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七ノ段 伊織、忠政公に次第を語り、立ち合うことを求められる事。
(一)
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いつもより大分と遅くなったゆうの来宅であったが、今日は彼女は武蔵に挑んだりはしなかった。
誰がどう見ても解るほどの憔悴が彼女の顔に浮かんでいる。
屋敷に上がる前に、言われるままに野太刀を堀部に預けた。
今までは手放すことはほとんどなく、食事の時にさえすぐ傍においていたものであるが、今晩はなんの抵抗もなくそれを渡し、ゆうは伊織の部屋へと通された。
蝋燭一本で照らされた部屋の中にいるのは、伊織とゆうだけだったが。
そんなことなどは、もはや宮本家の誰にとっても意味はないようだった。
たつぞうも、堀部でさえもそのことにはさして反対せず、襖の向こうに控えているに留めている。
伊織とゆうは、しかし沈黙する。
何をどういいだしていいのか、二人とも解らなくなっていたようだった。
だが。
「――事情を、聞かせてください」
静かに、感情を押さえ込んだ声で、伊織は言った。
ゆうも瞼を閉じてから、頷く。
「今から、二十年ほど前に、下関に多田市郎という人がいました。この人は元々は周防の国の住人で、兄の多田善右衛門に岩流剣術を学び、悉く習得していたということです」
「岩流――」
ゆうは「はい」と答える。
「本来、岩流とは多田善右衛門が伊藤左近先生より学んだ流派でした」
「すまぬが、聞いたことがない」
伊織は兵法には疎いということもあるが、やはりそれほど知られていない流派ではないかと思えた。
ゆうは苦笑する。困った言葉を聞かされた姉のような顔をした。
「そうでもないですが――いずれ、そのあたりの事情通でも、多田市郎のことは知らないでしょうね。彼は兄と違い、正式な門人ではなかったそうです。本当は破門されたともいいますが……」
しかし時の岩流の遣い手の誰よりも使う人だったという。
彼はいつしか自ら岩流と号するようになっていた。
破門された腹いせのつもりで、あったかもしれない。
「そのことで、市郎はやがて周防に居辛くなったようです。生来から奇特な性格をしていたということもありますが、岩流を名乗るようになってからは門人の誰とも関わらぬようになっていたと言います。それで郷里を出奔し、長門で誰に仕えることもなく生活をしていたのですが――ある時、貴方のお父上である新免藤原武蔵守玄信に殺されました」
そこで伊織は眉をひそめた。
「殺された、というと……勝負をしたわけではないと先日にゆう殿は申されていたが、一体何があったのかはご存知ないのか?」
ゆうは首を振った。
「もとより、何が起きたのかということは私は知りませぬ。――地元の人間も誰一人として知らないことのようでした。何故舟島などに二人がいくことになったのか……そのせいか、母から話を聞いたという伯父も、あれは仕合ではなかったとのだと」
「母御と伯父が?」
ゆうの母御というと、確か今日聞いた。さち、という名前の、甘いものが好きだった人――だったと。
(いや、待て、多田市郎の縁者で、それでゆう殿の母御で――父上の知人で――)
何か、伊織の脳裏で一つの絵図が完成されつつあった。それを今ここで確認することは憚られたが。
唇を硬く閉ざし、伊織は腹の底からの溜息をうなるように鼻孔から出した。
「どうにも――貴女の素性がよく解らない。その母御は、多田市郎とどういう関係にあるのか?」
伊織が遂に問うと、ゆうは静かに目を伏せてから。
「申し遅れました。私の母は多田市郎の妹、さち。市郎は私の叔父に当たります。母より話を聞いたという伯父は、多田善右衛門にございます」
「……血族ということなのか」
「ええ」
にしても、仇と狙ってくるにはやや関係は遠い気がする。それに、あの津田小次郎という若者との関係はどうなっているのか。
それを言うと、ゆうは溜め息を吐く。
「順を追ってお話します。――私が生まれたのは多田岩流の死後のことですから、勿論、生前の市郎叔父のことなどは話しにしか聞きません。それに、私は故あって五つの頃に養女に出されたのです」
養女に出された理由はいわず、ゆうは自分のことから、親族のことを語った。
「母は私を養女に出してから、伯父上の門弟の方に嫁入りしました。その家が津田――そして、生まれたのが津田小次郎……です」
「それは」
「はい。津田小次郎とは、私の父の違う、同腹の弟に当たります。今まで、一度も会うことはありませんでしたが。伯父上が語るところによると、剣の腕は相当なもので、生前の市郎叔父とよく似ている――と」
生涯、多分、顔をあわせることはないだろうとゆうは思っていた。
下関にまで自分が行くこともなければ、弟が自分に会いに来るということもない。そもそも、向こうはこちらのことは知らないのだ。
事態が急変したのは、つい一年ほど前のことであるという。
「歌が――」
伝わったのだという。
新免武蔵は天下無双
六十余たびと戦えど
一度も負けたことはなし
その業殿様褒められて
いかになしてその強さ
