マクデブルクの半球

ナコイトオル

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詐欺師と記憶

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 その日は雨が降っていた。六月の冷たく染みる雨で、真夏のように生ぬるくもないあのひんやりと空気が膝下を流れていくようだったあの日。
 べたつく机で放課後何時間か自習をしたあと、薄暗く染まった空の下、そろそろ帰ろうかと父からもらった折り畳み傘を片手に正面玄関まで来た時だった。
 ニノ コウがそこにいた。めずらしくひとりで、周りには誰もおらず、そこに。
 指定のスクールバッグに当然だが制服姿。長袖のワイシャツは腕まくりをして肘から下の筋張った腕を覗かせ、男性にしては線が細いが自分よりも太いその腕に壊れやすさを感じて薄っすらと背筋が寒くなった。
 色素の薄い目が、じっと雨を見つめている。鞄以外何も手にしていないことにそこで気付いた。朝は雨が降っていなかった。午後から振ると予報では言っていたが、もしかしたら天気予報を見ていなかったのかもしれない。
 雨が降っているのに、何故だか酷く静かだった。雨を見るニノ コウはこちらに気付かない。それでいい。こちらも動かずに、じっとその姿を見つめていた。
 ニノ コウを見ると、いつも雨の日の図書室を思い出す。
 どのくらい時間が経ったのかは分からない。ふと、ニノ コウがこちらを見た。単に視線を巡らせただけだろう。けれどもその時、しっかりと目が合った。合ってしまった。
「……あ、」
 吐息のような声が中途半端に漏れ、指先が強張った。折り畳み傘が手の中から滑り落ちる。リノリウムの床の上に落ちた傘は、その静かな世界に小さく響いた。
 ニノ コウが何かを言う前に。咄嗟にそんな言葉が頭に浮かんで、それと同時に踵を返して走り出した。廊下の角を曲がり、奥へ奥へと引き返す。傘を拾う暇なんてなかった。三階である自分の教室まで戻って漸く息を大きく吐き、冷たく強張った指先を擦り合わせて温かさを得る。
 相変わらず、机も椅子も湿気でべたついている。滑らかだが冷たく、固い。
 それでも何も考えずつっぷして時間を潰すにはもってこいだと───小一時間ほどぼうっとしたまま時間を過ごし、鈍くなった足で再び正面玄関に向かった。
 傘はなかった。確かに落とした場所に傘はなく、そしてニノ コウもいなかった。
「……」
 ニノ コウが傘を持って行ったと決まったわけじゃない、と自分に言い聞かす。けれども例えどこの誰の手にあの傘が渡っていたとしても、もうあの鮮やかな青は自分の元には戻って来ないだろうな、と思った。
 ニノ コウがしていたように空を見上げる。雨を見る。冷たく透き通った雨を。薄暗く染まった空を。雨はまだ、やまない。
 ひとつだけ深く息を吐いた。ぱしゃん、とローファーで一歩踏み出すと、あっという間に雨粒は自分を浸すように染めていった。



 ……そして、今は雨は降っていない。どんよりとした空色だけれど。自分も今、体調が悪いけれど。
 バスに乗れたはいいものの不規則な揺れにむかむかと気持ちが悪くなって来ていた。吐くほどではないが地味に辛い。降りよう。
 どこの停留所なのか確認しないままブザーを押し、そこで降りた。大通り沿いの排気ガス臭い空気。降りた瞬間ほっとしてつい大きく息を吸ってしまったが、去るバスの濃い排気を胸いっぱいに吸い込んでしまっただけだった。馬鹿だ。
 げんなりとしながらここはどこだろうと停留所の看板を見る。公園前停留所。そこで気付いた。キョウコの通う塾の近くだ。そしてこの公園は恐らく昨日ともりが見付けたキョウコと謎の男性が会っていた公園。
 確か今日キョウコはお昼を食べたら終わりだったはず。もしかしたら、と頭を過ぎり公園の中に足を踏み入れる。何度か来たことはある。市を代表する大きな公園だった。果たして見つかるかどうか。
 遊具のあるゾーン、庭園のようになっているゾーン、大きな噴水のゾーン、謎のオブジェのあるゾーン、そして何故か大きくて立派な美術館。嫌いじゃない。
 ふらふらと三十分くらいゆっくりと歩いて探した。けれどもキョウコの姿は見当たらない。元より期待はしていなかった。歩いている内に気分は回復していたのでそろそろ帰ろうかと思った時、
「……あれ? ユキ?」
 聞きなれた声がかかった。振り返る。
「あれ……キョウコちゃん」
 自分が出した声は不思議そうな声だった。まるで本当に思っているような。そして。
「え、何でここに……ああ、どうも、こんにちは」
「こんにちは。フルミさんのご家族ですか? 僕はフルミさんの通う塾の講師をしているアイダと申します」
 ジャケットは着ていないもののスーツ姿の青年がそこにはいた。二人でベンチに座り、間にノートやら教科書やら参考書が置いてある。
「はじめまして、ミカゲです。キョウコちゃんとは家族みたいなものです。みたい、というよりもう妹ですね。よく家にも泊まりに来てもらってます」
 笑ってそう言うと、キョウコがそわそわとした。照れたように視線を彷徨わせ、ふわりと笑って、
「……うん、お姉ちゃんなの。すごくお世話になってるの」
 もじもじとしながらもうれしそうにはにかむ少女を見てアイダは微笑んだ。思っていたよりも若い。ひょっとしたら自分よりも年下だろうか?
「アイダ先生に教えてもらってたの?」
「うん、週に何度か授業前に教えてもらってるの。数学なんだけど、あたし全然駄目で」
「いえ、フルミさんどんどん成績上がっているので教えがいがあります。僕自身まだ学生で教師を目指してるので、持ちつ持たれつです」
「ありがとうございます。いい先生に出会えてラッキーだね。キョウコちゃん」
「うん」
 うれしそうにキョウコがうなずく。幸せそうな笑顔。……そして、恐らく。邪魔をしちゃいけないなと、頭を下げる。
「そろそろ行くね。邪魔しちゃってごめんね。勉強頑張って。アイダさん、よろしくお願いします。───そうだ、トモちゃんとさっき会ったんだけど、迎えに行くって言ってたよ」
「分かった、ありがとう、って、……トモちゃんに伝えておいてもらえる?」
「了解」
 キョウコは恥ずかしそうな顔をした。それでさっきの〝恐らく″が確信に変わる。
「じゃあまたね」
 笑ってその場をあとにする。酷くほっとしていることに気付いた。
 よかった。うちの子は本当に普通の女の子だ。恋をして勉強を頑張り目標に向かう、それはそれは可愛らしい子だ。



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