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第1章
51 兄の回想1 ※実海棠(兄)視点
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異常事態だった。
「お兄様! どうか私を助けてください!」
十二歳だった実海棠は、上の妹である五歳の紗彩に土下座されながら、そう懇願された。
家の和室で本を読んでいただけだったのに、どうしてこうなった。
和室のふすまの扉は開け放たれたままなため、廊下を行き交う使用人たちが、何事かと立ち止まって実海棠たちを見ている。
「ちょっ、何やってんの!?」
畳に深々と土下座し、頭を畳に押し付けている紗彩を、脇を抱えて起こすと、紗彩の顔面は涙で濡れていた。紗彩はなぜかプルプルと震えている。実海棠を鬼か悪魔かだと勘違いでもしているような恐怖の目である。それでも、死を覚悟するような声でさらに言葉を紡ぐ。
「な、何でもやります! 絶対に途中で止めるって言いません! 罵倒されても、甘んじて受け入れますからぁ!」
「本当に、何の話をしてるの!?」
「ごめんなさいぃぃー、怒らないでくださいぃぃ」
会話が成り立たない。滝のように紗彩は涙を流すが、泣きたいのはこっちだ。幼い妹を泣かす悪人にでも見えているのか、実海棠を見る使用人の視線がゴミを見るような目になっている気がする。
実海棠は急いで紗彩を抱き上げると、自室へ向かった。自室に入室すると、部屋の扉を全て締め切った。そして紗彩を自室の畳に座らせる。
「それで? これはどういうこと?」
紗彩は実海棠を見てビクっとして、さらに泣き始めた。しまった、つい怖い顔をしてしまったかもしれない。実海棠は穏やかに見える表情を努め、優しく紗彩に声をかけた。
「紗彩、泣いていては分からないでしょう。助けてほしいと言っていたね。何を助けて欲しいの?」
しゃっくりを上げる紗彩が、分かりづらいものの、何かを話し出した。
「――貧乏だから、助けて欲しいの」
「貧乏?」
一条家は誰がどう見ても貧乏ではない。では別の話をしているのだと、辛抱強く紗彩の分かりづらい話を聞くに、だいたい話が見えてきた。
実海棠の母と祖母、そして妹の紗彩は異世界を行き来できる存在である。異世界ではウィザー伯爵家として生きており、ウィザー伯爵家は帝都近くに小さな領地を持つ貧乏貴族だった。紗彩の話では、その貧乏から抜け出したいということだった。
なぜ、それを母ではなく、まだ五歳の紗彩が言うんだ。母が気にするべき問題ではないだろうか。
普段絡みの少ない母にイラっとしつつ、紗彩に口を開いた。
「紗彩は気にしなくていいよ。俺が母さんに言っておく」
「お母様は貧乏でもいいって言うの! だから、これは私が解決しなければならないの!」
「紗彩には無理でしょう。まあ、母さんにも無理だろうけど」
母は、口だけはうまいから社交向きではあるものの、難しいことを考えることが苦手なのは知っている。貧乏のままでいいと言っているのも、頭を使った仕事をするのが嫌いだからだ。
「貧乏から抜け出さないと、いつか私は借金の代わりに結婚しなくちゃいけなくなるの!」
「……は?」
ウィザー家の貧乏とは、とうとうそんなところまでいっているのか。それを母は知っていて放っていて、幼い妹に心配させるとは、なんてことだ。
「お母様は難しいことはできないから、お兄様にお願いしなさいって言ってたの」
放っている息子に丸投げかよ。イライラしているところに、また紗彩が、がばっと土下座した。
「ちょっ」
「お兄様! お願いします! 貧乏から助けてください! なんでもします!」
「分かった! 分かったから、土下座はストップ!」
紗彩を土下座から起こす。
「何で土下座するかな……」
「……? インターネットに、頼み事をするときは、土下座をすると書いてあったよ」
なんという偏ったサイトを見たんだ。
「お母様が、お兄様は理解力が悪い人には教えてくれなくなるから、罵倒されてもめげません! って一生懸命お願いしたら、助けてくれるかもって言っていたの。でも、それだけだと不安だから、インターネットに人に頼み事するときはどうすればいいか、って調べたの」
