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現代編Ⅱ
過去を知るため
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七月二十日
翌日となり、夏休み初日となった。
朝の九時に起き上がると、美玖を呼びに行った。
「美玖、ちょっと良いか」
そう言うと、ドアを開いて出てくる。
「どうしたの?」
「今日は未来と二人で遊んでいてくれないか。この家で良いから」
そう言うと、美玖は訝しみならがも承諾した。今日は未来の住む児童養護施設へと行こうと思っている。そのとき、未来とばったり出くわしては困るので、誘い出して欲しいと頼んだのだ。
「ありがとう、少し出掛けてくるよ」
そう言って、家を出た。美幸先生によれば、このアパートからそう遠くないようなので、地図を逐次確認しながら歩いていくことにした。
美玖に頼んですぐに出てきてしまったため、未来とは道中出くわすかもしれない。少し遠回りしながら行くことにする。
この地に越してきて、かれこれ一年半が経とうとしているが、街探検のようなことはしたことがなかった。買い物も美玖に任せっきりだったため、学校と駅前と家の周辺くらいしか把握できていない。
歩いていると、徐々に見慣れない街へと移ろっていく。ここら一帯にはこんな場所があったのかという新たな発見をした。
僕のアパートは大きな国道がそばを通っている場所にあり、昼夜ともに車やバイクのエンジン音が鳴り響いている場所なのだが、未来の家はどうやら閑静な住宅街の一角にあるそうだ。とても住み心地が良さそうなことで。
三十分ほど歩いていると、目的の場所が見えてきた。
施設はもう目と鼻の先という位置にきたところで、ちょうどのタイミングで未来が出てきた。やはり、出発が早すぎたのかもしれない。美玖に呼び出されてから家を出るまでに三十分以上掛かると見積もるべきであったはずだ。
未来はいつも通りではあるものの、学校と同じナチュラルメイクをしている。彼女に見つからないためにも、近くにあった電柱に身を潜める。
未来は向かいの歩道を歩いているのだが、何の疑いもなく歩いている。一人でいるのにも関わらず、心なしか少し楽しそうに見えた。
数刻待つと、とうとう気付かれず通り過ぎることに成功した。僕は物陰から顔を出して施設の正面へと向かう。
正門とみられる場所に立ち、外観を見初める。意外に大きな建物だ。東京は八王子市にあるからなのかはわからないが、多くの子どもが入所してくるのだろう。三階建てで、少しだけサイズを小さくした学校のようだった。
玄関とみられるドアを開き、職員を呼ぶ。
「すみませーん」
少しすると、その声を聞いてか中学生くらいの女の子が出てきた。
「あの、どうしたんですか?」
「ああ、君はこの施設の子だよね?」
「そうですが……」
訝しげな表情をし、僕の様子を窺ってくる。記憶を掘り返しているように見えたが、何も心当たりがなかったようで首を振っていた。
「僕は、矢張高校に通っている咲美未来さんの知り合いで、二年生の石岡浩という者なのだけれど、職員の方はいるかな?」
僕が話すと、女の子は安心した顔になった。
「あ、あなたがヒロくんさんですか」
「あれ、もしかして未来から何か聞いているのかな」
「はい、未来ちゃんは、いつもヒロくんさんのことを話してくれますよ。学校にはこんな人がいるだとか、わたしを部活動に誘ってくれた人だとか。楽しそうに話してくれますし、私もいつかお会いしてみたいと思っていました」
どうやらいろいろと僕のことは聞き及んでいたようだった。変な噂が流れていないと良いが。
目的とは全く関係ないのだが、「僕のこと悪く言っていないかい?」と聞いた。
人からの印象は気になるものだ。それを聞いた女の子は大袈裟に顔を振った。
「悪くなんてそんな、聞いたことがないですよ。むしろヒロくんさんのことが大好きなんだろうなぁ、って気持ちが伺えるくらい良いことしか言いませんよ。それはもちろん同じ部活に入っている聡くんさんと美玖ちゃんさんも同じです」
「そうかそうか、良かった」
ここまで言われると嬉しくなるし、安心もした。これはつまり、僕らの部活には何の不満を持っていないということだからだ。本題に入ることにする。
「話が逸れてしまったね。それで、職員の方に、未来のことについて聞きたいことがある、と伝えてくれないかな? できればヒロくんという名前も添えて」
「未来ちゃん本人じゃなくて良いんですか? 本人はちょうどさっきここを出ちゃいましたけど」
「いや、未来はいなくて良いんだ。それと、ここに来たことはできれば、未来には秘密にしていて欲しい」
女の子はまた訝しげにこちらを窺ってくる。今度は先ほどよりも友好さを含んだ表情ではあった。
しかし、根掘り葉掘り聞き出すことはやめたようで、「わかりました、秘密にしておきます。それでは先生たちを呼んできますね」そう言って踵を返した。
ここでは職員の方は先生と呼ばれているらしい。数分程待つと、先生とみられる若い女性が現れた。
「君が石岡浩くんですか?」
「はい、そうです。実は、未来について聞きたいことがあって参りました」
そう聞くと、「重要な話題なら、玄関で話すことはよそう」ということになり、小部屋へと案内された。
部屋に入ると早速話を始める。
「君がヒロ君ですか。本人の口からも聞き及んでいますよ。いつも未来ちゃんがお世話になっていますね」
そう言うと、お辞儀をしてきた。
「いえいえ、そんなことないです」
「早速だけど、どんな要件ですか? わざわざここに来たということは、本人には聞けないことだと思いますが」
話が早いものだと思った。早速話し出す。
