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000 プロロロローグ
第0話 取るに足らない話。
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生温い春風が、音もなく河原を通り抜けた。少年は膝をつき、川面に手を伸ばすと、その冷たさに思わず顔をしかめた。
彼の手には、黒いプラスチックの皿と錆びたスコップが握られている。
スコップで砂と小石を掬い上げると、それを皿の上に移す。川の水を満たし、ゆっくりと規則正しく揺すり始める。皿の中で、砂と小石が小さな宇宙のように動き出す。少年は、魔法を操るように慎重に手を動かした。
皿の縁から零れ落ちる水とともに、軽い砂や小石が少しずつ流れ去る。少年は黙々とこの動作を繰り返す。指先が凍えても、彼の集中力は途切れない。
やがて、皿の底に金色の微細な粒が姿を現す。彼は細心の注意を払って皿を傾け、水の流れを操り、黄金の粒を集めていく。
「幸運な子だ」という祖父の温かい声が、少年の記憶の中で響いた。砂金を見つけるたび、幼い彼に祖父は語り続ける。「いつかお前は、すごいものを掘り当てるかもしれないな」
——思い出に浸る少年の背後で、突然、異音が鳴り響いた。風の咆哮のようであり、未知の機械の唸りのようでもある轟音が、大地を揺るがす。
少年は手を止め、びっくりした顔で振り返った。
少年の視界の先には、赤茶色の古びた鉄橋があった。通常ならば列車の走行音が聞こえるはずの場所から、不気味な音が鳴り響いている。そして、鉄橋の上には何一つ動くものの気配がない。
「あそこに電車でも現れると思ったか?」
不意に、少年の背後から男性の低い声が耳に飛び込んできた。
「まだ、あそこの設定が固まっていないんだよ。今は仮の音を当てはめている段階だからな。直にわかりやすい音になると思うぜ」
少年が元の方向に振り返ると、黒ずくめの男が立っていた。風に靡く黒いロングコートに、同じく漆黒のシャツとパンツ。顔を隠す大きなサングラスに、黒い帽子。その異様な出で立ちは、まるで異世界からの使者のような、怪しげな雰囲気を醸し出していた。
少年は男を一瞥すると、すぐに目を逸らし、興味なさげに「へえ」とだけ返した。そして、何事もなかったかのように再び川面に手を伸ばし、右手に持った皿を水中に潜らせる。
「その道具は? どこから持って来た」
少年は無言のまま、後方を指し示した。男がその指先を目で追うと、鬱蒼とした草むらの奥に洞穴の入り口がひっそりと姿を現していた。
「そこにいろいろある。使えそうなものも、使えなさそうなものも、いっぱい」
「ここで暮らしているのか?」
少年が頷く。
「電気は?」
「必要ない」
少年が言った。
「水道は?」
「必要ない」
少年が言った。
「食事は?」
「必要ないよね」
少年が言った。
「洗濯は?」
「必要ないのわかってるよね」
少年の返答は、徐々に苛立ちを帯びていった。それでも男は、容赦なく質問を続けた。
「学校は?」
「………………」
男はゆっくりと少年に近づき、その肩に手を添える。重みを感じる手のひらから伝わってくる威圧感に、少年は身を縮めた。
「学校には行けって言ったよな。なんで行かない?」
「意味がわからないから……」
——その時、遠くから二人の女子生徒が賑やかに会話を交わしながら近づいてきた。この河原沿いの道は高台になった部分が舗装され、散歩や通学路として利用されている。少年は咄嗟に体を小さく丸め、気配を消した。
女子生徒たちと川面近くの少年との間には、だいぶ距離があったが、すれ違う瞬間、彼女たちの弾んだ声が風に乗って聞こえてきた。
「だーよーねー。絶対そうだと思ってた!」
「えー? 信じてなかったじゃん。すごい調べたんだよ」