聞かれて武蔵が答えるに
我が強いとさにあらず
相手がみんな弱いだけ
「それは……」
先日、清川から伝えられた歌であり。
ゆうの口からも洩れ聞こえた言葉であった。
「試合の勝ち負けに関して、負けた方がとやかくいう権利などは本来ないのでしょう。倒された方とても仕返しなどはするべくではないのでしょう。しかし――」
負けたのは弱かったからだ、というのは納得のいく話ではなかった。
皆が皆、そうではないだろうが、試合を挑まれるなり挑むものは、みなそれなりの自負があってそうしたのだ。
兵法の未熟で倒されたといえばそれまでだが、それでも――
「勝った側にも、負けた方を侮辱していいとは」
許されることではない、と小次郎は思ったらしい。
最初にその歌をきいて、随分と小次郎と憤った。
自分によく似ているという叔父のことを尊敬していたのかどうかは解らないが、それなりに意識していたらしい。その叔父を倒したという武蔵に対しても、いつか挑みたいとはよく口にしていたそうだ。
それらはいずれくるかもしれない「いつか」のことであって、今すぐのことではない。みな、そう思っていた。
それが。
「しかし――、」
「ええ、解っています。歌を武蔵様が広めただとかそういうことは誰も思っていません。ただ、この歌のように弱いと思われてしまった叔父上を不憫に思ったのです」
小次郎はそれでもすぐには出て行くということはしなかった。
悩みもした。
世話をしてくれていた伯父に相談しもした。
その時にゆうという姉のことも知ったらしい。らしいというのはゆうも詳細は知らないからで、伯父は直後に心労があって亡くなってしまったのだ。
直前に出した手紙がゆうの元に届き、彼女はそれで小次郎が出奔したことを知って、そして追うことを決意したのだという。
「幸いというか、私はたまたま、野太刀の使い方を心得ていたので」
「たまたま、ですか」
「たまたまです。近所に住んでいた老人に習ったものですが、流派などは聞いてません。それなりの自信はあったのですが、武蔵様には到底及ばず、小次郎の――弟にも、今一歩届いてないかと」
そこから、長い沈黙が続いた。
ただ、蝋燭は残っていたのだから、長いと感じただけでそれほどの時間は過ぎていなかったかもしれない。
「――――」
「いかがいたします?」
そう聞いたゆうは、今まで見せたことがない、心細げな顔色をしている。
伊織はしばし悩んだ後に、首を振る。
「何処の誰であろうとも、城下を騒がせているとなると最早、捨て置くわけにはいかん。前髪だろうと――いや、前髪ならばなおのこと」
「……そうですか」
「明朝報告する……が、その前に父上に相談しようと思う。父上ならば、あるいは――」
何かいい答えを出してくれるかもしれない。
伊織は、自分でもあまり信じていないことを口にした。
誰がどう見ても解るほどの憔悴が彼女の顔に浮かんでいる。
屋敷に上がる前に、言われるままに野太刀を堀部に預けた。
今までは手放すことはほとんどなく、食事の時にさえすぐ傍においていたものであるが、今晩はなんの抵抗もなくそれを渡し、ゆうは伊織の部屋へと通された。
蝋燭一本で照らされた部屋の中にいるのは、伊織とゆうだけだったが。
そんなことなどは、もはや宮本家の誰にとっても意味はないようだった。
たつぞうも、堀部でさえもそのことにはさして反対せず、襖の向こうに控えているに留めている。
伊織とゆうは、しかし沈黙する。
何をどういいだしていいのか、二人とも解らなくなっていたようだった。
だが。
「――事情を、聞かせてください」
静かに、感情を押さえ込んだ声で、伊織は言った。
ゆうも瞼を閉じてから、頷く。
「今から、二十年ほど前に、下関に多田市郎という人がいました。この人は元々は周防の国の住人で、兄の多田善右衛門に岩流剣術を学び、悉く習得していたということです」
「岩流――」
ゆうは「はい」と答える。
「本来、岩流とは多田善右衛門が伊藤左近先生より学んだ流派でした」
「すまぬが、聞いたことがない」
伊織は兵法には疎いということもあるが、やはりそれほど知られていない流派ではないかと思えた。
ゆうは苦笑する。困った言葉を聞かされた姉のような顔をした。
「そうでもないですが――いずれ、そのあたりの事情通でも、多田市郎のことは知らないでしょうね。彼は兄と違い、正式な門人ではなかったそうです。本当は破門されたともいいますが……」
しかし時の岩流の遣い手の誰よりも使う人だったという。
彼はいつしか自ら岩流と号するようになっていた。
破門された腹いせのつもりで、あったかもしれない。
「そのことで、市郎はやがて周防に居辛くなったようです。生来から奇特な性格をしていたということもありますが、岩流を名乗るようになってからは門人の誰とも関わらぬようになっていたと言います。それで郷里を出奔し、長門で誰に仕えることもなく生活をしていたのですが――ある時、貴方のお父上である新免藤原武蔵守玄信に殺されました」
そこで伊織は眉をひそめた。
「殺された、というと……勝負をしたわけではないと先日にゆう殿は申されていたが、一体何があったのかはご存知ないのか?」
ゆうは首を振った。
