26 / 55
004 スモールスモールサークル
第25話 モーニングルーティーン。(奈央の視点)
しおりを挟む
柏原からひよを奪い取って、いよいよ私のターンが始まる。いつものように右手でグーを作り、顔の前まで持ち上げる。
すると、ひよも同じように拳を作り、私の拳に近づけてくる。拳と拳が触れ合うや否や、私たちは息を合わせて、
「にゃん」
と、わざと低く控えめな声を出す。
今朝も無事、にゃんタッチを交わすことができた。私とひよが中学三年生の頃から続けている、朝の挨拶の儀式。もっとも、これはこちらの世界だけの話ではあるんだけど。
柏原が気を利かせて、先に歩き出す。柏原との間に十分な距離が開いたのを見計らって、私はひよの背中を軽く叩き、歩き始めるように促した。
柏原のことを邪魔者扱いしているように見えるかもしれないけれど、実際に邪魔だとも思っているけれど、柏原にも他に一緒に登校する友達がいる。そのうち、そいつと合流することだろう。
「ひよもさあ」
私の不意な呼び掛けを予想していなかったのか、ひよは驚いて目を丸く見開いた。
「あいつのこと、迷惑に思ったらちゃんと断りなよ。来んなって。ボケって。死ねって」
最後の方の言葉を、わざとおどけた顔で言ったので、ひよは明るい笑顔を見せた。
「大丈夫だよ。すごく気を遣ってくれてるし」
「いやいやいや、そのうち面倒になってくるって。その時はさ、この奈央ちゃんがビシッと」
私は両腕を上げ、格闘家のようなポーズを取り、空に向かって軽くジャブを繰り出す。
ひよはそんな私の姿を見て、口元に笑みを浮かべながら言った。
「過保護だなぁ」
私はその言葉にむっとなり、思わず、
「柏原ほどじゃないわ。あいつちょっとおかしいって。いくら……」
と、言い掛けて口を噤んだ。危うくひよのトラウマを刺激しそうになり、背中を冷や汗が伝った。
「まあいいや。続かないんじゃない? あいつも」
私は、慌てて話題を変えるように言った。
「どうかなぁ」
ひよは柔らかな笑顔を保ったまま、前を向いたまま静かに呟いた。
「奈央ちゃんはさ。ひよには、変なのとくっついて欲しくないんだな。推しだからさ」
私が冗談交じりに言うと、
「あはは、何言ってんの」
と、ひよは楽しそうに笑った。
「いやいやいやいや。なんだったら、こう私がさ。ひよを、氷上ひよりちゃんを、こう、手のひらで籠を作って、閉じ込めてさ」
私は両手のひらを丸めて上下に合わせ、小さな籠を作るジェスチャーをしながら熱弁した。
「それは推しにやっちゃダメでしょ。そういうことは彼氏にだけ言ってなよ」
ひよの言葉に、私は思わず足を止めた。
「あー。モブひろか……んー……」
私は難しい顔をして、モブひろの顔を思い描こうとした。けれど、その像は霧の中にあるかのように曖昧で、鮮明な形を思い浮かべられない。
モブひろは、あちらの世界でもこちらの世界でも私の彼氏で、そこは何も変わらない。ただ、この世界では私は自覚者で、モブひろはそうではないという違いがある。
自覚者にも様々なタイプがいるらしく、私は両方の世界の記憶をバランスよく持っている……と思う。だけど、彼氏であるモブひろに対する記憶だけはあやふやで、二つの世界の、記憶の境界線もはっきりしない。
そもそも私が記憶を認識する前、この世界でモブひろとはどんな関係だったのか、それすら明確に思い出せない。モブひろと話をしていても、共有すべき思い出話が噛み合わず、少しずつすれ違い始めている……と思う。
それでも不思議なことに、寂しさも悲しさもあまり感じずにいる。こうなる前から気持ちが冷めていた……なんてことはないと思う。ひよとはこちらの世界の過去の記憶を共有していて、私とモブひろがとても親密だったことを知っている。同じ高校に合格して、二人で涙を流して喜び合った思い出、それが確かに存在したことを、ひよが証明してくれている。
さらに、もう一人の大切な友人、わかこと柤岡若菜……はまだ自覚者ではないけれど、やっぱりこちらの世界で共通の記憶を持っていて、私とモブひろのことをおしどり夫婦なんて茶化してくる。これも、私たちがちゃんと親密な関係であったことを物語っている。
もっとも、わかとはあちらの世界でもずっと友達だったのだけれど、その記憶は私の中にしかない。わかとモブひろと三人でいるシーンは、私の思い出の中にしか残っていない。
