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大八車
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他人を踏み台に出来る人間てのは、どうしてなかなかに恐ろしいものがあるそれが両国の香具師吉蔵である。
御家人娘萩乃と弟広太郎は父の無念を晴らせるだろうか。
「おう、皆の衆。今日はなんとしても南八丁堀の米蔵まで、五百俵を運んでもらうぞ」
「蔵締めの酉の刻までが勝負だ。佃の廻船から降ろされた米俵、南八丁堀米蔵までふつうは三往復ってところだろうがな・・四回 、五回といきゃ、増し分に十文上乗せしようじゃねいか」
両国香具師吉蔵の代貸、富が声を撥ね上げる。
「親分。ようがすね!」
鋭い下あごの富がそばの吉蔵に。
「おう。なんとしても今日中にし遂げねばならんからな」
丸顔で目力の鋭い吉蔵が返す。
「いよう、そいつは、すげええ!」
下帯に法被だけの、日庸取りから声が上がる。両国広小路、米沢町の角、吉蔵のところから我先にと大八車に殺到する。
この元禄も七年ごろになると、江戸市中の物流は急激に拡大し、往還はいたるところ大八車と犬が走り回っている。
大八車は普段、前に強力の男一人。後ろ左右に二人が相場であったが、今日は前後に一人の二人組で、一気に四十数台で米の倉入れをしようというところだ。
送り主は、北回り廻船で釜石浦からの豪商、佐野秀吉。荷受け元は、南部藩、江戸屋敷から、請負の蔵元神田の越前屋嘉平である。
日庸取りが殺到した大八車数十台が、佃の手前、船松町に殺到する。
まことに奴らは日銭のための乱暴な走りで、往還の人々や犬を蹴散らし、まっしぐらに米俵に向かう。
これをあさましいとは言い切れない。地方から江戸への出稼ぎ日庸取りにとっては、当然なことであったろう。
神田、松下町の三百石御家人後藤主馬は心の臓の診察で、京橋から左に折れ、南八丁堀四丁目の医師吉田宗安のところに向かうところだ。
下級武士として普請組に属し、長女萩乃 長男広太郎と、女中二人、下男一人、若党一人の七人暮らしだ。
妻は、三年前に風邪をこじらせて亡くしていた。三百石ではぎりぎりの生活であった。長男はまだ十七歳で、来年からの普請組入りが決まっている。、剣術に明け暮れ、屋敷内や父の世話は、長女の萩乃の仕事であった。
二人は父に似て小柄ではあったが、萩乃は近隣でも評判の美貌であった。
「勤めの最中にも、心の臓がキリキリと痛みまする。来年、長男が普請組入りするまで、持てばよいのですがな」
「なんのなんの、大丈夫でござろうよ。前回より、心音も安定してきておるでな。御年とご苦労のせいじゃ。もうあまり心配はなしで、痛みの出たときは、この薬をお飲みなされ」
宗安は、後藤とはかれこれ五年の付き合いであった。同年配でもあり、妻女をみとったのも縁で、何かと主馬のことは気にかけてくれていた。
「近頃は街中も騒々しくなりましたな。昔とは大変わりの江戸でございますなあ」
「物の往来が激しく成り申したな。上方からの薬類も、今は半月ほどで届きますからな。太平ということでございましょうかな。食事の方は、いかがいたしておられるかな」
「おかげさまで、萩乃が、気を使って滋養にと塩梅してくれております。ま、 薄給でございますので大変ですが」
今日は宗安のところに診察客も少なく、二人は久しぶりに渋茶をゆっくり啜り、語り合った。
昼八つ過ぎに、宗安のところを出た後藤主馬は、懐に大事に心の臓の気付け薬を抱え、南八丁堀二丁目から、京橋方向に向かっていた。あたりは昼前の大八車や棒手振りや、行きかう人でごった返し、昨晩の雨で、道はドロドロにぬかるんでいる。犬が泥をはね上げ走り回る。後ろの方角から、大声が響き渡る。
「どけどけいー道をあけろーあけろ!あけろ!」
傍若無人にぬかるみを突っ込んでくる大八車が十数台、あたりの人間や犬を蹴散らし、商家の軒もすれすれに、猛烈な勢いで前方に突き進んでくる。
後藤は、小間物屋の軒先に逃げようとしたとき、後ろ足がぬかるみの穴に入り、前にのめった。
そこへ先頭から二台目の大八車が突っ込んで、主馬の左後ろ足首に、車輪がもろに乗った。
ガキと骨が砕ける音。左足に強烈な痛みが走る。大八車数十台は、そのまま矢のように走り去る。
小間物屋の女主人、あおいが、主馬のもとに駆け寄り、助け起こそうとするが、立てない。小僧も走り出て、まずは侍を店に入れる。
「お侍様。大丈夫でございますか。なんと乱暴な大八車ですかね。左の足首が・・大変でございます」
「いや。かたじけない。車輪に左足首を砕かれたようじゃ」
後藤は冷や汗と、泥で汚れた顔であったが、意識は確かなようである。
痛む左足をかばい、真っ黒な姿で土間にうずくまる。
「神田の、後藤と申すものでござる。まことに申し訳ないが、四丁目の医師、吉田宗安先生の診断を受けた帰り道でな、先生に来てもらえぬか、使いを出してもらえまいか」
女主人あおいは、小僧をすぐに吉田のもとに向かわせる。濡れ手拭で顔や手足をぬぐい、小袖、袴の泥水をぬぐう。すぐ、宗安が駆けつけた。
「どうなされた。後藤殿」
「左足首を第八車に、砕かれたようで・・・」
「それは大変だ。すぐに見ましょう。おかみ。部屋に上がってもよろしいかな」
「どうぞ、どうぞ」
宗安はおかみさん、小僧と三人がかりで主馬を抱え上げ、奥の間に担ぎ入れる。すぐに足首を見る。血の流れは少ないものの、、左足首は大きく膨れ、斜めに、亀裂が走っている。診療箱から応急処置の腫れ止め膏薬を出し、処置をすますが、それ以上はここでは治療できない。
