マクデブルクの半球

ナコイトオル

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詐欺師と記憶

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 夜の公園は、仕事以外の時では一人で立ち入らない。自分の見かけが大したものではないと分かってはいるが、世の中には物好きだって多い。
 そんな中に、華奢で保護者もつけないかわいらしい女子高生がひとり。考えただけでもぞっとする。どこに。どこに。どこに───
「……っ、」
 どんっと誰かに強くぶつかった。自分にとっては相手を突き飛ばしてもおかしくない程強く走った勢いそのままにぶつかり、反射的に目を閉じた瞬間抱きしめられた。勢いは呆気無く捕らえられる。
「っ、ごめんなっ、さっ、」
「みーさん!」
 ばっと退こうとしたがそれを阻止されるようにぎゅうっと抱きしめられる。識っている匂い。覚えのある温かさ。この世でひとりしか呼ばない名前。
 ともりが自分を抱きしめていた。
「とも、り、」
 ほっとするのと同時、ぎゅうっときつく抱きしめた。鼓動が聞き取れるくらいきつく抱きしめ、ともりも何かを確かめるように強く抱きしめ返す。吐息が耳元を掠め、少しだけ安心したように整うのが分かった。
「見付かって、ないんだね」
 身を引いてともりの体を解放する。少し疲労感を滲ませたともりがうなずき、ぐるりと辺りを見回す。
「まだ全部回れてないんだ。変な奴もうろついてるだろうし、早く見つけないと」
「手分けしよう」
「駄目。みーさんだって危ない」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ、私がこっち回るからともりは」
「そんなことじゃねえだろ!」
 きつく手首を掴まれた。それでもともりは手加減したはずだ。驚いて彼を見上げるとはっとしたように力を弛める。血が巡って、痛みを訴える。
「……そんなことじゃ、ないでしょ。みーさんは小さくて弱いんだ。……俺だって昔、あんなにがりがりだったのに簡単に押し倒したでしょ」
 傷付いたような色が浮かんだ目を見て心が縮んだ。何かを言おうとして口を開いて、  
 ───その時、スマートフォンが震えた。
 はっとして二人で見下ろす。夜の闇の中、人工的なバイブ音が奇妙な余韻を引いて響く。公衆電話、と表示されたディスプレイをタップした。
「もしもし、キョウコちゃん?」
 微かに流れる空気の白いノイズ。どこかで聞こえる、車の川が作る遠い街の音。公園のどこかにいるんだと分かった。
「キョウコちゃん」
『……ユキ』
 小さな声がした。ほとんど吐息のような、掻き消えそうな弱々しい声。
「キョウコちゃん」
『も───もしかし、たら。探してる、かもしれないとおもっ、て、』
「うん、今探してるよ。待っててね、すぐに見付けるから」
『ううん、』
「ごめんね、手間取っちゃってて」
『ちがう、』
「ともりもいるから。大丈夫だよ」
『ゆ、き』
「───なあに?」
『……さがさなくて、いい。もう……いい、から。……罰があたったの、合わせる顔、ないの……』
「罰? どうして?」
『───コウさんに、会いに行った』
 ゆるやかに、息が、止まった。
『お見舞いに、行ったの。ゆきに、ユキたちに、あんなによくしてもらってるのに───あたしは、コウさんの、』
「キョウコちゃんにとっていいお兄さんでしょ? 罰なんて当たらないし、私だって怒ったりしないよ。そんなことないよ」
『病院から塾に行こうとしたから、』
「キョウコちゃん」
『いつもと違う道だったから、』
「キョウコちゃん」
『───だから会っちゃったんだ』
「キョウコちゃん」
『あいつに、会っちゃって、』
「キョウコちゃん」
『いつまで本家に迷惑かけるんだ、俺の面汚すなって───言われ、て、』
「キョウコちゃん」
『ごめ、ごめんなさい。せっかく、いろいろ買ってもらったりしたの、に』
「キョウコちゃん」
『お、おけしょう、ファンデもアイシャドウもマスカラもチークもリップも、あたし、全部はじめてで、』
「キョウコちゃん、聞いて」
『す、少しはましになれたかなって思ったのに、か、顔、腫れちゃったから、も、もう、いいよ。大丈夫』
「大丈夫じゃない。大丈夫じゃないよキョウコちゃん」
『カブラギにも、ごめんなさいって、謝って、おい、て、時間と手間とお金使わせて、ミキさんにも、』
「キョウコちゃん、」
『ユキ、も、髪とか、きれいにしてくれて、ごめ、ありがとう、……お姉ちゃんが生きてたらこんな感じだったのかなって、お兄ちゃんがいたらこんな感じなのかなって、───ごめんなさい』
ひび割れた声が、涙を拭う。