自分の息子のことを、どういう説明をしたんだ。イライラとするが、母が実海棠のことをそう言うのも無理はないとも思った。
昔から自分を放っている母が嫌いだった。帝国にいる時は仕方ないが、東京にいるときも、息子の傍にいることはほとんどない。なのに、頼み事があるときなど母の都合の良い時だけ近寄って来るため、よく母を邪険にしていた。
とはいえ、実海棠は十二歳ではあるものの、一条家の持つ会社の一つを遊び代わりに運用してもいたため、母は実海棠なら助言ができると踏んだのだろう。なんだか母に挑戦状でも渡されたような気がして、受けて立ってやろうと、よく分からないがやる気がでた。
「……お兄様、さっき分かって言った? 貧乏から助けてくれるの?」
「妹のお願いを、聞かないわけないでしょう。助けてあげるよ」
紗彩がぱあっと笑う。こんなに笑っている紗彩を見たのは、初めてだった。
「ありがとう、お兄様! 土下座ってすごいのね!」
「土下座のおかげじゃないからね!? いい? 土下座は今後禁止!」
紗彩には色々と教えなければならないことが、たくさんありそうだ。嘆息しつつ、嬉しそうな紗彩が、今までの紗彩とは別人のように感じていた。
紗彩は大人しい子だった。母に連れられ帝国から帰ってきても、実海棠と話すことはあまりない。東京へやってきても、何をすればいいのか手持ち無沙汰な感じで、いつもぼーっとしていたように思う。実海棠もそんな紗彩に興味がなく、積極的に話しかけることはなかった。
ところが、最近やけに実海棠を柱から窺っていたりと視線を感じていた。その理由は今日の頼み事をしたかったからで、そのタイミングを見計らっていたのだろう。
紗彩の貧乏から抜け出したい、という希望のため、まずは帝国の情報を知ることから始めた。これがとにかく大変だった。五歳の紗彩に色々聞いても分からないことばかりなため、頼りにならない母ではなく、ウィザー家の代々の使用人であるヴィアート家に質問のメモを渡して、それを返してもらいながら情報収集をした。
そんな時間を過ごして三ヶ月くらいが経過した頃だった。
紗彩が気を失うという事件が起きた。
「お兄様! どうか私を助けてください!」
十二歳だった実海棠は、上の妹である五歳の紗彩に土下座されながら、そう懇願された。
家の和室で本を読んでいただけだったのに、どうしてこうなった。
和室のふすまの扉は開け放たれたままなため、廊下を行き交う使用人たちが、何事かと立ち止まって実海棠たちを見ている。
「ちょっ、何やってんの!?」
畳に深々と土下座し、頭を畳に押し付けている紗彩を、脇を抱えて起こすと、紗彩の顔面は涙で濡れていた。紗彩はなぜかプルプルと震えている。実海棠を鬼か悪魔かだと勘違いでもしているような恐怖の目である。それでも、死を覚悟するような声でさらに言葉を紡ぐ。
「な、何でもやります! 絶対に途中で止めるって言いません! 罵倒されても、甘んじて受け入れますからぁ!」
「本当に、何の話をしてるの!?」
「ごめんなさいぃぃー、怒らないでくださいぃぃ」
会話が成り立たない。滝のように紗彩は涙を流すが、泣きたいのはこっちだ。幼い妹を泣かす悪人にでも見えているのか、実海棠を見る使用人の視線がゴミを見るような目になっている気がする。
実海棠は急いで紗彩を抱き上げると、自室へ向かった。自室に入室すると、部屋の扉を全て締め切った。そして紗彩を自室の畳に座らせる。
「それで? これはどういうこと?」
紗彩は実海棠を見てビクっとして、さらに泣き始めた。しまった、つい怖い顔をしてしまったかもしれない。実海棠は穏やかに見える表情を努め、優しく紗彩に声をかけた。
「紗彩、泣いていては分からないでしょう。助けてほしいと言っていたね。何を助けて欲しいの?」
しゃっくりを上げる紗彩が、分かりづらいものの、何かを話し出した。
「――貧乏だから、助けて欲しいの」
「貧乏?」
一条家は誰がどう見ても貧乏ではない。では別の話をしているのだと、辛抱強く紗彩の分かりづらい話を聞くに、だいたい話が見えてきた。
