マクデブルクの半球

ナコイトオル

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嘘吐き共の終焉

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 世界は空と同じ薄灰色のベールを越した色に染まっていた。雫がガラスに当たり、散り、すうっと落ちていく様を、微かなざわめきの中手すりに寄りかかりぼうっと見つめていた。
「みーさん」
 ふわりと隣に気配が止まり、すぐ横でともりが笑った。苦笑いを返す。
「病院の匂い、苦手」
「待合室だからそんなにしないよ。手続き、色々してきた」
「お手数をおかけしました」
 ぺこりと頭を下げて書類を左手で受け取る。ナイフを握りしめた右手にはまだ包帯が巻かれていて動かすことは出来ない。けれど皮膚がゆっくりとくっついていくようなむずむずとした痺れは常に感じていた。気のせいかも知れないけれど。
「あっちの病院でもリハビリ続けるように、だって」
「あー、痛いんだよなあ……」
「まあ別にそれでもいいかって思ってるでしょ」
「……あは」
「やめてよもう……」
 疲れたっぷりに嘆息され肩を軽くすくめた。後悔していなかったので仕方なかった。
 右手はもう、以前のようには動かない。神経を傷付けた分は完全には回復しないだろうということだった。不器用にさらに磨きがかかったのでやれやれとは思っている。文字もまだまともに書けないのだ。リハビリしても握力は完全には戻らないとも言われている。
 そういうわけで、照明部を辞めマノのいる会社との契約も辞めた。散々体を打ったりちょっぴり意識を失っていたりしたので入院をしていたのだが、お見舞いに来てくれたマノにそう告げると何だか泣きそうな顔をしていたけれど何も言わずにうなずいてくれた。感謝している。
「何時の飛行機だっけ?」
「昼間と午後の境目くらい。空、きれいだろうなー」
 左手だけでうーんとのびながら返す。雲の上に上がれば天気は関係ない。きれいなスカイラインが見れたらいい。
 アメリカに一度行くことにした。家はともりに預けて、まあ彼のことだから今まで通り上手く管理してくれるだろう。ごめんね色々押し付けて。
「家、好きにしていいからね。たくさん人とか呼んじゃいな、さみしくないように」
「誰がどれだけいてもみーさんがいないならさみしいよ。毎日電話してよ」
「電波あるかな」
「どこ行く気なのみーさん。連絡待ってるひと、俺以外にもたくさんいるでしょ」
「うーん」
 アメリカに行く、と言った時の吉野や愛すべきクラスメイトたちの顔を思い出す。一瞬も驚かず手前死ぬなよ死んだら俺らが無様に殺してやるとの激励を受けた。無残じゃなく無様って。嫌だよ遠慮する。
 直美と京子は―――直美は何か言いたげな顔をして、一度うつむいてから、ありがとうございましたと小さく呟いた。兄に殴り付けられたというこめかみの傷は深かったが、幸い命に別状はなく比較的すぐ回復することが出来た。千種の発見が早かったことが功を成した。
 二乃や古見の老人たちを黙らせ、当主代理として回しているのも彼女だ。幸が目を覚ますまで、千種に手を借りながら務め上げるらしい。
「自分の手で戦うことがどれだけ辛くて厳しくて、でも幸せなことなのか分かったから」
 だから大丈夫なのだと、そう言って笑った。
 京子は声もなく号泣していた。健気な女子高生が自分との別れを惜しんで泣くというのはなかなか胸に来るもので、これ性別が違ったらもうハッピーエンドしか見えないよなあ、などと思いながらひたすらよしよしと慰めた。少女の身は退院したあと古見の遠縁が預かってくれることになっている。直美が昔お世話になった夫婦らしく、信頼出来るとのこと。問題はまだ山積みとはいえ……大分、ほっとした。
 古見 直樹は今、警察の監視下に置かれながらも入院している。だがしかし、あれはもう、生きているとは言えないのかもしれない。
 ただただ遠くを眺めるだけで―――何も反応を示さなくなった、青年。
 はじまりに幸を突き落とした段階で、彼はもうボロしか出ていなかった―――そのあと取る手段は全て穴だらけで、わたしが突いて回らなくても、いずれ破綻していただろう。直美が生き残った段階で、それはもう決定打になった。
 自分の目指すものしか見えてなかった青年の全てを奪ったのだ。何も見えなくなっても致し方がない。それに罪悪感を覚えたりはしない。そこまで自分を責めようとは思わない。
「いるけど……連絡取らなきゃ滅茶苦茶怖い愛すべきひとたちもいる、けど、さ」
 アメリカには行くが、家族の元にはまだ行かない。少しふらふらと歩いてみよう、と思っていた。



