奇説二天記

奇水

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八ノ段 宮本伊織、津田小次郎と御前試合をする事。

(三)

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(勝てない)
 伊織は改めてそのことに気づいていた。
 相手が照射する気合を受けながら、筋肉がこわばるのが解る。
 兵法を専門に習ったことはないが、この緊張の仕方がよくないことは解る。
(父上の言うとおりならば、ここで乱舞のように集中をすればよいのだということだろうが……)
 無理だ、と素直に思う。
 集中しようとした瞬間に切りかかられたら終わる――そんな予感がある限り、集中ができない。
 いまだかつて味わったことがない決闘の空気に、伊織は死を予感した。
 そして。
 ふと、脳裏にゆうの顔が浮かんだ。
 

 小次郎と初めて出会った日の夜のことである。

 ゆうが養子としていった先は、九州の某村であった――そう語った。
 そこが選ばれた理由は多田家の縁者であったということでしかなく、引き取ってもらう理由も半ば許婚のような、とりあえずその家の息子の嫁として娶わせるためのものであった。
 嫁と言ってもその息子もゆうと同い年である。さすがに四歳と四歳とで結婚させるわけにもいかず、ゆうはその家の子供として、兄と妹のように育てられることとなった。あるいは、姉と弟のように。
 ……今思い返しても、あの人を男として意識した瞬間はほとんどなかった。まったくなかったというと、それは嘘になるのだが。それでもどういう関係であったのかと問われたのならば、やはり兄妹であったとか言った方がしっくりとくる。きっと、あの人だってそういうものだったのだろうと、彼女は言う。
 幼い頃は、いずれ嫁になる嫁になると言い聞かせられながら育っていたので、それなりにそのように振舞おうと意識していたような気がするが、所詮は幼女のことである。
 やがて彼女は剣術を学ぶことになったが、それもその兄ではない兄のせいだった。
「お前は巴御前になれ」
 だとするのならば、あの人は義仲にでもなるつもりだったのかもしれない。
 軍記ものでも読んでいたのだろうな、と今思い返せばそんな気がする。
 自分は意味も解らず「わかった」と無邪気に答えたものだった。確かあの時は、十歳だった。
 勿論、今の自分ならば巴御前になれといわれてそれを真に受けるということはしない。
 木曾義仲がどういう最期を迎えたのかも知っているし、巴御前が夫の死後も生き延びただなんてことは、あまりにも暗示的であったと思う。
 そう。
 あの人はそして祝言を挙げようという歳になって、死んだ。
 さすがに木曾義仲のように、矢に当てられて死んだというのではなかったが。
 流行り病であった。
 剣の他にも弓馬の修練も積んでいたが、その成果も病魔の前では些細な差でしかなかったようだった。
 家中の三分の二がかかり、その内の半分が死んだ。その中に、ゆうの兄であり、弟のような、婚約者が入っていたということだった。
 家は親戚から養子をとってそれでなんとか存続はできたのだが、その親戚が問題だった。
 人格とか能力とかの問題ではない。ゆうよりも五つ年上のその男は、元の家から独立して嫁を迎えていたのである。次男坊であったのだが、何やらさまざまな経緯があったらしい。
 ゆうはその経緯についても伝え聞いてはいるが、その詳細はここではあまり関係ない。とにかく家の新しい当主となった男には嫁がいて、当主の許婚となるべく育てられたゆうの立場が浮いてしまったということが問題だった。
 この時代の女性の立場というのは、ほとんど家に男をつなぎとめておく重石のようなものであり、子供を生むためだけの存在であったと考えても過言ではない。
 ゆうに選択肢はなかった。あること、できる道は当主と迎えられた男の側室となることだけである。それほど大きな家ではなかったので、側室というよりも妾といったほうがより正確だったろうが、家格だけは古かったので、家中では側室だの正室だのという言葉がまだ残っていた。
 そのはずだった。
 幸いなのか不幸なのか、新しい当主の正室は随分と嫉妬深い人であった。そのために当主はゆうの元に訪れることはできず、数年のうちに二人、正室との間に息子が生まれた。正室は万全の地位を築いた。
 ゆうは家の中での立場をほとんど完全に失ってしまっていた。
 さすがに家に迎えられて十年を超えていると、追い出すにも情がおいつかず、宙ぶらりんな立場のままでゆうは捨て置かれた。
 寝食はどうにか面倒は見てくれるが、いつか家からでていかねばならないという空気の中で、ゆうは数年を過ごした。
 彼女が剣術に没頭したのは、そのせいであっただろう。
 幼い頃に家中の老人から学んだのは、野太刀の術であった。野太刀流といって薩摩の方で伝わっていた剣術であったと老人は言っていたが、本当かどうかは解らない。
 剣のほかにも何やらいっていたが、幼かったのでほとんど忘れてしまった。後から考えるといくつかの流派の技を寄せ集めた風でもある。それについては聞き直そうにも老人は教わって数年で亡くなってしまったので、その真相はもう解らない。
 だから、ゆうはほとんど我流で鍛錬することとなった。
 いかに家中で孤立していようと、気晴らしに剣を振るという程度のことは許された。むしろ、鬱屈とした彼女の環境は誰もが理解していた。当主たち夫婦ですらも、ゆうの立場には同情していた。あるいは親戚とは言っても新参のような自分たちが、まだ家に馴染んでいないと自覚して配慮していたのかもしれない。
 そんな日々の中、弟の出奔を聞くことになったのだが――

「叔父上の仇討ちを狙っていたのだと……そういうことはみな見当がついておりました」
「とめるためにこられたのですか」
 伊織にそう聞かれ、ゆうは悲しそうに首を振った。
「岩流では……津田家の者でさえも、小次郎がどうなろうと知ったことではない、という雰囲気になっていたようです」
 小次郎の振る舞いは常軌を逸していた。それは間違いない。何十年も前に死んだ叔父の仇を討とうなどと騒ぎ出しては仕方ないのだが、間の悪いことにそれでも小次郎を諌めていたさちが亡くなったのだ。たまたまの病であったが、周囲の者は小次郎を説き伏せるのに疲れたのだと思った。
 そして、当の小次郎も。
「津田家は、小次郎のいなくなった後で親族から養子を得ました。小次郎は――」
 いなかったことにされた。
「私と同じように――」
 伊織は目を閉じた。
 ゆうが涙を流しているその姿は、きっと誰にもみられたくないに違いない……そう思ったからである。
 
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