「少し時間を見て、わしのところまで戻りましょう」
吉田宗安からの知らせで、萩乃は若党の三郎太に言い置いて、すぐに南八丁堀、医師宗安のもとに駆け付けた。長男、幸太郎はまだ溜池の道場稽古から戻っていなかった。
「小間物屋の女将の話では、越前屋の米運びの大八車のようじゃな。数十台が何度もこの通りを、傍若無人に走り回っておったようじゃ」
主馬は、それでも落ち着いていたし、宗安の治療も何とかすんでいた。
「ま。くるぶしは、なかなかに骨が治りにくい。後藤殿も少し覚悟して、松葉杖で数か月は我慢するほかあるまいて。それにしても、往来をこのように無茶な走りで・・許せぬな!」
「宗安先生。父のくるぶしは治りますのでしょうか」
不安顔で眉を曇らせる萩乃。
「何とも言えぬが、人の骨の再生は時間がかかるが、ある程度まではいくであろうな。多少、足を引きずるやもしれぬがな」
「その大八車に詫びをさせとうございます」
「萩乃。気奴らは、今は、気が立っておる。しばらく後にした方がよくはないか」
大けがをしながらも、あくまでも冷静な父主馬であった。そこへ長男広太郎が駆け込んできた。
「父上。大丈夫でございますか」
瓜実顔の広太郎は、息を弾ませている。
「どうも、足首の骨が砕けたようじゃが、命には別状ない」
広太郎が姉、萩乃から大八車の乱暴な走りと、転んでからのいきさつを聞く。憤懣の表情だ。
「宗安様。素早いお見立てで、ありがとうございました。しばらく父も杖で不自由することでしょうが」
萩乃と広太郎、主馬が礼を述べる。
「心の臓のこともあり、しばらくは、屋敷で安静が大事じゃな。手がすいた時には、松下町の屋敷に往診にまいろう」
それから三日後のことだ。溜池柳井道場の稽古の帰り、弥生は神田松下町の広太郎の屋敷を訪ねていた。
「二日ほど稽古に見えないので、心配していましたが、お父上が、災難でございましたね。近頃は往来も、大八車と犬ばかりで困ったものです」
「弥生様。わざわざのお越しありがとう存じます。しばらく父上は松葉杖暮らしとなりましょう。蔵元の神田、越前屋に詫びを入れさせようかと、考えております」
「それでは、これから参りましょうか。わたくしも、弟子のお父上の災難ですから、見過ごすわけにはいきません」
兄譲りの義侠心と、正義感の強い弥生である。
「弥生様に、そこまでした頂くのは恐縮であるが」
後藤主馬は、家の中では何とか、座り台で生活ができていた。
「お世話をかけます」
姉、萩乃が茶を出しながら深く頭を下げる。
「広太郎さまには、姉上がおられたのですね。おしとやかで・・わたくしとはだいぶに違いますね」
笑って萩乃の可憐で美しい姿を見つめる。
神田、米の蔵元、越前屋では埒のあかない話が続いている。
「主馬様は、足首の骨を大八車に砕かれて参れませんので、長男広太郎殿の道場の師匠の立場で参っております。事故の詫びをしていただきたい。用向きは、その件だけでございますが」
弥生の言葉に、越前屋嘉平は目袋の大きい眼を少し上げて、
「それは、十分に存じ上げておりますが・・大八車のことは・・・両国の吉蔵さんのところに、すべて委託しておりますので・・・」
「それでは、両国の吉蔵さんのところの責任で、そちらへ、ということでございましょうか」
弥生が再度詰問する。広太郎は不満で顔を赤くしている。
黙ってうなずく嘉平は、そっと紙包みを二人に差し出す。
「なんですか。それは! 詫びなしでは受け取れません」
毅然として、広太郎がつき返す。
「広太郎さん。いただいておきなさい。お父上の、治療費のたしくらいにはなるでしょう」
弥生はこんなところは、融通無碍なところもあった。
「では。両国の吉蔵さんのところに参りましょう」
両国の香具師吉蔵のところでも全く要領の得ない対応で、二人は憤懣やるかたない。
「往来を歩いてる連中に、いちいちかまっておられるか。わっちらは、忙しんでござんすよ。それに、大声で叫んでもおりまさあ」
代貸の富は、荒々しい対応だ。傍らの吉蔵は黙ったままだ。
「では仕方ないですね。番所から、お奉行所にお届けします」
「おう。なんとでもしてくれ。われっちは、お大名の米の倉入れをしてるんだ。そんな訴えは、取り上げられねえさ」
うそぶく富。広太郎もあきらめきった様子である。
「詫びをしてくれというのですよ。親分さんも、随分と薄情ですね」
弥生の言葉に、丸顔の吉蔵は、じろっと目をむいて睨み返す。
埒が明かず、広太郎は、届けを出すことにして、引き上げざるを得なかった。
「おい富。届けられては、いかに、南部藩の倉入れとはいえ、まずいぞ!」
鋭い目で両国の吉蔵が富を睨む。
「親分。大丈夫でござんすよ。ちいと痛めつけてやりやすんで」
鋭くとがった下あごを撫でまわして富。手下のあばたずらの三吉と、小男の留助の方を向く。
「富の親分。そういやあ、あの御家人後藤の娘は、界隈でも評判の器量よしでござんすよ」
三吉の言葉に、にやりと笑う好色な富。
「じゃあな。話がしてえと、娘だけ連れてこい。家族には、きずかれねえようにな」
「合点でござんす。連れてきやしょう。四の五の抜かしたら、かっさらってめいりやすよ」
「まあ、お前の女癖の悪いのが、迷惑にならんようにしておくれよ」
子分どもを止めるでもなく、吉蔵も相当に悪質な香具師であった。
翌日、父親の早い快癒を願って、萩乃は永代橋を超えて、深川不動にお参りに出た。しかし・・夕刻になっても帰ってこない。