「まず、未来と話すようになったきっかけが、彼女が学校にあるベンチで一人座っていたからなんです。というのもただ座っていたわけじゃなく、泣いていて、時々スカートのポケットからハンカチを取り出すのが見えました。彼女のその姿を見て心配になり始めて、このままでは不味いかもしれないと思いました」
正確には『未来視』をしてから不味いと思い始めたため、前後関係がかなりずれているのだが、もちろん言えるはずもない。
「その日は、とうとう声を掛けられませんでした。そして、彼女の姿はその日限りということはなく、連日同じ場所で同じ格好をして泣いていました。
それを見て耐え切れなくなった僕は、思い切って話し掛けることに決めました。未来の座るベンチのそばにあるもう一方に座り、声を掛けました。どのように声を掛けたのかは恥ずかしいので言えませんが、とにかくその話をすると未来は笑ってくれました」
これは花鉢に植えてあるマリーゴールドについての話だ。前日調べた花言葉の由来についての説を話したことは、今話すには少々気恥しい。
「ここからは、気にならないとは思いますが、話の前後関係が少しずれているので、そこはあまり気にしないでください。
未来と話し始めると、その流れから昨年末に僕が父を亡くした話を出したんです。これはというと、父を亡くしたときの気持ちと、未来の落ち込んだ姿が少し重なって見えた気がしたからなのですね。
すると、案の定未来も同じように話してくれました。昨年末わたしもお母さんを亡くしました、と。やはり同じだったのかとそのとき驚いた覚えがあります。
そして、その話を聞いた僕は未来の力になってあげたいと思うようになりまして、尽力することに決めました。彼女と話し始めると趣味が同じで盛り上がったりして。あ、そういえば話が逸れるのですが、ここには図書室のような場所はありますか?」
話を唐突に脱線するも、先生は「ありますよ」と言ってくれた。
「見ますか?」
「ぜひ、見せてください」
僕らは椅子から立ち上がり、小部屋から出る。少し歩くと図書室へ入り、一冊の本を取り出した。背表紙を見ると、やはり分類番号が書いていなかった。
「ここは図書室のような貸出をしていないのですか?」
「していませんよ。この施設では自由な雰囲気を重視しているので、段取りを踏んだ貸し借りをする必要はないという判断がされています。ですので、ここはどちらかというと、みんなのための大きな書斎のようなものです。ここにある本は全て地元の住人からの寄付で集まっているのですよ」
「そうなんですね」
どうやら、未来はのびのびとした生活ができているようだ。僕は、「ありがとうございました」と言い、その部屋を離れた。そして先ほどの部屋へと戻った。
「さて、話がだいぶ逸れてしまいましたね。趣味の話をしたり、好きな食べものですとか、好きな科目を話して雑談を楽しみました。それから未来とは一緒に昼食を摂るようになりまして、昼休みは未来のもとに全力疾走をする毎日でした。
とまあここから美玖や聡との邂逅があって部活動を設立するのですが、そこは聞いていそうですので省いて良いでしょうね。つきましては一つ、ここからが今日の主目的なのですが、伺いたいことがあります」
僕はそう言うと、居住まいを正した。
「どうぞ、答えられる範囲でしたらなんなりと申してください」
「わかりました、それでは遠慮なく。昨日、とあるきっかけがありまして、未来の出生について知らなければならなくなったのです。こういうと大層な話のように聞こえますが。
ああ、いいえ。大層な話なのですが、聞かないで貰えると助かります。そこで、担任の教師へと未来について伺ってみたんです。その担任というのが、富士美幸という先生なのですが、ご存じですよね?」
「もちろん知っていますよ。部活の顧問も担当しているそうですね」
「ええ、なら話が早そうですね。その美幸先生は物知りな方なので、僕は聞いてみました。正確には聞こうとしたことを当てられたので、自分から話したのですがね。それは良いでしょう。
美幸先生は言いました。彼女はお母さんと同時期、とはいっても少し後だが、お父さんも亡くしているのだよ、と。僕はそれを知らなかったので大きく衝撃を受けました。今日はそれについて伺いたいと思い、ここに参りました。それで、この話は本当なのでしょうか?」
目の前にいる先生は、首肯した。
「はい、本当です。彼女は昨年末に両親を亡くして、身寄りがなかったので、この施設へと移ってきました」
「そう、ですか」
そうだったのか。再び僕はショックを受けた。
「身寄りがないというのは、どういうことなのでしょうか?」
「そうですね、未来ちゃんのお母さんには姉妹がいたのですが、未来ちゃんの生まれる前に亡くなっているそうです。それは祖父母についても同様です。
そして、この話は知らないかもしれませんが、未来ちゃんは言っていました。お父さんはお母さんとは結婚していません、と。そして、お父さんには認知されていません。つまりこの場合、未来ちゃんは非嫡出子と呼ばれるものになるのですが、例え血縁者でも、結婚していない父親には親権がありません。
この場合には、家庭裁判所にお父さんが親権者として指定して貰えれば引き取ることは可能ですが、お父さんも既に亡くなっていたので、それはできませんでした。ですので、一切の身寄りがいなくなった状態です。その結果、こちらの児童養護施設へと移って参りました」
「そう、だったのですか……」
この話を聞き、僕は茫然とした。
しかし新たな情報も手に入った。未来の両親は結婚していなかったのだ。どうやら彼女はとても複雑な家庭で育ったようだ。
未来は僕たちに対し、何も話してはくれなかった。何か一つでも相談してくれれば、とは言っても励ますことくらいなのだが。何か言うことはできたのかもしれない。そう考え、昨夜のことを思い出す。
