秘剣・花隠し

奇水

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修行の日々

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「……兄さまの見立てが外れていたなんてね……」
 楓はふらふらとした足取りで道場から出る際に、そんなことを呟いていた。
 出歩く前に、道場に灯る明かりが視界を掠めている。
 きっと、今の自分のように喜一郎のことを想い、悔いているのだろうと思った。
(喜一郎さん……)
 夜の闇の中、おぼつかない足取りで、それでもなお彼女はなにかに足をとられることもなく、かつて喜一郎と共に歩いた路を進む。
(ああ、なんでこんなことに……)
 どうして、彼は殺されてしまったのか。
 どうして、自分たちは彼をもっと強くすることができなかったのか。
 どうして。
 どうして。

「……どうして、彼が剣を取ることになってしまったのか……」

 そうしたから自分と彼が会えたのだということは承知しながらも、彼女はそう思わずにはいられなかった。
 
 喜一郎が生きてさえいてくれたなら……


   ◆ ◆ ◆


「突き――ですか」
「うん」
 衛は簡潔に楓にそう応えると、新品の面堂篭手の防具一式を風呂敷の包みから出してみせた。
「これを使えと?」
 この手の防具は、天保年間に大石進が江戸にやってきて以降に広まったものであるが、この道場ではずっと導入されてなかった。
「先日に注文して、今日届いた」
「……これは、通常の防具ですね?」
 楓の後ろに控えるようにして座していた喜一郎は、訝るように眉をひそめた。
「うむ。突きの稽古をするには、こういう防具でないと危ないからな」
「うちでは導入してこなかったけども……なんで今更?」
 楓の言葉はもっともな質問だった。
 この道場は今は形の稽古くらいしかしていないが、天保の前には一応試合もしていた頃があった。その時でも袋撓と籠手、そしてもっと貧弱な面をつけてのもので、胴は使用していなかったと伝え聞く。
「うちがこれらの新式防具を入れなかった理由は、親父が大石を嫌っていたからだ」
「ああ……ちょくちょく、愚痴っていましたが」
「五尺の竹刀なんてな、実用のものではないって随分と嫌っていたからな。それも大兵の当人だけならまだしも、小兵の者まで真似しだしたってので、親父は嫌気がさして、うちではとうとう試合そのものまでしなくなっちまったが」
 かつて江戸を席巻した大石進の工夫は、大いなる衝撃を伴って剣術界を変容させていった。
 そしてそれは、防具の改良、突き胴の技の洗練という好ましいものだけではなく、むしろ大石の代名詞ともなる長尺の五尺竹刀によるものが大きかった。
「今はかの男谷様の定めたサンパチが主だが、天保、弘化の頃は身の丈に合わない六尺七尺の竹刀を振り回すバカが横行したって話でな」
 その様をして、今より後世に著された書であるが、『大日本剣道史』には「天下の撃剣、大石流に化す」とまで書かれているほどだったと伝わる。
「まあ、それは今はいいんだ。今重要なのは、そのことじゃない」
 ――秘剣破りだ。
 と、衛は告げた。
「大石流が世に出てから、ほとんどの流派がみな似たようなものになっちまったそうだ。中段に構えてからの面突き胴籠手ばかり。たまに上段下段はいるが、今や脇構えも霞も、ほとんど見ない」
 それは、突きと胴の技の導入によって、剣術という武術のシステムまでもが激変したこということだ。
 かつて突き技は、時に松浦静山が「死刀」と戒めたこともあるような、あまり好ましい技と思ってない流派もあった。かの千葉周作も両手突きに際しては捨て身の覚悟になるような注意を述べてもいる。
 だがそれは、修練方法が確立されてなかったがためであった。
 大石の工夫によって改良された防具は、この突きの危険性をかつてないほどに弱め、安全に鍛錬することを可能にした。
 その結果として、最短距離を最速で攻めてくる出小手、突き技が発達し、それに対処できる中段構えが推奨され、また胴技に備えられるように上段もあまりされなくなった。
「いくら有構無構って言っても、そんな具合で使える構えが少なくなれば、秘剣なんてのものは当然出番がなくなるのが道理だ」
 秘剣というからには隠された技であり、隠された技というからには、それは一見して奇異なる構えから出るもの――と、相場が決まっている。
「……そう決めつけるのも、危険だと思いますが」
「まあ、そうだ。そうだが、いずれどういう風な構えから出ようとも、最速で突きが決められることができれば、同じことだ」
 出鼻を挫いてしまえば、秘剣だの奥義だのは関係がない。
 そもそもからして、世に奥義だとか言われる技は、地味であることが多いものである。むしろ、出鼻を挫くための身法やら心法が重要となる。
 それらは撃剣が盛んになる内に、すっかり奥でも秘術でもなくなってしまった――というのが、衛の見解であった。
「つまり、突き技を極めてしまえば、どんな相手にも勝てる……という話ですか? 理屈ではありますが、しかし乱暴な……」
 楓はむしろ呆れたようにそう言ったが、衛は「乱暴なのは百も承知だ」とまで言う。
 そして。
 喜一郎に向き直り。
「そろそろ、燕飛、燕廻で身法も様になってきた頃だ。これからは俺たちが代わる代わるに相手する」
「――――」
「俺たちに面なり突きなり、なんでもいいから決められるようになれ」
「はい!」

 そうして、修行の段階は進んだわけであるが。

 衛の剣友であった美和坂は、喜一郎の才覚を随分と褒めていたが、それは将来を見込んでのものであり、さすがに天狗の化身とも言われるほどの使い手であった佐伯衛には、なかなか通じるものではなかった。
 それでも防具の稽古での二ヶ月目でどうにか十本に一本は引き分けられるようになり、その後も引き分けることが増えていった。
 衛は最初に小太刀の一刀であったが、続いて二刀、さらには薙刀、長巻も持ち出し、また太刀と多彩に武器を使用した。
「うちから――吉岡流から出た流派が相手だ。ならば、その全てを知っておけ」
 そして、その全てに突きを決めろ。
 楓は、その時の衛の言葉を無茶だと思ったものである。
 小太刀や二刀はともかくとして、長巻などに簡単に剣術が通じるはずもない。
 もっといえば、竹刀での撃剣ならばともかく、真剣勝負では突き技などはそう簡単に決められるものでもない。
 それは楓には解っていた。兄も承知していることのはずだ。
(兄様は、その上で、あえて突き技を決められるようになれと言っているんだ)
 確かに、最速の技を最短距離で決めることができれば、どんな相手にも勝てるというのが道理だ。
(剣の理は、突き詰めれば、先を取ることの一事となる)
 必勝の技、不敗の術、無敵の法――そのようなものはない。
 ないが、もしも相手に必ず先手を取ることができるのならば、それは無敵とは言えずとも、不敗と至れずとも、必勝足り得る。
 剣とは先に当てることができれば、相手に勝つことになるからだ。
 故に、古くより多くの剣士はその先を取ることを磨いた。
 身法を磨き、拍子を練り、間合いの妙を得ようとして、様々な工夫と鍛錬を繰り返し、ようやく一人前の剣士となる。
(上手くいけば、喜一郎様は、数年で免許の腕前となる……)
 それは、そう遠くもないように思われた。
 喜一郎はひたむきに、一心不乱に稽古を続けた。
 一年で楓から太刀同士では三本に二本とれるようになっていた。
 
「――お見事です」

 そう言った時の彼女の顔は上気していた。
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