『幸せでした。ごめんなさい』



 空気が流れて、
 少女が受話器を置きかけるのが分かった。
「キョウコちゃ───」
「ごめんみーさん、貸して」
 呼吸を潰されそうになった瞬間、骨ばった大きな手が携帯を攫った。
 黒曜の瞳を凪いだ海のように沈ませ、それでも水底から夜の海を見上げるように、灯台の灯りが水面に映るように、静かな眼にきらきらとした灯りを確かに湛え、わたしの大好きなあの少しごろつく低い声が、命を吹き込むように言葉を紡ぐ。
「選べよ、キョウ。お前が、選べ」
 かつての少年が、現在の少女に、言う。
「お前の家族が。お前に与えられた家族が。身内が、側にいる人間が、お前の意思を嗤って、心を馬鹿にして、感情を見下して、言葉を殺して、惨めに蔑ろにするなら。大切にしないなら。それは家族じゃない。そんなのは家族じゃない。
 家族は選べる。外の世界にはあるんだ、本当に大事にしてくれてるって分かって、お前の隣に立って、お前の幸せがうれしいと笑って、誰かがお前のために必死になって手をのばしてくれて、そこには愛情しか感じられなくて、───あるんだ、本当。外の世界のどこかに、お前を心から大切にしてくれるひとがいる。お前の心が欲しいと、願うひとがいる。お前の幸せが何よりも尊いと、それを見たいと望む人間がいる。そういう人間と、お前は家族を作れる。そんな未来がお前にはある。
だから、選べ。選んでいいんだ。キョウコ」
繋いだ手が、きつくきつく握りしめられる。



「俺は選んだよ」



 沈黙が下りた。
 祈るような時間。
 かたかたと震える手をぎゅっと握りしめ───少女の選択を、祈る。
『滑り台の近く、の───ベンチ』
 小さな声だったが、ノイズを遠くに置いたままの夜の空気は、少女の声を届けてくれた。
『───もう、つかれたの』
 そう言うと、少女は力尽きたように電話を切った。
「……ごめん。俺、間違えたかも」
 途切れたスマートフォンを片手に呟いたともりを、横から強く抱きしめた。
「ともり、大きくなったね」
 きつくきつく抱きしめる。
 出会った時から自分より大きかった少年。けれども、その心だって大きく大きく成長している。
 それがとても、うれしい。こんなにもうれしい。
 あなたのやさしさに、何度でも、心が泣く。
「本当に大きくなったね。───信じてくれてて、ありがとう」
 長い腕が背中に回り、そうっと、壊れやすいものを大事にするように抱きしめられる。少し屈んだ頭が首筋に埋められ、うん、と、迷子みたいな小さな声が耳元に落とされる。
「……識ってるんだよ、俺。外の世界が、自分の識ってる以外の世界は、自分の世界の外側の世界は……今よりももっと辛くて痛くて残酷なんじゃないかって……それだったら今のまま、今まで通り我慢して流されて、あきらめていればいいんじゃないかって……そんな風に思う気持ちが、あるんだよ。
それは、今から思えば俺にとって不幸なんだ。けど、その世界の中にいた時には、それが不幸なんだということを識らないんだ。わからないんじゃなくて、識らないんだ。あの世界が全てなんだ」
 あの時の少年が。自分の中にいるかつての少年が、腕で顔を覆って、泣いた。
「ともり」
 抱きしめる。伝わればいい。伝わってくれたらいい。少しでも、近くに行けたらいい。
「選んでくれてありがとう」
 く、と、青年が何かを堪えたのが分かった。
「……勝手なこと言った」
「うん」
「でも本当のことだから、」
「うん」
「───幸せに、なれるから」
「うん、うん」
 そうだね。
 だから。
「迎えに行こう、うちの子を」
 ───彼女を失いたく、なかった。




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