奇説二天記

奇水

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七ノ段 伊織、忠政公に次第を語り、立ち合うことを求められる事。

(三)

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 それから三日たった。

 ゆうは宮本家への道をいつも通りに歩いていた。
 いつも通り――もうこの町に来て随分とたつような気がしているが、数えればまだ半月とたっていない。
 それでも重ねた日時は無駄ではないし、意味があるものだと彼女に思えた。自分の鍛えてきた剣の腕をあの新免武蔵を相手に試せているということは、世の兵法者にとってうらやむべき状況であろうということは解っていた。
 事実、昨日まではこの道を歩く彼女の足取りは、どこか浮かれていた。
 敵討ちという名目での通う道であったが、彼女は決して自分が返り討ちに合うことはないということは知っていた。
 全力で挑んでも軽くいなされる。こちらがどれほどの奇策に打って出ようと、あえなく封じられる。
 こちらの打ち込みは決して届かず、相手の打ちは必ず寸前で止まる。
 相手が天下無双の兵法者である新免武蔵ということは、万が一にも手違いによって死ぬことはないということだった。
 そして命の保障がある決闘というのは、ほとんど稽古のようなものだった。
 ここ数日で、彼女は自分の腕が幾分か上がったということを自覚できていた。
 とはいえ。
「…………まだ、小次郎には届いてないか……」
 そう呟いたのは、ちょうど数日前、小次郎と初めて出会ったところにさしかかった時だった。
 時間は幾分か今が早いのだが。
 野太刀を抱えたままに、ゆうは立ち止まった。
 そして。

 風が吹いた。
 
 彼女の背中へと吹き付ける、何処か冷たい風だった。秋の風であるにしても、
 静かに振り向いたゆうの視線の先、五間(九メートル)ほど離れた路上で佇む少年がいた。
 小次郎――津田小次郎である。
 岩流・多田市郎の甥であり、彼女と父を違えた同腹の弟。
 にもかかわらず、仇を見る目で自分の姉であるはずの人間を小次郎は見ていた。
「……何か御用ですか?」
 その眼差しを受けてなお、ゆうは表情を変えていなかった。それは昨日の再現であるかのようだった。
 小次郎はゆうに問いかけられ、「ふん」と鼻で笑った。
「御用ですか、ときたか」
「何もないのでしたら、このままに」
 あっさりと背中を向けようとするゆう。さすがに慌てて「待て」と鋭く言葉を投げかけた。
「用事はある」
「そうですか」
 振り向きかけた途中の、半身を向けた体勢でゆうは止まった。
 野太刀は左手に握られ、右手はその柄にかけられている。
 小次郎はすっと目を細めた。
「今日は、立ち合うつもりはない」
 そういった。
 なのに、ゆうは柄へとかけた手を握りしめた。
「信じられると?」
「信じられないか」
「つい四日前のことをお忘れで?」
 それを言われると言い訳はしにくいらしい。小次郎は顔をしかめた。もう少し年がいったのならば柳に風と受け流せることだろうが、まだ若い。剣術を修行して決闘を繰り返していても、まだ元服前の若衆であるには変わらないようだ。 
 ゆうの前で、小次郎は何を言おうとしているのか迷っているように見えた。
 殺気も感じられない。敵意すらもあるようではない。ただ単純に戸惑っているようだった。
 やがて意を決したかのように。

