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北町奉行所 与力 権田十郎
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北町奉行所与力 権田十郎
芝の寺子屋師匠菊池三之亟が、どんなに強いかと、どんなふうに話したら、北町奉行にわかってもらえるかと、与力権田十郎が迷ったのはこの年の卯月のことであった。
類を見ない飛鳥のような剣裁きであったからだ。
五代将軍綱吉の代に入ると、江戸城外郭の整備も進み、東西南北に多くの門構えが出来てきた。南西方向には大手門、和田倉門、乾門、さらに西には虎ノ門が控えた。外堀には家光のころからの鯉・鮒なども住み始めていた。
卯月は陽気もよく、外出の釣り好きには格好の時期であったろう。暖かい風が吹く虎ノ門外の堀端である。
「長太。店の使いの帰りによいのかえ。して、何匹になった」
「あったかくなり、魚も出始めた。ほんの一時で・・鯉五匹、鮒三匹もかかりやがった」
金杉橋、呉服屋谷口屋の手代長太は、こんなところで油をうっていた。やや小さめのびくをいつも、風呂敷包みの商売用の呉服の下に隠し持っていたし、門外の竹やぶ等には釣り竿なども、あちこちで隠している釣り好きであった。
「おめえ。店はいいいのかえ。こりゃ良い鯉だ。高く売れるぜ。旗本宮田様の屋敷に持っていきゃあな」
近所の釣り道具屋八沢屋の八助も釣り好きで、この辺りの堀に毎日出張ってきていた。ぶらりと、小太り垂れ目の泉州浪人八田万之助がやってくる。三人はこのあたりで顔なじみであった。
「おうおう・・・・いい形の鯉だな。こりゃ金になるぞ」
長太と違って、八助や八田は金目当ての釣り人でもあった。
「長太。その八匹を買おうじゃねえか。どうだ一朱で」
と八田。
「え。そんなにですか。もう堀に帰してやろうかと思って・・・」
「いいってことよ。そら取っておきな」
八助が、巾着から一朱を長太に渡す。喜ぶ幼顔の長太。
「じゃ。お店に帰りますから。ありがとうさんです」
釣り竿や茶わんの釣り餌を、裏の茂みに隠し、金杉橋へ帰っていく。
「これを、伊豆山奥のきれいな川から持ってまいりしたと、旗本宮田豊太郎さまへ売り込んでくるさ。今日のところは、きれいなびくに入れ、うまい餌を食わしてな。明日行ってくるさ。俺とお前で七、三でいいな」
「宮田様のところは、王子の奥に大きな別宅がありなさる。立派な庭に大きな池。こりゃ一尺半はある。形といい、緋色といい立派なのが三匹も。どう見ても五両以上にはなりますぜ」
細いしゃくれ顎を突き出し、五本指を八田に示す。悪い奴らの話は、あっという間にまとまるから・・不思議な世界である。
二人が虎ノ門掘りを去ったそのすぐあと、北町奉行所・与力・権田十郎は早めの帰宅で、虎ノ門の掘割から神楽坂の屋敷に帰る馬上にあった。
翌日。浪人八田万之助は飛鳥山を下って、王子の三千石大身旗本
宮田豊太郎の屋敷に向かっていた。格式のある三河以来の旗本豊太郎はすでに隠居の身で、長男広太郎は書院番、次男豊之助は小姓番と申し分のない家柄である。広太郎はやや細身で病気がちなことが豊太郎の心配の種であったが、次男は長身でがっしりとした精悍な顔つきである。次男までもが取り立てられているのは、三河以来の家柄が影響していたのであろう。豊太郎の今の楽しみは、さらに王子村の奥、別宅の庭園造作と広大な池に飼う魚たちであった。
「お殿様。今日は伊豆の山奥の清らかな川から、素晴らしい緋鯉を持ってまいりました」
と八田が、立派なびくに入った三匹の緋鯉を差し出す。
「これはまた見事な緋鯉じゃな。大きさといい、朱と黄色に輝く色といい・・・一尺半はあろうかな・・・」
じっと見入る豊太郎。万之助はしてやったりの顔だ。
「して。いかほどかな」
豊太郎が懐から立派な財布を開き、五両を差し出す。
「お殿様。天城の川漁師が、三か月がかりで、やっと捉えた緋鯉でございます。それも三匹。その倍はいただきとうございます」
「ま。やむおえぬか。しかと伊豆の緋鯉であろうな」
「それは‥‥もう」
十両を手にすると、丁寧にあいさつし、八田は虎ノ門に帰る。
それから三日後。虎ノ門の堀端である。
「宮田様のお屋敷で、殿からいただいて参った。八助。お前にはほれ、約束通り三両だ」
「宮田の旦那。こりゃありがてえ。いい商売になりましたね。今日もひと稼ぎできそうだ」
角顔、目じりの上がった八助が、釣り竿や道具を用意しようとしていた。
「おい。夕の間は人も多い。やめておけ。宵にまたこようではないか」
そこへちょうど北町奉行所与力権田十郎と、同じく与力山内与十郎が騎馬で通りかかる。二人は神楽坂の屋敷に帰宅途中であった。
馬上から、釣り用具を見た権田は、八助と浪人八田のもとに馬を寄せる。
「お前らはなにをしておる。お堀の魚を取っておるのではあるまいな。不届きなやつらだ」
驚いた八助は釣り竿を振り回す。糸がキュウーと伸びて馬の脚に絡まる。馬は驚き立ち上がる。たまらず権田 は腰から落ちた。
まさに、あっという間の出来事であった。同行の山内が馬から降り権田を助け起こす。したたかに腰を打った.。
「いや。まことに面目ない。きやつら。誠に不埒なことをしおる。権現様や家光公などが苦労なすったこの外堀を、なんと心得ておるのか。確かに奴らはここで魚釣りをしておったのじゃ。許しがたい。町々には、堀での魚釣りは禁止と、ずっとお触れも出してある。早速明日この辺りを探索じゃな」
翌日。北町奉行所同心や芝、琴屋の徳蔵ほかが、付近一帯の探索を開始して、夕刻には釣具屋八助、浪人八田万之助が捕縛された。 二日にわたる取り調べから芝、呉服屋の手代長太も捕えられた。
八助、長太はお白洲でのむち打ちの刑、金品に換えた八田は、三宅島送りとなった。
旗本・宮田豊太郎は長男が書院番からの降格、次男の豊之助も小姓頭の職を解かれ、無役となった。父の罪とはいえ、この時代は一族に厳しい連座制が行われていたのだ。
これがきっかけで次男豊之助はすっかり人柄が変わり、酒と女に溺れ、荒れた人生となった。
溜池柳井道場では今日も激しいけいこが終わって、数人が道場内に残っていた。弥生も帰り支度を終え、同門の北町奉行所与力、山内与十郎の話を聞いていた。