久しぶりの道場稽古を終えて、広太郎は弥生と連れ立って、帰宅するところだ。
「広太郎殿。だいぶ上達いたしましたね。姿勢や間合いは、もう充分に一人前ですよ。あとは隙を見つけて、打ち込む稽古ですね」
弥生が、広太郎を励ます。広太郎は弥生にとってかわいい弟のようでもあった。
「弥生様。ありがとうございます。毎日の稽古で、自信もついて参りました。まだまだではありますが」
「今日はこれから番所に、事故を届けに行くのですね。私も、ご一緒しましょう」
「一人で大丈夫でございますよ」
広太郎が答えた時、新橋の方角から来る湯屋の帰り姿、兄三之丞と行き会った。
「おう。弥生。どなたじゃな」
「先日お話しした、後藤様の長男広太郎様でございますよ」
「道場で、弥生様にいつもお世話になっております。後藤広太郎にござります。今後ともよろしくお願いいたします」
「ご丁寧にどうも。して、事故の後、父君のご様子はいかがかな。足首の骨では、歩行も任せず、大変であろうな」
「家では何とか台座に座っておりますが、外出の務めは、しばらく無理でございましょう。来春わたくしが、普請組に入りますので、さすれば父も、少しは気分も楽に」
その時、鍛冶橋方向から、後藤の家の若党石田秀次郎が広太郎を認めて、駆け寄ってくる。、
「広太郎様。大変でご座います。深川不動のお帰りに、何者かに、無理やり連れ去られたそうで」
広太郎の顔色が変わる。
「して。何者とは」
弥生の言葉も不安げだ。
「入り口で、女中のあきが震えておりまして、要領は得ないのですが・・・吉蔵親分とか・・・富親分とか・・・あばたずらの男二人組のようですが・・・」
「両国の吉蔵の子分どもだな。許せぬ!」
直ちに駆け出そうとする広太郎を、三之丞と弥生が止める。
「奴らは地元の香具師で、貴方と弥生だけでは無理かもしれない。相当な人数を抱えているのが普通だからな。わたしも同行して、姉上の動向を探りましょう」
またしても、自分の方から事件に巻き込まれてゆく三之丞。
「兄上。湯屋帰りでは。私の小刀を」
弥生が、小刀を兄に差し出す。三之丞は左小脇に差し棒のみだ。
金春湯帰りの三之丞達四人は、両国広小路角、米沢町の香具師のもとへ急ぎ走った。
「なんと、無茶な真似をなさるのですか。父上への事故の詫びではないのですか」
萩乃は、三吉と留助の手を振りほどきながら、富に向かう。
「おお、いい女じゃねえか。詫びが欲しいなら、詫びてやるさ。ただしな・・・俺の言うままになればな」
尺れた下あごを突き出し、好色な目の富が迫る。
「なんとあさましいことを!」
キイツとなった富が、萩乃の下腹に一撃を加えた。くずれ落ち気絶する。
「気が付くまで、奥の部屋に閉じ込めておけ。手足を縛っておけよ」
三吉は代貸、富の後のおこぼれにあずかろうと、気絶し倒れた萩乃を、隣の部屋に連れて行った。
ちょうどその時、四人は香具師吉蔵の店に着く。
「よいかな広太郎さん。萩乃さんが、ここにいるとは限りません。まずは居場所を探るのが先ですから。慌てないように。それと奴らが手を出しても、殺めてはなりません。峰打ちまでにしておきなさい」
店先で冷静に言う三之丞であった。
「おう。おめえら。何もんでい! 何の用だ!」
店先の若い衆の声に、奥から富、三吉、留助が出てきた。
「また やってきたのかえ。同じことだよ。何度来たってな。また今日は四人連れかい」
「姉上を連れ出したろう。どこにおる! 卑劣なやつらだ!」
「そりゃ、何のことかね。そんなことはしていねえよ」
「そんなはずはない。屋敷の女中が、そこのあばたの男に連れ去られたといっている」
広太郎は必死だ。せせら笑う富とあばたの三吉。
「後藤様とは、縁のものでな。同行して来た。お前たちは、たちが悪い上に、往生際も悪いな」
三之丞はまだ小刀を抜かない。広太郎と弥生、若党・石田は刀を抜きかかる。
「おう。やる気か! おめえたち。出てこい!」
店の奥、左右から大柄で屈強な男が、十数人四人の前に立つ。
「富。困るじゃねいか。店の中ではよしとくれよ。やるんなら、外でやってくれ。迷惑かけるなと言ったはずだぜ!」
吉蔵がひと睨みすると、連中が少し下がる。
「親分。ご迷惑は、かけませんですよ」
富が答えたとき、奥から若い女の叫びが聞こえた。
「やっぱり、中にいるようだな」
広太郎と三乃丞が土間を上がり、奥に駆け込もうとすると、男たちが立ちふさがる。十五人ほどであった。
「広太郎さん。ひとまず、外で決着を。弥生と石田さんは、奥の部屋を探してください」
「富。また何かしでかしたのかえ。困ったものだ。文句の出ないように、うまくやっておくれよ」、
吉蔵は、眼玉をぎょろりと向いて言い放った。
。「広太郎殿。店の者たちは私が。そちらは頼みましたぞ。殺生にならぬようにな」
うなずく広太郎を富達三人と、店の若い衆三人が取り囲む。
三之丞の前には八人ほど、大柄な若い衆がドスを構える。
「難癖付けに来やがった。やっちまってかまわねえぜ!」
代貸富の声が響くと、二人が猛烈にドスを三之丞に突き入れる。数歩下がってドスを交わすと、峰打ちの小刀が、左右の二人の腹を強烈に打ち据え倒れる。二人は立ち上がれない。
広太郎に三吉がドスを突き入れる。ドスを下から払い打ち、
右腕を強く叩く。つぎに、へっぴり腰でドスを横払いで来る留助の顔面に、峰打ちが決まる。
また二人、三之丞にドスを突き出す。腰をかがめ二人の間を抜け交わした三之丞が、振り返りざま、首筋を鋭く叩く。また二人が崩れ落ちた。誠に早業だ。
