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秘剣破れず
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「だいたい、なんだよ、秘剣ってな……」
思わず漏れた溜め息に、行灯の光りが揺らめいた。
秘剣、奥義、神業……世にはそのような言葉がある。主に講談やら戯作本の類にでる――使えば必勝し、あるいは不敗となるというような、知られざる妙技をそのように言う。
(そんなものが、あるものかね)
門外不出として隠された剣理はある。
流儀の深奥を得た者にしか使えない奥義の太刀もある。
到底、人の手には真似できないように思える精妙の技もある。
だが、それは決して不敗を約束するものではないし、そもそもからして、今の時代にそのようなものがあるとも思えない。
(いや、かつてはあった……かの大石がくる前は……)
天保、九州より訪れた巨漢の大剣豪・大石進。
五尺の長竹刀と改良防具を携えて江戸にやってきて、大旋風を起こしたと言う。その騒動は嘉永の頃の黒船などよりも凄まじかったと、勝海舟は述べている。
さすがに天保の頃の話は衛も伝え聞くのみであるが、大石がくる前と以降とでは、剣術の世界はまったく様相を変えてしまったのだとは、若い頃によく聞いたものだ。
槍術より取り入れたとされる突きを始めとして、胴打ちの技をも使い、江戸剣術界の名師たちを打倒した大石の剣技は、それほどの衝撃があったのである。
大石以降の剣術流派は、ほとんどが中段に構えるようになり、かつてのような脇構えや霞と言われるような構えもとられなくなっていったと古老は伝える。
「そういえば、紫電流がうちから分かれたのも、天保の頃であったというが……」
何か関係があるのだろうか。
そんなことを思ったが、特に何か思い浮かぶようなこともなかった。
ただ、喜一郎に授けた秘剣破りの策が通じなかった――ということが、衛には衝撃だった。
◆ ◆ ◆
紫電流、北尾重兵衛――
聞いたことはあるか、という程度にしか衛も知らない。
六十余州の剣流の全てを知悉している、と自惚れていたわけではないが、衛のその方面についての見識は大したものがあった。
江戸に一時期住んでいた頃、下宿していた本屋で暇つぶしとばかりに手に入る本を読み込み、知り合う人にあれこれと話を聞いて回っていた。
それは道場で立ち合う剣客などにもお及び、後に彼はそれらの話をまとめて『神州奇瑞物語』や『剣法講談』としてまとめた。
これらは奇談や怪談が多く含まれてはいたが、その当時に彼が見聞できた範囲での武術についての詳細がかなり正確に、いっそ煩雑に過ぎるほどに書き込まれている。
さすがに現代の研究では誤謬は幾つもあるということが解っているが、それでもなお、知る人ぞ知る武術資料として、一級の価値を持って百年の後も燦然と輝き続けているのだった。
そんな著書をまとめた彼をして、紫電流というのはよく詳細の解らぬ流儀だった。
開祖は天保の頃、長嶋彦十郎と言う人物である。宮内家に代々お抱えの能楽師として仕えていた長嶋家の三代目の次男で、能の腕前も大したものであったらしいが、いつの頃からか剣術を学び、藩内で名人として知れ渡ることになっていたという。遂に一流を立て、紫電流を称した――
この長嶋が師事したのが衛の曽祖父である。
門人帳で確認したので、間違いない。
(しかし、それ以上のことがよく解らん……)
曽祖父の佐伯伊織という人物には、彼も会ったことはない。
祖父や父の語るところによれば、各地に武者修行に出て負けることがなかったという話であるが、真偽の程は解らない。
ただ近在に名人として知られて、多くの門人がいたとのことだった。うちの道場が一番栄えていた時期だったのかもしれない、とは、慶應の頃まで存命していた祖父の言である。
一番門人がいた頃の門下生だったので、当然、そこから新流を立てたという者も何人かいて、衛が直接知るだけで四人いる。
免許皆伝から家伝し、孫の代で立てたという者はまた別に何人かいたようで、それらを含むとどれだけの者が曽祖父の門下から出たか、解ったものではない。
紫電流の長嶋もその一人で、吉岡流「風流口伝」までも授けられた後、宮内家の伝わる幾つかの流派と交流し、紫電流を立てた……というのが、彼の道場に残っていた紫電流についての唯一と言ってもいい伝承である。