「もとより、何が起きたのかということは私は知りませぬ。――地元の人間も誰一人として知らないことのようでした。何故舟島などに二人がいくことになったのか……そのせいか、母から話を聞いたという伯父も、あれは仕合ではなかったとのだと」
「母御と伯父が?」
ゆうの母御というと、確か今日聞いた。さち、という名前の、甘いものが好きだった人――だったと。
(いや、待て、多田市郎の縁者で、それでゆう殿の母御で――父上の知人で――)
何か、伊織の脳裏で一つの絵図が完成されつつあった。それを今ここで確認することは憚られたが。
唇を硬く閉ざし、伊織は腹の底からの溜息をうなるように鼻孔から出した。
「どうにも――貴女の素性がよく解らない。その母御は、多田市郎とどういう関係にあるのか?」
伊織が遂に問うと、ゆうは静かに目を伏せてから。
「申し遅れました。私の母は多田市郎の妹、さち。市郎は私の叔父に当たります。母より話を聞いたという伯父は、多田善右衛門にございます」
「……血族ということなのか」
「ええ」
にしても、仇と狙ってくるにはやや関係は遠い気がする。それに、あの津田小次郎という若者との関係はどうなっているのか。
それを言うと、ゆうは溜め息を吐く。
「順を追ってお話します。――私が生まれたのは多田岩流の死後のことですから、勿論、生前の市郎叔父のことなどは話しにしか聞きません。それに、私は故あって五つの頃に養女に出されたのです」
養女に出された理由はいわず、ゆうは自分のことから、親族のことを語った。
「母は私を養女に出してから、伯父上の門弟の方に嫁入りしました。その家が津田――そして、生まれたのが津田小次郎……です」
「それは」
「はい。津田小次郎とは、私の父の違う、同腹の弟に当たります。今まで、一度も会うことはありませんでしたが。伯父上が語るところによると、剣の腕は相当なもので、生前の市郎叔父とよく似ている――と」
生涯、多分、顔をあわせることはないだろうとゆうは思っていた。
下関にまで自分が行くこともなければ、弟が自分に会いに来るということもない。そもそも、向こうはこちらのことは知らないのだ。
事態が急変したのは、つい一年ほど前のことであるという。
「歌が――」
伝わったのだという。
新免武蔵は天下無双
六十余たびと戦えど
一度も負けたことはなし
その業殿様褒められて
いかになしてその強さ
聞かれて武蔵が答えるに
我が強いとさにあらず
相手がみんな弱いだけ
「それは……」
先日、清川から伝えられた歌であり。
ゆうの口からも洩れ聞こえた言葉であった。
「試合の勝ち負けに関して、負けた方がとやかくいう権利などは本来ないのでしょう。倒された方とても仕返しなどはするべくではないのでしょう。しかし――」
負けたのは弱かったからだ、というのは納得のいく話ではなかった。
皆が皆、そうではないだろうが、試合を挑まれるなり挑むものは、みなそれなりの自負があってそうしたのだ。
兵法の未熟で倒されたといえばそれまでだが、それでも――
「勝った側にも、負けた方を侮辱していいとは」
許されることではない、と小次郎は思ったらしい。
最初にその歌をきいて、随分と小次郎と憤った。
自分によく似ているという叔父のことを尊敬していたのかどうかは解らないが、それなりに意識していたらしい。その叔父を倒したという武蔵に対しても、いつか挑みたいとはよく口にしていたそうだ。
それらはいずれくるかもしれない「いつか」のことであって、今すぐのことではない。みな、そう思っていた。
それが。
「しかし――、」
「ええ、解っています。歌を武蔵様が広めただとかそういうことは誰も思っていません。ただ、この歌のように弱いと思われてしまった叔父上を不憫に思ったのです」
小次郎はそれでもすぐには出て行くということはしなかった。
悩みもした。
世話をしてくれていた伯父に相談しもした。
その時にゆうという姉のことも知ったらしい。らしいというのはゆうも詳細は知らないからで、伯父は直後に心労があって亡くなってしまったのだ。
直前に出した手紙がゆうの元に届き、彼女はそれで小次郎が出奔したことを知って、そして追うことを決意したのだという。
「幸いというか、私はたまたま、野太刀の使い方を心得ていたので」
「たまたま、ですか」
「たまたまです。近所に住んでいた老人に習ったものですが、流派などは聞いてません。それなりの自信はあったのですが、武蔵様には到底及ばず、小次郎の――弟にも、今一歩届いてないかと」
そこから、長い沈黙が続いた。
ただ、蝋燭は残っていたのだから、長いと感じただけでそれほどの時間は過ぎていなかったかもしれない。
「――――」
「いかがいたします?」
そう聞いたゆうは、今まで見せたことがない、心細げな顔色をしている。
伊織はしばし悩んだ後に、首を振る。
「何処の誰であろうとも、城下を騒がせているとなると最早、捨て置くわけにはいかん。前髪だろうと――いや、前髪ならばなおのこと」
「……そうですか」
「明朝報告する……が、その前に父上に相談しようと思う。父上ならば、あるいは――」
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