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五章-水野輝サイド-

変化

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 輝が病院から退院した日、彼の心は希望と不安が入り混じった複雑な感情でいっぱいだった。病気が日常生活にどれほどの影響を及ぼすのか、まだ完全には理解できていなかった。特に、彼の最大の情熱であるサッカーに対する影響が彼を一番悩ませていた。

 サッカーの練習が再開された初日、輝はチームメイトに温かく迎えられた。しかし、ピッチ上でボールを追う彼の目は以前とは明らかに違っていた。選手たちの顔が認識できないため、パスを出すべき相手と敵を見分けるのが困難になっていた。ボールが彼の足元に来るたびに、彼は誰にパスをすれば良いのか迷い、しばしばボールを失った。

「輝、大丈夫か?」
コーチの声が彼に届くが、輝はただ頷くことしかできなかった。彼のプレイは明らかに以前よりも劣っており、それが彼自身にとって大きなストレスとなっていた。

 輝が病院を出て以来、サッカーへの情熱は以前と変わらなかったが、彼のプレイスタイルは一変してしまった。再開されたサッカー練習では、チームメイトたちは初めのうち彼を温かく迎え入れていた。しかし、輝のパフォーマンスに変化が見られるにつれ、その雰囲気も徐々に変わり始めた。

 練習中、輝は通常の反射的なプレイができず、頻繁に間違ったプレイヤーにパスを送ることが増えた。彼がパスをするたびに、一瞬の犹豫が見られ、そのためにボールの動きが遅れ、チームのリズムが狂った。彼の目は常に迷いを含んでおり、ピッチ上での自信が明らかに失われていた。

「輝、集中して!」
とコーチが何度も叫ぶが、輝は自分の限界を感じつつあった。彼のプレイが以前のように戻らないことを自覚すると同時に、チームメイトたちの間にもその変化が微妙な緊張を生んでいた。彼らはプレイ中、輝を避けるようになり、彼が関与するプレイは徐々に減っていった。

 練習後の更衣室では、輝は一人隅に座り、他の選手たちが楽しく話しているのを遠くから眺めていた。彼の孤独感は日に日に増していき、チームの一員であることの居心地の悪さを強く感じるようになった。以前はチームの中心で、いつも笑い声を引き起こす存在だった彼が、今や黙って周囲をただ見渡すだけの存在になってしまった。

 この孤独と戦いながら、輝は白玖に対しても心を閉ざし始めた。白玖は彼の変わりように気づいており、何度も彼の様子を尋ねたが、輝は
「大丈夫だ」
と言って話題を変えるばかりだった。彼女との間にも、見えない壁が築かれつつあるのを感じていた。
 輝が苦しんでいることは明らかだったが、サッカーチーム内の全員がその変化に対して同情的だったわけではない。練習が進むにつれて、彼のパフォーマンスの低下がチームに負担をかけるようになり、いくつかの声が彼に対して辛辣になってきた。

 ある練習の後半、輝がまたしても誤って相手にパスを送ってしまった際、いつも支えてくれるはずのチームメイトの一人、高橋がついに爆発した。
「輝、何やってんだよ!ちゃんとやれよ!事故からもう3週間経ってるだろ!もう県大会も始まるんだぞ。」
彼の声はピッチ上で響き渡り、周囲の空気が一瞬で冷え切った。

 輝はその場で凍りつき、ただ頭を下げることしかできなかった。高橋はさらに言葉を続けた。
「毎回毎回、同じミスを繰り返して、チームの足を引っ張ってるんだよ。お前のせいで全員のモチベーションが下がってる。」

 その言葉は輝にとって致命的な打撃だった。彼は自分がチームにとって重荷になっているのではないかという不安をずっと抱えていたが、それが現実のものとして彼の前に突きつけられたのだ。他のチームメイトはその場で黙っていたが、彼らの視線はすべて輝に向けられており、その多くが同意するかのようにうなずいていた。

 輝はその日、早々に練習を切り上げて更衣室を後にした。彼の心は完全に折れてしまい、帰り道、涙が自然とこぼれた。彼は自分のサッカー人生が、もはや元に戻ることはないかもしれないと感じた。一方で、高橋の言葉が残酷なほどに真実を突いていることも、彼は認めざるを得なかった。