モブひろと一緒にいる時は、彼の存在をはっきりと認識できる。だけど、今のように彼と離れている間は、彼の姿を曖昧にしかぼんやりとしか思い出せない。だから私の彼に対する好意も、関係性も、今この瞬間は確信が持てないでいる。
ひよと視線が合って、心配そうにこちらを見ているのに気づいた。
「わかには言わないでよ。モブひろと上手くいってないとかそういう」
私が言い掛けると、ひよは、
「大丈夫だよ」
と、にっこりと微笑んだ。もちろん、ひよが私の信頼を裏切るような行動を取るはずがないことは、よくわかっていた。確認する必要すらないことだった。
わかも含め、私たちは強い絆で結ばれた同志だ。ひよが仲間に加わってからは、常に三人で行動を共にし続けている。これからも何一つ変わることがない……と思いたい。
わかとの合流地点は、学校近くの高台へ続く坂道の入り口だ。いつも少し遅れがちな私たちを、わかは待っていてくれる。帰りは別々になることも多いので、朝に三人で待ち合わせてから登校するこの時間は、私にとって特別な意味を持っていた。
黙って近づいてくる私たちに気づいたわかは、にやりとした不敵な笑みを浮かべて、両手の拳を顔の前に掲げる。
私とひよは、各々片方の拳を、わかの拳にそっと合わせる。
「にゃん」
三人の低い声が重なり合う。今日もまた、わかとフレンズのダブルにゃんタッチは成功を収めた。
「最初に教室に行くんだっけ」
「いや。校庭に直接集合でしょ」
「バスの前で待つんじゃないの?」
三人それぞれが持ち寄った情報は、混乱を招いただけだった。
いつものように三人で並んで坂道を歩き、学校へ向かった。
学校が見えてくると、グラウンド沿いの道に大型バスが数台停まっているのが目に入った。その周囲には、既に多くの生徒が集まっていた。
「若菜ちゃんの勝ちかぁ」
意外と負けず嫌いなひよが、悔しそうに漏らした。
突然、わかが私の軽く引っ張って、
「ねえ、二組の方に行かなくていいの?」
と顔を寄せながら聞いてくる。
「○%▲☆くんが待ってるんじゃないの?」
私は、わかの言葉に一瞬反応できなかった。
「え? 何?」
「だから、※&*■くんが」
わかがモブひろの本当の名前を言っているんだと理解するのに、私は時間を要した。わかの言葉の一部が、ノイズにかき消されたように聞き取れない。
名前すら認識できない相手のことを、彼氏と呼べるんだろうか。モブひろって何よ。誰よ。
すると、ひよも同じように拳を作り、私の拳に近づけてくる。拳と拳が触れ合うや否や、私たちは息を合わせて、
「にゃん」
と、わざと低く控えめな声を出す。
今朝も無事、にゃんタッチを交わすことができた。私とひよが中学三年生の頃から続けている、朝の挨拶の儀式。もっとも、これはこちらの世界だけの話ではあるんだけど。
柏原が気を利かせて、先に歩き出す。柏原との間に十分な距離が開いたのを見計らって、私はひよの背中を軽く叩き、歩き始めるように促した。
柏原のことを邪魔者扱いしているように見えるかもしれないけれど、実際に邪魔だとも思っているけれど、柏原にも他に一緒に登校する友達がいる。そのうち、そいつと合流することだろう。
「ひよもさあ」
私の不意な呼び掛けを予想していなかったのか、ひよは驚いて目を丸く見開いた。
「あいつのこと、迷惑に思ったらちゃんと断りなよ。来んなって。ボケって。死ねって」
最後の方の言葉を、わざとおどけた顔で言ったので、ひよは明るい笑顔を見せた。
「大丈夫だよ。すごく気を遣ってくれてるし」
「いやいやいや、そのうち面倒になってくるって。その時はさ、この奈央ちゃんがビシッと」
私は両腕を上げ、格闘家のようなポーズを取り、空に向かって軽くジャブを繰り出す。
ひよはそんな私の姿を見て、口元に笑みを浮かべながら言った。
「過保護だなぁ」
私はその言葉にむっとなり、思わず、
「柏原ほどじゃないわ。あいつちょっとおかしいって。いくら……」
と、言い掛けて口を噤んだ。危うくひよのトラウマを刺激しそうになり、背中を冷や汗が伝った。
「まあいいや。続かないんじゃない? あいつも」
私は、慌てて話題を変えるように言った。
「どうかなぁ」
ひよは柔らかな笑顔を保ったまま、前を向いたまま静かに呟いた。
「奈央ちゃんはさ。ひよには、変なのとくっついて欲しくないんだな。推しだからさ」
私が冗談交じりに言うと、