じりじりと間合いを詰める富の手には、小刀が握られている。上段から斬りかかる富。受ける広太郎。富が刃先をグイグイと押す。
と、その時、店の表から男が。富の腰に、後ろから抱き着く。なんと・・若党石田秀次郎の猛タックルであった。
前のめりになる富を右にかわし、広太郎が富の左首筋に刀を叩き込む。必死に主人をかばう若党石田であった。
残る四人が目を血走らせ三之丞の隙をうかがう。じっと静止して四人を見据える三之丞も、少し息が上がってきた。
大きく息を吐く三之丞に二人がドスを突き入れた。二人の上に飛び上がりざま、右手は右の男の右首筋、左手は卍細工を外した差し棒の先から細刀が、左手の男の左肩甲骨を突き刺し、着地した。飛鳥の早業だ。
残る店の若衆は二人だ。明らかに、ドスの使い方も巧みな者たちであった。さすがの三之丞もさらに息が上がってきた。
右手の男が付くとみせ、引いた瞬間、左手の男から横払いが飛んで、三之丞の左膝をドスの切っ先が掠る。前にのめる三之丞。
一気に左右の男が、頭上にドスを突き入れる瞬間。二人の男の顔をめがけ、弥生の投げた店先の竹棒が飛ぶ。ハッと竹棒を叩き落す男二人。
かがんでいた三之丞が、最後の力で二人の両ひざに小刀を打ち付ける。二人は崩れ落ちる。
「萩乃さまはご無事でした。奥の部屋に」
弥生が兄のもとに駆け寄る。三之丞の左ひざは軽い傷であった。
「店の若い衆はそのままで、富とその子分は、縛り上げなさい。かどかわしの罪で番所に届け出ねばならんから」
あがった息を整えながら、三乃丞が若党石田に言う。
両国の吉蔵は、土間の上のたたきに平伏して、三之丞たちが入ってくるのを待つ。平伏しながらも、上目使いで一行の様子を探る。
「両国の親分さんともあろうお方が、ずいぶんと、無茶な真似をさせますな」
穏やかな三之丞に、吉蔵はほっとした様子だ。
「姉をかどかわすとは、まったく許せぬ。ただただ詫びが欲しかっただけではないか!」
広太郎が、大声で吉蔵を睨む。
「わたくしも、知らないところで・・富たちが無茶な真似をしたようで・・・お詫び申し上げます」
「かどかわしは、タダの詫びではすみませんよ」
弥生も、萩乃をかばいながら鋭く言い放つ。
「まったくもって・・子分どもの不始末でございます」
そういいながら吉蔵は、包みを差し出す。
「お怒りは、重々承知でございますが。どうぞ・・穏便に・・・・」
「では父の大八車事故は詫びるというのだな。そんなものは受け取れません。そちらの詫びのために来てるんだ!」
少し広太郎は落ち着いてきたようだ。
「親分のところの、店の衆はともかくとして、かどかわしの富と子分二人は、大目に・・とはいきませんよ」
三乃丞が、はっきりとくぎを刺す。
「わかっております。店のあるじの私の詫びは別として、三人のことはお任せいたします。店の者の不始末も、お詫びいたしますので何とか穏便に・・・・」
吉蔵は代貸富と三人のことでは、困っていたらしく、あっさりとしたものであった。
「広太郎さん。わび状は別にもらうとして、その金はもらっておきなさい。治療費の足しにはなるでしょう」
三之丞も弥生も、案外に融通無碍なところがあるのだ。
「しかし・・三之丞様・・それは・・」
辞退しようとする広太郎に、
「広太郎殿。姉上もご無事でございました。さりとて、いただいておけばよろしいかと」
弥生が、萩乃の傍らで言う。萩乃もうなずいた。
それから五日後。神田、今川橋料理屋竹昇の店では、板前三次と女中頭お万が、夕刻から大忙しであった。
「きょうは、ちいと人数が多いぜ。お万さん。それと後藤の旦那は、まだ足がお悪いから座台もご用意して」
「わかっております。八人でございますね」
療養中の後藤主馬のお礼の会食であった。
後藤家からは主人と萩乃、広太郎に若党の石田の四人。
受ける側が医師吉田宗安、三之丞と弥生、小間物屋の女主人あおいの四人。合計八名の会食だ。
二階大座敷の床の間には、お万が生けたくちなしとさざんかの花がよい香りを放ち、傍らには豪華絢爛たる名古屋帯が着物掛にかかっていた。
益子焼の大鍋が二組卓上にある。三次は冬のこの時期、鍋物用に、あめ色で見事な大鍋を益子から仕入れていた。
今日の鍋の具材は、江戸湾の浅利、蛸、烏賊、春菊などの野菜。出汁は昆布と鰹節にわずかに味噌を加えて準備していた。
「まことにこの度は皆様方のご支援で、事なきを得ました。心より御礼申し上げます。今日はゆるりとご歓談くださいませ」
主人後藤の言葉とともに萩乃、広太郎、石田が深く頭を下げる。
「後藤殿もお見受けしたところ、だいぶに脚の方もようなられたようですな」
医師宗安も安心の様子であった。
「親しいお店でございます。どうぞ皆さまお気楽に。鍋が熱くなってまいりましたので、お召し上がりください」
萩乃が皆に食事と酒を進める。今日の酒は三次の推薦で越後から取り寄せた鶴亀の良い酒である。
「それにしても、広太郎さんはともかくとして、秀次郎さんのあの腰への食いつきは見事でした。勇気がなくてはなかなかできないことです」
三之丞の言葉に石田が顔を赤くする。
「ただただ夢中でございました」
「いやいや、後藤様はいい若党をお持ちですね」
「来年は広太郎様もいよいよお勤めですね。剣の稽古も大変上達なさって、お父様も萩乃さまも安心ですね」
弥生も心から嬉しそうだ。
「皆様のおかげです。ご恩は忘れません」
と萩乃が小間物屋女主人あおいにも丁寧に礼を言う。
「お嬢様、いやですよう。当たり前のことで」
久方ぶりか、酒で顔を赤くした小間物屋おかみのあおい。