「兄さんは、あまり自分の考えを話してくれる人じゃないね」
美玖の言ったことはこれと同じ気持ちだったのか。確かに、とても辛い気持ちになるものだ。
僕は続けて聞く。
「未来の実家はどこにあるか知っていますか?」
「知っていますよ。ここからそこまで離れていません。神奈川県の横浜市にあるそうです。私は行ったことがありませんが、みなとみらいや桜木町のような都会ではなく郊外の方面だそうです。住所を教えましょうか? と言っても、現在は別の人間が住んでいるかもしれませんが」
「はい、よろしくお願いします」
そうして住所を教えて貰った後、他言無用を約束してこの施設を離れた。
そのままの足で横浜へと向かうことにした。現在の時刻は十一時を過ぎたところで、七月下旬のこの時間帯はとても暑い。携帯電話の画面を見て、気温を確かめてみる。既に三十度を超える猛暑となっていた。
歩きながら道路の先を見ると、地面がぐわんぐわんと揺れる陽炎があった。
今日は児童養護施設に行くだけで終えるつもりだったため、飲み物を何も持って来ていなかった。歩いている途中で見つけた自動販売機で五百ミリリットルのスポーツドリンクを一本買った。苦学生を極める僕にはたった百五十円の出費が大打撃となる。
しかし、水分補給を疎かにして熱中症や脱水症状で倒れるなんてことがあっては堪ったものじゃない。
なんせ未来の『未来』は三日後だ。
そろそろこの貧乏からの窮地を脱さなければならないと思っている。これは僕のためでもあり、美玖のためでもある。働くのは良いが、ただのアルバイトで馬車馬のように働いてたった千円程度のはした金を貰うだけでは納得ができない。
これでも地元である山梨県よりだいぶ高いはずだが、それでも足りない。
やはり、この『未来視』を使って金儲けを企てるしかあるまいか。新たにそこいらの部屋を借りて「石岡占い教室」をやるのも良いが、どうせなら先行投資すら払わずやりたいものだ。
そうだ、絶好の場所があるじゃないか。それは学校である。今の人生相談部は奉仕活動の一環で、ようは非営利部活だが、この際勢いで法人化しても良いかもしれない。客から金を取るのだ。
いや、どうせなら法人化なんて公的手続きを踏まず、税金という国とのしがらみから逃れられる方法で稼ぎたいものだ。これは闇取引しかあるまいか。これでは犯罪になるので、あくまで生徒からのお布施を収入にするということでも良いかもしれない。よし、これが一番良い。
と意味不明な冗談を考えるほどに暑さが辛くなってきた。軽い熱中症になったようだ。
ようやく駅に到着し、線路図を見た。どうやら乗り換えずに行けるらしい。僕は電車を待った。
そうだ、と思いつき、携帯電話を取り出す。メッセージを開き、部員全員グループにて文字を打つ。
浩 「三日後、みんなは暇か?」
少し待つと、美玖から電話が掛かってきた。電話に出ると、スピーカーからかしましい声音が轟いてきた。この声は未来と美玖だろう。
「ヒロくん暇ですよー」
「兄さん、私も暇だよー」
二人は言った。こうして聞くと、二人は顔が似ている割に声質は違うものだなと気付いた。今までもそれはわかっていたはずだが、意識したのは初めてだった。
「なら良いんだ。実はその来る三日後、遊園地に行きたいと思ってだな」
未来に『未来視』をしたその日は、カレンダーと机に置いてあるお土産から遊園地に行っていたことが導き出された。『未来視』の中ではどのような流れで遊園地へ行くことになったか定かではないが、倣っておくことに決めた。みんなの目があり、時間まで一緒にいれば助けられるかもしれないからだ。
「良いですね! わたし行きたいですー」
「私も行くーと言いたいところだけど、兄さんお金は大丈夫なの?」
「ああ、やむを得ないと思っている」
「やったー私も行くで決まりね」
「そうか、なら良かった。それじゃあ切るからな」
そうして二人は「ばいばーい」と言って切った。次は聡か。彼奴からの返信を確認してみる。来ていた。文面は「行く」となっている。これで決まりだ。
ちょうど良いタイミングで来た電車に乗った。弱冷房車だから風は弱いが、今の自分には生き返る気持ちを味わわせてくれる美風だった。良い風と心地よい振動に揺られていると、徐々に微睡み始めた。片道一時間は掛かるだろうし、ここはひと眠り付こうかと思い、目を閉じた。
どれくらい経ったであろうか。目を開き始めて次の駅を確認する。寝過ごしたようだった。次の駅で降り、反対方向に乗り換えた。幸運にも通過した駅は一つだけだったため、大した時間は掛からなかった。現在の時刻を確認すると、十二時を回っていた。
これからもっと暑くなる。少し頭痛がするものの、体調には気を付けねば。
教えて貰った住所を頼りにバスへと乗った。どうやら目的地は郊外も郊外であり、駅から徒歩四十分は掛かる場所にあるらしい。さすがに歩いていくには不便なため、バスを使うことにした。
バスに乗ると、電車よりもさらに涼しかった。むしろ寒いほどであり、急激な温度の変化に晒され、もう明日はお熱だろうな、と素直に思った。
バスが目的地に着き、家へと向かう。ここも閑静な住宅街となっており、車通りが少なかった。バス停からは近いようで、数十秒と掛からない場所にアパートを見つけた。どうやら到着したようだ。
外観で見定めてみると、だいたい築四十年といったところか。古いアパートだ。そしてここの一階の手前側に目的の部屋がある。
僕はインターホンを押した。その後、「すみません」と言った。
一分ほど待ってみるも、誰も出てくる気配がないため、再度インターホンを押してみる。
