名前を忘れた私が思い出す為には、彼らとの繋がりが必要だそうです

藤一

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幾度も身体を重ねたのに?

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王子の所から帰って来た日、ミスティコさんはこちらに戻らなかった。次の日のお昼位、アルケーさんも出掛けた後で「ただ今戻りました」と帰って来た。慌てて出迎えると疲労の色が浮かんでいた。全身が重力に負けている。う、この状態、見覚えがある。元の世界の私だ。

「お、お帰りなさい。ミスティコさん、その様子だとお昼、まだですよね?今すぐ、準備します。そこに座ってて下さい」

早口でそう言い、リビングの椅子を引く。食事を取りに向かおうとする私をミスティコさんが「オト」と呼び止める。

「食事の準備なら俺がするので」

疲れと空腹から来る苛立ちなのか、何時もより口調が刺々しい・・気がする。ここで「座っといて下さい」と言っても押し問答になりそうだ。

「それならミスティコさんはお茶入れておいて下さい。お願いしましたよ!食事は私が取って来ます!」

ミスティコさんは何か言い掛けたが、私が玄関へのドアを開けて「お茶、お願いしましたよ!」と念押しした所為か、諦めて「すみません」と一言謝り、キッチンに入って行った。

二人で向かい合って昼食を取る。今日のメニューはトマト風味のリゾットだ。

「あの、ミスティコさん・・もしかして、王子をトマリギにする為の手続きで、そんなに疲れてるんですか?」
「北のから何か聞きましたか?」
「手続きが大変だ、とだけ」
「以前、お話したと思いますが王子は順位は低いとはいえ、一応、王位継承資格者ですからね。色々有ります。私たちよりも王子の方が根回しで忙殺されてるでしょうね」

う、私にはどうしようも出来ない事とは言え、何だか申し訳ない。どうやら眉間に皺を寄せていたらしい。ミスティコさんが溜息を吐く。

「オトがそんな顔する必要無いですよ。王子は『トマリギになりたい』と自分から言い出したんです。こちらから頼んだ事じゃありません」
「そ、そうなんですけど・・えぇ、と、そうですね・・はい」

ぴしゃりと言い切る彼の言葉に曖昧に返し、カップのお茶に口を付ける。何時もよりほんの少しだけ苦く感じた。

微妙な空気の昼食が済み、ミスティコさんに「部屋で休んだらどうか?」と言ってみたが、確認したい事が有ると断られた。
ミスティコさんは確認したい事が載っている本を自室から持って来て、リビングで読み始めた。食事をきちんと取ったからか彼の顔色は、ほぼいつも通りに見える。
昼間の居住区はとても静かだ。住人のほとんどが不在だからだろう。今、耳に届くのはミスティコさんがページをめくる音だけだ。
邪魔をしたら悪い、と思い寝室に引っ込もうかと思ったが、ミスティコさんの手元の本を見て、はたと思い出す。

そ、そうだ!バシレイアーの歴史や周辺国の知識も大切なんだけど、直近でミスティコさんから借りたい本が有ったんだ!

・・保健の教科書。

思い返してみると、アルケーさんとの初めての夜は凄くスムーズだった。私もアルケーさんも経験済みだった所為も有るが、アルケーさんが上手くリードしてくれた部分が大きいと思う。私の反応で、こちらでは非常識に当たる部分が有ったかもしれないが、「沢山・・(以下省略」以外は特に指摘され無かった。アルケーさんは全面的に私を受け入れ、快楽の沼に沈めてしまった。
だから未だ、こちらのベッドの中のお作法は何がタブーで何が喜ばれる事なのか私は知らない。アルケーさんに聞けば良いんだろうけど、きっと「そのままで。でも『沢山出して』は言っては駄目」で済まされるだろう。

「あの・・ですね。ミスティコさん・・」

私は「チャンスは今しか無い!」と意を決して、向かい合って本を読む彼に声を掛ける。

「はい、なんでしょう?」

手元の本からすぅと顔を上げ、ミスティコさんが呼びかけに答える。

「あ、あの、ですね。お仕事中のところ、大変申し訳無いんですが・・あの・・前から思ってたんですけど、その、こっちの世界の・・ほ、保健?健康?に関する事と言うか・・そんな感じの教科書が有れば・・貸して下さい」

本当は趣味と実益を兼ねて、女性向け官能小説がベストオブベストなんだけど、さすがにそれは頼めない。

「はぁ・・保健、健康・・の教科書・・ですか?」

ミスティコさんが非常に怪訝な表情になる。う、私が逆の立場、例えば・・私の世界にミスティコさんがやって来て突然「貴女の世界の保健体育の教科書を貸して下さい」って言われたら不審がる。ミスティコさんの表情は理解できる。