「そんなわけでな。虎ノ門外堀で、不埒な釣りをして居った者たちは処分されたのだが、緋鯉を買い取った二千石の大身旗本宮田家は、断絶はまぬかれたものの、長男、次男ともに降格や職を解かれることになってな。父御の魚好きとはいえ、一族の連帯責任は厳しいのう。農夫、町人よりも武士にはさらにきびしく・・というのが御上のお心のようじゃな。われらも気をつけねばならんな」
芝、三之丞の寺子屋では奥の大円寺和尚、大覚法円が手習いの手本書きを持参して、茶を飲んでいる。そこへ道場帰りの弥生がやってきた。
「和尚様。お久しぶりでございます。今日はお手本でございますか。おやまあ、太く力のある見事な出来栄えでございますこと」
「弥生殿に褒められて、悪い気はせんのう」
と笑う法円。
「兄上。母上からの書状でございますよ」
「また・・・母上からの縁談話かのう」
と三之丞が書状を開く。
「和尚様。ご存じですか。虎ノ門外堀での魚釣りの件」
「ああ、琴屋の徳蔵から聞いておるが、お達しもあることじゃで、やむを得んじゃろうて。おかみのお心でもある」
「このところ市中では犬が多くて、街歩きもよけて通る始末でございますよ。皆、難儀でございます」
と弥生。
「御上のお心が、うまく伝わっておらぬな。犬だけではないのだよ。人間も含めた生類憐みなんじゃがな・・そこのところが下々には
理解できておらん。役人も同じことじゃ。この長屋でも、大家の鍵屋とおみよさんが、長屋の町犬当番になっておろう。犬だけではないのにな・・・・」
渋茶をゆっくりすする法円であった。
「和尚様のお言葉もわかりますが、少し犬には過保護に過ぎますな。御上は、不浄なことを大変お嫌いになるご様子と聞きますが」
三之丞は母上の書状をしまいながら、二人に問いかける。
「そこじゃよ。お城では、不浄の水で調理したとして、炊事方が処罰されたとも聞き及んでおる。少し行きすぎかもしれんな」
「兄上。それで、母上には・・なんと・・・縁談でございましょう」
「まだその気がないと、そちから話してくれ」
「いやですよう。私からは。ご自分でお話しくださりませな」
そばでは法円和尚が、三之丞を見やりそっと笑っている。
事件はそれから半年ばかり後のことであった。
「あんなに毎日、へべれけになるまでのんじゃいけねえやね」
「きちッとしていなすった昔のお姿は・・・どこえ・・」
王子の谷の居酒屋よしやで、亭主と店女おいねは嘆いていた。
あれから半年。小姓頭の職を解かれ、無役となった大身旗本の次男宮田豊之助は、今日も王子の游楼からの帰りだ。長身で精悍な姿は今は見るも無残に変わり果てていた。
「親父。もう三本酒をもってこい! 金ならあるぞ!」
そう呼ばわる豊之助の目はうつろで、無精ひげと月代も伸び放題だ。
「宮田様。きょうは、もうそのぐらいになさって・・」
「うるせい! つべこべさず持ってこい」
食台に顔が付きそうに酔いが回っている。そこへ幼顔の男が近づきそばに座る。
むち打ちの刑を八助と受けた、芝、呉服屋谷口屋の丁稚長太であった。あれから、主人谷口俊太郎から受けた恩は忘れていなかったが。
谷口は、長太が真面目に丁稚を一年勤め上げれば、もう一度手代に戻してやろうといってくれたのだ。
「しかしな・・丁稚は無給だぞ。耐えられるか。食事と寝部屋は用意してやるがな」
この時代、前科者の更生に力を貸すものはほとんどいなかったのだが。そしてここ数日は手代時代なじみの、王子の得意先を回った帰り道あった。
「お武家様。先ほど・・・宮田様とか、実は・・・」
己の魚取りが事のはじめでもあり、長太は、おっかなびっくりであったが、いきさつを隠さず豊之助に話す。豊之助の酔った目で睨みつけられ、怖かったが、黙って頭を深く下げる。一時・・・
「お前たちを恨んでもどうにもならん。おかみのしたことじゃからな。もうどうにでもなれというところさ。一杯飲むか」
「わたしは悔しくて。夜も寝られません。こうして仕事をしていても魚取りごときで、あのような処罰を受けるとは。逆恨みと言われても・・・なんとしても北町の与力、権田に仕返ししたい!」
幼顔の長太の丸い目には、きつい恨みがこもっている。少ししらふになって、豊之助が酒の茶碗を長太に渡した。
「と言って、何かあてはあるのか。相手は与力だぞ」
「わたしと八助では、とてもむりでござんす。八田の旦那も三宅に流されましたし・・・何かあったら、渋谷に住む昔の仲間の池貝様とかに相談しろと言われました。そこで・・・宮田様にも加勢いただけないかと・・・厚かましいとは思いますが」
酔いのさめた豊太郎に、真面目な顔で頼む長太であった。
「面白い。わしにも恨みはある。しかし兄や父上も健在でおるからの。身元が分かってはまずいのよ」
「権田を討ち果たす時は、覆面なさいませ。すぐ、姿をくらませれば、誰にもわかりやしませんでござんすよ」
それから二人は権田の動静や帰宅路、連絡の方法を話し始めていた。それは逆恨みではあったが、今の彼らには、心のよりどころでもあったのだ。
それから十日後の夕刻。あたりが薄暗くなり始める酉の刻。今日も奉行所から帰る権田十郎を、尾行する長太と覆面の豊太郎、八助の姿が虎ノ門外堀にある。
前回と同様に、八助が長い釣り竿を馬の尻めがけて大きく振る。今回は、馬が両足を素早く少し上げ、釣り糸が絡まない。素早く馬から降りた権田は、八助と長太を睨み据える。
「逆恨みか! かえって罪が重くなるぞ。不埒物が!」
権田は刀を抜き、峰を返す。八助と長太が、両側から長ドスを同時に突き入れる。長太のドスは飛んだ。身構える八助。振り返る権田。
いつの間にか覆面、中肉中背の男が、思い切り刀で権田を薙ぎ払う。わずかに権田の右腕を掠る。体勢を立て直して、上段から振りかぶる覆面の男と、脇から再度ドスを突き入れる八助。
その時、空を切って、振りかぶった覆面の男の腕に、小刀が飛ぶ。右腕に見事に刺さったようだ。覆面の男と八助、長太は急いでその場を逃げ去った。
溜池の道場帰りの三之丞の妹、弥生の投げた小刀であった。
「お怪我は大丈夫でございますか」
駆け寄る弥生。
「いや。またしても面目ないが、取り逃がしてしまった」
掠ったとはいえ、権田の右腕の傷口から鮮血がほとばしる。弥生は懐の手拭を割き、素早く権田の傷口に強く巻き、止血する。