二分ほど待つ。が、誰も出ない。おかしいなと思い、ノックをして再度、「すみません」と言った。すると、隣の部屋から女性の顔が覗いた。好機だと思った。
「すみません、こちらのお家って誰も住んでいらっしゃらないのでしょうか」
「ええ、昨年末から誰も住んでいませんよ」
咲美家以来、誰も住んでいないのか。僕はこの女性に聞いてみることにする。
「あなたはこのアパートに住んで長いのですか?」
「ええ、長いですよ。かれこれ二十年になります」
これは良い相手に遭遇した。
「実は、このお家に前住んでいらっしゃった、咲美さんの娘さんと友達をやっております。それで、本人からこのお家が今どうなっているのか見てきて欲しいと仰せ付かったしだいでございます」
「そ、そうですか」
理由が無理矢理すぎたかもしれない。未来をやたらと傲慢な人間のように言ってしまったが、相手もさしたる興味はないだろう。と願った。
「それでして、これまた咲美さん、未来と申しますが、このお嬢さんから両親が昨年末に亡くなったと拝聴いたしましてね。あなたはこの件に関して何か知っていることはございますか?」
「ええ、もちろん知っていますよ。なんてったって、あれほどのことが起きればね~。それにあたしは一時期未来ちゃんを預かっていたのよ。あたし以外にも大勢の人が知っていると思いますよ」
「と、申しますと?」
「咲美さんはこの部屋で自殺したんですよ」
「え!?」
「あなた知らないのね? 昨年十二月の初めごろに、玄関で首を吊って自殺したようでね。娘さんが第一発見者で、あたしが警察に通報したの」
「そうですか、未来がですか。預かっていたということは、未来は何か話していませんでしたか?」
「いいえ、なーんにも話してくれなかったのよ。でも、その頃ちょっとおかしいと思っていたのよね。前までお金に困っている様子なんてなかったのに、十二月の始まり頃から、乱暴な男の人たちがこの部屋の前に来てたのよ。たぶん消費者金融の人間だと思うのだけど、どうしちゃったのかしらね~」
「お金、ですか」
これは、想像以上に厄介な問題が絡んでいそうだ。一介の高校生である僕が、決して踏み込んではならない内容だと思えてくる。乱暴な男の人と消費者金融という組み合わせは、違法な取り立てを行っている闇金業者以外の何者でもないだろう。
「それに、咲美さんの夫は滅多に帰らないようで、偶に帰ってくるといつも金を出せ、金を出せと文句を言っていたのよ。ボロアパートだから隣の部屋まで丸聞こえで迷惑なことだったよ」
また金か。夫から金をせびられ、闇金業者から金を返せと言われていたのか。
僕の推理では、夫から金を貸せと言われ続け、財布の底が尽きた未来の母は、闇金業者にまで手を染め始める。そして、あまりにも強引な取り立てに耐えかね、結果的に自殺した。と考えた。
しかし、こんな理由で自殺などするものだろうか。というのも、相手が闇金業者であれば、違法な取り立てを行っていることもあり、弁護士に解決を依頼する手段があるはずだ。
だいいち、金に困っているにも関わらず、中学生の娘を置いて自殺するなんてことがありえるだろうか?
この予想は恐らく外れているのであろう。
疑問がさらに膨らんだ状態で、隣の女性との話は終えた。
今日の話をまとめて整理するとこうなった。
・両親は結婚しておらず、未来は非嫡出子だった。
・引き取り手の親戚がいなかったため、児童養護施設に入ることになった。
・未来の父は滅多に帰ってくる人じゃなかった。
・未来の父は金を借りるため、よくアパートへと来ていた。
・未来の母は闇金業者で借金をしていた。
・未来の母の死因は自殺だった。
以上の情報が集まった。量としては及第点と言ったところだろう。以上の話をまとめて導き出せる結論は、全く思い浮かばなかった。
これ以上調べられることは何もないと思う。結論は導き出せていないが、僕だけが知る情報を統括すると、未来の自殺の真相が突き止められるのかもしれない。しかし、皆目見当もつかない。
とりあえず今日は疲れたので、家に帰ることにする。疲労感と暑さにやられ、くらくらとし、身体の節々が痛くなってきた。横浜のお土産を買おうとも思っていたのだが、この分だと買えそうもないだろう。
フラフラと歩きながらバスに乗り、電車に乗って家に帰った。その間の記憶は、一切残っていなかった。
目を覚ますとそこはベッドの上だった。
どうやら帰ってきて早々、眠りに入ったらしい。とんでもない頭痛がする。痛い、痛い、痛い。身体も熱い。時計を見ると、二十時となっていた。僕は起き上がり、リビングへフラフラと向かう。その姿を見た美玖は言う。
「兄さん! 起き上がっちゃ駄目だよ!」
そうして僕を自室へと押し返してきた。
「の、飲み物をくれ」
僕が言うと、急いでスポーツドリンクを持って来てくれる。
「兄さん、帰ってきてすぐ、玄関で倒れだして大変だったんだからね! 未だ帰ってなかった未来ちゃんとベッドに一緒にせこせこ運んだからさ。彼女のことを思ってゆっくり休んでよ。ね?」
「そうか、ありがたいな。ところで僕は何時間くらい寝ていたんだ?」
「未来ちゃんが帰ろうとしていたのが十八時だから二時間くらいだよ」
「そうか、話は変わるけど、体温計取ってくれ」
「私がさっき測っておいたよ。三十八度超えてた。夏風邪になるなんてどこを歩き回ってたの?」
「長い長い散歩さ」
「あっそう、とにかく早く寝て! 三日後遊ぼうって誘ったのは自分でしょう?」
僕は返事を待たずにぐったりと倒れこんだ。
「あーあーだから言ったのに。ほら、肩貸して、連れて行ってあげる」
何も声を出せず、なすがままにされ、ベッドに入り込んだ。夏に布団は暑すぎると思いながらも、意識が遠のいてゆくのを感じた。
その日は寝苦しい夜だった。夢すらまともに見られないほど頻繁に目が覚め、そしてまた気絶するというのを繰り返した。この世の地獄を初めて味わったような気がしたのだった。
