでしょうか。お母さんは、わたしに幸せになってくれるよう願っていました。わたしはお父さんを殺したら幸せになれるのでしょうか。
わたしはお父さんを殺しても辛い現実からは逃れられないのではないでしょうか。もしかすると、お父さんを殺されると悲しむ人がいるのではないでしょうか。
お父さんは、お母さんのお姉さんと結婚したそうです。もしもお父さんに子どもがもう一人いたら? お父さんがわたしとは違い、その子どもに愛情を注いでいたとしたら?
その子どもはわたしを憎むのではないでしょうか。その子どもはわたしと同じ悲しみを味わうのではないでしょうか。その子どもはわたしを憎み、そして殺そうとするのではないでしょうか。
結局、お父さんを殺すことは負のスパイラルとなり、幸せになる人なんていないのではないでしょうか。
もしかしたら、わたしが我慢すれば全てが解決するのではないでしょうか。
この悩みをひとまずは忘れ、電車の到着を待つことにしました。
そうして何も考えずぼうっとしていると、目的駅へと到着しました。わたしは地図を見ながら図書館へと向かいました。意外とすぐ近くに見つけたので入ると、職員の方に「ハローページを見せて貰えますか」と聞きました。
職員の方はすぐさま探してきてくれました。わたしは近くにあった椅子に座り、ページを開きました。氏名と電話番号の書いたメモを取り出し、照らし合わせて探しました。
そうして細かい字に目を疲れさせながら時間を掛けて探していくと、とうとう見つけました。電話番号を載せないという選択をしていないことに安堵しました。
しかしその反面、遂に見つけてしまったという気持ちもありました。とうとうここまで来てしまいました。この住所に行けばお父さんがいる。その事実を思うと恐怖に慄きました。
わたしは自問自答しました。本当にやるのか。本当に後悔しないのか。お前はお父さんを殺して幸せになれるのか。
わたしは全てに否定しました。本当はやりたくない。絶対に後悔する。わたしはお父さんを殺しても幸せになんてなれない。結局、覚悟は最初だけで、勢いに任せた偽りの姿だったのです。お母さん、本当にごめんなさい。
書籍を職員のもとに返し、図書館を出ました。時刻はまだ朝の九時でした。
殺すか殺さないかは別として、当初の予定通り進めることにしました。歩けるところまで歩いて行こうと思い、手に地図を持って歩き始めました。ここからお父さんのお家までは約五十キロメートルあります。
さすがにその距離を歩けると思いませんが、時間を潰すために歩きました。電車やバスを乗り継いで行くという方法もありますが、これでは早く着き過ぎてしまいます。
なぜ早く着き過ぎてしまうと困るのかというと、近隣住民の方に見つかってしまう可能性があるからです。
ですが結局のところ、わたしはどうしたいのでしょうか。捕まることを厭わない捨身と自分は捕まりたくないという保身の気持ちを持つことで、二律背反に陥っています。わたしの意思は未だ固まっていません。
わたしはできる限り何も考えず歩き続けました。凍えそうになりながらも必死で歩き続けました。そうしていくら歩いたかわかりませんが、四時間ほど経ちました。
少し休憩をと思い、山間にあった休憩所に座りました。水場がそばにあったため、喉の渇きを潤すためにたくさん飲みました。そこで軽くストレッチをすると歩き始めました。
歩けど歩けど何の変化もない景色にいい加減飽き飽きして来ました。遠くを見るとバス停を見つけました。どこに行くバスなんだろうと思い、時刻表と路線図を見ました。
目的地を地図で探すとき見た覚えのある地名を見つけました。確かそこからは電車が出ており、最寄り駅まで行ける電車だったと思います。このバスに乗ろうと決めました。田舎だということもあり、とても少ない本数のバスでした。
四十分ほど待つと、バスがやって来ました。それに乗って最奥の席に座りました。足元には暖房が付いており、凍り固まったわたしの体を解きほぐしました。少し眠気を覚えていた頃、ようやく駅に到着しました。
時計を見ると、十四時でした。どうしようかと思い、駅前にあったベンチに座りました。今日は平日なため、学生はまだ学校に行っているはずです。そして、わたしは大きな荷物を抱えて座っていました。
そんな姿を不審に思ったのか、交番で立哨していた警察官がわたしのもとに歩み寄ってきました。「君、学校はどうしたの」と聞かれました。
誤魔化すため、「実家の用事で来ました」と言いました。警察官はあまり詮索せずに交番へと戻って行きました。わたしはそのとき心臓が高鳴っていました。
もしもこの大きなバッグ中身を見られてしまったら、絶対に怪しまれていたと思います。幸運にもわたしの言を信じてくれたので、安心しました。
ここから離れ、駅のホームに向かいました。もう目的地に早く着いても良いかと思い、電車に乗りました。
一日にここまで移動していると、慣れたものですぐ到着したように思いました。
最寄り駅へと着きました。時計を見ると、まだ十五時でした。既に疲労困憊といった状態だったので、眠りに就きたいと思いました。しかし、横になれるような場所は近くにありません。仕方なくトイレに入り、横に添えつけてあった手すりを抱くように眠りました。
深い眠りだったようで、夢は見ませんでした。寝ぼけまなこになりながら時計を見てみると、二十時を過ぎていました。ずいぶんと寝てしまったと思い、急いで立ち上がり、その場を出ました。
そこからバスに乗ると一番早いのですが、歩いて行きました。ここもやはり目的地に行くまで、人との接触や目撃されるのを避けるためです。
ここでとうとうお父さんを殺すことの覚悟を決めました。そして、お父さんを殺したらそのまま死ぬことに決めました。