彼女たちの会話の内容は理解できなかった。おそらく、少年には無関係のどうでもいい話をしているのだろう。やがて女子生徒たちの声は遠ざかり、完全に聞こえなくなった。それを確かめてから、少年はゆっくりと立ち上がった。その様子を、男は呆れたような顔で見つめていた。
「知り合いか?」
「知らない」
「なぜ、わざわざ隠れる」
「女はうるさくて嫌い」
男は肩をすくめ「お前なあ」とだけ言った。それから息をつき、少々間を置いてから口を開いた。
「せっかくの新しい世界、新しい生活だろう。これじゃあお前まるで」
「前と変わらない、って言いたいの?」
声のトーンを落として被せ気味に言葉を返す少年に、男は「しまった」とばかりに頭を掻いた。
それでも男は大人の役割を果たすように、あえて口うるさく話を続けた。
「こんな生活がいつまでも続くと思うな。今はまだいいが、やがて世界はお前の意思とは関係なく安定し始める。そうなればお前だって喉も渇けば腹も減るようになる。ガキ一人でどうやって生きていくつもりだ?」
少年は反論の意志を込めて目を逸らしたが、男はその態度に動じることなく、さらに言葉を重ねた。
「根城なら俺が用意してやっただろう。お前は特別なんだから」
男の言葉は、含みのある言い回しだった。少年はその意図を感じ取り、黙ったまま立ち尽くした。
「お前は特別なガキなんだ。だから手の内だって明かしてやっている」
男はそれから、すべてを言い終えたかのように踵を返した。去り際に、最後の言葉を投げかける。
「とにかくお前はお前の家へ戻れ。これは命令だ。気が向いたら学校に顔を出せ。じゃあな、シャイニーツリー」
「今度その名前で呼んだら、二度と口きかないから」
男は一旦立ち去ろうとしたが、何かを思い出したかのように足を止めた。
「ああそうだ、一つだけ。お前が大切そうに集めたそれ、砂金じゃなくて黄鉄鉱だよ。元のお前の家族はみんな詐欺師だったからな」
少年に対し男は振り返ることなく、肩越しにひらひらと手を振りながら、まるで霧の中に溶けるように去っていった。
(了)
彼の手には、黒いプラスチックの皿と錆びたスコップが握られている。
スコップで砂と小石を掬い上げると、それを皿の上に移す。川の水を満たし、ゆっくりと規則正しく揺すり始める。皿の中で、砂と小石が小さな宇宙のように動き出す。少年は、魔法を操るように慎重に手を動かした。
皿の縁から零れ落ちる水とともに、軽い砂や小石が少しずつ流れ去る。少年は黙々とこの動作を繰り返す。指先が凍えても、彼の集中力は途切れない。
やがて、皿の底に金色の微細な粒が姿を現す。彼は細心の注意を払って皿を傾け、水の流れを操り、黄金の粒を集めていく。
「幸運な子だ」という祖父の温かい声が、少年の記憶の中で響いた。砂金を見つけるたび、幼い彼に祖父は語り続ける。「いつかお前は、すごいものを掘り当てるかもしれないな」
——思い出に浸る少年の背後で、突然、異音が鳴り響いた。風の咆哮のようであり、未知の機械の唸りのようでもある轟音が、大地を揺るがす。
少年は手を止め、びっくりした顔で振り返った。
少年の視界の先には、赤茶色の古びた鉄橋があった。通常ならば列車の走行音が聞こえるはずの場所から、不気味な音が鳴り響いている。そして、鉄橋の上には何一つ動くものの気配がない。
「あそこに電車でも現れると思ったか?」
不意に、少年の背後から男性の低い声が耳に飛び込んできた。
「まだ、あそこの設定が固まっていないんだよ。今は仮の音を当てはめている段階だからな。直にわかりやすい音になると思うぜ」
少年が元の方向に振り返ると、黒ずくめの男が立っていた。風に靡く黒いロングコートに、同じく漆黒のシャツとパンツ。顔を隠す大きなサングラスに、黒い帽子。その異様な出で立ちは、まるで異世界からの使者のような、怪しげな雰囲気を醸し出していた。