翌日となり、夏休み初日となった。
朝の九時に起き上がると、美玖を呼びに行った。
「美玖、ちょっと良いか」
そう言うと、ドアを開いて出てくる。
「どうしたの?」
「今日は未来と二人で遊んでいてくれないか。この家で良いから」
そう言うと、美玖は訝しみならがも承諾した。今日は未来の住む児童養護施設へと行こうと思っている。そのとき、未来とばったり出くわしては困るので、誘い出して欲しいと頼んだのだ。
「ありがとう、少し出掛けてくるよ」
そう言って、家を出た。美幸先生によれば、このアパートからそう遠くないようなので、地図を逐次確認しながら歩いていくことにした。
美玖に頼んですぐに出てきてしまったため、未来とは道中出くわすかもしれない。少し遠回りしながら行くことにする。
この地に越してきて、かれこれ一年半が経とうとしているが、街探検のようなことはしたことがなかった。買い物も美玖に任せっきりだったため、学校と駅前と家の周辺くらいしか把握できていない。
歩いていると、徐々に見慣れない街へと移ろっていく。ここら一帯にはこんな場所があったのかという新たな発見をした。
僕のアパートは大きな国道がそばを通っている場所にあり、昼夜ともに車やバイクのエンジン音が鳴り響いている場所なのだが、未来の家はどうやら閑静な住宅街の一角にあるそうだ。とても住み心地が良さそうなことで。
三十分ほど歩いていると、目的の場所が見えてきた。
施設はもう目と鼻の先という位置にきたところで、ちょうどのタイミングで未来が出てきた。やはり、出発が早すぎたのかもしれない。美玖に呼び出されてから家を出るまでに三十分以上掛かると見積もるべきであったはずだ。
未来はいつも通りではあるものの、学校と同じナチュラルメイクをしている。彼女に見つからないためにも、近くにあった電柱に身を潜める。
未来は向かいの歩道を歩いているのだが、何の疑いもなく歩いている。一人でいるのにも関わらず、心なしか少し楽しそうに見えた。
数刻待つと、とうとう気付かれず通り過ぎることに成功した。僕は物陰から顔を出して施設の正面へと向かう。
正門とみられる場所に立ち、外観を見初める。意外に大きな建物だ。東京は八王子市にあるからなのかはわからないが、多くの子どもが入所してくるのだろう。三階建てで、少しだけサイズを小さくした学校のようだった。
玄関とみられるドアを開き、職員を呼ぶ。
「すみませーん」
少しすると、その声を聞いてか中学生くらいの女の子が出てきた。
「あの、どうしたんですか?」
「ああ、君はこの施設の子だよね?」
「そうですが……」
訝しげな表情をし、僕の様子を窺ってくる。記憶を掘り返しているように見えたが、何も心当たりがなかったようで首を振っていた。
「僕は、矢張高校に通っている咲美未来さんの知り合いで、二年生の石岡浩という者なのだけれど、職員の方はいるかな?」
僕が話すと、女の子は安心した顔になった。
「あ、あなたがヒロくんさんですか」
「あれ、もしかして未来から何か聞いているのかな」
「はい、未来ちゃんは、いつもヒロくんさんのことを話してくれますよ。学校にはこんな人がいるだとか、わたしを部活動に誘ってくれた人だとか。楽しそうに話してくれますし、私もいつかお会いしてみたいと思っていました」
どうやらいろいろと僕のことは聞き及んでいたようだった。変な噂が流れていないと良いが。
目的とは全く関係ないのだが、「僕のこと悪く言っていないかい?」と聞いた。
人からの印象は気になるものだ。それを聞いた女の子は大袈裟に顔を振った。
「悪くなんてそんな、聞いたことがないですよ。むしろヒロくんさんのことが大好きなんだろうなぁ、って気持ちが伺えるくらい良いことしか言いませんよ。それはもちろん同じ部活に入っている聡くんさんと美玖ちゃんさんも同じです」
「そうかそうか、良かった」
ここまで言われると嬉しくなるし、安心もした。これはつまり、僕らの部活には何の不満を持っていないということだからだ。本題に入ることにする。
「話が逸れてしまったね。それで、職員の方に、未来のことについて聞きたいことがある、と伝えてくれないかな? できればヒロくんという名前も添えて」
「未来ちゃん本人じゃなくて良いんですか? 本人はちょうどさっきここを出ちゃいましたけど」
「いや、未来はいなくて良いんだ。それと、ここに来たことはできれば、未来には秘密にしていて欲しい」
女の子はまた訝しげにこちらを窺ってくる。今度は先ほどよりも友好さを含んだ表情ではあった。
しかし、根掘り葉掘り聞き出すことはやめたようで、「わかりました、秘密にしておきます。それでは先生たちを呼んできますね」そう言って踵を返した。
ここでは職員の方は先生と呼ばれているらしい。数分程待つと、先生とみられる若い女性が現れた。
「君が石岡浩くんですか?」
「はい、そうです。実は、未来について聞きたいことがあって参りました」
そう聞くと、「重要な話題なら、玄関で話すことはよそう」ということになり、小部屋へと案内された。
部屋に入ると早速話を始める。
「君がヒロ君ですか。本人の口からも聞き及んでいますよ。いつも未来ちゃんがお世話になっていますね」
そう言うと、お辞儀をしてきた。
「いえいえ、そんなことないです」
「早速だけど、どんな要件ですか? わざわざここに来たということは、本人には聞けないことだと思いますが」
話が早いものだと思った。早速話し出す。
「まず、未来と話すようになったきっかけが、彼女が学校にあるベンチで一人座っていたからなんです。というのもただ座っていたわけじゃなく、泣いていて、時々スカートのポケットからハンカチを取り出すのが見えました。彼女のその姿を見て心配になり始めて、このままでは不味いかもしれないと思いました」