「このままではいけませぬ。すぐ近くに、兄の寺子屋がございます。ひとまず傷口の手当てが先でございましょう」
馬を引いて弥生は権田十郎と鍵屋長屋に向かった。
「兄上。兄上! 」
と寺子屋の戸口を叩く弥生。
ちょうどそこへ、おみよの煮売り屋から、豆腐と浅利煮を夕餉の支度にと、三乃丞が帰ってくる。三人を見て驚いた様子だ。いやもう一匹駿馬がいたのだ。この長屋に馬は珍しい。
「どうしたのだ弥生」
「この近く虎ノ門外堀で、こなたの、与力権田殿が、無頼者に襲われ傷を負われ、取り急いでお連れいたしました」
「それはいかん」
三之丞はそばにいた長太に、裏の大円寺の和尚様に薬を持ってきてほしいと伝えるように言って。部屋に権田を招き入れる。
「いや誠に与力として面目ござらん。お言葉に甘えやってまいりました」
それから大円寺の法円和尚が、薬箱を持ってやってきた。弥生の止血がよかったのか、大事には至りそうもないが、軟膏を右腕に塗り、しっかりと晒でまいた。その間に弥生から襲った男どもの事を聞く。
「一人は覆面の武士風。あとは目じりの切れ上がった角顔の町人と、幼顔のやや小さい男でした。あっという間に逃げ去りましたが、権田様をずっと尾行し狙っていた様子でした」
治療がすむと、権田十郎は丁寧に礼を述べ、昨年からの虎ノ門外堀での魚釣り事件をかいつまんで話した。
「それでは・・奴らの・・逆恨みでございましょうか」
与力を襲うとは、よほど深い恨みを持った者の仕業と見た。
翌日の朝。鍵屋長屋を、豆腐売りの声が響き渡る。
「とうーーーふぃ・豆腐! あつあげー厚揚げ! とーーふはいらんかえ」
寺子屋の朝は早い。子供たちがそれぞれ己の席についている。
「そうそう、さと。そのさいごの右払いは、筆を立て、ほそくきれいに右に抜くのだよ。おいとは、もう少し姿勢を・・背骨をまっすぐ伸ばして筆を立てて・・そうそう・・・」
そこえ大通りの向かい芝の琴屋徳蔵の子分辰がやってくる。
「お師匠様。昨晩の権田様の件でがすが、これから虎ノ門あたりに行ってめいりやす。親分からお伝えするようにとのことで・・きっと昨年の釣具屋、八助と長太でござりましょう。親分は奉行所から権田様や山内様と一緒にめいりやす。ひっとらえてめいりやすが・・覆面の武士風の男は誰でござんしょう・・浪人八田は、三宅島送りですし・・」
普段はひょうきん物の辰であるが、徳蔵の子分として、探索ではなかなか芯棒強く、粘り強いところもある。辰は急いで虎ノ門に向かう。
長太は面倒を見てくれている芝、呉服屋谷口屋から、まさにまとめた荷を背負い、品川方向に急いで出るところである。
辰は、金杉橋に早足で向かう長太を遠目で確かめると、すぐにその後を追った。親分や権田様たちが来る前であったから、とっさの判断である。
品川から八山橋を超え、目黒方向に向かう長太。辰は品川の道脇の旅籠に入り、自分が目黒方向に長太を尾行していることを、谷口屋に、まもなく到着するであろう親分一行に伝えるように手配し、尾行を続ける。
長太は目黒川沿いから目黒不動を抜け、権之助坂を登り、白金から左、渋谷の谷を目指している。右に折れて天現寺方向に足早に行く。天現寺の門前で・・なんと・・・辰にも見覚えのある釣具屋、八助が待っていた。
二人は短く言葉を交わすと、天現寺の裏手の方向に入る。富士見稲荷の奥に百姓地があり、そこに大きな百姓家が二軒並んでいる。長太と八助はその奥の百姓家を目指していたのだ。辰はしばらく様子を探ったが、素早く天現寺に走り、小坊主に芝谷口屋に使いを頼み、急いで奥の百姓家のもとに戻った。
この屋敷には、各地から流れ歩いた浪人どもが群れすんでいた。この天現寺界隈を根城に、渋谷、白金、目黒、麻布などでゆすり、タカリ、盗みを働く悪人どもの巣窟であった。
「八田も、ここに三年ほどおったな。外堀での話は聞いておる。しかし・・魚ごときで。奴も三宅流しとは・・割に合わぬな」
首領と思しい相州浪人池貝三郎太はかなりの剣の使い手であった。
「それで、お前たちはこれからどうするつもりだえ」
髭で全く顔を埋め尽くした、大柄の浪人宮本三郎が八助と長太に聞く。
「恨みを晴らしてやろうと、旗本宮田の次男と三人で再度襲い、傷は負わせたものの、邪魔が入って、こりゃ江戸から出ようと、池貝の旦那に相談にあがったところでござんす。長太を連れて、上方にでもと思っておりやすが、抜け出すまで、お助けねげえねいかと」
「相手が北町、与力ではちと面倒だな。うかつに手を出せば、こちとらもあぶねえからな。たすけてはやりたいが・・」
と池貝。
「それで、ここに、長太とわっしの稼いだ十両ががごぜいやす。これで何とか抜け出すまで加勢ただけねえかと」
八助が必死に頼む。
「池貝。わしらもそろそろ潮時では無いかえ。江戸を抜け出す駄賃にもらっておこではないか」
と宮本と下野浪人高田次郎が促す。
「では、われらも引き上げとするか。抜け出しは、二子から溝の口を南下し、東海道まで下ろう。二人を藤沢あたりまで送ることにするか」
がっしりした体格で、うわ瞼のあつい池貝三郎太が決断する。
「ありがとうござんす。何とか江戸をぬけだせそうで」
と八助と長太が、三人の浪人に十両を手渡す。
「そうと決まれば早い方がいいぞ。すぐ出立しようではないか」
高田次郎、宮本三郎も旅の支度にとりかかる。
この百姓家。廻りは野菜畑で、辰はやむなく数本の杉の木陰で、親分達を待つことにした。
一方、三之丞のところにも、北町奉行所とともに金杉橋呉服屋、谷口屋から、辰の知らせが届いた。
「長太郎とおはる。よいか。わたしは出かけねばならぬから、小さい子の面倒を頼むぞ。一時したら、いつものように、皆に茶を飲ませなさい。それと饅頭が置いてあるから分けて食べなさい。午後までには帰るが、おくれたら、未の刻の鐘で、皆を家に帰しなさい」
「お師匠様。また何か事件ですか」
長太は興味ぶかげに聞くが、おはるの方は不安な顔つきだ。
とっさに思いついて三之丞は裏の法円和尚のもとに走る。
「和尚様。辰から、気奴らが逃げようとしていると、連絡が入りました。どういたしますか」
「北町も出るであろうが、関わり合ったことでもあるし、その天現寺方向に行ってみようかの」
和尚は庫裏の棚の上から太く長い樫の棒を取る。
二人は品川から目黒の谷を上がり、白金から天現寺へと急いだ。