それ以上のことは、ほとんどない。
世間に伝わっている話と、あまり変わりがない。
そして風流口伝は、四代目憲法直綱が宮本武蔵との勝負から編み出した心法についての口訣で、当代の彼も一応は知っている。
それが今の剣術で通じるかどうかはさておいて、秘伝として最奥伝に位置づけられているだけあって、少なくとも当時はそれなりの腕前であると認められていたのは確かだ。
彼の道場で保存されている記録をひっくり返しても、長嶋についての資料というのはそれ以上の話は出てこない。
喜一郎が着てから元弟子たちから何から、色々と話を聞いて回っているのだが、彼の知ることと大同小異、さして目新しい話はでてこない。
ただ。
『長嶋は能役者の家であったので、その身法は巧妙で、一度御前にて演武をした際には、見事と褒められたことがある』
そういう話があった。
それを聞いた時の衛は。
「能楽から出た兵法か……」
と腕を組み、唸るような声をあげたものだ。
能と兵法の関わりは、深い。
元々、兵法者とは武芸者とも言った。つまりは芸者であり、武芸と能楽は戦国時代の武者からすれば似たような位置にあるものであった。
もっというのなら、武芸の方が歴史的に見て能楽よりも遅く成立している。同じく芸者であっても、武芸は権威も格式も能楽に劣っていたと考えて差し支えはない。
それ故にか、武芸のシステムや用語の多くは能楽のそれに拠った。
「間合い」「見切り」「拍子」……といった言葉は今日では武芸の用語として定着しているが、元々は能から得ているものだ。能がそれだけ武士の世界において定着していたからであるともとれるが、そこには武芸と能の身体操作技術としての共通性があったということも見逃せない。
兵法の名人として知られる柳生宗矩とその息子、柳生宗冬は能に没頭していた時期があったということはよく知られる。かの宮本武蔵も能を嗜んでいたのではないかという話もある。また逆に、能楽家ながら兵法を極めた金春七郎などという者もいた。
武士などは何万人といたのだから、その中で能楽を趣味と持つ者や能楽師そのものが兵法を学んだとしてもそうそう不思議でもないのだが、柳生だのなんだのという剣術史に名だたる者が能楽に没入していたという事実は、いかにも重要であるように思える。
衛も能楽家やらに知り合いがいないでもないし、弟子にその関係者がいたこともあるが、なるほど、その足捌きの精妙は熟達した兵法者のそれに劣らぬとも感じることは度々あった。
その能楽の出で兵法を極めた者がいたとして――果たして、いかなる術理を得ていたのか。
衛は想像してみるが、どうにもまとまらなかった。
紫電流の詳細が解らない理由の一つとして、長嶋彦十郎は流儀を掲げても道場は建てなかったということもある。
一子相伝の技として家で代々伝えていたというのも違う。長嶋彦十郎は生涯妻を娶らず、子もなさなかった。ただ、弟子だけは一人いた、らしい。それ以上の話はあまり伝わっていない。ただ、紫電流は家に伝わるというものでもなく、とにかく一人だけの弟子に相伝していたというのは確かなようだ。
恐らくは「これは」と見込んだ人間にのみ伝えていたのだろうが……。
(なんとも、面妖な流儀だな)
そのことによって、紫電流は半ば伝説化した。
流儀名のみが伝わり、その技法を知る者はいないのだ。そしてその伝承者とされる人物は常に重用されていたのだという。彼らは身ごなしからしても只者ではなく、試合や演武をすることすらほとんどすることもなかったが、それでも皆に名人として認知されていた。考えてみれば、それは奇妙な話ではあった。
試合をせずとも、その型、組太刀などを表演することによって技量のほどは解る。演武の類はそればかりに専念すると華法に流されてただの踊りと化すとは言われているが、それでもその身体技術のほどを見せるということには変わりない。
流派によっては見せ型と鍛錬型とが違うということもままあることであった。かくいう吉岡流も、そのようなものがある。勿論、演武が上手いというのと剣の実力がそのまま比例するということもないのだが、わりと昔の古流では、それで通じていたのも確かなのだ。
しかし、紫電流にはそれすらもなかったのである。
「代々、宗家が名人の風格を持っていた――にしても、妙な話だな」