正確には『未来視』をしてから不味いと思い始めたため、前後関係がかなりずれているのだが、もちろん言えるはずもない。
「その日は、とうとう声を掛けられませんでした。そして、彼女の姿はその日限りということはなく、連日同じ場所で同じ格好をして泣いていました。
それを見て耐え切れなくなった僕は、思い切って話し掛けることに決めました。未来の座るベンチのそばにあるもう一方に座り、声を掛けました。どのように声を掛けたのかは恥ずかしいので言えませんが、とにかくその話をすると未来は笑ってくれました」
これは花鉢に植えてあるマリーゴールドについての話だ。前日調べた花言葉の由来についての説を話したことは、今話すには少々気恥しい。
「ここからは、気にならないとは思いますが、話の前後関係が少しずれているので、そこはあまり気にしないでください。
未来と話し始めると、その流れから昨年末に僕が父を亡くした話を出したんです。これはというと、父を亡くしたときの気持ちと、未来の落ち込んだ姿が少し重なって見えた気がしたからなのですね。
すると、案の定未来も同じように話してくれました。昨年末わたしもお母さんを亡くしました、と。やはり同じだったのかとそのとき驚いた覚えがあります。
そして、その話を聞いた僕は未来の力になってあげたいと思うようになりまして、尽力することに決めました。彼女と話し始めると趣味が同じで盛り上がったりして。あ、そういえば話が逸れるのですが、ここには図書室のような場所はありますか?」
話を唐突に脱線するも、先生は「ありますよ」と言ってくれた。
「見ますか?」
「ぜひ、見せてください」
僕らは椅子から立ち上がり、小部屋から出る。少し歩くと図書室へ入り、一冊の本を取り出した。背表紙を見ると、やはり分類番号が書いていなかった。
「ここは図書室のような貸出をしていないのですか?」
「していませんよ。この施設では自由な雰囲気を重視しているので、段取りを踏んだ貸し借りをする必要はないという判断がされています。ですので、ここはどちらかというと、みんなのための大きな書斎のようなものです。ここにある本は全て地元の住人からの寄付で集まっているのですよ」
「そうなんですね」
どうやら、未来はのびのびとした生活ができているようだ。僕は、「ありがとうございました」と言い、その部屋を離れた。そして先ほどの部屋へと戻った。
「さて、話がだいぶ逸れてしまいましたね。趣味の話をしたり、好きな食べものですとか、好きな科目を話して雑談を楽しみました。それから未来とは一緒に昼食を摂るようになりまして、昼休みは未来のもとに全力疾走をする毎日でした。
とまあここから美玖や聡との邂逅があって部活動を設立するのですが、そこは聞いていそうですので省いて良いでしょうね。つきましては一つ、ここからが今日の主目的なのですが、伺いたいことがあります」
僕はそう言うと、居住まいを正した。
「どうぞ、答えられる範囲でしたらなんなりと申してください」
「わかりました、それでは遠慮なく。昨日、とあるきっかけがありまして、未来の出生について知らなければならなくなったのです。こういうと大層な話のように聞こえますが。
ああ、いいえ。大層な話なのですが、聞かないで貰えると助かります。そこで、担任の教師へと未来について伺ってみたんです。その担任というのが、富士美幸という先生なのですが、ご存じですよね?」
「もちろん知っていますよ。部活の顧問も担当しているそうですね」
「ええ、なら話が早そうですね。その美幸先生は物知りな方なので、僕は聞いてみました。正確には聞こうとしたことを当てられたので、自分から話したのですがね。それは良いでしょう。
美幸先生は言いました。彼女はお母さんと同時期、とはいっても少し後だが、お父さんも亡くしているのだよ、と。僕はそれを知らなかったので大きく衝撃を受けました。今日はそれについて伺いたいと思い、ここに参りました。それで、この話は本当なのでしょうか?」
目の前にいる先生は、首肯した。
「はい、本当です。彼女は昨年末に両親を亡くして、身寄りがなかったので、この施設へと移ってきました」
「そう、ですか」
そうだったのか。再び僕はショックを受けた。
「身寄りがないというのは、どういうことなのでしょうか?」
「そうですね、未来ちゃんのお母さんには姉妹がいたのですが、未来ちゃんの生まれる前に亡くなっているそうです。それは祖父母についても同様です。
そして、この話は知らないかもしれませんが、未来ちゃんは言っていました。お父さんはお母さんとは結婚していません、と。そして、お父さんには認知されていません。つまりこの場合、未来ちゃんは非嫡出子と呼ばれるものになるのですが、例え血縁者でも、結婚していない父親には親権がありません。
この場合には、家庭裁判所にお父さんが親権者として指定して貰えれば引き取ることは可能ですが、お父さんも既に亡くなっていたので、それはできませんでした。ですので、一切の身寄りがいなくなった状態です。その結果、こちらの児童養護施設へと移って参りました」
「そう、だったのですか……」
この話を聞き、僕は茫然とした。
しかし新たな情報も手に入った。未来の両親は結婚していなかったのだ。どうやら彼女はとても複雑な家庭で育ったようだ。
未来は僕たちに対し、何も話してはくれなかった。何か一つでも相談してくれれば、とは言っても励ますことくらいなのだが。何か言うことはできたのかもしれない。そう考え、昨夜のことを思い出す。
「兄さんは、あまり自分の考えを話してくれる人じゃないね」
美玖の言ったことはこれと同じ気持ちだったのか。確かに、とても辛い気持ちになるものだ。