「辰の二度目の知らせでは、天現寺の裏手のおおきな百姓家に入ったとのことです」
「逃げるために加勢を頼んでおるのかもしれんな」
辰が杉の木のもとで、低く身を隠していた。
「あ。師匠と和尚様。まだ親分と北町の皆様は来ておりませんですが、どうも、近所の浪人どもの巣窟のようで、二人は江戸を抜け出す助けを、浪人どもに頼んでるでは・・ねいかと・・・」
「北町の皆が来るまで、しばらく様子を見るしかあるまいな」
こちらから手だしを避けたいとの和尚の思惑でもあった。
と。その時、百姓家の戸口から手甲脚絆に身を固めた八助と長太が出てきた。後ろにはこれも軽三袴で旅姿の、三人の浪人が続く。
一刻も早く江戸を引き払う算段の五人組だ。
「おぬしら。どこへ行くのだ。前の町人二人は、奉行所与力を襲ったものであるぞ。手助けはならんぞ」
和尚が大声で一喝する。細身なやさ男と和尚、と見て取った連中は、
「それがどうかしたかい」
厚い下瞼を軽くゆびで払うと、池貝三郎太はうそぶいた。和尚と三乃丞が、五人の前に立つ。奴らの目が光る。刀を抜いた。
「どうしても・・かばってやるつもりかえ」
和尚は・・相手が浪人三人ではややぶがわるいと見て取ったが、太い樫棒を前に突き出す。
「辰。お前は、二人をたのむぞ」
和尚は宮本と対峙。三乃丞が高田と池貝に対峙した。
長太は、ドスをもつ手も震え、へっぴり腰しであったが、八助は釣具屋でありながらも、多少の心得があり小刀を抜く。十手を構える辰に斬りかかる。辰が回り込んで外すが簡単にはいきそうもない。
両手で橿棒を構える和尚に、宮本が上段から斬り下ろす。固い橿棒で和尚が受けるが、これもグイーと押される。和尚は大柄であったが、右足を大きく後ろに引く。さらに押し込もうとする宮本。
和尚が腰を下げる。次の瞬間、押し込む宮本の腹に橿棒の先がめり込む。宮本が呻きながらも、立て直す。
再度打ち込む八助の小刀を辰がうまく払う。前のめりになった八助の首筋に、辰が十手を打ち込む。前のめりに膝をつく八助。目をつぶって、長太が辰にドスを突き立てる。危ないところを和尚が橿棒でドスを払う。
隙ありとみて宮本が、再度上段から和尚に打ち込む。素早く左に開いた和尚の橿棒の先が、宮本の顔面に食い込む。宮本も、膝から倒れる。帰す橿棒で長太の腹を打つ。やっとのことで、辰は八助、長太、宮本に取り縄をかける。
三之丞と池貝は、その間も互いのスキを探してにらみ合ったままである。
(これは容易ならんあいてだ。これだけの腕で・・浪人とはな・・
尋常な手段では・・仕掛けをつかわねばならんかな・・)
三之丞は、じりじりと左の一段高い方向に動く、池貝のスキのない構えから、決断しなければならなかった。
池貝が、裂ぱくの気合で上段から打ち込む。切っ先が三之丞の右耳を掠る。和尚が言う。
「そこまでして、なぜかばう必要があるのだ」
和尚を見ずに池貝がつぶやく。
「金で請け負ったまでのことよ。別に恨みがあるわけではないは」
わずかに池貝の左わきが開き、隙が見え、三之丞は中段から大きく打ち払う。池貝は難なく交わす。それからまた二人は、じっと向かい合ったまま動かない。やっと琴屋の音蔵を先頭に、北町与力権田と山口が到着した。騎馬の後ろには同心二人、取り方十人ほどが続いていた。
権田と山口は、直ちに池貝に向かおうと刀を抜く。和尚が一言。
「お待ちください。むやみにきりこんでも。腕の立つ奴です。まずは三之丞に、しばし任せていただきたい」
二人はそれでも職務上放置はできなかったが、構えなおし、一呼吸置くことにした。
それから数十秒。わずかに池貝が左に動き、上段の剣をわずかに右に傾ける。
(来るな)間合いと呼吸で三之丞は察知した。
猛烈な気合を発し、池貝が上段から切り込む。三乃丞が飛鳥のごとく池貝の右上に飛び、左手で差し棒の卍を外し、鋭く細い針刀を池貝の肩甲骨に突き入れる。深手を負ったようだ。池貝があきらめる。すかさず二人の与力が取り押さえ、琴屋の徳蔵が縄をかける。
「到着が遅れ、また助けられましたな」
北町奉行所与力権田十郎が和尚と三之丞に礼を述べる。
「危うく取り逃がす所であったが。何とか間に合いましたな」
和尚が静かに言う。
「相当な使い手でありました。仕掛けがなくば・・やられていたやもしれませぬ。惜しいほどの腕前でした」
三之丞もほっとして刀を収めた。
それから十日後。北町奉行所権田十郎は、二度も助けられた三之丞の寺子屋と、大円寺大覚法円和尚のもとを尋ね、丁寧に礼を述べていた。
「お二人には、大層お世話になり申した。今夜一献いかがでござるかな。料理屋を予約いたそうかと・・」
「権田様。それには及びませぬ。よろしければ、長屋の煮売り屋おみよの店で、どうでございましょうか。気兼ねなく飲めますし」
「おお。それはよいな。与力殿に、長屋の暮らし向きも知ってもらえるわけであるな」
法円和尚も相当に酒好きであったからすぐに賛成だ。
「このわらび、ごぼう、大根の煮物もなかなか・・うもうござるな」
権田はすっかりおみよの店が気に入った様子だ。江戸湾のあさり、貝柱、小肌のお造りも大好物の様子である。
「結局のところ、外堀での魚釣りが、このような逆恨みごとになりましたな。人の感情とはわからぬものでござるな」
和尚はもっぱら酒と烏賊焼きだ。
「わしとしても・・魚ごときとは思うが。これが仕事でな。法で決めたことを守らせるのが奉行の役目じゃよ」
「さようですね。おかみがお決めになったことに従う。それなくして、私ども庶民も安心して暮らせませぬ」
と三之丞。
「御政道を貫くとは、そういうことでもあるな」
三人はは夜の更けるまで語り合い飲み明かした。
それから三日後。常盤橋の柳沢屋敷では菊池左衛門が吉保と碁盤に向かっている。
「今回も又、三之丞と法円和尚の活躍のようじゃな」
「しかし殿。魚釣りが発端の恨み事で・・このような結末は、あと味が悪うございますな」
「ま。そう申すな。わしも行き過ぎた生類憐みにはな・・・おかみにもたびたび申し上げてはおるのじゃが・・」
「決めたことを守るのも御政道ではございましょうが、近頃は街中に犬があふれて、往生しておるのも現実でございます」
「そうよのう。過度な保護が事態を悪くしてな、中野他に、さらに犬小屋を作らねばなるまいな。そちの番じゃ」