今川橋の料理屋「竹昇」では宵遅くまで八人の歓談が続いていた。
神田石町から捨鐘三つのあと夜四ツ半の鐘が響きわたる。
完
御家人娘萩乃と弟広太郎は父の無念を晴らせるだろうか。
「おう、皆の衆。今日はなんとしても南八丁堀の米蔵まで、五百俵を運んでもらうぞ」
「蔵締めの酉の刻までが勝負だ。佃の廻船から降ろされた米俵、南八丁堀米蔵までふつうは三往復ってところだろうがな・・四回 、五回といきゃ、増し分に十文上乗せしようじゃねいか」
両国香具師吉蔵の代貸、富が声を撥ね上げる。
「親分。ようがすね!」
鋭い下あごの富がそばの吉蔵に。
「おう。なんとしても今日中にし遂げねばならんからな」
丸顔で目力の鋭い吉蔵が返す。
「いよう、そいつは、すげええ!」
下帯に法被だけの、日庸取りから声が上がる。両国広小路、米沢町の角、吉蔵のところから我先にと大八車に殺到する。
この元禄も七年ごろになると、江戸市中の物流は急激に拡大し、往還はいたるところ大八車と犬が走り回っている。
大八車は普段、前に強力の男一人。後ろ左右に二人が相場であったが、今日は前後に一人の二人組で、一気に四十数台で米の倉入れをしようというところだ。
送り主は、北回り廻船で釜石浦からの豪商、佐野秀吉。荷受け元は、南部藩、江戸屋敷から、請負の蔵元神田の越前屋嘉平である。
日庸取りが殺到した大八車数十台が、佃の手前、船松町に殺到する。
まことに奴らは日銭のための乱暴な走りで、往還の人々や犬を蹴散らし、まっしぐらに米俵に向かう。
これをあさましいとは言い切れない。地方から江戸への出稼ぎ日庸取りにとっては、当然なことであったろう。
神田、松下町の三百石御家人後藤主馬は心の臓の診察で、京橋から左に折れ、南八丁堀四丁目の医師吉田宗安のところに向かうところだ。
下級武士として普請組に属し、長女萩乃 長男広太郎と、女中二人、下男一人、若党一人の七人暮らしだ。
妻は、三年前に風邪をこじらせて亡くしていた。三百石ではぎりぎりの生活であった。長男はまだ十七歳で、来年からの普請組入りが決まっている。、剣術に明け暮れ、屋敷内や父の世話は、長女の萩乃の仕事であった。
二人は父に似て小柄ではあったが、萩乃は近隣でも評判の美貌であった。
「勤めの最中にも、心の臓がキリキリと痛みまする。来年、長男が普請組入りするまで、持てばよいのですがな」
「なんのなんの、大丈夫でござろうよ。前回より、心音も安定してきておるでな。御年とご苦労のせいじゃ。もうあまり心配はなしで、痛みの出たときは、この薬をお飲みなされ」
宗安は、後藤とはかれこれ五年の付き合いであった。同年配でもあり、妻女をみとったのも縁で、何かと主馬のことは気にかけてくれていた。
「近頃は街中も騒々しくなりましたな。昔とは大変わりの江戸でございますなあ」
「物の往来が激しく成り申したな。上方からの薬類も、今は半月ほどで届きますからな。太平ということでございましょうかな。食事の方は、いかがいたしておられるかな」
「おかげさまで、萩乃が、気を使って滋養にと塩梅してくれております。ま、 薄給でございますので大変ですが」
今日は宗安のところに診察客も少なく、二人は久しぶりに渋茶をゆっくり啜り、語り合った。
昼八つ過ぎに、宗安のところを出た後藤主馬は、懐に大事に心の臓の気付け薬を抱え、南八丁堀二丁目から、京橋方向に向かっていた。あたりは昼前の大八車や棒手振りや、行きかう人でごった返し、昨晩の雨で、道はドロドロにぬかるんでいる。犬が泥をはね上げ走り回る。後ろの方角から、大声が響き渡る。
「どけどけいー道をあけろーあけろ!あけろ!」
傍若無人にぬかるみを突っ込んでくる大八車が十数台、あたりの人間や犬を蹴散らし、商家の軒もすれすれに、猛烈な勢いで前方に突き進んでくる。
後藤は、小間物屋の軒先に逃げようとしたとき、後ろ足がぬかるみの穴に入り、前にのめった。
そこへ先頭から二台目の大八車が突っ込んで、主馬の左後ろ足首に、車輪がもろに乗った。
ガキと骨が砕ける音。左足に強烈な痛みが走る。大八車数十台は、そのまま矢のように走り去る。
小間物屋の女主人、あおいが、主馬のもとに駆け寄り、助け起こそうとするが、立てない。小僧も走り出て、まずは侍を店に入れる。
「お侍様。大丈夫でございますか。なんと乱暴な大八車ですかね。左の足首が・・大変でございます」
「いや。かたじけない。車輪に左足首を砕かれたようじゃ」
後藤は冷や汗と、泥で汚れた顔であったが、意識は確かなようである。
痛む左足をかばい、真っ黒な姿で土間にうずくまる。
「神田の、後藤と申すものでござる。まことに申し訳ないが、四丁目の医師、吉田宗安先生の診断を受けた帰り道でな、先生に来てもらえぬか、使いを出してもらえまいか」
女主人あおいは、小僧をすぐに吉田のもとに向かわせる。濡れ手拭で顔や手足をぬぐい、小袖、袴の泥水をぬぐう。すぐ、宗安が駆けつけた。
「どうなされた。後藤殿」
「左足首を第八車に、砕かれたようで・・・」
「それは大変だ。すぐに見ましょう。おかみ。部屋に上がってもよろしいかな」
「どうぞ、どうぞ」
宗安はおかみさん、小僧と三人がかりで主馬を抱え上げ、奥の間に担ぎ入れる。すぐに足首を見る。血の流れは少ないものの、、左足首は大きく膨れ、斜めに、亀裂が走っている。診療箱から応急処置の腫れ止め膏薬を出し、処置をすますが、それ以上はここでは治療できない。
「少し時間を見て、わしのところまで戻りましょう」