僕は続けて聞く。
「未来の実家はどこにあるか知っていますか?」
「知っていますよ。ここからそこまで離れていません。神奈川県の横浜市にあるそうです。私は行ったことがありませんが、みなとみらいや桜木町のような都会ではなく郊外の方面だそうです。住所を教えましょうか? と言っても、現在は別の人間が住んでいるかもしれませんが」
「はい、よろしくお願いします」
そうして住所を教えて貰った後、他言無用を約束してこの施設を離れた。
そのままの足で横浜へと向かうことにした。現在の時刻は十一時を過ぎたところで、七月下旬のこの時間帯はとても暑い。携帯電話の画面を見て、気温を確かめてみる。既に三十度を超える猛暑となっていた。
歩きながら道路の先を見ると、地面がぐわんぐわんと揺れる陽炎があった。
今日は児童養護施設に行くだけで終えるつもりだったため、飲み物を何も持って来ていなかった。歩いている途中で見つけた自動販売機で五百ミリリットルのスポーツドリンクを一本買った。苦学生を極める僕にはたった百五十円の出費が大打撃となる。
しかし、水分補給を疎かにして熱中症や脱水症状で倒れるなんてことがあっては堪ったものじゃない。
なんせ未来の『未来』は三日後だ。
そろそろこの貧乏からの窮地を脱さなければならないと思っている。これは僕のためでもあり、美玖のためでもある。働くのは良いが、ただのアルバイトで馬車馬のように働いてたった千円程度のはした金を貰うだけでは納得ができない。
これでも地元である山梨県よりだいぶ高いはずだが、それでも足りない。
やはり、この『未来視』を使って金儲けを企てるしかあるまいか。新たにそこいらの部屋を借りて「石岡占い教室」をやるのも良いが、どうせなら先行投資すら払わずやりたいものだ。
そうだ、絶好の場所があるじゃないか。それは学校である。今の人生相談部は奉仕活動の一環で、ようは非営利部活だが、この際勢いで法人化しても良いかもしれない。客から金を取るのだ。
いや、どうせなら法人化なんて公的手続きを踏まず、税金という国とのしがらみから逃れられる方法で稼ぎたいものだ。これは闇取引しかあるまいか。これでは犯罪になるので、あくまで生徒からのお布施を収入にするということでも良いかもしれない。よし、これが一番良い。
と意味不明な冗談を考えるほどに暑さが辛くなってきた。軽い熱中症になったようだ。
ようやく駅に到着し、線路図を見た。どうやら乗り換えずに行けるらしい。僕は電車を待った。
そうだ、と思いつき、携帯電話を取り出す。メッセージを開き、部員全員グループにて文字を打つ。
浩 「三日後、みんなは暇か?」
少し待つと、美玖から電話が掛かってきた。電話に出ると、スピーカーからかしましい声音が轟いてきた。この声は未来と美玖だろう。
「ヒロくん暇ですよー」
「兄さん、私も暇だよー」
二人は言った。こうして聞くと、二人は顔が似ている割に声質は違うものだなと気付いた。今までもそれはわかっていたはずだが、意識したのは初めてだった。
「なら良いんだ。実はその来る三日後、遊園地に行きたいと思ってだな」
未来に『未来視』をしたその日は、カレンダーと机に置いてあるお土産から遊園地に行っていたことが導き出された。『未来視』の中ではどのような流れで遊園地へ行くことになったか定かではないが、倣っておくことに決めた。みんなの目があり、時間まで一緒にいれば助けられるかもしれないからだ。
「良いですね! わたし行きたいですー」
「私も行くーと言いたいところだけど、兄さんお金は大丈夫なの?」
「ああ、やむを得ないと思っている」
「やったー私も行くで決まりね」
「そうか、なら良かった。それじゃあ切るからな」
そうして二人は「ばいばーい」と言って切った。次は聡か。彼奴からの返信を確認してみる。来ていた。文面は「行く」となっている。これで決まりだ。
ちょうど良いタイミングで来た電車に乗った。弱冷房車だから風は弱いが、今の自分には生き返る気持ちを味わわせてくれる美風だった。良い風と心地よい振動に揺られていると、徐々に微睡み始めた。片道一時間は掛かるだろうし、ここはひと眠り付こうかと思い、目を閉じた。
どれくらい経ったであろうか。目を開き始めて次の駅を確認する。寝過ごしたようだった。次の駅で降り、反対方向に乗り換えた。幸運にも通過した駅は一つだけだったため、大した時間は掛からなかった。現在の時刻を確認すると、十二時を回っていた。
これからもっと暑くなる。少し頭痛がするものの、体調には気を付けねば。
教えて貰った住所を頼りにバスへと乗った。どうやら目的地は郊外も郊外であり、駅から徒歩四十分は掛かる場所にあるらしい。さすがに歩いていくには不便なため、バスを使うことにした。
バスに乗ると、電車よりもさらに涼しかった。むしろ寒いほどであり、急激な温度の変化に晒され、もう明日はお熱だろうな、と素直に思った。
バスが目的地に着き、家へと向かう。ここも閑静な住宅街となっており、車通りが少なかった。バス停からは近いようで、数十秒と掛からない場所にアパートを見つけた。どうやら到着したようだ。
外観で見定めてみると、だいたい築四十年といったところか。古いアパートだ。そしてここの一階の手前側に目的の部屋がある。
僕はインターホンを押した。その後、「すみません」と言った。
一分ほど待ってみるも、誰も出てくる気配がないため、再度インターホンを押してみる。
二分ほど待つ。が、誰も出ない。おかしいなと思い、ノックをして再度、「すみません」と言った。すると、隣の部屋から女性の顔が覗いた。好機だと思った。
「すみません、こちらのお家って誰も住んでいらっしゃらないのでしょうか」
「ええ、昨年末から誰も住んでいませんよ」