少年は男を一瞥すると、すぐに目を逸らし、興味なさげに「へえ」とだけ返した。そして、何事もなかったかのように再び川面に手を伸ばし、右手に持った皿を水中に潜らせる。
「その道具は? どこから持って来た」
少年は無言のまま、後方を指し示した。男がその指先を目で追うと、鬱蒼とした草むらの奥に洞穴の入り口がひっそりと姿を現していた。
「そこにいろいろある。使えそうなものも、使えなさそうなものも、いっぱい」
「ここで暮らしているのか?」
少年が頷く。
「電気は?」
「必要ない」
少年が言った。
「水道は?」
「必要ない」
少年が言った。
「食事は?」
「必要ないよね」
少年が言った。
「洗濯は?」
「必要ないのわかってるよね」
少年の返答は、徐々に苛立ちを帯びていった。それでも男は、容赦なく質問を続けた。
「学校は?」
「………………」
男はゆっくりと少年に近づき、その肩に手を添える。重みを感じる手のひらから伝わってくる威圧感に、少年は身を縮めた。
「学校には行けって言ったよな。なんで行かない?」
「意味がわからないから……」
——その時、遠くから二人の女子生徒が賑やかに会話を交わしながら近づいてきた。この河原沿いの道は高台になった部分が舗装され、散歩や通学路として利用されている。少年は咄嗟に体を小さく丸め、気配を消した。
女子生徒たちと川面近くの少年との間には、だいぶ距離があったが、すれ違う瞬間、彼女たちの弾んだ声が風に乗って聞こえてきた。
「だーよーねー。絶対そうだと思ってた!」
「えー? 信じてなかったじゃん。すごい調べたんだよ」
彼女たちの会話の内容は理解できなかった。おそらく、少年には無関係のどうでもいい話をしているのだろう。やがて女子生徒たちの声は遠ざかり、完全に聞こえなくなった。それを確かめてから、少年はゆっくりと立ち上がった。その様子を、男は呆れたような顔で見つめていた。
「知り合いか?」
「知らない」
「なぜ、わざわざ隠れる」
「女はうるさくて嫌い」
男は肩をすくめ「お前なあ」とだけ言った。それから息をつき、少々間を置いてから口を開いた。
「せっかくの新しい世界、新しい生活だろう。これじゃあお前まるで」
「前と変わらない、って言いたいの?」
声のトーンを落として被せ気味に言葉を返す少年に、男は「しまった」とばかりに頭を掻いた。
それでも男は大人の役割を果たすように、あえて口うるさく話を続けた。
「こんな生活がいつまでも続くと思うな。今はまだいいが、やがて世界はお前の意思とは関係なく安定し始める。そうなればお前だって喉も渇けば腹も減るようになる。ガキ一人でどうやって生きていくつもりだ?」
少年は反論の意志を込めて目を逸らしたが、男はその態度に動じることなく、さらに言葉を重ねた。
「根城なら俺が用意してやっただろう。お前は特別なんだから」
男の言葉は、含みのある言い回しだった。少年はその意図を感じ取り、黙ったまま立ち尽くした。
「お前は特別なガキなんだ。だから手の内だって明かしてやっている」
男はそれから、すべてを言い終えたかのように踵を返した。去り際に、最後の言葉を投げかける。
「とにかくお前はお前の家へ戻れ。これは命令だ。気が向いたら学校に顔を出せ。じゃあな、シャイニーツリー」
「今度その名前で呼んだら、二度と口きかないから」
男は一旦立ち去ろうとしたが、何かを思い出したかのように足を止めた。
「ああそうだ、一つだけ。お前が大切そうに集めたそれ、砂金じゃなくて黄鉄鉱だよ。元のお前の家族はみんな詐欺師だったからな」
少年に対し男は振り返ることなく、肩越しにひらひらと手を振りながら、まるで霧の中に溶けるように去っていった。
(了)
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