卯月が終わり皐月の快い風が築山の向こうから吹いてきた。
完
芝の寺子屋師匠菊池三之亟が、どんなに強いかと、どんなふうに話したら、北町奉行にわかってもらえるかと、与力権田十郎が迷ったのはこの年の卯月のことであった。
類を見ない飛鳥のような剣裁きであったからだ。
五代将軍綱吉の代に入ると、江戸城外郭の整備も進み、東西南北に多くの門構えが出来てきた。南西方向には大手門、和田倉門、乾門、さらに西には虎ノ門が控えた。外堀には家光のころからの鯉・鮒なども住み始めていた。
卯月は陽気もよく、外出の釣り好きには格好の時期であったろう。暖かい風が吹く虎ノ門外の堀端である。
「長太。店の使いの帰りによいのかえ。して、何匹になった」
「あったかくなり、魚も出始めた。ほんの一時で・・鯉五匹、鮒三匹もかかりやがった」
金杉橋、呉服屋谷口屋の手代長太は、こんなところで油をうっていた。やや小さめのびくをいつも、風呂敷包みの商売用の呉服の下に隠し持っていたし、門外の竹やぶ等には釣り竿なども、あちこちで隠している釣り好きであった。
「おめえ。店はいいいのかえ。こりゃ良い鯉だ。高く売れるぜ。旗本宮田様の屋敷に持っていきゃあな」
近所の釣り道具屋八沢屋の八助も釣り好きで、この辺りの堀に毎日出張ってきていた。ぶらりと、小太り垂れ目の泉州浪人八田万之助がやってくる。三人はこのあたりで顔なじみであった。
「おうおう・・・・いい形の鯉だな。こりゃ金になるぞ」
長太と違って、八助や八田は金目当ての釣り人でもあった。
「長太。その八匹を買おうじゃねえか。どうだ一朱で」
と八田。
「え。そんなにですか。もう堀に帰してやろうかと思って・・・」
「いいってことよ。そら取っておきな」
八助が、巾着から一朱を長太に渡す。喜ぶ幼顔の長太。
「じゃ。お店に帰りますから。ありがとうさんです」
釣り竿や茶わんの釣り餌を、裏の茂みに隠し、金杉橋へ帰っていく。
「これを、伊豆山奥のきれいな川から持ってまいりしたと、旗本宮田豊太郎さまへ売り込んでくるさ。今日のところは、きれいなびくに入れ、うまい餌を食わしてな。明日行ってくるさ。俺とお前で七、三でいいな」
「宮田様のところは、王子の奥に大きな別宅がありなさる。立派な庭に大きな池。こりゃ一尺半はある。形といい、緋色といい立派なのが三匹も。どう見ても五両以上にはなりますぜ」
細いしゃくれ顎を突き出し、五本指を八田に示す。悪い奴らの話は、あっという間にまとまるから・・不思議な世界である。
二人が虎ノ門掘りを去ったそのすぐあと、北町奉行所・与力・権田十郎は早めの帰宅で、虎ノ門の掘割から神楽坂の屋敷に帰る馬上にあった。
翌日。浪人八田万之助は飛鳥山を下って、王子の三千石大身旗本
宮田豊太郎の屋敷に向かっていた。格式のある三河以来の旗本豊太郎はすでに隠居の身で、長男広太郎は書院番、次男豊之助は小姓番と申し分のない家柄である。広太郎はやや細身で病気がちなことが豊太郎の心配の種であったが、次男は長身でがっしりとした精悍な顔つきである。次男までもが取り立てられているのは、三河以来の家柄が影響していたのであろう。豊太郎の今の楽しみは、さらに王子村の奥、別宅の庭園造作と広大な池に飼う魚たちであった。
「お殿様。今日は伊豆の山奥の清らかな川から、素晴らしい緋鯉を持ってまいりました」
と八田が、立派なびくに入った三匹の緋鯉を差し出す。
「これはまた見事な緋鯉じゃな。大きさといい、朱と黄色に輝く色といい・・・一尺半はあろうかな・・・」
じっと見入る豊太郎。万之助はしてやったりの顔だ。
「して。いかほどかな」
豊太郎が懐から立派な財布を開き、五両を差し出す。
「お殿様。天城の川漁師が、三か月がかりで、やっと捉えた緋鯉でございます。それも三匹。その倍はいただきとうございます」
「ま。やむおえぬか。しかと伊豆の緋鯉であろうな」
「それは‥‥もう」
十両を手にすると、丁寧にあいさつし、八田は虎ノ門に帰る。
それから三日後。虎ノ門の堀端である。
「宮田様のお屋敷で、殿からいただいて参った。八助。お前にはほれ、約束通り三両だ」
「宮田の旦那。こりゃありがてえ。いい商売になりましたね。今日もひと稼ぎできそうだ」
角顔、目じりの上がった八助が、釣り竿や道具を用意しようとしていた。
「おい。夕の間は人も多い。やめておけ。宵にまたこようではないか」
そこへちょうど北町奉行所与力権田十郎と、同じく与力山内与十郎が騎馬で通りかかる。二人は神楽坂の屋敷に帰宅途中であった。
馬上から、釣り用具を見た権田は、八助と浪人八田のもとに馬を寄せる。
「お前らはなにをしておる。お堀の魚を取っておるのではあるまいな。不届きなやつらだ」
驚いた八助は釣り竿を振り回す。糸がキュウーと伸びて馬の脚に絡まる。馬は驚き立ち上がる。たまらず権田 は腰から落ちた。
まさに、あっという間の出来事であった。同行の山内が馬から降り権田を助け起こす。したたかに腰を打った.。
「いや。まことに面目ない。きやつら。誠に不埒なことをしおる。権現様や家光公などが苦労なすったこの外堀を、なんと心得ておるのか。確かに奴らはここで魚釣りをしておったのじゃ。許しがたい。町々には、堀での魚釣りは禁止と、ずっとお触れも出してある。早速明日この辺りを探索じゃな」
翌日。北町奉行所同心や芝、琴屋の徳蔵ほかが、付近一帯の探索を開始して、夕刻には釣具屋八助、浪人八田万之助が捕縛された。 二日にわたる取り調べから芝、呉服屋の手代長太も捕えられた。
八助、長太はお白洲でのむち打ちの刑、金品に換えた八田は、三宅島送りとなった。
旗本・宮田豊太郎は長男が書院番からの降格、次男の豊之助も小姓頭の職を解かれ、無役となった。父の罪とはいえ、この時代は一族に厳しい連座制が行われていたのだ。
これがきっかけで次男豊之助はすっかり人柄が変わり、酒と女に溺れ、荒れた人生となった。
溜池柳井道場では今日も激しいけいこが終わって、数人が道場内に残っていた。弥生も帰り支度を終え、同門の北町奉行所与力、山内与十郎の話を聞いていた。
「そんなわけでな。虎ノ門外堀で、不埒な釣りをして居った者たちは処分されたのだが、緋鯉を買い取った二千石の大身旗本宮田家は、断絶はまぬかれたものの、長男、次男ともに降格や職を解かれることになってな。父御の魚好きとはいえ、一族の連帯責任は厳しいのう。農夫、町人よりも武士にはさらにきびしく・・というのが御上のお心のようじゃな。われらも気をつけねばならんな」
