マクデブルクの半球

ナコイトオル

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詐欺師と嘘

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 家に戻りすぐにクローゼットを開いた。かけられた服の一番端、滅多に出さない位置にあるその服を取り出し、かけてあったカバーを外し眺めた。
 大学を卒業したあと新しく作った喪服。何もかもを沈めるようなこの黒には、幸いなことにまだ袖を通したことがない。
 皺がないことだけ確かめて、昨日まで使っていた両親の部屋に入る。鏡台の引き出しから真珠の一連ネックレスとセットのイヤリングを出す。こういった類のものは自由に使っていいと言われていた。───それにしても、まさかニノ コウの母親の葬式でこれを使うとは思っていなかったけれど。
 一度シャワーを浴びて落ち着いたあと、喪服に身を包み控えめに化粧をした自分は、どことなく無表情に見えた。鏡に写る自分を見て、一瞬で興味を失くし部屋を出る。
 ともりには何もばれないままで済み、今は大学に行っている。普通に済めば帰ってくるまでには平常通りに動けているだろう。
 車のキーを取り出す。運転用の靴を履き、助手席の足元に黒いヒールを乗せて車に乗った。



 ニノの本家には、もちろん今まで縁がなかった。たまたま近くを通りかかったことはあったが。あの時、未来の自分がまさかこの敷地に足を踏み入れることになるなんて思いもしなかった。
 ふと、自分の顔を思う。一番自分が見られない部分が人に一番見られやすい部分だなんて、おかしな話だと思う。自分の一部なのに、自分のためのものではないようだ。
 誰かが自分を知っているだろうか。
 この家で働く使用人。ニノ コウの親族。
やってきたこの女が、当主と関わったあの少女だと───分かる人間が、いるだろうか。
 ───いや、分かったとしても。
(……行かなきゃ)
 唇を小さく噛む。そこを舐めて、門をくぐった。
 母屋の玄関へと続く道。敷地内なのに呆れるほど広い。前を歩く黒い弔問客の数は多く、少しほっとすると同時に背筋は冷たく張った。
 少し歩くとようやく母屋の玄関が見えてくる。その手前に小さなテントが立てられ、そこで記帳するようになっていた。記録に残る。分かってはいたが、仕方がない。
 長机の向かい側に立つ女性(恐らく使用人だろう)に普通と深くとの間ぐらいの深さで頭を下げ、「この度は……」と言葉を濁した。同じく神妙な顔つきで頭を下げた相手から筆ペンを受け取り、記帳する。二御 桜。……これくらいは、赦されるだろうか?
 どちらの方向に進んでいいのかは分からなかった。けれども流れに従い、さも当然のように奥に奥に足を進める。お線香の匂い。日本家屋独特の薄暗さ。湿った空気。……お経を読む声が、波のように大きくなる。
 進んで、進んで、曲がって、進んで。
 開けた部屋に足を入れる。大量の花の匂いと、濃い煙の匂い。



 そこで確かに、そのひとは死んでいた。



「……」
 立ち止まったのは、ほんの一瞬。
 すぐに足を進め、焼香に並ぶ。
 お経を読む低い声。すすり泣くような小さな声。悲しまれている。この世からいなくなったことを、嘆く泣き声。
 おかーさん。小さな声がして、はっと顔を上げた。幼い少年が、真新しい喪服に身を包み、小さな手で母親の喪服を掴む。
 おかーさん。ねえ、おかーさん。……どうしてみんな泣いているの? 不思議そうな顔の少年を、母親が抱き上げる。どうしてだろう。何でだろう。こんなにも悲しんでいるひとたちがいるというのに、今ここにある死と正面から向き合って考えているのはこの少年だけな気がした。
 じりじりと、列が短くなる。どくりと、自分の中で嫌な音がする。血の巡りがクリアに感じられ、左耳の裏の傷口が疼いた。
 口の中がからからになった時、自分の、番が来た。
 何も考えない。何も思わない。覚えている動作を流すように行い、手を動かして焼香を行う。合掌した。
「……」
 何も、思わない。思えない。
 最後まで胸中で何も呟かないまま、焼香を終えた。───どうしてだかあの少年に、とても申し訳ない思いを抱いた。
 部屋を後にする。終わった人間は少し離れた広間に行くようだった。それに逆らい、反対側を見る。
 暗く沈んだ廊下の先。恐らく、彼らが生活していたスペース。
 一瞬だけ、考えて。それから、スリッパを脱いだ。柱の影にねじ込むように隠し、足音も隠して、その暗闇に進んで行った。



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