駅を離れてしばらく歩くと、周りは田畑ばかりになり、人通りがなくなりました。街灯もなく、夜空から照らされる薄い月明かりだけが頼りです。わたしは空を見上げました。とっても綺麗でした。わたしはここまで綺麗な星空を見たことがありませんでした。
お母さんにも見せてあげたかったなぁ。
わたしは歩き続けました。そろそろというところで、人とすれ違いました。顔を見られたと思いすぐに逸らしましたが、相手は気にしていない様子でした。これなら問題なさそうです。
遂に辿り着きました。家の周りを広く生け垣が囲っていて、庭に池が付いていました。そのとき、「大きくて羨ましい家だ」と素直な感想を持ちました。
玄関に近づき、表札を見ました。そこには石岡と書いてあったので、間違いないと確信しました。呼吸を整え、早鐘を打った心臓を落ち着かせるため、胸に手を置きました。
「ここまで来てしまったのだからやるしかない」「いつまでも言い訳をしているわけにはいかない」と自分に言い聞かせ、手袋を嵌めた手でインターホンを押しました。
わたしは数刻待ってみました。でも、誰も出てくる気配がありません。再び押して、玄関のドアをノックしました。それでも、誰も出てくる気配はありませんでした。
「もしかするとこの家にはいないのだろうか」と思いながらドアを引いてみると、開きました。家にいると確信し、「もう眠っているのかもしれない、それなら好都合だ」と思いました。
玄関をゆっくり覗いてみると、比較的綺麗な家でした。靴を見るともちろん一組置いてあります。
わたしは足音が鳴らないようそっと靴を履いたまま上がりました。ゆっくりと、ゆっくりと、家の主に気付かれないようゆっくりとを心掛けて歩きました。
廊下を真っすぐ行き、中心ほどまで来ました。わたしは立ち止まり、何か音が聞こえないかと耳を傾けました。じーっとしていると、どこかから水音が鳴っているように聞こえました。どうやらお父さんはお風呂に入っているようです。
音を頼りに、風呂場を見つけ出しました。そのドアをゆっくりと開き、お風呂場の樹脂パネルを見ると灯りが映っていました。しかし、同時に赤い色をしたものも映っていました。
あれは、血なのでしょうか。浴室のドアに耳を付けました。シャワー以外の音は何も聞こえません。「これはもしかして……」そう思い、ドアを引きました。
そこには右手にカッターナイフを持って、浴槽の端に頭を垂らしているお父さんの姿がありました。そして、お湯は真っ赤に染まっていました。驚きのあまり叫びそうになりましたが、途端に口を両手で押さえました。
「どうして、何が起きているの」わたしは混乱しました。お母さんに蛮行とも呼べるほどのことをした人間が、どうして、どうして自殺なんかを!
わたしはお父さんに近寄り、息をしているのかを調べてみました。虫の息ではあるものの、息をしている! これなら救急車を呼べば助かるかもしれない。わたしはどうしようかという悩みを浮かべました。
お父さんを殺すためにここまで来た。絶好のタイミングで自殺しようとしているんだから、もっと惨く殺せるるチャンスじゃないか!
このままお父さんの右手に握られているカッターナイフで、更に切り刻んでも良いかもしれない。このまま殺せ。そしてそのまま何事もなかったかのようにのうのうと生きろ。
違う! 今助ければ未だ間に合う! 見殺しにしたところで何の幸せがある? 見殺しにしたことで悩み続けるんだったら、助けた後悩み続けた方がずっとマシだろう?
それに、お父さんを憎んでいるのだったら、同じことをやろうとするな! 同じ位の人間になるな! 解決方法は他にもあるはず!
そうしてわたしは、殺すことも助けることもできず逃げ出しました。
わたしは、お母さんの復讐をした悪人にはなれず、かと言ってお父さんを助けた善人になることもできない半端な人間でした。
風呂場のドアを強引に開け、玄関まで走り抜けました。ドアを開けて外に出る途中、勢い余って何かをなぎ倒してしまい、慌てていたわたしは元の位置がどこかも忘れ、適当な空間に立て直しました。
その当時何かわかりませんでしたが、昨日やっと思い出しました。傘立てでした。
家を出てもずっと走り続けました。この際どうにでもなってしまえという気持ちになり、証拠隠滅やこそこそと逃げることを忘れていました。
わたしの計画は何一つとして遂行されず、ただただ後悔だけを作り出したものとなりました。
わたしは怖くなり、胸の奥からこみ上げてくるものがありました。罪悪感に苛まれ、目の前が何も見えなくなるほどの涙が溢れだしました。一所懸命に腕を振って走り続け、この場から一刻も早く立ち去ろうとしました。
わたしは、お父さんを助けられたかもしれないのに見殺しにした。わたしのせいだ。いやだ、いやだ、わたしのせいじゃない!
でもわたしは助けられた! いいやあのまま救急車を呼んだところで助けられなかった。死体の発見が早くなるか遅くなるかだけの違いだろう。
でも息をしていた! わずかながらにも息をしていた! でもあの出血で水に肌を浸けおいたら、間違いなく助からない! わたしは悪くない! わたしは悪くないんだ!
周りを見ずに走り続けていたため、道路に落ちた大きなレンガに気付かず転んでしまいました。痛い、痛い、痛い。膝を大きく擦り剝いてしまいました。
熱い、痛い、辛い、でもお父さんの方がもっと痛い。わたしが殺したんだ。ごめんなさい。許してください。お母さんお父さん、わたしを許してください。産まれてきてごめんなさい。全てわたしが悪いんです。
わたしはお父さんを殺してしまった。きっと、一生後悔し続けることになる。
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