芝、三之丞の寺子屋では奥の大円寺和尚、大覚法円が手習いの手本書きを持参して、茶を飲んでいる。そこへ道場帰りの弥生がやってきた。
「和尚様。お久しぶりでございます。今日はお手本でございますか。おやまあ、太く力のある見事な出来栄えでございますこと」
「弥生殿に褒められて、悪い気はせんのう」
と笑う法円。
「兄上。母上からの書状でございますよ」
「また・・・母上からの縁談話かのう」
と三之丞が書状を開く。
「和尚様。ご存じですか。虎ノ門外堀での魚釣りの件」
「ああ、琴屋の徳蔵から聞いておるが、お達しもあることじゃで、やむを得んじゃろうて。おかみのお心でもある」
「このところ市中では犬が多くて、街歩きもよけて通る始末でございますよ。皆、難儀でございます」
と弥生。
「御上のお心が、うまく伝わっておらぬな。犬だけではないのだよ。人間も含めた生類憐みなんじゃがな・・そこのところが下々には
理解できておらん。役人も同じことじゃ。この長屋でも、大家の鍵屋とおみよさんが、長屋の町犬当番になっておろう。犬だけではないのにな・・・・」
渋茶をゆっくりすする法円であった。
「和尚様のお言葉もわかりますが、少し犬には過保護に過ぎますな。御上は、不浄なことを大変お嫌いになるご様子と聞きますが」
三之丞は母上の書状をしまいながら、二人に問いかける。
「そこじゃよ。お城では、不浄の水で調理したとして、炊事方が処罰されたとも聞き及んでおる。少し行きすぎかもしれんな」
「兄上。それで、母上には・・なんと・・・縁談でございましょう」
「まだその気がないと、そちから話してくれ」
「いやですよう。私からは。ご自分でお話しくださりませな」
そばでは法円和尚が、三之丞を見やりそっと笑っている。
事件はそれから半年ばかり後のことであった。
「あんなに毎日、へべれけになるまでのんじゃいけねえやね」
「きちッとしていなすった昔のお姿は・・・どこえ・・」
王子の谷の居酒屋よしやで、亭主と店女おいねは嘆いていた。
あれから半年。小姓頭の職を解かれ、無役となった大身旗本の次男宮田豊之助は、今日も王子の游楼からの帰りだ。長身で精悍な姿は今は見るも無残に変わり果てていた。
「親父。もう三本酒をもってこい! 金ならあるぞ!」
そう呼ばわる豊之助の目はうつろで、無精ひげと月代も伸び放題だ。
「宮田様。きょうは、もうそのぐらいになさって・・」
「うるせい! つべこべさず持ってこい」
食台に顔が付きそうに酔いが回っている。そこへ幼顔の男が近づきそばに座る。
むち打ちの刑を八助と受けた、芝、呉服屋谷口屋の丁稚長太であった。あれから、主人谷口俊太郎から受けた恩は忘れていなかったが。
谷口は、長太が真面目に丁稚を一年勤め上げれば、もう一度手代に戻してやろうといってくれたのだ。
「しかしな・・丁稚は無給だぞ。耐えられるか。食事と寝部屋は用意してやるがな」
この時代、前科者の更生に力を貸すものはほとんどいなかったのだが。そしてここ数日は手代時代なじみの、王子の得意先を回った帰り道あった。
「お武家様。先ほど・・・宮田様とか、実は・・・」
己の魚取りが事のはじめでもあり、長太は、おっかなびっくりであったが、いきさつを隠さず豊之助に話す。豊之助の酔った目で睨みつけられ、怖かったが、黙って頭を深く下げる。一時・・・
「お前たちを恨んでもどうにもならん。おかみのしたことじゃからな。もうどうにでもなれというところさ。一杯飲むか」
「わたしは悔しくて。夜も寝られません。こうして仕事をしていても魚取りごときで、あのような処罰を受けるとは。逆恨みと言われても・・・なんとしても北町の与力、権田に仕返ししたい!」
幼顔の長太の丸い目には、きつい恨みがこもっている。少ししらふになって、豊之助が酒の茶碗を長太に渡した。
「と言って、何かあてはあるのか。相手は与力だぞ」
「わたしと八助では、とてもむりでござんす。八田の旦那も三宅に流されましたし・・・何かあったら、渋谷に住む昔の仲間の池貝様とかに相談しろと言われました。そこで・・・宮田様にも加勢いただけないかと・・・厚かましいとは思いますが」
酔いのさめた豊太郎に、真面目な顔で頼む長太であった。
「面白い。わしにも恨みはある。しかし兄や父上も健在でおるからの。身元が分かってはまずいのよ」
「権田を討ち果たす時は、覆面なさいませ。すぐ、姿をくらませれば、誰にもわかりやしませんでござんすよ」
それから二人は権田の動静や帰宅路、連絡の方法を話し始めていた。それは逆恨みではあったが、今の彼らには、心のよりどころでもあったのだ。
それから十日後の夕刻。あたりが薄暗くなり始める酉の刻。今日も奉行所から帰る権田十郎を、尾行する長太と覆面の豊太郎、八助の姿が虎ノ門外堀にある。
前回と同様に、八助が長い釣り竿を馬の尻めがけて大きく振る。今回は、馬が両足を素早く少し上げ、釣り糸が絡まない。素早く馬から降りた権田は、八助と長太を睨み据える。
「逆恨みか! かえって罪が重くなるぞ。不埒物が!」
権田は刀を抜き、峰を返す。八助と長太が、両側から長ドスを同時に突き入れる。長太のドスは飛んだ。身構える八助。振り返る権田。
いつの間にか覆面、中肉中背の男が、思い切り刀で権田を薙ぎ払う。わずかに権田の右腕を掠る。体勢を立て直して、上段から振りかぶる覆面の男と、脇から再度ドスを突き入れる八助。
その時、空を切って、振りかぶった覆面の男の腕に、小刀が飛ぶ。右腕に見事に刺さったようだ。覆面の男と八助、長太は急いでその場を逃げ去った。
溜池の道場帰りの三之丞の妹、弥生の投げた小刀であった。
「お怪我は大丈夫でございますか」
駆け寄る弥生。
「いや。またしても面目ないが、取り逃がしてしまった」
掠ったとはいえ、権田の右腕の傷口から鮮血がほとばしる。弥生は懐の手拭を割き、素早く権田の傷口に強く巻き、止血する。
「このままではいけませぬ。すぐ近くに、兄の寺子屋がございます。ひとまず傷口の手当てが先でございましょう」
馬を引いて弥生は権田十郎と鍵屋長屋に向かった。
「兄上。兄上! 」