 高橋の厳しい言葉は、輝の精神に深い傷を残し、彼の自尊心を著しく損なった。練習が終わると、輝はただただひとりで涙を流しながら帰路についた。彼は自分がチームの重荷になっていると感じ、その責任感に苛まれていた。

 この困難な時期に、以前から注目されていたプロのスカウトからの関心が、輝にとってさらにプレッシャーを増す一因となった。数ヶ月前、彼の卓越したプレイがいくつかのプロチームの目に留まり、彼の未来は非常に有望視されていた。しかし、事故の後遺症である相貌失認が彼のパフォーマンスを大きく左右するようになり、かつての彼の影は見えなくなっていた。

 スカウトがある日、輝を個別に呼び出して話をした。
「輝くん、君のことは前から注目していたんだ。しかし最近のプレイを見る限り、明らかに何か問題があるようだね。大丈夫かい?」
スカウトの言葉には心配の色が含まれていたが、それは同時に、プロへの道が閉ざされつつある現実を突きつけられるものでもあった。

 輝はこの言葉にどう答えるべきか一瞬戸惑ったが、結局は
「最近、調子が出なくて…」
と曖昧な返答をした。彼は自分の病気を公にすることが、彼のサッカー人生にどう影響するかを恐れていた。

 スカウトは輝に励ましの言葉を残し、
「サッカーの世界は厳しいけど、君なら乗り越えられる。問題があるなら、それを克服する支援を受けてみることも一つの道だ。」
とアドバイスをくれた。しかし、輝にとってその言葉は、ただの慰めにしか聞こえなかった。

 帰宅後、輝はこの会話を思い返し、自分の未来について深く考えた。プロへの道は彼にとっての夢だったが、今はその夢が遠のいていくのを感じていた。この挫折と現実の間で、輝は自分がどう進むべきか、真剣に向き合う必要があると感じていた。彼は新たな決断を迫られていたが、それが何であるかはまだ見つかっていなかった。

 退院してサッカーに戻った輝は、自分が直面している課題の全貌をじっくりと見つめ直す必要があった。練習場では、彼の心は希望と絶望の間を行き来していた。かつて彼を輝かせていたスキルが今は彼の最大の障害となっており、彼自身のアイデンティティに深く関わる問題へと発展していた。

 プロのスカウトからの関心が以前にも増して重くのしかかるようになり、輝はそのプレッシャーを痛感していた。彼は自問自答を繰り返した。「本当にこれでいいのか?自分はもうサッカーを続けるべきではないのではないか?」彼の内面では、プロとしての将来に対する熱意が次第に消耗しつつあった。

 サッカーが彼の生活の中心であったことを考えると、その情熱を失うことは彼の自己価値を問い直すことを意味していた。しかし、毎日の練習での連続する失敗は、彼の心を徐々に削ぎ落としていった。練習後、孤独に包まれた更衣室で、輝はしばしば自己嫌悪に陥った。
「サッカー以外に何ができるんだろう。もしサッカーがダメなら、俺は一体何者なのだろう?」
と彼は自分自身に問いかけた。

 スカウトとの会話は、彼に現実を突きつけるものだった。スカウトは彼の状態を理解しようとしていたが、輝にはその助言が遠い世界のもののように感じられた。彼らは輝が直面している心の闘いや、相貌失認という障害の深刻さを完全には理解していなかった。

 一方で、白玖との関係においても輝は大きな葛藤を抱えていた。輝は白玖が自分の変化に気づき、何かを隠していると感じていると伝わっていたが、輝は自分の弱みをさらけ出すことができずにいた。白玖に対して正直になることは、輝にとって自分の脆弱性を認めることになると考えていた。その日から白玖を避けるようになった。

 輝は夜な夜な窓の外を見つめ、星空の下で自分の未来を思い描こうとした。しかし、彼の心は重い霧に覆われており、明確な答えは見つからなかった。彼の中で、サッカーへの情熱と現実との間のギャップが広がる一方で、彼はこの困難な時期をどう乗り越えるべきか、深く悩み続けていた。
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