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第一章 渡り人

1-2 修羅場の刻

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「真奈美ー、いるー?」
「いるよー。早かったね~」

 杉山真奈美と書かれたアパート二階玄関脇のインターホンからは語尾に音符が付いているんじゃないかと思うような声が返ってきた。

 ちょっとアニメ声なのがなんだが、それがまた可愛いのさ。最初の印象は美女っぽい感じだったのだが、まだ女子大生で垢抜けない感じの女の子だったのだ。

 間もなくドアが開いて長い黒髪の面長の美少女が現れた。そしてパッチリとした目で俺に笑いかける。

「さあ、入って入って」
 俺はこれからの楽しい時間を思い、もうにやけそうなのを必死で堪えていた。

 だが、その背後から凍るような女の声が聞こえてきた。まるで地獄の底から響いてくるかのような、低い怨念の籠った声が。

「へえ、隆。やっぱり、あんた他に女がいたんだね」

 俺はポカンとした表情の真奈美の顔を真っ直ぐに見れない。そのまま下を向いてしまった。

 もちろん、その女の声には聞き覚えがある。聞き覚えがあるなんてものではない。俺の女の一人で相原美穂という女だ。俺は覚悟を決めて振り向きながら、若干の震え声で訊いた。

「や、やあ。どうしたんだい、美穂。こんなところで」

 こんなところもへったくれもない。こいつ、俺の家を見張っていて、家を出てから、ずっと後をつけてきたのだ。

 もしかして、まだ暗いうちから見張っていたのか? 俺はその様子を想像して、軽く震えが止まらなかった。

 修羅場の予感に魂さえも固まりそうだ。だが、奮い立たねばならない。ここは上手く切り抜けなくては。

「隆君、だ、誰? その人」
 俺は慌ててドアを閉めようとしたが、彼女は鍛えた俺の力を上回る凄い力で押しとどめ、強引に中に入ってきた。

 信じられないような力を発揮している。精神のリミッターがはずれているとしか思えない。こいつはヤバイぞ。思いつめたかのような無言の表情が怖い。

「あ、あなたは誰ですか。で、出ていってください。警察を呼びますよ」

 ビビった真奈美は大声で叫んだ。だが美穂は、それには構わずに地獄の死者かと思うような、低く、そして暗い声で告げた。

「呼ばなくても大丈夫、きっと放っておいても来てくれるわ」
「み、美穂。お前、一体何を言っているんだ。な、落ち着けよ。な、な」

 だが、彼女は手を後ろ手にしたままで近寄ってきた。それは、まるで人間ではなく幽鬼のような有様だ。

「ひ!」
 真奈美が俺の背に縋りついた。これでは俺が身動きできない。あ、これはヤバイかも。

 そう思った時にはもう遅かった。薄着の季節で修羅場を演じるのは、ちょっとまずかったかもしれない。

 腹に熱い感触、そして。時間差を置いて襲ってくる猛烈な痛み。それから、あいつは更に、ぐりぐりと出刃包丁で俺の腹をかき回したのだった。

 一般に、法的には殺意があると認められる、刃を上にした状態で。両手に女とは思えぬ凄い力を込めて、双の眼(まなこ)に涙を浮かべながら。

「ぐ、ががあっ。ぐぶっ」
 俺はその熱さ、痛みに呻いた。身動きもできない。

 そして、その痛さのあまり仰け反りながら、声にならない声で俺は絶叫していた。その様子で真奈美は、今起こっている事のすべてを悟ったのだろう。彼女の震える気配が感じとれる。

 俺と同じく身動きもできずに、通報しかかった携帯を口元に当てた両手で握り締めたまま、彫像のように固まっている動作すら感じ取れるほど、俺は正面を向いたまま常軌を逸して感じとっていられた。

 ば、馬鹿。美穂! そんなことをしたら、俺は。それに、お前だって!

 だが……。腹から大量に溢れ落ちる俺の血、そしてそれに負けないほどの量の美穂の涙。嗚咽を堪えるかのような、悲しみを湛えた瞳。

 俺は魅入られたように、そのまま美穂に寄り掛かった。深々と凶悪な刃物を腹に仕込んだまま。そして美穂は血まみれの手で優しく俺をそっと玄関口に寝かせると、先ほどとは打って変わって天使のような声で言った。まるで子守唄を歌うかのように。

「大丈夫よ、君一人を逝かせやしないから」

 やめろ! だが、もう口が利ける状態ではない。あいつはもうとっくに覚悟を決めていたのだ。俺を殺す覚悟を。

 そして、続けて真奈美が刺されて上げた悲鳴が聞こえる。寝かせられた状態のまま固まっていた俺の世界に時が戻った。

 視界の隅で捉えた真奈美は、美穂に幾度ともなく振り上げた出刃包丁で滅多刺しにされていた。もう真奈美の苦鳴すら聞こえない。

 ああ、あれはもう死んだな。ごめんよ、俺も、もう動けなかったんだ。みんな俺のせいなんだ。二人ともごめんよ。

 寒い。もう体が冷たいのを感じる。むしろ、感覚がないくらいのものだが。体の感覚とは別にわかるのだ。

 もう魂が離れかけているのかもしれない。ゆっくりと閉じていく瞼の隅で、犯人の真美穂も自分を刺しているのを見て、絶望の中、俺は二十四歳の短い生涯を終えた。
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