隣国に伝わる流儀である。名前しか知らずとも、興味はあった。兵法者としては、隠された流儀などというものがあれば気になって仕方ない。ましてや、自流よりかつて出た派なのである。
別にどちらが強いとか弱いとかの問題ではなく、もしも立ち会うことがあるとしたら、その流儀に関する情報というのは重要になるからだった。敵を知り己を知れば百戦危うからず、というのは孫子の時代からの真実である。衛も若き日に少しだけあれこれと調べたことがあった。
(そうか。昔、美和坂に言ったんだったな。紫電流はうちから出た流派だと――)
そのことを覚えていたのか思い出したのか、こちらに遣したのはそのこともあるのは間違いない。
その後のことは教えなかったから、衛が紫電流について自分よりも詳しく知っていると思っていたとしても不思議ではなく。
(だとしたら、当てが外れたな)
衛の記憶によれば、調べていたのは確か慶応の頃であったか、もっと前だったかも知れない。御一新より以前のことではあったが、近頃は昔の記憶というのはとんと曖昧となっている。それでも、調べたこととその結果だけは覚えていた。
――結局は大方が徒労と終わり、最初に耳にした伝聞以上に解ったことは、ほとんどなかったのだ。
(解ったことと言えば、当代の使い手の名前が北尾重兵衛で、紫電流には花隠しなる技があるということくらい、か)
あるいは、もっと調べれば他に何か解ったかも知れない。
そうしなかった理由は、御一新の騒ぎでそれどころではなくなったからという、それだけのことでしかないが。
「しかし、世に漏れ聞こえる名前なのに、詳細が解らないなどということは、ありえるものなのか……」
衛はその後も何ヶ月となく、悩んだ。そしてどれだけ調べても流儀の詳細は明らかにならず、悩みが深まるのに反比例するかのように、喜一郎の技倆が上がっていくのが目に見えて解った。
もとより美和坂の元で心伝一貫流の基礎をつけられていたのだ。
半年で彼の妹にも伍するほどの腕前に達したのを見て、遂に衛は決意した。
(考えても仕方がないことは、考えないでいいのだ)
剣の勝負は、突き詰めればどちらが強いか弱いかだ。
秘剣など使わせるまでもなく、最速最高の技をもって仕掛けて、仕留めるのが最良である。
「突きを鍛える」
それが、衛の結論である秘剣破りの策であった。
思わず漏れた溜め息に、行灯の光りが揺らめいた。
秘剣、奥義、神業……世にはそのような言葉がある。主に講談やら戯作本の類にでる――使えば必勝し、あるいは不敗となるというような、知られざる妙技をそのように言う。
(そんなものが、あるものかね)
門外不出として隠された剣理はある。
流儀の深奥を得た者にしか使えない奥義の太刀もある。
到底、人の手には真似できないように思える精妙の技もある。
だが、それは決して不敗を約束するものではないし、そもそもからして、今の時代にそのようなものがあるとも思えない。
(いや、かつてはあった……かの大石がくる前は……)
天保、九州より訪れた巨漢の大剣豪・大石進。
五尺の長竹刀と改良防具を携えて江戸にやってきて、大旋風を起こしたと言う。その騒動は嘉永の頃の黒船などよりも凄まじかったと、勝海舟は述べている。
さすがに天保の頃の話は衛も伝え聞くのみであるが、大石がくる前と以降とでは、剣術の世界はまったく様相を変えてしまったのだとは、若い頃によく聞いたものだ。
槍術より取り入れたとされる突きを始めとして、胴打ちの技をも使い、江戸剣術界の名師たちを打倒した大石の剣技は、それほどの衝撃があったのである。
大石以降の剣術流派は、ほとんどが中段に構えるようになり、かつてのような脇構えや霞と言われるような構えもとられなくなっていったと古老は伝える。
「そういえば、紫電流がうちから分かれたのも、天保の頃であったというが……」
何か関係があるのだろうか。
そんなことを思ったが、特に何か思い浮かぶようなこともなかった。
ただ、喜一郎に授けた秘剣破りの策が通じなかった――ということが、衛には衝撃だった。
◆ ◆ ◆
紫電流、北尾重兵衛――
聞いたことはあるか、という程度にしか衛も知らない。
六十余州の剣流の全てを知悉している、と自惚れていたわけではないが、衛のその方面についての見識は大したものがあった。
江戸に一時期住んでいた頃、下宿していた本屋で暇つぶしとばかりに手に入る本を読み込み、知り合う人にあれこれと話を聞いて回っていた。