吉田宗安からの知らせで、萩乃は若党の三郎太に言い置いて、すぐに南八丁堀、医師宗安のもとに駆け付けた。長男、幸太郎はまだ溜池の道場稽古から戻っていなかった。
「小間物屋の女将の話では、越前屋の米運びの大八車のようじゃな。数十台が何度もこの通りを、傍若無人に走り回っておったようじゃ」
主馬は、それでも落ち着いていたし、宗安の治療も何とかすんでいた。
「ま。くるぶしは、なかなかに骨が治りにくい。後藤殿も少し覚悟して、松葉杖で数か月は我慢するほかあるまいて。それにしても、往来をこのように無茶な走りで・・許せぬな!」
「宗安先生。父のくるぶしは治りますのでしょうか」
不安顔で眉を曇らせる萩乃。
「何とも言えぬが、人の骨の再生は時間がかかるが、ある程度まではいくであろうな。多少、足を引きずるやもしれぬがな」
「その大八車に詫びをさせとうございます」
「萩乃。気奴らは、今は、気が立っておる。しばらく後にした方がよくはないか」
大けがをしながらも、あくまでも冷静な父主馬であった。そこへ長男広太郎が駆け込んできた。
「父上。大丈夫でございますか」
瓜実顔の広太郎は、息を弾ませている。
「どうも、足首の骨が砕けたようじゃが、命には別状ない」
広太郎が姉、萩乃から大八車の乱暴な走りと、転んでからのいきさつを聞く。憤懣の表情だ。
「宗安様。素早いお見立てで、ありがとうございました。しばらく父も杖で不自由することでしょうが」
萩乃と広太郎、主馬が礼を述べる。
「心の臓のこともあり、しばらくは、屋敷で安静が大事じゃな。手がすいた時には、松下町の屋敷に往診にまいろう」
それから三日後のことだ。溜池柳井道場の稽古の帰り、弥生は神田松下町の広太郎の屋敷を訪ねていた。
「二日ほど稽古に見えないので、心配していましたが、お父上が、災難でございましたね。近頃は往来も、大八車と犬ばかりで困ったものです」
「弥生様。わざわざのお越しありがとう存じます。しばらく父上は松葉杖暮らしとなりましょう。蔵元の神田、越前屋に詫びを入れさせようかと、考えております」
「それでは、これから参りましょうか。わたくしも、弟子のお父上の災難ですから、見過ごすわけにはいきません」
兄譲りの義侠心と、正義感の強い弥生である。
「弥生様に、そこまでした頂くのは恐縮であるが」
後藤主馬は、家の中では何とか、座り台で生活ができていた。
「お世話をかけます」
姉、萩乃が茶を出しながら深く頭を下げる。
「広太郎さまには、姉上がおられたのですね。おしとやかで・・わたくしとはだいぶに違いますね」
笑って萩乃の可憐で美しい姿を見つめる。
神田、米の蔵元、越前屋では埒のあかない話が続いている。
「主馬様は、足首の骨を大八車に砕かれて参れませんので、長男広太郎殿の道場の師匠の立場で参っております。事故の詫びをしていただきたい。用向きは、その件だけでございますが」
弥生の言葉に、越前屋嘉平は目袋の大きい眼を少し上げて、
「それは、十分に存じ上げておりますが・・大八車のことは・・・両国の吉蔵さんのところに、すべて委託しておりますので・・・」
「それでは、両国の吉蔵さんのところの責任で、そちらへ、ということでございましょうか」
弥生が再度詰問する。広太郎は不満で顔を赤くしている。
黙ってうなずく嘉平は、そっと紙包みを二人に差し出す。
「なんですか。それは! 詫びなしでは受け取れません」
毅然として、広太郎がつき返す。
「広太郎さん。いただいておきなさい。お父上の、治療費のたしくらいにはなるでしょう」
弥生はこんなところは、融通無碍なところもあった。
「では。両国の吉蔵さんのところに参りましょう」
両国の香具師吉蔵のところでも全く要領の得ない対応で、二人は憤懣やるかたない。
「往来を歩いてる連中に、いちいちかまっておられるか。わっちらは、忙しんでござんすよ。それに、大声で叫んでもおりまさあ」
代貸の富は、荒々しい対応だ。傍らの吉蔵は黙ったままだ。
「では仕方ないですね。番所から、お奉行所にお届けします」
「おう。なんとでもしてくれ。われっちは、お大名の米の倉入れをしてるんだ。そんな訴えは、取り上げられねえさ」
うそぶく富。広太郎もあきらめきった様子である。
「詫びをしてくれというのですよ。親分さんも、随分と薄情ですね」
弥生の言葉に、丸顔の吉蔵は、じろっと目をむいて睨み返す。
埒が明かず、広太郎は、届けを出すことにして、引き上げざるを得なかった。
「おい富。届けられては、いかに、南部藩の倉入れとはいえ、まずいぞ!」
鋭い目で両国の吉蔵が富を睨む。
「親分。大丈夫でござんすよ。ちいと痛めつけてやりやすんで」
鋭くとがった下あごを撫でまわして富。手下のあばたずらの三吉と、小男の留助の方を向く。
「富の親分。そういやあ、あの御家人後藤の娘は、界隈でも評判の器量よしでござんすよ」
三吉の言葉に、にやりと笑う好色な富。
「じゃあな。話がしてえと、娘だけ連れてこい。家族には、きずかれねえようにな」
「合点でござんす。連れてきやしょう。四の五の抜かしたら、かっさらってめいりやすよ」
「まあ、お前の女癖の悪いのが、迷惑にならんようにしておくれよ」
子分どもを止めるでもなく、吉蔵も相当に悪質な香具師であった。
翌日、父親の早い快癒を願って、萩乃は永代橋を超えて、深川不動にお参りに出た。しかし・・夕刻になっても帰ってこない。
久しぶりの道場稽古を終えて、広太郎は弥生と連れ立って、帰宅するところだ。
「広太郎殿。だいぶ上達いたしましたね。姿勢や間合いは、もう充分に一人前ですよ。あとは隙を見つけて、打ち込む稽古ですね」