実海棠の母と祖母、そして妹の紗彩は異世界を行き来できる存在である。異世界ではウィザー伯爵家として生きており、ウィザー伯爵家は帝都近くに小さな領地を持つ貧乏貴族だった。紗彩の話では、その貧乏から抜け出したいということだった。
なぜ、それを母ではなく、まだ五歳の紗彩が言うんだ。母が気にするべき問題ではないだろうか。
普段絡みの少ない母にイラっとしつつ、紗彩に口を開いた。
「紗彩は気にしなくていいよ。俺が母さんに言っておく」
「お母様は貧乏でもいいって言うの! だから、これは私が解決しなければならないの!」
「紗彩には無理でしょう。まあ、母さんにも無理だろうけど」
母は、口だけはうまいから社交向きではあるものの、難しいことを考えることが苦手なのは知っている。貧乏のままでいいと言っているのも、頭を使った仕事をするのが嫌いだからだ。
「貧乏から抜け出さないと、いつか私は借金の代わりに結婚しなくちゃいけなくなるの!」
「……は?」
ウィザー家の貧乏とは、とうとうそんなところまでいっているのか。それを母は知っていて放っていて、幼い妹に心配させるとは、なんてことだ。
「お母様は難しいことはできないから、お兄様にお願いしなさいって言ってたの」
放っている息子に丸投げかよ。イライラしているところに、また紗彩が、がばっと土下座した。
「ちょっ」
「お兄様! お願いします! 貧乏から助けてください! なんでもします!」
「分かった! 分かったから、土下座はストップ!」
紗彩を土下座から起こす。
「何で土下座するかな……」
「……? インターネットに、頼み事をするときは、土下座をすると書いてあったよ」
なんという偏ったサイトを見たんだ。
「お母様が、お兄様は理解力が悪い人には教えてくれなくなるから、罵倒されてもめげません! って一生懸命お願いしたら、助けてくれるかもって言っていたの。でも、それだけだと不安だから、インターネットに人に頼み事するときはどうすればいいか、って調べたの」
自分の息子のことを、どういう説明をしたんだ。イライラとするが、母が実海棠のことをそう言うのも無理はないとも思った。
昔から自分を放っている母が嫌いだった。帝国にいる時は仕方ないが、東京にいるときも、息子の傍にいることはほとんどない。なのに、頼み事があるときなど母の都合の良い時だけ近寄って来るため、よく母を邪険にしていた。
とはいえ、実海棠は十二歳ではあるものの、一条家の持つ会社の一つを遊び代わりに運用してもいたため、母は実海棠なら助言ができると踏んだのだろう。なんだか母に挑戦状でも渡されたような気がして、受けて立ってやろうと、よく分からないがやる気がでた。
「……お兄様、さっき分かって言った? 貧乏から助けてくれるの?」
「妹のお願いを、聞かないわけないでしょう。助けてあげるよ」
紗彩がぱあっと笑う。こんなに笑っている紗彩を見たのは、初めてだった。
「ありがとう、お兄様! 土下座ってすごいのね!」
「土下座のおかげじゃないからね!? いい? 土下座は今後禁止!」
紗彩には色々と教えなければならないことが、たくさんありそうだ。嘆息しつつ、嬉しそうな紗彩が、今までの紗彩とは別人のように感じていた。
紗彩は大人しい子だった。母に連れられ帝国から帰ってきても、実海棠と話すことはあまりない。東京へやってきても、何をすればいいのか手持ち無沙汰な感じで、いつもぼーっとしていたように思う。実海棠もそんな紗彩に興味がなく、積極的に話しかけることはなかった。
ところが、最近やけに実海棠を柱から窺っていたりと視線を感じていた。その理由は今日の頼み事をしたかったからで、そのタイミングを見計らっていたのだろう。
紗彩の貧乏から抜け出したい、という希望のため、まずは帝国の情報を知ることから始めた。これがとにかく大変だった。五歳の紗彩に色々聞いても分からないことばかりなため、頼りにならない母ではなく、ウィザー家の代々の使用人であるヴィアート家に質問のメモを渡して、それを返してもらいながら情報収集をした。
そんな時間を過ごして三ヶ月くらいが経過した頃だった。
紗彩が気を失うという事件が起きた。
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