「っと・・その、もうすぐ王子の所に、泊まるじゃないですか・・だから・・読んでおこうかな、と・・」

「オーソドックスな性知識が知りたい」と言えなくて、かなり遠回し言い方になってしまった。ちらりとミスティコさんの表情を伺う。やはりミスティコさんは「だから何?」と言いたげな顔だ。ぐぬぬ・・察して貰うのは難しいかもしれない。
アルケーさんだったら、と一瞬考える。アルケーさんはこういう事に非常に敏い。察したとしても分からない振りをするに違いない。だがミスティコさんはそんなタイプじゃない。

「王子の所に泊まるのに、何で教科書が必要なんですか?」

ミスティコさんは読んでいた本をパタンと閉じ、テーブルの上で手を組む。私の奥歯に物が挟まったような物言いを不審に思いながらも、向き合おうしてくれているのが分かった。

「その・・アルケーさんとの時は・・えっと・・はっきり言いますと・・その、よ、夜?の問題は無かったんですけど・・」
「えぇ、そうですね」

ミスティコさんは素っ気なく肯定の言葉を口にし、若干苛立ちを含んだ溜息を吐く。

「えぇ、勿論、北との交合に問題が無いのは良く知っています。それと何の関係が?」

め、眼鏡の奥の紫の瞳が少し怖いんですけど。詰めて来るような圧に怯んでしまう。

「こ、今回も・・滞りなく進むか、その・・心配でして・・」
「北の時と一緒で、王子に全てまかせておけば良いじゃないですか。何の問題が?」

ミスティコさんが一刀両断、バッサリ切り捨てる。
た、確かにそうなんだけど!王子は初めてだから!しょ、初夜?は王子におまかせするつもりだが、彼は初めてだ。経験者として不測の事態に備えておきたい。だから、こっちの一般的な性知識は頭に入れておきたい。頭の中ではスラスラ言える。ただ、王子が未経験だと言う凄くプライベートな情報を誰かに話す訳にはいかない。

「そ、そうなんです、けど・・その、こっちと言うかバシレイアー特有の・・あの・・よ、よ、夜の決まり事とかやっちゃ駄目な事とか有るかもしれないって思って。そういうのは事前に知っておきたいし、教科書とかに載ってないかなぁ・・なんて」

私は言葉を選びながら何とか答える。どうか大人しく教科書を渡して下さい!

「こちらだけに有る『閨房』の決まり事みたいなものが知りたい、と言う事ですか?それの為に教科書を見てみたいと?」
「あ、はは・・まぁ・・そんな感じです」

まぁまぁ伝わったかも、しれない。安堵しつつ「閨房」の決まり事・・第三者の口からそう言われると、恥ずかしいやら気まずいやら・・。私は愛想笑いをして気恥ずかしさを誤魔化す。ミスティコさんは肩を竦める。

「少なくとも俺は聞いた事無いですけど。相手が嫌がる事をしなければ問題無いんじゃないですか?仰るように、王族には特殊な閨房の決まり事が有るかもしれません。まぁ、有ったとしても、教科書なんかに載ってませんよ」
「はは、ですよね。・・変な事を聞いてすみませんでした」

うぅ・・どっと疲れた。結局、内容を確認したかった教科書は手に入らず、か。私は椅子の背もたれに身体を預け、ふぅと一息つく。ふと顔を上げると、正面のミスティコさんと目が合う。ミスティコさんが「・・オト」と小さく名前を呼ぶ。私が応えると、少し躊躇うような素振りを見せた。

「・・アルケーには、そういった事、聞き辛いですか?話し合ったりとかは?」
「そういった事っていうのは・・」
「端的に言うと、性に関する知識、経験ですね」

知識は分かるが、け、経験!自分がさっきまで色々理由を付けて、教科書を借りようとしていた動機を見透かされてるみたいだ。いや「みたい」じゃなくて・・。

「え、あ、はは・・ご想像におまかせします」
「そうですね。じゃあ『しない』と解釈します。避妊の事も俺に聞いて来た位ですしね」

うッ!今、それを言うか!思い出して一層、顔に熱が集まるのが分かった。

「そ、その節は大変お世話になりました・・すみません」
「いえ、アルケーに言えない事を相談していただけるのは信頼されている感じがして・・そうですね、悪くは無いです」

ミスティコさんはそう言って、満足気に目を細めた。・・その表情、アルケーさんが良からぬ事を企んでいる時に何処か似ている。雰囲気だろうか。

「アルケーに聞き辛いのは、どうしてなんでしょうね?理由を考えた事は有りますか?」

ミスティコさんが重ねて尋ねる。その声は何時もより低くて頭の中で黄色信号が灯る。

「あの、ミスティコさん、えっと・・何と言うか・・例え、オオトリとトマリギの関係でも、聞き辛い事の一つや二つ有ると思います」

やや早口でそう言い、話を切り上げようと腰を上げる。

「・・幾度も身体を重ねたのに?」

一瞬、聞き間違いかと思った。
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