「あはは、何言ってんの」
と、ひよは楽しそうに笑った。
「いやいやいやいや。なんだったら、こう私がさ。ひよを、氷上ひよりちゃんを、こう、手のひらで籠を作って、閉じ込めてさ」
私は両手のひらを丸めて上下に合わせ、小さな籠を作るジェスチャーをしながら熱弁した。
「それは推しにやっちゃダメでしょ。そういうことは彼氏にだけ言ってなよ」
ひよの言葉に、私は思わず足を止めた。
「あー。モブひろか……んー……」
私は難しい顔をして、モブひろの顔を思い描こうとした。けれど、その像は霧の中にあるかのように曖昧で、鮮明な形を思い浮かべられない。
モブひろは、あちらの世界でもこちらの世界でも私の彼氏で、そこは何も変わらない。ただ、この世界では私は自覚者で、モブひろはそうではないという違いがある。
自覚者にも様々なタイプがいるらしく、私は両方の世界の記憶をバランスよく持っている……と思う。だけど、彼氏であるモブひろに対する記憶だけはあやふやで、二つの世界の、記憶の境界線もはっきりしない。
そもそも私が記憶を認識する前、この世界でモブひろとはどんな関係だったのか、それすら明確に思い出せない。モブひろと話をしていても、共有すべき思い出話が噛み合わず、少しずつすれ違い始めている……と思う。
それでも不思議なことに、寂しさも悲しさもあまり感じずにいる。こうなる前から気持ちが冷めていた……なんてことはないと思う。ひよとはこちらの世界の過去の記憶を共有していて、私とモブひろがとても親密だったことを知っている。同じ高校に合格して、二人で涙を流して喜び合った思い出、それが確かに存在したことを、ひよが証明してくれている。
さらに、もう一人の大切な友人、わかこと柤岡若菜……はまだ自覚者ではないけれど、やっぱりこちらの世界で共通の記憶を持っていて、私とモブひろのことをおしどり夫婦なんて茶化してくる。これも、私たちがちゃんと親密な関係であったことを物語っている。
もっとも、わかとはあちらの世界でもずっと友達だったのだけれど、その記憶は私の中にしかない。わかとモブひろと三人でいるシーンは、私の思い出の中にしか残っていない。
モブひろと一緒にいる時は、彼の存在をはっきりと認識できる。だけど、今のように彼と離れている間は、彼の姿を曖昧にしかぼんやりとしか思い出せない。だから私の彼に対する好意も、関係性も、今この瞬間は確信が持てないでいる。
ひよと視線が合って、心配そうにこちらを見ているのに気づいた。
「わかには言わないでよ。モブひろと上手くいってないとかそういう」
私が言い掛けると、ひよは、
「大丈夫だよ」
と、にっこりと微笑んだ。もちろん、ひよが私の信頼を裏切るような行動を取るはずがないことは、よくわかっていた。確認する必要すらないことだった。
わかも含め、私たちは強い絆で結ばれた同志だ。ひよが仲間に加わってからは、常に三人で行動を共にし続けている。これからも何一つ変わることがない……と思いたい。
わかとの合流地点は、学校近くの高台へ続く坂道の入り口だ。いつも少し遅れがちな私たちを、わかは待っていてくれる。帰りは別々になることも多いので、朝に三人で待ち合わせてから登校するこの時間は、私にとって特別な意味を持っていた。
黙って近づいてくる私たちに気づいたわかは、にやりとした不敵な笑みを浮かべて、両手の拳を顔の前に掲げる。
私とひよは、各々片方の拳を、わかの拳にそっと合わせる。
「にゃん」
三人の低い声が重なり合う。今日もまた、わかとフレンズのダブルにゃんタッチは成功を収めた。
「最初に教室に行くんだっけ」
「いや。校庭に直接集合でしょ」
「バスの前で待つんじゃないの?」
三人それぞれが持ち寄った情報は、混乱を招いただけだった。
いつものように三人で並んで坂道を歩き、学校へ向かった。
学校が見えてくると、グラウンド沿いの道に大型バスが数台停まっているのが目に入った。その周囲には、既に多くの生徒が集まっていた。
「若菜ちゃんの勝ちかぁ」
意外と負けず嫌いなひよが、悔しそうに漏らした。
突然、わかが私の軽く引っ張って、
「ねえ、二組の方に行かなくていいの?」
と顔を寄せながら聞いてくる。
「○%▲☆くんが待ってるんじゃないの?」
私は、わかの言葉に一瞬反応できなかった。
「え? 何?」
「だから、※&*■くんが」
