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56,王として

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「…ロイ」

 熟睡する夫の横顔を撫でて、ローレンは瞳を閉じる。夢のようなあの出来事は、まるで幻のようにぼんやりとしか思い出せない。
 もう忘れていい、という言葉だけが頭の奥に響く。まるで心の中にのさばっていた呪いが解けたように、ローレンは安らかな表情を浮かべた。



***



 大きな十字架が掲げられた礼拝堂で、少年は両手を握り、目を瞑っていた。

「神様なんて、こっちに来てから会ったことねぇけどなぁ」

 ぽつりと呟いた男に少年は振り返る。

「そうでしょうか。私は私の知る神を信じます」
「熱心なことだ。それにしたって、俺の話をアイツに漏らすなんて酷いぞ」

 苦笑したライエルに、少年は大きく目を開く。

「会えたのですか」
「ほんの少し見えたみたいだな。けど、旦那が迎えに来てからは俺が目の前にいてももう見えていなかった。くっそ、俺の前でイチャつきやがって」
「…けれどそれが兄さんの望むことだったのでは?」

 少年が尋ねると、彼は吹っ切れたように笑った。その顔にはもう、初めて幽霊として少年の前に現れた日のような曇った様子はなかった。

「アイツの跡つけたけど、出世してるなぁ」
「兄さんも生きていたらそこそこしていたでしょうね」
「そこそこって酷いな。まぁ、うん。ていうか、あのアグシェルト公爵家の正妻だろ?やばくねぇ?」
「…そういえば今の王妃様も、アグシェルト公爵の弟君だとか」
「へぇ。………え?」
「オメガの方ですよ」
「公爵家にもオメガって生まれるんだな」
「アルファだろうがオメガだろうが、生まれ持った性別だというだけです。どこに生まれてもおかしくない」

 触れることは出来なくとも、ライエルは少年の頭に手をやった。感覚はないけれど、それでも少年は温かいと感じた。

「…兄さんが死んでから、沢山変わったことがあるんですよ。王妃様のおかげでオメガの迫害も、随分とましになりました」
「みたいだな。…けど、お前も生きやすいような時代になって、良かったな。…お前もちゃんとした男見つけろよ」
「私は神に仕えるものですから、結婚など…」
「いつか絶対に、大切な人が出来るから。…せめて、お前がもっと成長するまでは見送りたいけど」
「では、そうしてください」

 微笑んだ少年に、ライエルが返事をすることはなかった。








「お疲れ様です」
「あぁ」

 特に何か起こることもなく、陛下の慰霊碑参りは終了した。後はもう帰るだけだ。気がほんの少し楽になったと思ったが、それもリヴィウスよの一言で覆る。

「お前に話すことがあるんだが」
「……なんですか」

 嫌な予感しかしない。特にこの真面目そうな顔をした陛下の口からはいつも爆弾発言しか飛び出て来ないのだ。

「言うかどうか迷ったが…投書が届いていてな」
「…投書といいますと」
「アグシェルト公爵家の純血をこのまま絶やすつもりか、と」

 急に現実に引き戻された気分だった。ローレンの雰囲気が変わったことを感じたのか、リヴィウスは軽い調子の声を出す。

「いや、匿名だから気にすることもないんだが」
「…陛下はこのままではよろしくないとお考えと、そういう解釈でよろしいでしょうか?」
「勘違いするな。子のことについては義兄上とお前の、夫婦の問題だ。だが…跡継ぎのことになると話は変わってくる」
「ではどうしろと?」

 冷たい声が出てしまったのは動揺からだった。いつかは誰かに指摘されることだ。けれどまさか陛下からとは思わなかった。

「……アグシェルトは建国当時からの旧家だ。絶やすわけにいかないのは、俺も承知だ」
「そんなこと私も分かっております」
「だが俺から妾を取れなどと言えば、どうなるか分かるだろう」

 容易に想像出来てしまう。きっと弟の王妃を使って懲らしめ、それ以上言わせないに違いない。王妃も喜んで協力するだろう。

「…私からそれを言えと、そう言いたいのですか」
「……そんな顔をされると俺が悪者のようだ」
「もう十分、私の中ではそうですよ」

 娼館の美少年が来た時、自分の心には嫉妬というみっともない感情が渦巻いていた。
 あの後何度も自分の身体を見ては、それなりに筋肉のついた腕や胸が恨めしかった。あの美少年の、薄い身体や細い手足が羨ましくて仕方なかった。

「一度だけでいい。子供をどこかの女にでも男にでも生ませてしまえば、もう誰にも何も言われることはないんだ」
「貴方は愛する人が他の男に抱かれても平気だと?」
「俺の話じゃない。それに、減るものじゃないだろう」
「レイ様がもしそう言っても、貴方は許しますか」

 黙り込む陛下をぶん殴りたくなった。誰よりも理解している。彼の子を、直系の子を生まなければならないと。

「だがこのままでは領の問題、しまいには国民まで巻き込む事態になる」
「分かっていると言っているでしょう」
「お前は分かっていない!」
「分かっていますから、っ…もうたくさんだ!!」

 何故愛する人と共になるのがいけない。何故、そこまで干渉されなくてはいけない?

「お前が、お前たちがただ平民だったなら、誰も文句を言いなどしなかった。だが片方は公爵、それだけならまだしも二人ともアルファだ。…子供を残すことなど出来ん」
「では何故貴方は私たちの結婚を認めた?ただ、面白かったからですか」

 手を握りしめて、陛下の目を見据える。涙の膜のせいでほんの少し歪んで見えた。

「…お前はもう長いこと俺に仕えてくれている」
「は……?」
「どこへ行くにも信頼の置けるお前を連れて行ったし、信頼できたからこそレイのそばに置いた」
「……だから何ですか」
「単純に、お前が幸せになるのなら、それはいいことだと考えた。王ではなく俺個人の気持ちを優先させた。深く考えなかった俺の責任だ。すまなかった」

 そんなことを言われては、責めることも出来なかった。ーー仕事だけをするつもりだった。同期が沢山死んだ分、自分が更に仕事に打ち込んで、ここまで来れなかった彼らの分まで。
 自分の幸せを考えてくれる人は、こんなに沢山いたのに。

「…俺もこんなことを言いたくはなかった。だが、王として、俺は生きてきた。王として、お前に言わなければならなかった」

 王として。一人の部下よりも、幾万の民のことを考えなければならない。そしてそれを管轄できるのはたった一人だということを、俺に告げなければならなかったのだ。
 ではどうすればいいというのだ。

「……どちらにせよ、道中私はおりません。明日から休暇を頂いておりますので」
「分かっている。義兄上もそうだが…どこに行くんだ?」
「…前公爵のお義父様のところに。…その時に、あの人に、妾を取るように勧めてもらいます」

 リヴィウスの目が大きく見開く。そうしろと言ったくせに、そんな顔をするなんてずるい。言葉はそれ以上何も出なくて、「失礼します」とだけ告げてローレンはその場を後にした。
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