と寺子屋の戸口を叩く弥生。
ちょうどそこへ、おみよの煮売り屋から、豆腐と浅利煮を夕餉の支度にと、三乃丞が帰ってくる。三人を見て驚いた様子だ。いやもう一匹駿馬がいたのだ。この長屋に馬は珍しい。
「どうしたのだ弥生」
「この近く虎ノ門外堀で、こなたの、与力権田殿が、無頼者に襲われ傷を負われ、取り急いでお連れいたしました」
「それはいかん」
三之丞はそばにいた長太に、裏の大円寺の和尚様に薬を持ってきてほしいと伝えるように言って。部屋に権田を招き入れる。
「いや誠に与力として面目ござらん。お言葉に甘えやってまいりました」
それから大円寺の法円和尚が、薬箱を持ってやってきた。弥生の止血がよかったのか、大事には至りそうもないが、軟膏を右腕に塗り、しっかりと晒でまいた。その間に弥生から襲った男どもの事を聞く。
「一人は覆面の武士風。あとは目じりの切れ上がった角顔の町人と、幼顔のやや小さい男でした。あっという間に逃げ去りましたが、権田様をずっと尾行し狙っていた様子でした」
治療がすむと、権田十郎は丁寧に礼を述べ、昨年からの虎ノ門外堀での魚釣り事件をかいつまんで話した。
「それでは・・奴らの・・逆恨みでございましょうか」
与力を襲うとは、よほど深い恨みを持った者の仕業と見た。
翌日の朝。鍵屋長屋を、豆腐売りの声が響き渡る。
「とうーーーふぃ・豆腐! あつあげー厚揚げ! とーーふはいらんかえ」
寺子屋の朝は早い。子供たちがそれぞれ己の席についている。
「そうそう、さと。そのさいごの右払いは、筆を立て、ほそくきれいに右に抜くのだよ。おいとは、もう少し姿勢を・・背骨をまっすぐ伸ばして筆を立てて・・そうそう・・・」
そこえ大通りの向かい芝の琴屋徳蔵の子分辰がやってくる。
「お師匠様。昨晩の権田様の件でがすが、これから虎ノ門あたりに行ってめいりやす。親分からお伝えするようにとのことで・・きっと昨年の釣具屋、八助と長太でござりましょう。親分は奉行所から権田様や山内様と一緒にめいりやす。ひっとらえてめいりやすが・・覆面の武士風の男は誰でござんしょう・・浪人八田は、三宅島送りですし・・」
普段はひょうきん物の辰であるが、徳蔵の子分として、探索ではなかなか芯棒強く、粘り強いところもある。辰は急いで虎ノ門に向かう。
長太は面倒を見てくれている芝、呉服屋谷口屋から、まさにまとめた荷を背負い、品川方向に急いで出るところである。
辰は、金杉橋に早足で向かう長太を遠目で確かめると、すぐにその後を追った。親分や権田様たちが来る前であったから、とっさの判断である。
品川から八山橋を超え、目黒方向に向かう長太。辰は品川の道脇の旅籠に入り、自分が目黒方向に長太を尾行していることを、谷口屋に、まもなく到着するであろう親分一行に伝えるように手配し、尾行を続ける。
長太は目黒川沿いから目黒不動を抜け、権之助坂を登り、白金から左、渋谷の谷を目指している。右に折れて天現寺方向に足早に行く。天現寺の門前で・・なんと・・・辰にも見覚えのある釣具屋、八助が待っていた。
二人は短く言葉を交わすと、天現寺の裏手の方向に入る。富士見稲荷の奥に百姓地があり、そこに大きな百姓家が二軒並んでいる。長太と八助はその奥の百姓家を目指していたのだ。辰はしばらく様子を探ったが、素早く天現寺に走り、小坊主に芝谷口屋に使いを頼み、急いで奥の百姓家のもとに戻った。
この屋敷には、各地から流れ歩いた浪人どもが群れすんでいた。この天現寺界隈を根城に、渋谷、白金、目黒、麻布などでゆすり、タカリ、盗みを働く悪人どもの巣窟であった。
「八田も、ここに三年ほどおったな。外堀での話は聞いておる。しかし・・魚ごときで。奴も三宅流しとは・・割に合わぬな」
首領と思しい相州浪人池貝三郎太はかなりの剣の使い手であった。
「それで、お前たちはこれからどうするつもりだえ」
髭で全く顔を埋め尽くした、大柄の浪人宮本三郎が八助と長太に聞く。
「恨みを晴らしてやろうと、旗本宮田の次男と三人で再度襲い、傷は負わせたものの、邪魔が入って、こりゃ江戸から出ようと、池貝の旦那に相談にあがったところでござんす。長太を連れて、上方にでもと思っておりやすが、抜け出すまで、お助けねげえねいかと」
「相手が北町、与力ではちと面倒だな。うかつに手を出せば、こちとらもあぶねえからな。たすけてはやりたいが・・」
と池貝。
「それで、ここに、長太とわっしの稼いだ十両ががごぜいやす。これで何とか抜け出すまで加勢ただけねえかと」
八助が必死に頼む。
「池貝。わしらもそろそろ潮時では無いかえ。江戸を抜け出す駄賃にもらっておこではないか」
と宮本と下野浪人高田次郎が促す。
「では、われらも引き上げとするか。抜け出しは、二子から溝の口を南下し、東海道まで下ろう。二人を藤沢あたりまで送ることにするか」
がっしりした体格で、うわ瞼のあつい池貝三郎太が決断する。
「ありがとうござんす。何とか江戸をぬけだせそうで」
と八助と長太が、三人の浪人に十両を手渡す。
「そうと決まれば早い方がいいぞ。すぐ出立しようではないか」
高田次郎、宮本三郎も旅の支度にとりかかる。
この百姓家。廻りは野菜畑で、辰はやむなく数本の杉の木陰で、親分達を待つことにした。
一方、三之丞のところにも、北町奉行所とともに金杉橋呉服屋、谷口屋から、辰の知らせが届いた。
「長太郎とおはる。よいか。わたしは出かけねばならぬから、小さい子の面倒を頼むぞ。一時したら、いつものように、皆に茶を飲ませなさい。それと饅頭が置いてあるから分けて食べなさい。午後までには帰るが、おくれたら、未の刻の鐘で、皆を家に帰しなさい」
「お師匠様。また何か事件ですか」
長太は興味ぶかげに聞くが、おはるの方は不安な顔つきだ。
とっさに思いついて三之丞は裏の法円和尚のもとに走る。
「和尚様。辰から、気奴らが逃げようとしていると、連絡が入りました。どういたしますか」
「北町も出るであろうが、関わり合ったことでもあるし、その天現寺方向に行ってみようかの」
和尚は庫裏の棚の上から太く長い樫の棒を取る。
二人は品川から目黒の谷を上がり、白金から天現寺へと急いだ。
「辰の二度目の知らせでは、天現寺の裏手のおおきな百姓家に入ったとのことです」
「逃げるために加勢を頼んでおるのかもしれんな」
辰が杉の木のもとで、低く身を隠していた。