弥生が、広太郎を励ます。広太郎は弥生にとってかわいい弟のようでもあった。
「弥生様。ありがとうございます。毎日の稽古で、自信もついて参りました。まだまだではありますが」
「今日はこれから番所に、事故を届けに行くのですね。私も、ご一緒しましょう」
「一人で大丈夫でございますよ」
広太郎が答えた時、新橋の方角から来る湯屋の帰り姿、兄三之丞と行き会った。
「おう。弥生。どなたじゃな」
「先日お話しした、後藤様の長男広太郎様でございますよ」
「道場で、弥生様にいつもお世話になっております。後藤広太郎にござります。今後ともよろしくお願いいたします」
「ご丁寧にどうも。して、事故の後、父君のご様子はいかがかな。足首の骨では、歩行も任せず、大変であろうな」
「家では何とか台座に座っておりますが、外出の務めは、しばらく無理でございましょう。来春わたくしが、普請組に入りますので、さすれば父も、少しは気分も楽に」
その時、鍛冶橋方向から、後藤の家の若党石田秀次郎が広太郎を認めて、駆け寄ってくる。、
「広太郎様。大変でご座います。深川不動のお帰りに、何者かに、無理やり連れ去られたそうで」
広太郎の顔色が変わる。
「して。何者とは」
弥生の言葉も不安げだ。
「入り口で、女中のあきが震えておりまして、要領は得ないのですが・・・吉蔵親分とか・・・富親分とか・・・あばたずらの男二人組のようですが・・・」
「両国の吉蔵の子分どもだな。許せぬ!」
直ちに駆け出そうとする広太郎を、三之丞と弥生が止める。
「奴らは地元の香具師で、貴方と弥生だけでは無理かもしれない。相当な人数を抱えているのが普通だからな。わたしも同行して、姉上の動向を探りましょう」
またしても、自分の方から事件に巻き込まれてゆく三之丞。
「兄上。湯屋帰りでは。私の小刀を」
弥生が、小刀を兄に差し出す。三之丞は左小脇に差し棒のみだ。
金春湯帰りの三之丞達四人は、両国広小路角、米沢町の香具師のもとへ急ぎ走った。
「なんと、無茶な真似をなさるのですか。父上への事故の詫びではないのですか」
萩乃は、三吉と留助の手を振りほどきながら、富に向かう。
「おお、いい女じゃねえか。詫びが欲しいなら、詫びてやるさ。ただしな・・・俺の言うままになればな」
尺れた下あごを突き出し、好色な目の富が迫る。
「なんとあさましいことを!」
キイツとなった富が、萩乃の下腹に一撃を加えた。くずれ落ち気絶する。
「気が付くまで、奥の部屋に閉じ込めておけ。手足を縛っておけよ」
三吉は代貸、富の後のおこぼれにあずかろうと、気絶し倒れた萩乃を、隣の部屋に連れて行った。
ちょうどその時、四人は香具師吉蔵の店に着く。
「よいかな広太郎さん。萩乃さんが、ここにいるとは限りません。まずは居場所を探るのが先ですから。慌てないように。それと奴らが手を出しても、殺めてはなりません。峰打ちまでにしておきなさい」
店先で冷静に言う三之丞であった。
「おう。おめえら。何もんでい! 何の用だ!」
店先の若い衆の声に、奥から富、三吉、留助が出てきた。
「また やってきたのかえ。同じことだよ。何度来たってな。また今日は四人連れかい」
「姉上を連れ出したろう。どこにおる! 卑劣なやつらだ!」
「そりゃ、何のことかね。そんなことはしていねえよ」
「そんなはずはない。屋敷の女中が、そこのあばたの男に連れ去られたといっている」
広太郎は必死だ。せせら笑う富とあばたの三吉。
「後藤様とは、縁のものでな。同行して来た。お前たちは、たちが悪い上に、往生際も悪いな」
三之丞はまだ小刀を抜かない。広太郎と弥生、若党・石田は刀を抜きかかる。
「おう。やる気か! おめえたち。出てこい!」
店の奥、左右から大柄で屈強な男が、十数人四人の前に立つ。
「富。困るじゃねいか。店の中ではよしとくれよ。やるんなら、外でやってくれ。迷惑かけるなと言ったはずだぜ!」
吉蔵がひと睨みすると、連中が少し下がる。
「親分。ご迷惑は、かけませんですよ」
富が答えたとき、奥から若い女の叫びが聞こえた。
「やっぱり、中にいるようだな」
広太郎と三乃丞が土間を上がり、奥に駆け込もうとすると、男たちが立ちふさがる。十五人ほどであった。
「広太郎さん。ひとまず、外で決着を。弥生と石田さんは、奥の部屋を探してください」
「富。また何かしでかしたのかえ。困ったものだ。文句の出ないように、うまくやっておくれよ」、
吉蔵は、眼玉をぎょろりと向いて言い放った。
。「広太郎殿。店の者たちは私が。そちらは頼みましたぞ。殺生にならぬようにな」
うなずく広太郎を富達三人と、店の若い衆三人が取り囲む。
三之丞の前には八人ほど、大柄な若い衆がドスを構える。
「難癖付けに来やがった。やっちまってかまわねえぜ!」
代貸富の声が響くと、二人が猛烈にドスを三之丞に突き入れる。数歩下がってドスを交わすと、峰打ちの小刀が、左右の二人の腹を強烈に打ち据え倒れる。二人は立ち上がれない。
広太郎に三吉がドスを突き入れる。ドスを下から払い打ち、
右腕を強く叩く。つぎに、へっぴり腰でドスを横払いで来る留助の顔面に、峰打ちが決まる。
また二人、三之丞にドスを突き出す。腰をかがめ二人の間を抜け交わした三之丞が、振り返りざま、首筋を鋭く叩く。また二人が崩れ落ちた。誠に早業だ。
じりじりと間合いを詰める富の手には、小刀が握られている。上段から斬りかかる富。受ける広太郎。富が刃先をグイグイと押す。
と、その時、店の表から男が。富の腰に、後ろから抱き着く。なんと・・若党石田秀次郎の猛タックルであった。