 少し───少しだけ、疲れていた。
 今度こそ逃げ出そうと思う程度には。



「帰ってくる?」
 海外に行くと伝えてから、はじめての問いだった。
 ちらりと横目でともりを見る。視線は合わない。ガラスの向こう、雨の向こうの世界にじっと向けられたまま、交わることはない。
「分からない」
 同じように前に目を向けて答えた。返事はない。───一度遠くに離れたら、一度逃げ出したら、もう自分でもどうなるのか分からなかった。



 失くすだけ、失くした。
 嘘ですらもう何もない。
 ───だからこそ。
 もう涙を流すタイミングすら見失ってしまったわたしは、どこに行けるのかすらわからない。



「……ともり」
 さようなら。幸せになって。待っていなくていい。───言おう。ばれないように覚悟を決めた時、



 ───視界の端を、青が過った。



 息が止まる。───捕らわれて。
 心を奪われる。───一瞬で。
 忘れない。忘れられない。嘘はない。
 記憶に残る、あの鮮やかな青。



「は……」



 松葉杖をついた青年がひとり、雨の中器用に片手で折り畳み傘をさしながら歩いていた。
 その表情は窺えない。後姿でしか、その青年を見ることが出来ない。
 ……背が、のびているような気がした。生まれたままのあの色素の薄い髪の色。眼も同じ色だ。識っている。思い出すまでもなく覚えている。記憶の中の彼より少し大きくなった青年が、少しよろけながら、それでも自分の足で前を向いて歩いていく。



 歩いている。
 あの日のあの、青い傘をさして。



「三日前に退院したんだって」
 同じ背中を見送りながらともりが言った。
「しばらく通院は必要みたいだけどね。五体に問題はなにもないって。少し時間を置けば研修にも復帰出来るらしい」
「……」
「でもね、自分が電話しようとした相手のことを覚えてないんだって。その人のことだけぽっかり記憶が抜け落ちていて、名前も顔も関係性も思い出せないんだって」
 ふは、と笑うように吐息が漏れた。そうか。そうか。そう来たか。



 この───最高の、嘘吐きめ。



「───帰って、くるよ」
 ぼろぼろと涙が溢れてくる。泣き顔でも、笑顔でもない顔で、涙を流しながら、背中を見送る。
「いつになるか、分からないけど……どこに行くのかさえ、分からないけど。
 でも、帰ってくるよ。ともりのところに、帰りたい」
 傷が入り以前よりさらに不恰好になった手。
 ふわりとのばすと、ともりの手がそれを受け止めた。宝物を扱うようにそっと握り、あたたかさを伝えてくれる。



 どれだけやさしく触れたところで、傷は結局痛むのだ。それでいい。それがいい。



 かけがえのない時間を過ごして、
 愛おしい決断を共有した。



 寂しかった。



 お願いだから不幸にならないでと祈りながら、半身を失ったままで、どうにか、ここまで来れた。



「わたしの半身は幸くんで、わたしの手を引くのはオーリ。───けど、それを全部以ってわたしを泣かすのは、ともりだよ」



 頰を伝う涙があたたかい。
 握る手の温度が愛おしい。
 あたたかいね、と微笑むと、同じように隣でともりも笑った。










〈 嘘吐き共の終焉、嘘の終わり 〉



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