「あんたは、武蔵を仇と狙っているのか?」

 と、何かとんでもないことを聞かれたような気がしたが、ゆうは「ああ……」と何か得心いったように頷く。
「そういう名目で通っているのでした」
「名目――」
「はい」
 ゆうは軽く言った。
「小笠原忠政様の近習のお屋敷です。何処の誰とも知れぬ娘が訪ねて門戸を開いてくれるはずもないでしょう」
「なるほど……」
 小次郎は、こちらも得心がいったという風に笑った。嘲笑に似ていた。
「先晩、聞いたのでな。宮本家に仇と狙って通っている娘がいると。あんたがそうしているという意図を図りかねていたが、そういうことか」
「もしや、私もあなたと同じ目的できていると思っていたのですか?」
 こちらも皮肉な口調であったが、「まさか!」と小次郎は今度は叫ぶ。
「それは決してありえないということは、解っていた。父上から聞いていたのだ。俺には姉がいて、それは……」
「それは?」
「…………最初聞いても信じられなかったが、やはり、正しかったのだろうな」
 哂う顔は、次第に昏くなっていった。
 やり切れぬ思いを抱いた顔だった。
 どうしようもない暗澹たるものを抱えた者の顔だった。
 若者に似つかわしくなく、しかし一人前の男ならばそれを決して表にださずに努めただろう――そんな顔だった。
「俺を、止めにきたのか」
 出した言葉には、問いかける成分は含まれていない。
 それは確認ですらもなかった。
 ただ単に、口から思わずと出ただけであった。
 ゆうは、どうしてかその時、素直に答えられないように口ごもった。
 ここで誤魔化す必要などなかったし、そんなつもりもなかったのに、何故か用意していたその言葉をそのまま吐き出すことが躊躇われた。ありえないはずの罪悪感のようなものが、彼女の口を重くしていた。
 それでも。
「はい」
 決意と共に、静かに言った。
「そうか」
 返った声もまた、静かだった。
「一応聞いておくが、俺の腕前は伯父貴に聞いていただろう?」
「はい」
「それなのに、とめられると思っていたのか? それとも最初から武蔵に告げただけですませるつもりだったのか?」
 今度こそ、ゆうはその言葉にとっさに答えられずに口ごもった。
 自分の手で止められるかも――という思いがあったのは確かだった。しかしそれは、毎日武蔵に負けていくうちに、武蔵と毎日接している内に磨耗してしまったのは確かだった。
 そして先日の邂逅に際して、自分がやはり小次郎に及ばぬということははっきりと自覚できた時、それはまったくの迷妄であると切り捨てることができた。それをそのまま言うことは、嫌だった。悔しかったといってもよかった。
 それでも。
「できぬできないなど、どうでもよいでしょう――」
 搾り出すように、ゆうは答える。
「やらねばならぬことなら、やる他はありません」
「はっ」
 若者らしく、傲慢で相手を小ばかにしたような笑顔を小次郎は浮かべた。自分の無謀を棚に置いて、できもしないことに挑む無謀を嘲笑っていた。
「さて、どうしようか。昨日の今日だ。聞くだけ聞いたらまた後日にしようかと思っていたが、気が変わりそうだ」
「子供は気まぐれですから、苦労します」
「ぬかせ」
 二人の間の空気が強張っていく。
 小次郎はゆっくりと背中の野太刀に手をかけた。
「最初に言っておく。太刀筋は昨日で見切った。邪魔が入らねば、あと五合と打ち合わぬ内に終わっていたぞ」
 その言葉が真実であるということはゆうにも解っていた。自身が小次郎に及ばぬということはあの数合で理解できている。
 恐らくその差は毛一筋程度。
 だが、それは致命的なものでもあった。
 その僅かな境地の違いを磨くためだけに、あと一年では足りない鍛錬がいる。
 そして自分がそこに至れた頃には、小次郎はより高みに達しているだろう。天稟というよりも、覚悟の差のようなものがあるように思えた。
 しかし。
 ゆうは目を閉じ、開いた。
 覚悟は決めた。
 小次郎も眦を細める。
「……そうか」
 柄にかけた手に力が篭った。
 これから一旦抜かれたのならば到底血をみずにはおられまい。この場の空気がそのようなものとなっていた。抗い難き不可視の流れが、彼を、そして彼女を突き動かしているようだった。
 二人の間の距離はゆっくりと狭まっていった。
 ゆうは右前の体勢から継ぎ足に距離を詰め、小次郎は左右に一歩一歩と慎重に進めた。
 まだ遠い。
 一足一刀の間合いに到達した時、二人は弾かれたように動き出すだろう。相手の命を奪うまでとまらないだろう。この世にあって鬼となるだろう。
 しかし、鉄の如き運命は、次の瞬間に打ち曲げられた。

「やめておけ」

 声がかかったのだ。
 二人は、その声ではなく、むしろその後に続いたじゃりっと地を踏む音に反応して互いに飛び退いた。
 ゆうはすぐさま振り向き、そこにいつの間にか立っていた男の姿を見た。
「武蔵さま――」
「うん」
 新免武蔵守藤原玄信――武蔵だった。
 白い着物に赤い小袖という、ざっくばらんな姿だ。手にあるのは五尺ほどの木の棒。すでにゆうには見慣れた姿だ。棒を持たない右手で薄い顎鬚を撫でていた。
「……貴様が、武蔵か」
 小次郎の目が危険な色を帯びた。鋭く、烈しく、武蔵へと眼差しは向けられた。
「うむ」
 鷹揚に武蔵はそう答えると、無造作な足取りで二人へと歩み寄る。
 二人の剣士が立ち合う場所は即ち死地である。
 いつどちらかが剣を抜くかもしれない。
 切りかかるかもしれない。
 それを思うとほとんどの人間は足が竦む。
 それなのに、武蔵は気にしている風ではなかった。そこが散歩道の途中であるかのように、進んでいく。
 ゆうはさすがに武蔵へと道を譲り、小次郎は意を決したように野太刀を抜いた。
「やめておけ」
 武蔵は、もう一度言った。
 それからようやく立ち止まり。
「天下の往来で、そんなものを抜くな」
「何を――、」
 脇構えに野太刀を構えた小次郎が微かに重心を前に傾けた時、目の前に棒の先端が現れていた。魔法のようだった。武蔵が軽く棒を突き出していたのだ。
 小次郎の額に汗の珠が浮かんだ。
 そこから下がるでもなく進むでもなく立ち尽くしてしまったのは、武蔵の目を見たからだった。
 二重の深い眼差しの奥、琥珀色にも見える瞳は、得体の知れぬ魔力をもっているかのようだ。手も足も、瞼でさえも動かせない。眼力が不可視の枷となって小次郎を縛り付けているようだった。
 ふいと、全身に絡みついているかの如きそれが解けた。
 突き出していた棒を、武蔵は下げたのだ。
「よい筋だ」
 と武蔵は告げた。
「その年で、それだけの腕前とはなかなかのもの。あと五年精進すれば、多田岩流にも勝るだろう」
「――――貴様がッ」
 小次郎は叫んだ。
「貴様がいうな! 貴様こそが岩流を卑怯な騙し討ちで殺したのだろうが!」
「ふむ」
 武蔵は思案顔をして、小次郎とゆうの顔を交互に見た。
 それから。