「あ。師匠と和尚様。まだ親分と北町の皆様は来ておりませんですが、どうも、近所の浪人どもの巣窟のようで、二人は江戸を抜け出す助けを、浪人どもに頼んでるでは・・ねいかと・・・」
「北町の皆が来るまで、しばらく様子を見るしかあるまいな」
こちらから手だしを避けたいとの和尚の思惑でもあった。
と。その時、百姓家の戸口から手甲脚絆に身を固めた八助と長太が出てきた。後ろにはこれも軽三袴で旅姿の、三人の浪人が続く。
一刻も早く江戸を引き払う算段の五人組だ。
「おぬしら。どこへ行くのだ。前の町人二人は、奉行所与力を襲ったものであるぞ。手助けはならんぞ」
和尚が大声で一喝する。細身なやさ男と和尚、と見て取った連中は、
「それがどうかしたかい」
厚い下瞼を軽くゆびで払うと、池貝三郎太はうそぶいた。和尚と三乃丞が、五人の前に立つ。奴らの目が光る。刀を抜いた。
「どうしても・・かばってやるつもりかえ」
和尚は・・相手が浪人三人ではややぶがわるいと見て取ったが、太い樫棒を前に突き出す。
「辰。お前は、二人をたのむぞ」
和尚は宮本と対峙。三乃丞が高田と池貝に対峙した。
長太は、ドスをもつ手も震え、へっぴり腰しであったが、八助は釣具屋でありながらも、多少の心得があり小刀を抜く。十手を構える辰に斬りかかる。辰が回り込んで外すが簡単にはいきそうもない。
両手で橿棒を構える和尚に、宮本が上段から斬り下ろす。固い橿棒で和尚が受けるが、これもグイーと押される。和尚は大柄であったが、右足を大きく後ろに引く。さらに押し込もうとする宮本。
和尚が腰を下げる。次の瞬間、押し込む宮本の腹に橿棒の先がめり込む。宮本が呻きながらも、立て直す。
再度打ち込む八助の小刀を辰がうまく払う。前のめりになった八助の首筋に、辰が十手を打ち込む。前のめりに膝をつく八助。目をつぶって、長太が辰にドスを突き立てる。危ないところを和尚が橿棒でドスを払う。
隙ありとみて宮本が、再度上段から和尚に打ち込む。素早く左に開いた和尚の橿棒の先が、宮本の顔面に食い込む。宮本も、膝から倒れる。帰す橿棒で長太の腹を打つ。やっとのことで、辰は八助、長太、宮本に取り縄をかける。
三之丞と池貝は、その間も互いのスキを探してにらみ合ったままである。
(これは容易ならんあいてだ。これだけの腕で・・浪人とはな・・
尋常な手段では・・仕掛けをつかわねばならんかな・・)
三之丞は、じりじりと左の一段高い方向に動く、池貝のスキのない構えから、決断しなければならなかった。
池貝が、裂ぱくの気合で上段から打ち込む。切っ先が三之丞の右耳を掠る。和尚が言う。
「そこまでして、なぜかばう必要があるのだ」
和尚を見ずに池貝がつぶやく。
「金で請け負ったまでのことよ。別に恨みがあるわけではないは」
わずかに池貝の左わきが開き、隙が見え、三之丞は中段から大きく打ち払う。池貝は難なく交わす。それからまた二人は、じっと向かい合ったまま動かない。やっと琴屋の音蔵を先頭に、北町与力権田と山口が到着した。騎馬の後ろには同心二人、取り方十人ほどが続いていた。
権田と山口は、直ちに池貝に向かおうと刀を抜く。和尚が一言。
「お待ちください。むやみにきりこんでも。腕の立つ奴です。まずは三之丞に、しばし任せていただきたい」
二人はそれでも職務上放置はできなかったが、構えなおし、一呼吸置くことにした。
それから数十秒。わずかに池貝が左に動き、上段の剣をわずかに右に傾ける。
(来るな)間合いと呼吸で三之丞は察知した。
猛烈な気合を発し、池貝が上段から切り込む。三乃丞が飛鳥のごとく池貝の右上に飛び、左手で差し棒の卍を外し、鋭く細い針刀を池貝の肩甲骨に突き入れる。深手を負ったようだ。池貝があきらめる。すかさず二人の与力が取り押さえ、琴屋の徳蔵が縄をかける。
「到着が遅れ、また助けられましたな」
北町奉行所与力権田十郎が和尚と三之丞に礼を述べる。
「危うく取り逃がす所であったが。何とか間に合いましたな」
和尚が静かに言う。
「相当な使い手でありました。仕掛けがなくば・・やられていたやもしれませぬ。惜しいほどの腕前でした」
三之丞もほっとして刀を収めた。
それから十日後。北町奉行所権田十郎は、二度も助けられた三之丞の寺子屋と、大円寺大覚法円和尚のもとを尋ね、丁寧に礼を述べていた。
「お二人には、大層お世話になり申した。今夜一献いかがでござるかな。料理屋を予約いたそうかと・・」
「権田様。それには及びませぬ。よろしければ、長屋の煮売り屋おみよの店で、どうでございましょうか。気兼ねなく飲めますし」
「おお。それはよいな。与力殿に、長屋の暮らし向きも知ってもらえるわけであるな」
法円和尚も相当に酒好きであったからすぐに賛成だ。
「このわらび、ごぼう、大根の煮物もなかなか・・うもうござるな」
権田はすっかりおみよの店が気に入った様子だ。江戸湾のあさり、貝柱、小肌のお造りも大好物の様子である。
「結局のところ、外堀での魚釣りが、このような逆恨みごとになりましたな。人の感情とはわからぬものでござるな」
和尚はもっぱら酒と烏賊焼きだ。
「わしとしても・・魚ごときとは思うが。これが仕事でな。法で決めたことを守らせるのが奉行の役目じゃよ」
「さようですね。おかみがお決めになったことに従う。それなくして、私ども庶民も安心して暮らせませぬ」
と三之丞。
「御政道を貫くとは、そういうことでもあるな」
三人はは夜の更けるまで語り合い飲み明かした。
それから三日後。常盤橋の柳沢屋敷では菊池左衛門が吉保と碁盤に向かっている。
「今回も又、三之丞と法円和尚の活躍のようじゃな」
「しかし殿。魚釣りが発端の恨み事で・・このような結末は、あと味が悪うございますな」
「ま。そう申すな。わしも行き過ぎた生類憐みにはな・・・おかみにもたびたび申し上げてはおるのじゃが・・」
「決めたことを守るのも御政道ではございましょうが、近頃は街中に犬があふれて、往生しておるのも現実でございます」
「そうよのう。過度な保護が事態を悪くしてな、中野他に、さらに犬小屋を作らねばなるまいな。そちの番じゃ」
卯月が終わり皐月の快い風が築山の向こうから吹いてきた。
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