それは道場で立ち合う剣客などにもお及び、後に彼はそれらの話をまとめて『神州奇瑞物語』や『剣法講談』としてまとめた。
これらは奇談や怪談が多く含まれてはいたが、その当時に彼が見聞できた範囲での武術についての詳細がかなり正確に、いっそ煩雑に過ぎるほどに書き込まれている。
さすがに現代の研究では誤謬は幾つもあるということが解っているが、それでもなお、知る人ぞ知る武術資料として、一級の価値を持って百年の後も燦然と輝き続けているのだった。
そんな著書をまとめた彼をして、紫電流というのはよく詳細の解らぬ流儀だった。
開祖は天保の頃、長嶋彦十郎と言う人物である。宮内家に代々お抱えの能楽師として仕えていた長嶋家の三代目の次男で、能の腕前も大したものであったらしいが、いつの頃からか剣術を学び、藩内で名人として知れ渡ることになっていたという。遂に一流を立て、紫電流を称した――
この長嶋が師事したのが衛の曽祖父である。
門人帳で確認したので、間違いない。
(しかし、それ以上のことがよく解らん……)
曽祖父の佐伯伊織という人物には、彼も会ったことはない。
祖父や父の語るところによれば、各地に武者修行に出て負けることがなかったという話であるが、真偽の程は解らない。
ただ近在に名人として知られて、多くの門人がいたとのことだった。うちの道場が一番栄えていた時期だったのかもしれない、とは、慶應の頃まで存命していた祖父の言である。
一番門人がいた頃の門下生だったので、当然、そこから新流を立てたという者も何人かいて、衛が直接知るだけで四人いる。
免許皆伝から家伝し、孫の代で立てたという者はまた別に何人かいたようで、それらを含むとどれだけの者が曽祖父の門下から出たか、解ったものではない。
紫電流の長嶋もその一人で、吉岡流「風流口伝」までも授けられた後、宮内家の伝わる幾つかの流派と交流し、紫電流を立てた……というのが、彼の道場に残っていた紫電流についての唯一と言ってもいい伝承である。
それ以上のことは、ほとんどない。
世間に伝わっている話と、あまり変わりがない。
そして風流口伝は、四代目憲法直綱が宮本武蔵との勝負から編み出した心法についての口訣で、当代の彼も一応は知っている。
それが今の剣術で通じるかどうかはさておいて、秘伝として最奥伝に位置づけられているだけあって、少なくとも当時はそれなりの腕前であると認められていたのは確かだ。
彼の道場で保存されている記録をひっくり返しても、長嶋についての資料というのはそれ以上の話は出てこない。
喜一郎が着てから元弟子たちから何から、色々と話を聞いて回っているのだが、彼の知ることと大同小異、さして目新しい話はでてこない。
ただ。
『長嶋は能役者の家であったので、その身法は巧妙で、一度御前にて演武をした際には、見事と褒められたことがある』
そういう話があった。
それを聞いた時の衛は。
「能楽から出た兵法か……」
と腕を組み、唸るような声をあげたものだ。
能と兵法の関わりは、深い。
元々、兵法者とは武芸者とも言った。つまりは芸者であり、武芸と能楽は戦国時代の武者からすれば似たような位置にあるものであった。
もっというのなら、武芸の方が歴史的に見て能楽よりも遅く成立している。同じく芸者であっても、武芸は権威も格式も能楽に劣っていたと考えて差し支えはない。
それ故にか、武芸のシステムや用語の多くは能楽のそれに拠った。
「間合い」「見切り」「拍子」……といった言葉は今日では武芸の用語として定着しているが、元々は能から得ているものだ。能がそれだけ武士の世界において定着していたからであるともとれるが、そこには武芸と能の身体操作技術としての共通性があったということも見逃せない。
兵法の名人として知られる柳生宗矩とその息子、柳生宗冬は能に没頭していた時期があったということはよく知られる。かの宮本武蔵も能を嗜んでいたのではないかという話もある。また逆に、能楽家ながら兵法を極めた金春七郎などという者もいた。
武士などは何万人といたのだから、その中で能楽を趣味と持つ者や能楽師そのものが兵法を学んだとしてもそうそう不思議でもないのだが、柳生だのなんだのという剣術史に名だたる者が能楽に没入していたという事実は、いかにも重要であるように思える。
衛も能楽家やらに知り合いがいないでもないし、弟子にその関係者がいたこともあるが、なるほど、その足捌きの精妙は熟達した兵法者のそれに劣らぬとも感じることは度々あった。