「そういう話になっているのか」

 ゆうが場の空気にもかかわらず呆れた顔をしたのは、そのことはすでに武蔵に告げていたからである。
 もしかしてこの人は聞いていなかったのだろうか、と思った。思ってから違うとすぐ解った。この人は挑発しているのだ。
 果たして武蔵の思惑に乗ってしまったらしい小次郎が、「誤魔化すつもりか」とうなるような声を上げた。
 辻斬りだの決闘まがいのことをして蓄えた胆力であるが、やはり若い。相手の言葉に容易に踊らされてしまう。今まで彼が多くの場合に勝利できたのも、彼の方から一方的に唐突に仕掛けたというのも大きい。
「すぐる慶長十四年に下関沖の船島に呼び出した貴様が、我が伯父である多田市郎を卑怯にも仲間を呼んで囲い込んで騙し討ちにしたのであろうがッ」
 そうだ。
 真相は誰も見ていない。だから、そのような風説が生まれたのだ。
 多田市郎という剣客はそれほど地元では知られた名人だったのだ。
 一対一で打ち倒すなど到底できることではないと思われるほど。そも決闘だの試合だのは自分の名を売るためにするものである。それを誰もみていないような小島で行おうというのがおかしい。何か思惑があってそうしたに違いない。多くの人間がそう思った。そのようなことから、武蔵は岩流を卑怯にも騙し討ちしたという話が地元では大勢を占めていた。
 武蔵は首を傾げる。
「わしが以前に聞いた話だと、武蔵は渡し守の船頭に変装して、後ろから騙し討ちにしたという話であったがな」
「……………ッ」
 小次郎は前に出ようとしたが、武蔵は今度は棒を出したりはしなかった。
 ただ。

「だいたい、舟島に呼び出したのは岩流の方だ」

 と告げた。
 小次郎が止まったのは、武蔵の言葉が嘘ではないと看做したからではない。あまりに畳み掛けられた言葉に逆上した頭を冷やすため、大きく息を吸って、吐いたからだ。若いが、ただ若いだけではなかった。
「まだ誤魔化すつもりか」
 と言いながら、野太刀を担いだ。
 武蔵は首を振る。
「誤魔化すつもりは毛頭ないが――」
 とぼやくように言って、武蔵は傍らに控えていたゆうの背中をぽんと叩いた。
 そして背中を向ける。
「今言っても、信じまい」
「誤魔化すなと……ッ」
 小次郎の言葉が途中で途切れたのは、前に出たその瞬間に額に当たる衝撃のせいだった。
 またしても、いつの間にか突き出された棒が、額を打ったのだ。より正確には突き出された棒に小次郎から突っ込んでいったようなものだ。
 さすがに血がでることはないが、赤くなった額を押さえ、小次郎は飛びのいた。
 武蔵は「ふん」とその様子を見ていたが。
 やがて。
「小笠原家では、貴様を探しておる」
 と告げた。
「そんなことは……」
 解っている、と小次郎は言おうとしたのだろうが、武蔵はさらに続けた。
「貴様の事情は、たいがい知れておる。それで、伊織に相手をさせることになった」
「それは――?」
 小次郎とても、地侍の子でありながらも名門小笠原家の近習として仕えるようになったという俊英の名前は知っていた。武蔵の養子であるとはいいながら、特に剣を嗜んでもいうことも。
「家中のいざこざに巻き込まれた形だが、まあ、面白い」
「……………」
 武蔵の背中の向こうで、ゆうの顔が歪んだ。何か聞き捨てならない言葉を聴いたようだった。

「貴様が伊織と試合した後で、ちゃんと相手をしてやろう」

 それは、いかなる意味があるのか。
 小次郎はしばらく考えていたが、「いいだろう」と返した。
「この手で貴様の家を断絶させるのも面白い。宮本伊織に打ち勝った後、小笠原候の御前で貴様を討ち果たし、天下に岩流の名を知らしめてくれる」
 その言葉を最後まで聞いてから、武蔵は背中を向けた。
 哄笑が夕暮れの中に響き渡り、やがて闇の中に溶けていく。
 ゆうは離れ行く背中と弟を交互に見ていたが、いつしか二人の姿が見えなくなると、途方にくれたようにため息を吐いた。
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