咲美家以来、誰も住んでいないのか。僕はこの女性に聞いてみることにする。
「あなたはこのアパートに住んで長いのですか?」
「ええ、長いですよ。かれこれ二十年になります」
これは良い相手に遭遇した。
「実は、このお家に前住んでいらっしゃった、咲美さんの娘さんと友達をやっております。それで、本人からこのお家が今どうなっているのか見てきて欲しいと仰せ付かったしだいでございます」
「そ、そうですか」
理由が無理矢理すぎたかもしれない。未来をやたらと傲慢な人間のように言ってしまったが、相手もさしたる興味はないだろう。と願った。
「それでして、これまた咲美さん、未来と申しますが、このお嬢さんから両親が昨年末に亡くなったと拝聴いたしましてね。あなたはこの件に関して何か知っていることはございますか?」
「ええ、もちろん知っていますよ。なんてったって、あれほどのことが起きればね~。それにあたしは一時期未来ちゃんを預かっていたのよ。あたし以外にも大勢の人が知っていると思いますよ」
「と、申しますと?」
「咲美さんはこの部屋で自殺したんですよ」
「え!?」
「あなた知らないのね? 昨年十二月の初めごろに、玄関で首を吊って自殺したようでね。娘さんが第一発見者で、あたしが警察に通報したの」
「そうですか、未来がですか。預かっていたということは、未来は何か話していませんでしたか?」
「いいえ、なーんにも話してくれなかったのよ。でも、その頃ちょっとおかしいと思っていたのよね。前までお金に困っている様子なんてなかったのに、十二月の始まり頃から、乱暴な男の人たちがこの部屋の前に来てたのよ。たぶん消費者金融の人間だと思うのだけど、どうしちゃったのかしらね~」
「お金、ですか」
これは、想像以上に厄介な問題が絡んでいそうだ。一介の高校生である僕が、決して踏み込んではならない内容だと思えてくる。乱暴な男の人と消費者金融という組み合わせは、違法な取り立てを行っている闇金業者以外の何者でもないだろう。
「それに、咲美さんの夫は滅多に帰らないようで、偶に帰ってくるといつも金を出せ、金を出せと文句を言っていたのよ。ボロアパートだから隣の部屋まで丸聞こえで迷惑なことだったよ」
また金か。夫から金をせびられ、闇金業者から金を返せと言われていたのか。
僕の推理では、夫から金を貸せと言われ続け、財布の底が尽きた未来の母は、闇金業者にまで手を染め始める。そして、あまりにも強引な取り立てに耐えかね、結果的に自殺した。と考えた。
しかし、こんな理由で自殺などするものだろうか。というのも、相手が闇金業者であれば、違法な取り立てを行っていることもあり、弁護士に解決を依頼する手段があるはずだ。
だいいち、金に困っているにも関わらず、中学生の娘を置いて自殺するなんてことがありえるだろうか?
この予想は恐らく外れているのであろう。
疑問がさらに膨らんだ状態で、隣の女性との話は終えた。
今日の話をまとめて整理するとこうなった。
・両親は結婚しておらず、未来は非嫡出子だった。
・引き取り手の親戚がいなかったため、児童養護施設に入ることになった。
・未来の父は滅多に帰ってくる人じゃなかった。
・未来の父は金を借りるため、よくアパートへと来ていた。
・未来の母は闇金業者で借金をしていた。
・未来の母の死因は自殺だった。
以上の情報が集まった。量としては及第点と言ったところだろう。以上の話をまとめて導き出せる結論は、全く思い浮かばなかった。
これ以上調べられることは何もないと思う。結論は導き出せていないが、僕だけが知る情報を統括すると、未来の自殺の真相が突き止められるのかもしれない。しかし、皆目見当もつかない。
とりあえず今日は疲れたので、家に帰ることにする。疲労感と暑さにやられ、くらくらとし、身体の節々が痛くなってきた。横浜のお土産を買おうとも思っていたのだが、この分だと買えそうもないだろう。
フラフラと歩きながらバスに乗り、電車に乗って家に帰った。その間の記憶は、一切残っていなかった。
目を覚ますとそこはベッドの上だった。
どうやら帰ってきて早々、眠りに入ったらしい。とんでもない頭痛がする。痛い、痛い、痛い。身体も熱い。時計を見ると、二十時となっていた。僕は起き上がり、リビングへフラフラと向かう。その姿を見た美玖は言う。
「兄さん! 起き上がっちゃ駄目だよ!」
そうして僕を自室へと押し返してきた。
「の、飲み物をくれ」
僕が言うと、急いでスポーツドリンクを持って来てくれる。
「兄さん、帰ってきてすぐ、玄関で倒れだして大変だったんだからね! 未だ帰ってなかった未来ちゃんとベッドに一緒にせこせこ運んだからさ。彼女のことを思ってゆっくり休んでよ。ね?」
「そうか、ありがたいな。ところで僕は何時間くらい寝ていたんだ?」
「未来ちゃんが帰ろうとしていたのが十八時だから二時間くらいだよ」
「そうか、話は変わるけど、体温計取ってくれ」
「私がさっき測っておいたよ。三十八度超えてた。夏風邪になるなんてどこを歩き回ってたの?」
「長い長い散歩さ」
「あっそう、とにかく早く寝て! 三日後遊ぼうって誘ったのは自分でしょう?」
僕は返事を待たずにぐったりと倒れこんだ。
「あーあーだから言ったのに。ほら、肩貸して、連れて行ってあげる」
何も声を出せず、なすがままにされ、ベッドに入り込んだ。夏に布団は暑すぎると思いながらも、意識が遠のいてゆくのを感じた。
その日は寝苦しい夜だった。夢すらまともに見られないほど頻繁に目が覚め、そしてまた気絶するというのを繰り返した。この世の地獄を初めて味わったような気がしたのだった。
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