その能楽の出で兵法を極めた者がいたとして――果たして、いかなる術理を得ていたのか。
衛は想像してみるが、どうにもまとまらなかった。
紫電流の詳細が解らない理由の一つとして、長嶋彦十郎は流儀を掲げても道場は建てなかったということもある。
一子相伝の技として家で代々伝えていたというのも違う。長嶋彦十郎は生涯妻を娶らず、子もなさなかった。ただ、弟子だけは一人いた、らしい。それ以上の話はあまり伝わっていない。ただ、紫電流は家に伝わるというものでもなく、とにかく一人だけの弟子に相伝していたというのは確かなようだ。
恐らくは「これは」と見込んだ人間にのみ伝えていたのだろうが……。
(なんとも、面妖な流儀だな)
そのことによって、紫電流は半ば伝説化した。
流儀名のみが伝わり、その技法を知る者はいないのだ。そしてその伝承者とされる人物は常に重用されていたのだという。彼らは身ごなしからしても只者ではなく、試合や演武をすることすらほとんどすることもなかったが、それでも皆に名人として認知されていた。考えてみれば、それは奇妙な話ではあった。
試合をせずとも、その型、組太刀などを表演することによって技量のほどは解る。演武の類はそればかりに専念すると華法に流されてただの踊りと化すとは言われているが、それでもその身体技術のほどを見せるということには変わりない。
流派によっては見せ型と鍛錬型とが違うということもままあることであった。かくいう吉岡流も、そのようなものがある。勿論、演武が上手いというのと剣の実力がそのまま比例するということもないのだが、わりと昔の古流では、それで通じていたのも確かなのだ。
しかし、紫電流にはそれすらもなかったのである。
「代々、宗家が名人の風格を持っていた――にしても、妙な話だな」
隣国に伝わる流儀である。名前しか知らずとも、興味はあった。兵法者としては、隠された流儀などというものがあれば気になって仕方ない。ましてや、自流よりかつて出た派なのである。
別にどちらが強いとか弱いとかの問題ではなく、もしも立ち会うことがあるとしたら、その流儀に関する情報というのは重要になるからだった。敵を知り己を知れば百戦危うからず、というのは孫子の時代からの真実である。衛も若き日に少しだけあれこれと調べたことがあった。
(そうか。昔、美和坂に言ったんだったな。紫電流はうちから出た流派だと――)
そのことを覚えていたのか思い出したのか、こちらに遣したのはそのこともあるのは間違いない。
その後のことは教えなかったから、衛が紫電流について自分よりも詳しく知っていると思っていたとしても不思議ではなく。
(だとしたら、当てが外れたな)
衛の記憶によれば、調べていたのは確か慶応の頃であったか、もっと前だったかも知れない。御一新より以前のことではあったが、近頃は昔の記憶というのはとんと曖昧となっている。それでも、調べたこととその結果だけは覚えていた。
――結局は大方が徒労と終わり、最初に耳にした伝聞以上に解ったことは、ほとんどなかったのだ。
(解ったことと言えば、当代の使い手の名前が北尾重兵衛で、紫電流には花隠しなる技があるということくらい、か)
あるいは、もっと調べれば他に何か解ったかも知れない。
そうしなかった理由は、御一新の騒ぎでそれどころではなくなったからという、それだけのことでしかないが。
「しかし、世に漏れ聞こえる名前なのに、詳細が解らないなどということは、ありえるものなのか……」
衛はその後も何ヶ月となく、悩んだ。そしてどれだけ調べても流儀の詳細は明らかにならず、悩みが深まるのに反比例するかのように、喜一郎の技倆が上がっていくのが目に見えて解った。
もとより美和坂の元で心伝一貫流の基礎をつけられていたのだ。
半年で彼の妹にも伍するほどの腕前に達したのを見て、遂に衛は決意した。
(考えても仕方がないことは、考えないでいいのだ)
剣の勝負は、突き詰めればどちらが強いか弱いかだ。
秘剣など使わせるまでもなく、最速最高の技をもって仕掛けて、仕留めるのが最良である。
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それが、衛の結論である秘剣破りの策であった。
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