前のめりになる富を右にかわし、広太郎が富の左首筋に刀を叩き込む。必死に主人をかばう若党石田であった。
残る四人が目を血走らせ三之丞の隙をうかがう。じっと静止して四人を見据える三之丞も、少し息が上がってきた。
大きく息を吐く三之丞に二人がドスを突き入れた。二人の上に飛び上がりざま、右手は右の男の右首筋、左手は卍細工を外した差し棒の先から細刀が、左手の男の左肩甲骨を突き刺し、着地した。飛鳥の早業だ。
残る店の若衆は二人だ。明らかに、ドスの使い方も巧みな者たちであった。さすがの三之丞もさらに息が上がってきた。
右手の男が付くとみせ、引いた瞬間、左手の男から横払いが飛んで、三之丞の左膝をドスの切っ先が掠る。前にのめる三之丞。
一気に左右の男が、頭上にドスを突き入れる瞬間。二人の男の顔をめがけ、弥生の投げた店先の竹棒が飛ぶ。ハッと竹棒を叩き落す男二人。
かがんでいた三之丞が、最後の力で二人の両ひざに小刀を打ち付ける。二人は崩れ落ちる。
「萩乃さまはご無事でした。奥の部屋に」
弥生が兄のもとに駆け寄る。三之丞の左ひざは軽い傷であった。
「店の若い衆はそのままで、富とその子分は、縛り上げなさい。かどかわしの罪で番所に届け出ねばならんから」
あがった息を整えながら、三乃丞が若党石田に言う。
両国の吉蔵は、土間の上のたたきに平伏して、三之丞たちが入ってくるのを待つ。平伏しながらも、上目使いで一行の様子を探る。
「両国の親分さんともあろうお方が、ずいぶんと、無茶な真似をさせますな」
穏やかな三之丞に、吉蔵はほっとした様子だ。
「姉をかどかわすとは、まったく許せぬ。ただただ詫びが欲しかっただけではないか!」
広太郎が、大声で吉蔵を睨む。
「わたくしも、知らないところで・・富たちが無茶な真似をしたようで・・・お詫び申し上げます」
「かどかわしは、タダの詫びではすみませんよ」
弥生も、萩乃をかばいながら鋭く言い放つ。
「まったくもって・・子分どもの不始末でございます」
そういいながら吉蔵は、包みを差し出す。
「お怒りは、重々承知でございますが。どうぞ・・穏便に・・・・」
「では父の大八車事故は詫びるというのだな。そんなものは受け取れません。そちらの詫びのために来てるんだ!」
少し広太郎は落ち着いてきたようだ。
「親分のところの、店の衆はともかくとして、かどかわしの富と子分二人は、大目に・・とはいきませんよ」
三乃丞が、はっきりとくぎを刺す。
「わかっております。店のあるじの私の詫びは別として、三人のことはお任せいたします。店の者の不始末も、お詫びいたしますので何とか穏便に・・・・」
吉蔵は代貸富と三人のことでは、困っていたらしく、あっさりとしたものであった。
「広太郎さん。わび状は別にもらうとして、その金はもらっておきなさい。治療費の足しにはなるでしょう」
三之丞も弥生も、案外に融通無碍なところがあるのだ。
「しかし・・三之丞様・・それは・・」
辞退しようとする広太郎に、
「広太郎殿。姉上もご無事でございました。さりとて、いただいておけばよろしいかと」
弥生が、萩乃の傍らで言う。萩乃もうなずいた。
それから五日後。神田、今川橋料理屋竹昇の店では、板前三次と女中頭お万が、夕刻から大忙しであった。
「きょうは、ちいと人数が多いぜ。お万さん。それと後藤の旦那は、まだ足がお悪いから座台もご用意して」
「わかっております。八人でございますね」
療養中の後藤主馬のお礼の会食であった。
後藤家からは主人と萩乃、広太郎に若党の石田の四人。
受ける側が医師吉田宗安、三之丞と弥生、小間物屋の女主人あおいの四人。合計八名の会食だ。
二階大座敷の床の間には、お万が生けたくちなしとさざんかの花がよい香りを放ち、傍らには豪華絢爛たる名古屋帯が着物掛にかかっていた。
益子焼の大鍋が二組卓上にある。三次は冬のこの時期、鍋物用に、あめ色で見事な大鍋を益子から仕入れていた。
今日の鍋の具材は、江戸湾の浅利、蛸、烏賊、春菊などの野菜。出汁は昆布と鰹節にわずかに味噌を加えて準備していた。
「まことにこの度は皆様方のご支援で、事なきを得ました。心より御礼申し上げます。今日はゆるりとご歓談くださいませ」
主人後藤の言葉とともに萩乃、広太郎、石田が深く頭を下げる。
「後藤殿もお見受けしたところ、だいぶに脚の方もようなられたようですな」
医師宗安も安心の様子であった。
「親しいお店でございます。どうぞ皆さまお気楽に。鍋が熱くなってまいりましたので、お召し上がりください」
萩乃が皆に食事と酒を進める。今日の酒は三次の推薦で越後から取り寄せた鶴亀の良い酒である。
「それにしても、広太郎さんはともかくとして、秀次郎さんのあの腰への食いつきは見事でした。勇気がなくてはなかなかできないことです」
三之丞の言葉に石田が顔を赤くする。
「ただただ夢中でございました」
「いやいや、後藤様はいい若党をお持ちですね」
「来年は広太郎様もいよいよお勤めですね。剣の稽古も大変上達なさって、お父様も萩乃さまも安心ですね」
弥生も心から嬉しそうだ。
「皆様のおかげです。ご恩は忘れません」
と萩乃が小間物屋女主人あおいにも丁寧に礼を言う。
「お嬢様、いやですよう。当たり前のことで」
久方ぶりか、酒で顔を赤くした小間物屋おかみのあおい。
今川橋の料理屋「竹昇」では宵遅くまで八人の歓談が続いていた。
神田石町から捨鐘三つのあと夜四ツ半の鐘が響きわたる。
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