わかがモブひろの本当の名前を言っているんだと理解するのに、私は時間を要した。わかの言葉の一部が、ノイズにかき消されたように聞き取れない。
名前すら認識できない相手のことを、彼氏と呼べるんだろうか。モブひろって何よ。誰よ。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
人類は孤独ではない――タイタン探査が明らかにした新たな知性
シャーロット
SF
土星の衛星タイタン。その極寒の液体メタンの湖底で、人類は未知の生命体「エリディアン」と出会う。触手を用い、振動を通じて交信する彼らは、人類とは異なる進化の道を辿り、独自の文明を築いていた。
探査機を通じた交信から始まった関係は、次第に双方の文明を変えるものとなる。人類はエリディアンに「光」の技術を提供し、彼らは人類に自然との新たな関係性を示す。補完し合う知性の融合は、単なる接触を超えた共生の道を切り開いていく。
タイタンという異星世界で、二つの知性が交わり、互いに新たな高みを目指す物語。その過程で、人類は宇宙における自らの位置を問い直し、新たな未来を模索する。
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
基本中の基本
黒はんぺん
SF
ここは未来のテーマパーク。ギリシャ神話 を模した世界で、冒険やチャンバラを楽し めます。観光客でもある勇者は暴風雨のな か、アンドロメダ姫を救出に向かいます。
もちろんこの暴風雨も機械じかけのトリッ クなんだけど、だからといって楽じゃない ですよ。………………というお話を語るよう要請さ れ、あたしは召喚されました。あたしは違 うお話の作中人物なんですが、なんであた しが指名されたんですかね。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
怪獣特殊処理班ミナモト
kamin0
SF
隕石の飛来とともに突如として現れた敵性巨大生物、『怪獣』の脅威と、加速する砂漠化によって、大きく生活圏が縮小された近未来の地球。日本では、地球防衛省を設立するなどして怪獣の駆除に尽力していた。そんな中、元自衛官の源王城(みなもとおうじ)はその才能を買われて、怪獣の事後処理を専門とする衛生環境省処理科、特殊処理班に配属される。なんとそこは、怪獣の力の源であるコアの除去だけを専門とした特殊部隊だった。源は特殊処理班の癖のある班員達と交流しながら、怪獣の正体とその本質、そして自分の過去と向き合っていく。
天日ノ艦隊 〜こちら大和型戦艦、異世界にて出陣ス!〜
八風ゆず
ファンタジー
時は1950年。
第一次世界大戦にあった「もう一つの可能性」が実現した世界線。1950年4月7日、合同演習をする為航行中、大和型戦艦三隻が同時に左舷に転覆した。
大和型三隻は沈没した……、と思われた。
だが、目覚めた先には我々が居た世界とは違った。
大海原が広がり、見たことのない数多の国が支配者する世界だった。
祖国へ帰るため、大海原が広がる異世界を旅する大和型三隻と別世界の艦船達との異世界戦記。
※異世界転移が何番煎じか分からないですが、書きたいのでかいています!
面白いと思ったらブックマーク、感想、評価お願いします!!※
※戦艦など知らない人も楽しめるため、解説などを出し努力しております。是非是非「知識がなく、楽しんで読めるかな……」っと思ってる方も読んでみてください!※
朝起きるとミミックになっていた ~捕食するためには戦略が必要なんです~
めしめし
SF
ゲーム好きの高校生、宝 光(たからひかる)は朝目が覚めるとミミック(見習い)になっていた。
身動きが取れず、唯一出来ることは口である箱の開閉だけ。
動揺しつつもステータス画面のチュートリアルを選択すると、自称創造主の一人である男のハイテンションな説明が始まった。
光がこの世界に転送されミミックにされた理由が、「名前がそれっぽいから。」
人間に戻り、元の世界に帰ることを目標にミミックとしての冒険が始まった。
おかげさまで、SF部門で1位、HOTランキングで22位となることが出来ました。
今後とも面白い話を書いていきますので応援を宜しくお願い致します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる